第8話 ノープランと責めないで その4

「ほ~ら、そっち行った!」


 万里ばんりの声が弾け、千里せんりは空を見上げた。

 どこまでも広がる青い空に、太陽とは異なるカラフルで半透明な球体がふわふわと放物線を描いている。

 ビーチボールだ。


――この辺……もっと後ろか!?


 掲げた手をそのままに、ゆっくりと後ずさる。

 ビーチボールは中が空気でとても軽く、風の影響を大きく受けて、千里から大きく離れた水面に向かって降下を始めている。

 慌ててそちらに向かおうとするも、脚が思うように動いてくれない。

 脛あたりから下に水の抵抗を感じるし、足の裏は砂を踏みしめていているものの、これがどうにも安定しない。

 落下するボールめがけて、どうにかこうにか手を伸ばした。


「クソッ!」


 手に柔らかい衝撃。

 足元は定まらず、体勢もメチャクチャ。

 万里に向けて打ち返したつもりだったのに、ビーチボールは全然関係ない方向へすっ飛んでいった。


真壁まかべぇ! どこにやってんのよ、もう!」


 抗議の声に怒りはない。

 軽やかで可笑しげで楽しげだった。

 今度は万里がボールを追いかけて、あっさりとレシーブ。

 千里に比べるとだいぶんマシなリターンは、ふたりの基本的な運動能力が原因と思われるが……今日に限っては、それだけとも言えない。


「コラ! どこに目ぇつけてんのよ! それとも……なに、疲れさせる作戦なの!?」


「誰がそんなセコイことするか!」


 落とした方がジュース一本おごり。

 万里が勝手に決めたルールで始まったビーチバレー(?)は、圧倒的に千里が不利だった。

 

――目のやり場に困るんだよなァ!


