第21話 夏の夢の終わりに その4
仏頂面な自分の顔が映ったガラス越しに景色が流れていく。
海の気配が濃厚だった車窓のかなたには、いつの間にか木々が生い茂っていた。
そのうちトンネルに入って……トンネルを抜けたら、
――落ち着け。
チラリと目を動かしてみると、斜め前のふたり席に軽く色が抜けた短い髪が見えた。幼馴染の
ときおり由宇の肩が揺れていて、それは彼女が笑っていることを示していた。
さぞかし会話が弾んでいるに違いない。
羨ましい……とは思わなかった。
「んぅ……」
耳を声が掠める。
鼻にかかった、甘ったるい声。
肩に重みを感じる。暖かい体温を感じる。
言語化しがたい、でも、とてもいい匂いが鼻先をくすぐってくる。
五感を刺激するひとつひとつの破壊力が半端ない。何度も何度も『落ち着け』と心の中で唱え直しても、まるで効果がない。
むき出しの肩やお腹や太ももが、服を内側から盛り上げてくる柔らかそうな胸のふくらみが、桃色に艶めく唇が……何もかもが手を伸ばせば届くところにあって、あまりにも無防備だった。
確認したわけではないが、万里はすっかり寝入っていて、多少触れたところでバレることはなさそうだ。
だからこそ、困る。
これ幸いと好き放題できるほど千里の面の皮は厚くなかったが、口が裂けても迷惑とは言えない。
率直に言えば、嬉しい。
だからこそ、困るのだ。大切なことなので(以下略
――違うことを考えよう。
千里は自分の理性をこれっぽっちも信じていなかったから、とっさに思い付いた言葉をワザワザ口にした。
ほかならぬ自分自身に言い聞かせるために。
「言い過ぎたよな」
「自覚あったんだ」
独り言に返事があった。
驚愕のあまり、危うく変な声を出すところだった。
それでも動揺は触れていた肩を通じてしっかりバレたらしく、そっと開かれた万里の漆黒の瞳は悪戯めいた輝きを宿していた。
「……起きてたのか」
「さっきまで寝てたけどね」
ふわ~っと小さく口を開いた万里の目じりには涙が滲んでいた。
悲しいわけでもうれしいわけでもなく、あくびのついでにあふれ出たただの水滴だ。
だからと言って、バカ正直に彼女の言い分を信じるつもりにはなれなかった。
――余計なことをしなくてよかった。
「起きてたなら頭をどけてくれ。重い」
「女子に重いは禁止」
万里は頭をどけなかった。
しかし、この状況は千里にとって悪いものではない。
頭だけでなく肩やら腕やらも彼女の肢体と直に触れていて、そこから感じる柔らかさは思春期の男子にとってガッツポーズものなのだ。
さっきまで『困る困る』と繰り返していた理性が今や敗北寸前の崖っぷちであったことに千里が辛うじて気づくことができたのは……ひそやかな万里の声が耳を撫でてきたからだ。
本当に、ギリギリだった。
「
「俺の知る限りでは……ないはずだ」
「これからあるかも?」
「多分な」
今のところふたりの交際は健全だが……今日のように千里をダシに海へ繰り出して、人目をはばからずディープなキスをするほどに熱々で、高校を卒業したら同棲云々と話し合っているほどの間柄だ。
正直なところ、時間の問題だと思っている。
「……どうするつもり?」
「他人事とまでは割り切れないが、それでもふたりの意思を尊重したい」
「口で言うだけなら簡単ね」
「同感だ」
実際に『その時』が訪れたときに、そこまでアッサリ納得できるか自信はない。
理屈で考えるならそうするべきなのだろうと思っているだけだ。
「
「別に、許したわけじゃ、ないけど」
「……そうなのか?」
「ええ。でも……私も、うん、これでよかったかなって思ってる」
「それは……」
「考えてみれば変な話って言うか、もしも、今日、あそこで真壁に声をかけられなかったら、ナンパに乗らなかったら、今日はこんなに……楽しくはなかったでしょうし、ユキたちとももっともっと揉めてたかもしれないし……ほんと……わたしは……アンタに……」
途切れ途切れな万里の声は、まるで自分に言い聞かせているように感じられた。
その声も次第に小さくなっていって、寝息にすり替わっていった。
万里を起こさないように、そっと独り言ちる。
「難しいな、いろいろと」
★
「なんで起こしてくれなかったのよ」
電車の中ではしおらしかった万里は、今やとげとげしい感情を隠そうともしない。
結局あの後、万里は地元に戻ってくるまで目を覚まさなかった。
で。
千里と由宇はお隣さんなので、降りる駅は同じだった。
陽平は別の駅だが、先に降りるのは千里たちだった。
『またね』と笑って由宇にキスするところは見なかったことにした。『人目につくところで大胆だなぁ』と呆れはしたが、そこまではよかった。
のだが……
「そんなこと言われても、泉の地元とか知らんしなぁ」
自分の声に少なからず不平が滲んでいることを隠そうと思わなかった。
万里の降車駅は、千里たちの最寄り駅より手前だったのだ。
要するに、彼女は乗り過ごしたのである。
「なんで知らないのよ」
「むしろ、なんで知ってると思うのか、それがわからん」
親しくもないクラスメートの自宅とか最寄駅なんて、わざわざ調べたりしないだろ?
