第7話 ノープランと責めないで その3

真壁まかべ、ゴーグルいらなくない?」


 防水ポーチの中に入れておいたゴーグルと眼鏡を付け替えている最中に、横から万里ばんりが口を挟んできた。

 目がいいやつは、これだから……

 こぼれかけた愚痴を飲み込んで、目を閉じた。

 頭の後ろでバンドを締めて、食い込み具合をチェックする。

 

「動き回るとなるとなぁ……眼鏡じゃ危ないだろ。俺の視力は0.1もないんだぞ」


「そんなに悪いの? じゃ、そのゴーグルって度が入ってるやつ?」


「ああ。うっとうしいが、背に腹は代えられん」


「は~、真壁ってば大変だね」


 同情めいた眼差しを向けてくる万里は、ビーチボールを抱いていた。

 海の家で借りたそれは、彼女の腕の中で窮屈そうに収まっている。


「夏っぽくて海っぽいビーチバレーなわけだけど、でも……」


 万里の声には、ウンザリした響きが籠っていた。

 夏の海は……人出が多いのである。

 イモ洗いと表現するほど酷い有り様ではなかったが、ボールを追いかけて上ばかり見ていると、浜辺にたむろしている誰かとぶつかってしまいそう。


「沖の方に出てみるか」


「……やっぱ、そうなるよね」


 張りのない呟きに振り向くと、万里と距離が開いていた。

 ついさっきまで、となりを歩いていたはずなのに。


「海に入るの、嫌なのか?」


「そういうわけじゃないけど」


「ひょっとして、泳げないとか?」


「はぁ? 高校生にもなって泳げないとか、そんなことないし!」


「学年は関係なくないか?」


「うるさい。行くわよ、真壁」


 じゃぶじゃぶと勢いよく海に入っていく万里。

 後に続く千里せんりが前を行く赤と白のコントラストに目を奪われていたら――踵を返した万里が一気に距離を詰めてきた。

 お尻をガン見してたのがバレたのかとビビッて、心臓が止まるかと思った。


「真壁、これ持ってて」


 差し出された手に納まっていたのは――スマートフォンだった。

 個人情報の塊であり、迂闊に誰かに手渡すようなものではない。

 何度も頭を上下させて、スマホと万里の顔を見比べてしまった。


「これを俺に? なんで?」


「防水ポーチ、ロッカーに忘れたの。取りに行くのメンドクサイ」


「そういうことなら構わんが……本当にいいのか?」


「いいも悪いも、何が言いたいワケ?」


「すまん、何でもない」


「変な真壁」


 クスリと笑う万里の顔に曇りも陰りも見当たらない。

 からかっているとか試しているとか、その手の気配は感じない。


――なんか人質取ってるみたいな気がするんだが……


 本当にいいのだろうか?