 思いっきり絶叫したかった。

 原因は、もちろん万里だ。上着を脱いだ彼女の水着――そのトップスは、ボトムスから想像できるとおりのデザインだった。

 要するに、とても際どかった。

 存在感抜群の巨乳を覆い隠すには全然足りていない三角形の布地が、頼りなさげな細いひもで結ばれているだけ。

 白い肌に赤い色が映えるのは腰回りと同じだが、問題はそれだけに止まらない。


 巨乳は揺れるのだ。

 否。

 巨乳は跳ねるのだ。

 揺れるのは、お尻だって揺れていた。

 お尻はお尻でよいものだが、やはり胸の破壊力は半端ない。

 踊りもするし、暴れもするし、それ以上の何かが起きそうで……見ているだけでハラハラする。


 ふたりは今、海に入ってビーチボールを追いかけている。

 ……と言っても完全に水中へ没しているわけでなく、ちゃんと身体は見えていて、運動量は先ほどまでの比ではなく、万里の『揺れ』も先ほどまでとは比べものにならない。

 それが、全部、丸見えなのだ。


――ヤバすぎんだろ、いずみ


 大胆なのは見た目だけではない。

 下手に動けば脱げてしまいそうな水着を着ているくせに、彼女の動きには一切の躊躇がない。

 さっきからギクシャクしっ放しな千里とは正反対だ。


「はい、よゆ~」


 ビーチボールを上げる瞬間、万里の胸が上下に揺れる。

 何ならボールよりも髪の毛よりも、胸の揺れが一番激しい気さえする。

 ボールの出所を見逃してしまっては追いかけることが難しくなるが、ガン見すると罪悪感と羞恥心と興奮が入り混じって――


「うおっ!」


 身体がブレた。

 砂に足を取られたと気付いた時には、すでに手遅れ。

 バランスを崩した千里は破れかぶれに手を振り回し、辛うじてボールを返しはしたものの、自身は水面に落下。

 盛大な水しぶきが跳ねあがった。

 塩辛い海水を吐き出していると――ふいに影が差し、頭上で声が弾ける。


「もらった!」


 その声は想像以上に近かった。

 振り返ると、万里がボールに飛びついてアタックする瞬間だった。

 尻もちをついたまま、指一本動かすことすらできないまま、ゴーグル越しに躍動する彼女に見惚れた。

 そして――顔面に衝撃。


「んがッ」


「よし、私の勝ち!」


 ざぶざぶと波をかき分けてきた万里が微笑んだ。

 涼やかな眼差しも、余裕溢れる表情も、記憶にある彼女そのもの。

 ……なのだが、なんだかんだ動き回って息切れしているし、肌には赤みがさしていた。

 ほんの少し視線を下にずらすと……普段はお目にかかれない豊かな胸のふくらみ(生)があり、贅肉ゼロのお腹があり、下腹部を経てスラリと伸びた脚が続いている。

 白くてシミひとつない肌を、ほんのわずかな面積の赤い三角形が彩っていた。


「真壁、見過ぎ」


 バレバレだった。

 だからと言って怒るわけでもなく視界を遮るわけでもなく……むしろ、腰に手を当てて見せつけてくる。

 その堂々としたポーズがまた、彼女にとても似合っていた。


「仕方ないだろ……泉、お前なぁ」


「私が、何?」


 万里は得意げに身を乗り出して、先を促してくる。

 上半身が傾けられて、胸の谷間が強調された。

 柔らかな曲面に沿って水滴が垂れ落ちる。

 ワザとらしい姿勢が、とてもあざとい。

 目が吸い寄せられて引き剥がせない。


「お前がそんなカッコしてるから、ボールに集中できない」


「お、ハッキリ言った。真壁のキャラがだんだんわかってきたわ」


 アンタ、ムッツリだったのね。

 眩しい笑みを湛えた万里が手を伸ばしてきた。

 ナンパ男を振り切った際には若干の照れを感じたが、今の彼女の顔にはそれらしい羞恥は見られない。


――ここで俺がためらったら、ダサいよな。


 わずかな逡巡ののち、千里はその手を取って腰を上げた。

 ずぶ濡れになった海パンの重みに眉をしかめてしまう。


「どうかした?」


「いや、尻が濡れて気持ち悪い」


「普通の服着て海に入るよりマシでしょ。水着なんだから」


 万里は軽く噴き出した。

 彼女の水着も水を吸って肌にしっとりと張り付いている。

 そのなまめかしさに息を呑む千里を気にした素振りを見せることなく、万里はきょろきょろとあたりを見回して首を傾げた。


「あれ、ボールは?」


「ボール? 確か、あっちの方に飛んでいったような」


 正確には飛んでいったのではなく、顔面にバウンドしたのだが。

 記憶を頼りに首を巡らせると……ビーチボールは沖の方に流されていた。

 重みがないので沈みはしないが、重みがないせいで簡単に波にさらわれてしまう。


「私がとってくるから、二回戦しよっか」


「またジュースを賭けるのか?」


「かき氷がいいかな。私、ブルーハワイ」


「コイツ……やる前から勝ったつもりでいやがる」


「アンタこそ勝てると思ってんの? まともに私の方見られないくせに」


「ぬぐっ」


 返事に詰まる千里を置いて、万里はボールに近づいていく。

 正面からのビジュアルも半端ないが、背面もなかなかどうして見どころが多い。

 歩みに合わせてふわりと舞う黒髪、ちらちらと見え隠れする背中、そして――際どい水着から零れた白いお尻。


――勝てんな……いや、これはもう勝ってると言ってもいいんじゃなかろうか。


 ムッツリスケベ扱いは気に入らないが、ジュースやかき氷程度の出費で彼女の水着姿を堪能できるなら安いものだ。

 しかも、ただの水着姿ではない。

 動き回る彼女はドキドキでワクワクなのだ。

 この興奮は、そんじょそこらのエロ動画など相手にならない。


「ふぅ……たまらんな、これは」


 頭に血が上ってきている顔を万里に見られたくなかった。

 後ろを向いて頭を締め付けるゴーグルを外した。

 束の間の解放感とともに視界がぼやけ――。

 

「キャッ!?」


 悲鳴が千里の耳を弾いた。

 振り向くと――万里の姿が消えている。

 思わずヒュッと息を呑んだ。胸が締め付けられる感覚が続く。

 異変が起きている。視界がクリアでなくとも彼女の姿を見落とす状況ではない。

 

――なんだ、何がどうなっている?


 目を細めた千里は――水面から突き出された白い手を見た。

 メチャクチャに振り回される腕、バシャバシャと不規則に跳ねる海水。

 猛烈にこみあげてくる嫌な予感は、一瞬で千里の脳裏に答えを閃かせた。最悪の答えを。


「泉! 溺れたのか? 泳げないのか!?」


「ゴホッ、ま、べ……ごぼ……」


「ボールをつかめ。近くに浮いてるだろ!」


 返事はない。

 ボールを浮き輪代わりにする気配もない。

 聞こえていない。

 あるいは聞く余裕がない。

 いずれにせよ、それは千里の推測が正しかったことを物語っていた。


「クソッ、ボケっと突っ立ってる場合じゃないだろ。こういうときは……」


 早く助けなければ。

 その一念が頭を埋め尽くした。

 震える手でゴーグルを装着しなおし、波と砂に足を取られながら距離を詰めようとしたのだが……ちっとも身体が前に進まない。

 そのもどかしさに耐えかねて、千里は水面に身体を投げ込んだ。


――急げッ!


 ここは海だ。

 歩くよりも、走るよりも、泳ぐ方が早い。

 運動全般は得意でなかったが――水泳は子どものころから習っていた。

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