そう切り返すと、万里は決まり悪げに視線を逸らし、白い指を艶やかな黒髪に絡ませてもてあそび始めた。
「……それはそうかも」
「まぁ、これで泉が下りる駅はわかったから、次があったらちゃんと起こすってことで」
「……そうね、そういうことで」
「次、あるんだ」
何気ない由宇のひと言で、千里も万里も固まった。
お互いに横目で相手を探るように見つめ合う。
「万が一、もしかしたら、可能性はゼロじゃない」
「そうそう。日高だって覚えててよね」
「……それは、うん」
駅のホームに据え付けられた時計は、午後六時を指している。
学生にとっては夏休みでも、社会人にとってはありふれた日々にほかならず、駅は人で溢れかえっていた。
昼間の浜辺も相当なものだったが、こっちもまるで負けていない。
「で、どうするの?」
「駅まで送っていく。改札さえ通らなければいい」
駅をふたつ戻ればいいだけだ。
帰宅ラッシュの時間帯だから電車の本数はそれなりにあるし、往復しても一時間もかからない。
どうせやることのない夏休みだ。
千里の両親は放任主義なわけではないが、帰宅が遅れたくらいで説教されることはない。
言い訳なんか、それっぽいことをでっちあげれば済む。
それよりも、ここで万里を放り出して帰る方がよっぽど心臓に悪い。
――何にもないとは思うんだが……
しげしげと万里を見やる。
腰まで届くストレートの黒髪や美貌はともかく、肩といいお腹といい太ももといい肌が出過ぎだ。肢体のラインもまったく隠れていない。
満員電車でよからぬことを考える輩が現れてもおかしくない。
……と思っていたのだが、当の万里が半眼で睨みつけてきて、ワザとらしくため息をつくではないか。
「はぁ……アンタ、日高はどうするの?」
「それは……」
痛いところを突かれた。
万里を送っていけば、由宇を放り出すことになる。
駅から日高家までは遠くもなく近くもなく、危なっかしい場所も特にない。
だからといって、彼女にひとりで帰れと言うのは……それはそれで人として男としてどうなのかと思わざるを得ない。
「え~、う~ん……じゃあ、私はここで……あ」
「あ?」
いきなり『あ』とか言われるとビックリするじゃないか。
『私はここで』って、ひとりで帰るつもりだったのか。
確認したいことはいろいろあったが……由宇は、頬をポリポリ掻きながらニハハと笑った。
「お父さん呼べばいいかも」
「怒られないか、それ」
「たぶん大喜びで飛んでくるんじゃないかな。うっとうしいけど」
「……父親ってうっとうしいのよね。わかる」
「ね~」
なぜか由宇と万里が意気投合していた。
千里的には由宇の父親の気持ちもわからないではないので口を挟めない。
アイデアそのものは悪くないと思った。万里のことはたまたま向こうで会ったクラスメートだと素直に説明すれば済む。
由宇の父親召喚に万里も文句はないようだった。
なんだかんだ強がっても、ひとりで満員電車に乗るのは嫌だったらしい。
ただ――
「……うん、これでいいよ」
「何か言ったか、由宇?」
「ううん、何でもない」
聞いたことのない幼馴染の声と見たことのない幼馴染の顔が、そこにあった。
胸の奥がキュッと絞られるような痛みを訴えてきた。
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