 声には出さなかったが、何度も首をひねった。

 スマホを預かったことによって、万里は千里から離れられなくなった。

 もちろん何もかも放ったらかして姿を消す可能性は残っているのだが……あまり考えられることではない。


「……遠くまで来たな」


「ん~、人がいない方がよくない?」


 すでに浜辺からだいぶん離れていた。

 周りに気兼ねしなくていい反面、水位は上がっている。

『ずっこけたらずぶ濡れになるな』と嘆息しかけて、水着を着ていたことを思い出して、苦笑に口元が歪んだ。

 ここは海なのだから、濡れることは大前提だ。


「キャッ!?」


 いきなり背後から小さな悲鳴。

 水音と水しぶきが続き――慌てて振り返ると、万里の姿がない。

 水面にはビーチボールが浮かんでいて、少し遅れて『ぷはっ、もう!』と上半身が姿を現した。


「……何やってるんだ?」


「砂に足を取られたのよ、悪い?」


「いや、別に悪くはないが……立てるか?」


 万里に手を貸そうと水をかき分けて接近して――絶句した。

 濡れたパーカーが肌に張り付いている。

 生地が透けて、内側の水着がうっすら見えていた。

 直に見える白い脚より、濡れ透けな上半身の方がエロかった。


「もう、ベタベタじゃん。最悪」


「……そうだな」


「真壁?」


 何も気づいてなさげな万里の眼差しに猛烈な罪悪感を掻き立てられて、顔をそむけた。

 心臓の鼓動がうるさい。

 頭の中がゴチャゴチャして熱気がヤバい。


――落ち着け、いずみは何もおかしなことは言ってないだろ。


 服を着たまま海に入ったら動きづらそうだし、濡れたら気持ち悪かろう。

 万里の言い分はもっともだし、たいした問題でもない。

 解決するのは簡単、なのだが……


――『脱げ』って言うのもなぁ。


 まるで変態じゃないか。

 悩む千里の耳を水音が叩き、金属がこすれる音がかすめた。

 ある予感に震えながら振り向くと――万里の指がジッパーにかかっていて、ゆっくりと降ろされて――胸のあたりでつっかえた。

 内側から盛り上がる曲線が抵抗しているらしい。


「……ッ」


「……」


「……」


「……見たい?」


 じろりと上目遣いで見つめてくる万里。

 前髪から垂れ落ちた水滴が、わずかに覗く胸の谷間に吸い込まれていく。

 照り付ける太陽の下でふたりきり。絶妙のアングルと距離感。映画のワンシーンを思わせる出来過ぎた光景を前に言葉を失った。


「いや、あのな……」


「どうなの、ハッキリ言いなさいよ」


 漆黒の瞳が柔らかく細められた。

 蠱惑的で大人びた、あるいはいたずらを思いついた子どもを彷彿とさせる表情に息を呑む千里だったが……彼女の意図がどうであれ、目を離すことができなかった。

 完全に手玉に取られている。


「見たい」


「ふふっ、素直でよろしい」


 敗北を認めると、再び白い指が動き始めた。

 焦らすように、見せつけるように、肢体のラインに沿ってゆっくりと降りていく指の先から裂けるように露になってゆく肌。

 むき出しの肩。

 きれいな鎖骨の陰影。

『サイズ間違ってないか?』と疑いたくなる赤い三角形の布地に守られた(守られてない)柔らかそうで豊かな胸のふくらみと、深い谷間。

 贅肉などひとかけらも見当たらないお腹、中心に覗く小さなおへそ。

 キュッとくびれた腰が描く、生々しくも絶妙な曲線。

 濡れた万里は、どこもかしこも眩しかった。


「どうよ、真壁」

 

「お前、それ……」


 腰に手を当てて胸を張る、そのわずかな動作で巨乳が揺れた。

 週刊誌の表紙を飾るグラビアに勝るとも劣らないド派手な格好は、この上なく彼女に似合っていた。


 いい。

 とてもいい。


 パクパクと口は動いたが、賞賛はカタチにならず喉元でつっかえた。

 自信満々な万里の笑顔、その頬には――かすかに朱が差していた。


「ユキたちに乗せられて買っちゃったけど、私だって夏っぽいことしたかったしね。いつも学校ではおとなしくしてるから、メチャクチャ解放感あってテンション上がって……わかるでしょ?」


「……おとなしくしてる?」


 誰が?

 オウム返しに漆黒の瞳が剣呑な光を宿す。

 機嫌を損ねているのは見ればわかるが、納得できるかと言われると首を横に振らざるを得ない。

 教室で目にする『泉 万里』は取り巻きに囲まれた女王様で、『おとなしい』なんて単語とは縁遠い存在。

 そんな印象を抱いていたのだが……


――む?


 彼女が積極的に何かをしているシーンが思い出せない。

 部活に入っているわけでもなく、授業で目立つわけでもなく、体育祭で活躍していたわけでもない。

 脳裏に焼き付いているのは――何よりもまず、悠然と笑みをたたえた美貌。

 着崩した制服からのぞく胸の谷間や、校則違反確定の短いスカートから伸びる脚。艶めくロングストレートの黒髪などなど……彼女にまつわる記憶はビジュアル絡みばかりだ。


「確かに、何もしてないな?」


「それは言い過ぎ……ま、事実だから言い返せないけど」


 私、これといった取り柄もないしね。

 自嘲気味に口の端を釣り上げた万里は脱いだパーカーを腰に巻き付け、ボールを拾い上げ、水をかき分けながら離れていく。艶やかな黒髪がたなびく背中は『何も言ってくれるな』と語っているように見えた。


「ほら、真壁!」


 軽やかな声と鈍い音。

 しなやかなサーブの仕草からは、重さを感じなかった。

 ふわふわと飛んできたボールを軽く弾くと――すかさず万里がトスを返してくる。

 両手を揃えて、全身をバネのように縮こまらせて、伸びあがって。

 その強烈な上下動に合わせて、解放された胸が揺れる。


「……ッ!?」


 弾む、踊る、暴れる。

 どの表現も全部アリ。

 超絶的な光景だった。


――あれはマズくないか!?


 注意すべきだと思いながらも、言葉が出ない。

 まるで『マズいこと』が起こってほしいみたいじゃないか?

 もちろん答えは『YES』だった。口の代わりに身体が動いてボールを追いかける。


「落とした方がジュース一本、奢りね!」


「ああ!」


 ジュースなんかどうでもいいけど、ボールを落とすつもりはない。

 奇跡のような偶然から始まったこのゲームを少しでも長く続けるためには――勝つところまではいかなくとも、すぐに負けるわけにはいかなかった。

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