第28話 夜空に咲く、あの花よりも その1

 駅から出るなり、熱気の壁と衝突した。

 冷房のありがたみを実感しながら、千里せんりは首にかけたタオルで汗をぬぐう。

 シャツが汗でべっとり肌に張り付いて気持ち悪かったが……夏の夜はこれからが本番なわけで、ここでウンザリしている場合じゃなかった。


「千里も浴衣着てきたらよかったのに」


「浴衣なぁ」


 はぐれないように手をつないでいた由宇ゆうが心底残念そうに言うものだから、お尻のあたりがムズムズしてきた。

 その由宇は――しっかり浴衣を身にまとっていた。

 紺色の生地に色鮮やかな金魚が泳いでいて、小さな手にはきんちゃく袋を提げていて、素足に履いた下駄がカランと軽やかな音を鳴らしていた。

 いつもはショートボブな髪はアップになっていて、かんざし(?)でまとめられている。

 昨年までは動きやすさ重視の軽装だったくせに、一年でえらい変わりようだ。

 猛烈なビフォーアフターの原因は、わざわざ聞くまでもなかった。


「そうは言うが……男の浴衣とか、どうでもよくないか?」


「そんなことないない。だって……」


「由宇! 千里も!」


 由宇の言葉を遮ったのは、彼女の恋人である陽平ようへいの声だった。

 振り向いて――接近してくる友人を前に、思わず目をしばたたかせてしまった。

 イケメン俳優じみた顔立ちには洋服がよく似合う、そんな印象が強い彼は――しかし、今日は浴衣姿だった。


「由宇、可愛いね。その浴衣、よく似合ってる」


「えへへ。陽平もかっこいいよ」


 出会い頭に互いを誉めあうふたり。

 口振りに澱みはなく、笑顔に気負いはない。


――ほぉ。


 眼鏡の位置を直す千里の傍らで、由宇は陽平と腕を絡めていた。

 すっかり慣れた仕草からは、彼女たちの仲睦まじさが自然と滲み出ている。

 のっけからラブラブな幼馴染たちを嫉むことも羨むこともなく、むしろホッとしている自分が少しだけ誇らしく思えた。


「ねぇ、聞いてよ陽平。千里ったら男の浴衣なんかどうでもいいって」


「もったいない。千里って浴衣似合いそうだけどね」


「陽平までそんな……本当か?」


「ちょっと千里ぃ?」


「冗談だ」


 今日の千里は……ごく普通の格好だった。

 上はTシャツで、下はハーフパンツ。どちらも無地。

 首から汗拭きタオルを下げて、足には歩きやすさ重視のスニーカー。

 夏の熱さを思えば適切な服装のはずだが、面白みがないと言われると否定はできない。


「ま、そこまで言うなら来年は考えておく」


「そうそう、せっかく夏なんだし」


 はしゃぐふたりから視線を外し、ため息をひとつ。

 周囲に目を走らせると見知った顔がある。

 誰あろうクラスメートたちだ。


「千里、誰か探してる?」


「いや、別に」


いずみさん?」


「違う」


 由宇のストレートな切り込みに冷や汗が滲んだ。

 とっさに口から出た声は、ギリギリ平静を保てていたと思う。

 ……のだが、千里に向けられる幼馴染の眼差しは、やたらと生暖かかった。


「ふ~ん、ま、いいけど……しっかし、委員長も粋だよね。みんなで花火大会行こうなんて」


「いかにも彼女らしいと言えばらしいけど……まとめ役って大変そうだね」


 由宇たちの会話に耳をくすぐられて――千里は居心地の悪さに身を震わせた。

 クラスメートの大半が一堂に集うこのイベントには、裏があるのだ。





『花火大会よ』


 起床のアラームより早くスマートフォンを震わせた白雪しらゆきは、開口一番言い放った。

 寝ぼけ眼をこすりながら、汗だくになったシャツを脱ぎ捨てながら、千里は眉間にしわを寄せた。


「花火大会って、隣町の?」


『そう、それ』


「それがどうかしたのか?」


 隣町の花火大会は毎年テレビ局が取材に来るレベルで有名な夏の風物詩だ。

 当日は遠方からも客が押し寄せるし、道という道は人がごった返すし、鉄道会社が臨時列車を運行するしと大わらわ。

 千里の場合は、由宇に引っ張られて会場に足を運ぶのが例年のパターンだった。


『だから、みんなで花火大会に行こうって話なの』


「みんな?」


『そう、クラスのみんな』


 万里ばんりは空気を読むから絶対に参加する。

 闇雲に待ち伏せなんかするより、そこを狙った方が効率がいい。

 気心の知れた友人を称するだけあって、白雪の言わんとする内容には頷ける部分が多かった。


真壁まかべくんは連絡先知らないし、だからって私が教えるのは違うし』


「いらんいらん。そんなことしたら泉との仲が余計にややこしくなるだけだろ」


