第29話 夜空に咲く、あの花よりも その2
夏の夕暮れ、歩行者天国。
星が瞬き始めた薄暗い空のもと、色とりどりの屋台が立ち並んでいる。
花火大会を前に心浮き立つ人影が行きかう合間から、甘かったり辛かったりな匂いが鼻をくすぐってくる、そんな道の脇――
誰もが見覚えのある顔ばかり、つまり
気のせいだろうか?
非日常の雰囲気に充てられているからだと言われれば納得できなくもないが、どうにも違和感が拭いきれない光景だった。
「
欠席って言ってたしね。
小声で
千里は口を閉ざしたまま首を縦に振ったものの……当の
最近の由宇は何かと目ざといのだ。
――考えるの、止めよう。
意識すればするほどドツボにはまりそうな予感がある。
今からこんな有り様では、いざ万里を連れ出す段になったらどうなるか……想像するだけで背筋が震えて止まらない。
武者震いだなんて言い訳する気にもなれない。
「
「そうなのか?」
「ああ」
陽平の神妙な声に、心がざわついた。
『そうか?』と笑い飛ばそうとして、笑い飛ばせなかった。
図書室で顔を合わせたときも、どことなく物憂げな雰囲気を漂わせていたことを思い出してしまったからだ。
由宇たちは……きっとあの海の一幕を回想しているのだろう。
――ふたりとも、ある程度は事情を知っているからな。
万里たちが揉めているところまでは。
原因や経緯、そして白雪たちが仲直りしようとしているくだりは伝えていない。
黙っておくことを決めたのは千里自身だったが、何かにつけて『本当にそれでよかったのか?』と不安が首をもたげてくる。
「助さん角さんがいないと……黄門さまだけだと、ちょっと危ないね」
「なんだ、それ」
「水戸黄門だよ。水戸のご老公」
有名じゃないか?
呆れを隠そうともしない声に、とっさに頷けなかった。
陽平の口から唐突に時代劇の名前が出てきて面食らったのだ。
口振りから察するにどうやら熱烈なファンのようだが……正直、聞き間違いかと思った。
人を見た目で判断するのはよくないとわかっていても、このイケメン友人と時代劇が頭の中で上手く繋がってくれない。
――えーっと、水戸黄門って確か……
番組そのものを見たことはなかったが、名前ぐらいは知っている。
黄門さまと呼ばれる老人がリーダーで助さん角さんとかいう腕の立つ男たちが左右を固めていて、印籠を出すとへへーっと悪者が平伏する話のはずだ。
副将軍がどうとか言っていた気がする。
「助さん角さんって……
「そう。どっちがどっちってのは……まぁ、どうでもいいんだけどさ」
陽平の顔に苦笑が滲んだ。
黄門さまを万里になぞらえているらしい。
将軍だろうが何だろうが、老人ひとりで悪人を退治できるとは到底思えないわけで……つまり……
「泉だけだと、いつもみたいに取り巻きをあしらえないと?」
「難しそうに見えるよ」
不吉な響きが耳に残った。
眼鏡を拭いてかけなおし、ギュッと目を細めた。
夜闇が色濃さを増した今、視力が残念な千里には万里周辺の状況がイマイチ見えていないのだが……少なくとも陽平の目にはそういう風に映っているらしい。
――待て。
それよりも、今、彼は聞き捨てならないことを口にした。
心臓がドクンと爆ぜる。
「危ないってのは、どういうことだ?」
「どういうことって、それは……」
「泉さん、困ってるみたい」
由宇も陽平の見立てに頷いている。
この元気印な幼馴染は左右ともに視力は抜群だ。
早とちりや勘違いはあるかもしれないが、見間違えることは考えづらい。
「学校でも泉さんひとりって、あんまり見ないし」
「これ幸いと他の奴らは気合入ってるし」
聞くほどに不安が募る。
言われてみると、それっぽい雰囲気だった。
常に三人一緒とは限らないにしても、学校で万里が単独行動している姿は記憶にない。
機知に長けて口が回る白雪。
立っているだけで存在感があるステラ。
少なくともどちらかひとりは常に彼女の傍にいた。
そして、その状態で気軽に万里に声をかけるのは難しい。口説くなんてもってのほか。
