第9話 こんなにも青い、この空の下で その1
ゴーグル越しに眺める海の中は、どこまでも透き通っていた。
降り注ぐ陽光が揺らめく水面は幻想的ですらあったが、
――
巻きあがる砂と泡、その隙間から必死の形相がのぞいていた。
顔を水の上に出そうとしている意図は見て取れたが……手足を闇雲にバタつかせたところで、水は指の間をすり抜けるばかり。
頑張りとは裏腹に、身体を押し上げることはできていない。
――何もしなけりゃ浮くはずなんだが……
そう言われて『なるほど、そうですね』と納得できる人間は、そもそも溺れはしないだろう。千里が落ち着き払っていられるのは、たまたま子供のころからスイミングスクールに通っていたからに過ぎない。十分に空気を確保できていない万里にとっては命の瀬戸際にほかならず、ならば必死にもがくのは自明の理と言える。
――じっくり観察してる場合じゃないな。
妙案なんて思いつかない。
冷静なつもりでいるようで、実は自身もかなりパニックに陥っていることを自覚できただけだ。
そもそも千里は泳ぐのは得意だったが、人命救助の経験なんて一度もなかった。
ここから何をどうすればよいのか、サッパリわからないのだ。
「ごはッ!?」
迂闊に接近した千里の腹に万里のこぶしが入った。
偶然とはいえ、いい角度で突き刺さった一撃に、蓄えた酸素を吐き出してしまう。
――くっ……これはマズい!
罪悪感に駆られながら距離を取る。
万里を置いて浮上して、肺に酸素をため込んだ。
ゴーグルの具合を確かめてから、勢いをつけて水に潜り直す。
――あの手足、厄介だな……
メチャクチャに暴れまわっている手足を睨みつける。
彼女の長くしなやかな四肢は、見る分には頬ずりしたくなる……もとい羨ましくなる代物だが、今この瞬間においては、ひたすらに邪魔だった。
――ええい、モタモタしてられんぞ。
手をこまねいている時間がもったいない。
万里はロクに呼吸できていない。水中で力尽きたらおしまいだ。
完全に溺れて意識を失って、脳に酸素が回らなくなったら……そうしたら……
恐ろしい未来予想図に焦燥を覚え、勝手に身体が動いて――力任せに万里を抑えにかかってしまった。
「泉、落ち着け!」
「ゴボッ……た、助けて……お、溺れ……ッ」
手足をかいくぐって正面から抱きしめると、万里が力いっぱいしがみついてくる。
いわゆる『火事場のバカ力』と言う奴だと思われたが、この状況では迷惑でしかない。
たちまち千里の手足は拘束されてしまって……このまま泳いで戻ることなど、とてもではないが不可能だった。
――落ち着け。まずは泉の動きを止めないと!
苦しかった。
でも、きっと万里はもっと苦しいはずだ。
口の端から泡と一緒にこぼれかけた愚痴を飲み込んで、歯を食いしばる。
どうにかこうにか両腕の自由を取り戻し、万里に覆いかぶさるように思いっきり抱きしめた。
彼女の腕ごと巻き込んで、身動きできないように逆に拘束する。
「んんッ!」
ギュッと閉じられていた万里の目が見開かれる。
漆黒の瞳が至近距離の千里をとらえ――確かな意志の光が宿った。
ゴボゴボと泡を吐き出していた唇が閉ざされて、千里の背中にしなやかな腕が回される。
――コイツ……ロクに呼吸もできないだろうに……
強靭な意思でパニック状態を抑え込んだ万里に驚きを禁じ得ない。
腕の中に彼女の存在を強く感じ、身体の奥から活力が込み上げてくる。
これまでに体験したことのない不思議な感覚に、千里の心が熱く奮い立った。
そして――
「ぷはっ……ふぅ」
「はぁっ……ごほっ……げほっ……」
幸いと言うべきか、万里が冷静さを取り戻してくれたおかげで、水の上に出ることは難しくなかった。
……とは言え万里は海水を飲み過ぎていたし、酸素が足りていなかったし、疲労困憊してもいた。
今もグッタリと千里にもたれかかり、何度も何度もせき込んでいる。
そんな彼女の背中をゆっくりと撫でさすり、声をかける。
ちゃぷちゃぷと揺れる波の音が耳についた。
「大丈夫か? よく頑張ったな」
「ま、
「あのまましがみつかれていたら、俺も溺れるところだった。泉のおかげで助かった」
「ごめん、真壁、私……で、でも……ごほっ」
「無理にしゃべろうとしなくていい。まずは、ゆっくり息をするんだ」
「う、うん」
すがるような万里の眼差し。