 現在進行形で揉めている万里と白雪(とステラ)が腹を割って話し合う場を用意する。

 切実な白雪の頼みを引き受けた千里だったが……手段もなければ機会もなくて、カレンダーを眺めながらまんじりと日々を過ごしていた。

 最寄り駅にも実際に張り込んだが、これが完全に空振りしてしまった。

 だからと言って白雪から万里の連絡先を聞こうとは思わなかったし、ましてや自宅なんて論外だ。

 白雪もまた、それを口にはしなかった。

 たとえ仲が拗れていたとしても、藁にも縋る思いだったとしても、夏休みの間に決着をつけたかったとしても、同年代の友人それも女子の個人情報を本人の許しもなく男にバラ撒くなんてありえない。

 万里の機嫌を損ねることは火を見るよりも明らかだし、それ以前に非常識に過ぎる。


『委員長と話はつけたから、もうすぐ連絡あると思うよ』


「……そこで泉と和解するってことか?」


『まさか、私は不参加で』


 自分が行くなんて言ったら、万里は用事があるからとか言って欠席しかねない。

 白雪の口ぶりには自嘲と呆れが混ざっているように聞こえた。


――考えすぎ……ってわけでもないな。


 彼女らは三人セットで行動することが多いとは言え、四六時中くっついているわけではない。万里が『用事があるから行けない』とドタキャンしても周囲はそんなものかと納得するだろう。

 実家に帰るとか。

 夏風邪を引いたとか。

 家族と旅行に出かけるとか。

 夏休みなら理屈をつけるのは簡単だ。


『委員長が言い出しっぺで、私とステラは欠席ってことにしておいて……』


「俺がタイミングを見計らって泉を連れ出してって寸法か」


『そういうこと』


「なんか回りくどくないか?」


『……そうかな?』


 返事が一瞬遅れた。

 声色に変化はなかったので、おかしなことを企んでいるわけではなさそうなのだが……彼女が何を考えているか推測することは難しい。

 これはもう、役者が違うとしか言いようがなかった。


『とにかく……真壁くん、この作戦はあなたにかかってるから』


 当日は絶対にスマホを忘れないように。

 充電もしっかりしておくように。

 そう言い残して通話は切れた。


「……とりあえず、もういっぺん寝るか」


 スマホを枕元に投げ捨てて横になった千里は――すぐに叩き起こされた。

 今度は委員長からだった。





『現地に着いたぞ』


 白雪あてにメッセージを送っていると、シャツの裾を引かれた。

 視線をずらすと、頬を膨らませた由宇と目が合った。


「どうした?」


「歩きスマホはダメだよ」


「……そうだな。これは俺が悪かった」


「千里が歩きスマホなんて珍しいね。何か気になることでもあった?」


 由宇の咎めるような眼差しも、陽平の興味津々な眼差しも。

 どちらも自分のことを気にかけてくれているのだとわかっていても、今日はわずらわしさを覚えてしまう。


――ふたりには、話しておいた方がよかったかもしれんな。


 万里たちの仲直り作戦については、白雪以外の誰にも漏らしていない。

 協力者は多い方がスムーズに行きそうに思えるが、彼女たちの醜聞めいた話題を不用意に広めることは避けたかった。


――違うな。そうじゃない。


 由宇たちにすら打ち明けられないのは、橋渡し役が自分に務まるかどうか自信が持てないからだ。

 海での様子を見る限り、万里と由宇の関係は上々だった。

 勝算が薄い作戦に巻き込んで、ふたりの仲を引き裂く真似はしたくない。

 彼女のためと嘯いてみても、実際のところ本人がどう思うのかはわからない。罵られるかもしれないし、蔑まれるかもしれない。

 そこまで考えて、頭に痛みを覚えて思わず額を抑えた。

 何だかんだと理屈を並べ立ててはいるものの……千里が一番恐れているのは、結局のところだった。

 万里に、嫌われたくない。


「あ、泉さん」


 由宇がポロリとその名を零した。

 瞬間、身体が勝手に揺れて……幼馴染の視線の先を追った。

 とりわけ密度が高い人だかりの中心に、一度見たら忘れようのない美貌が輝いている。


「こっち見てるよ、千里」


「あ、ああ」


 由宇の囁きに、首を縦に振った。

 数日ぶりに万里と目が合って、身体の内側から昂りが湧き上がる。

 余計なことを考えたりせず、素直にこの高揚に身を任せることができればいいのに――それこそが、偽らざる本音だった。

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