そう思うのは、きっと自分だけではないはずだ。
今は違う。彼女を守護る者は誰もいない。
「あの日もナンパ断るの苦労してたっけか?」
「……へぇ、そうなんだ?」
「……」
低くてフラットな由宇の声が近かった。
剣呑な響きに気づかないふりをして、目を閉じて記憶をたどる。
万里は男たちの誘いを断ってはいたものの、拒絶の意志がハッキリ示されていたかというと、そうでもなかった。
最初から周囲の男どもなんて眼中にないことがバレバレな態度だったのに、入れ食い状態で四方八方から声をかけられていた時点で相当奇妙だ。
……まぁ、彼らがバッサバッサと切り捨てられていたら、千里だってビビッて何もできなかったに違いないわけだが。
今の万里は、あの時の姿を彷彿とさせる。
『万里って空気読むから』
空気を読む。
ことあるごとに白雪が口にするフレーズだ。
群がってくるのが顔も名前も知らないチャラチャラした男ならば、すげなく断ったところで角は立たないだろうが、せっかく委員長が企画してくれたイベントでクラスメートと険悪になってしまうのは申し訳ないとか考えていてもおかしくない。
――ありそうだな。
夏休みが明けたら、彼らとは教室で顔を合わせることになる。
二学期には文化祭もあれば修学旅行もある。高校生らしいイベント盛りだくさんだ。
今ここでクラスの連中と揉めて、後々まで嫌な空気を引きずりたくないと考えるのは自然なこと……なのだろうか?
――そこまで気にしなくていいんじゃないかなぁ……いや、でも……
自意識過剰じゃないか?
そんな感じで笑い飛ばせないから困る。
教室の中心人物な彼女の振る舞いが周囲に与える影響を甘く見積もるのは、それはそれで危険だ。
――人気者と言えば……
チラリと目線を横に向けた。
万里を見やる陽平の顔には、わずかに影が差していた。
こちらはこちらで校内に知らぬ者なしなイケメンで、彼女に負けず劣らずの存在感を有している。
自分よりも陽平の方が彼女の心境を察することができているのではないか。
「……ッ」
胸にモヤモヤしたドス黒いうねりを感じて、それが見当違いな嫉妬だと自覚して……千里は大きく息を吐き出した。
ねっとりした空気が、ひどく不快だった。
――泉を連れ出すどころの話じゃないぞ。
ポケットの中のスマホを握り締める。
白雪の見立てはともかく、少なくとも千里にとっては予想外の展開だ。
早々に状況を共有し作戦を修正したいところだが、さっき由宇たちに見咎められたばかりなだけに、ここでスマホを取り出すわけにもいかない。
今だって由宇の視線を感じるのだ。
気づいている。さっきからじーっと顔を見られている。
おかしなことは何もしていないはずなのに、由宇の視線が外れてくれない。
――なんなんだ、いったい?
長年日々を共にした幼馴染が何を考えているのか、まるでわからない。
緊張と焦燥が足元からじりじりと這い上がってくる。
締め付けられるような感覚。
声が出せない。
息苦しい。
そして――
「……うん、よし!」
唐突に声が弾けた。
由宇が、いきなり気合を入れ始めたのだ。
胸のあたりで左右のこぶしを握り締め、ふんすと鼻から息を吐いている。
しとやかな装いには似つかわしくない、でも、千里がよく知る幼馴染にはピッタリな仕草だった。
「お、おい?」
何をするつもりだと問いかけるよりも早く、由宇はカランコロンと下駄を鳴り響かせながら万里たちの人だかりに突撃してゆく。
あまりにも脈絡がなさすぎて、止める暇はなかった。
あっけにとられているのは千里だけではなく、隣に突っ立っていた陽平も目を丸くしている。男ふたりで顔を見合わせ、ほとんど同時に首を傾げた。
『なんだ、あれ?』『さあ?』
そんな感じだ。
「い~ずみさん、一緒に行こ!」
ことさらに能天気で、底抜けに明るい声。
陽平の表情が強張り、千里の心臓が止まった。
耳障りなざわめきが渦を巻き、夜の空気を震わせた。
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