初めて目にする表情に、千里の心臓が跳ねた。
一瞬にして呼吸が止まり、彼女の背中に回した手に力が籠る。
万里の身体から震えを感じ、心臓がバクバクと破裂しそうな鼓動を刻んだ。
頭の中が真っ白になってしまって――自分が溺れていたわけでもないのに、言葉を絞り出すのに並々ならぬ努力を要した。
「……さっき水の中を見てみたが、ここら辺はたまたま深くなっているだけだ。少し戻れば足がつく。ほんの数メートルだ。ほんの数メートルだけ、俺を信じてくれ」
「……わ、わかった。真壁に任せる……わ……ごほっ、ごほっ」
とぎれとぎれな肯定の言葉に続き、左右の腕がギュッと抱きしめてくる。
返事の代わりに抱きしめ返すと、万里は全身を弛緩させて身体を預けてきた。
肌越しに彼女から寄せられる信頼を感じ――緊張のあまり手足に強張りを覚えた。
今さらながらに、万里の命が自分にかかっているという重圧が強烈に押し寄せてくる。
――落ち着け、落ち着けよ……俺……
声には出さない。
万里が聞けば不安になるだろうから。
ひとりだったらひと息で泳げる距離を、ゆっくりゆっくり進んでいく。
水をかき分ける動作は泳ぐと呼ぶには不細工ではあったろうが、今この瞬間において見た目なんかどうでもよかった。
万里の安全より優先されるものなど、何もない。
「はぁ……はぁ……」
「真壁……私、ごめんね……」
「口は閉じてろ。また中に水が入るぞ」
「う、うん」
「大丈夫だ。あと少し……よし、ここまで来たら!」
足の裏が海中の砂を踏みしめた。
地上に比べれば頼りなくとも、ザラリとした感触に安堵を覚える。
万里を抱いたまま歩みを進め――ほどなくして、上半身が完全に海から解放された。
まだ下半身は水の中だが、もう溺れる心配はない。
「泉、立てるか?」
「ごめん、もうちょっと」
「わかった。しっかり掴まってろ」
「……うん」
万里の腰を抱き、前だけを見ながら歩幅を緩めた。
急ぐ必要はないと何度も心の中で繰り返す。
――落ち着け、落ち着け……
少しずつ水面が下がっていく。
腰から膝へ、そして脛へ。
「きゃっ……」
「チッ!」
何の前触れもない悲鳴が千里の耳を震わせる。
その音色を察知するなり、崩れ落ちる万里の前に身体を滑り込ませ――そのまま絡まるように倒れ込んだ。
派手に水しぶきは上がったものの……それだけだった。
千里は尻もちをつき、上から万里がのしかかってくる。それ以上は何も起きない。当たり前だ。
「ほらな。大丈夫だって言っただろ」
「……」
「泉?」
万里は――返事の代わりに千里に身を寄せてきた。
その呼吸はいまだに荒く、肌越しに小さな震えを感じる。
溺れかかったことが、よほど怖かったと見える、のだが――
――こ、これは……
驚愕のあまり息をのんだ。
さっきまでと姿勢はほとんど変わっていないが、状況は大きく異なっていた。
脛あたりまでしか水がないこの場所では溺れる心配はなかったから、千里には余裕があって……それが非常によろしくなかった。
余裕があったから、余計なことに気がついた。
腕の中にすっぽり納まる万里の肢体が――柔らかいのだ。
どこもかしこも、柔らかいのだ。
「……」
「……ふぅ」
胸に吐息を感じ、恐る恐る視線を降ろした。
ふたりの間を遮っているのは、お互いの水着だけだった。
千里はどこにでも売っている海パンだったし、万里はほとんど紐みたいなビキニだった。
つまり、お互いの肌が思いっきり密着している。
しかも……よくよく見てみると、万里の水着はトップスの紐がズレていた。水中で揉み合っていたせいだと思われる。
直に触れ合っている部分の感触は想像以上に柔らかくて滑らかで……でも、それだけではなくて――
――おいおいおいおいおいおいおいおい!
サーッと血の気が引いた気もするし、ガーッと興奮しているような気もした。
命の危険があった先ほどまでは完全に無視できていたけれど……ひとたび気づいてしまった以上は、万里を意識から追い出すなんて不可能だ。
せめて離れればと思って……離れたら、とても魅惑的でヤバいものが見えてしまうと察してしまって……
――落ち着け、落ち着け、落ち着け俺……って、これは無理だッ!
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