第12話 こんなにも青い、この空の下で その4

 あらかじめ占領しておいた場所まで戻ってきた千里せんりたちは、そこで繰り広げられていた光景を目の当たりにして言葉を失った。


――こ、コイツら……


 密着した肌越しに万里ばんりの震えを感じた。

 彼女がヒュッと息を呑む音が耳元から聞こえてくる。

 驚いているのは自分だけではないとわかって、ちょっとホッとした。


「んっ……」


「はぁ……由宇ゆう……」


「だめ……ここで、そんなの……んっ」


 途切れ途切れで切なげな声に、ねちっこい水音が絡み合う。

 レジャーシートでは、人目をはばかることなく一組の男女がキスしている。

 明るく色の抜けた髪を肩にかからない程度の長さで切りそろえた少女が、千里の幼馴染こと『日高 由宇ひだか ゆう』で、向かい合って抱き合って唇を重ねているイケメンが彼女の恋人にして千里の友人である『池澤 陽平いけざわ ようへい』だ。

 どちらも完全にふたりの世界に浸りきっていて、まったく周りが見えていない。

 フリーズ状態から再起動を果たした千里は自らの胸を抑え――首を傾げた。


――あれ?


 痛みを感じない。

 彼女たちの関係が進展するよう少なからず骨を折ったことは事実であったが……長らく日々を共にしてきた由宇が陽平とのアレコレを報告してきたりイチャイチャしているところを目にするたびに、言葉にしがたい重苦しくてどす黒い感情が渦巻いていたのに。

 キスシーンなんて決定的なものを見せられている今、千里の心は自身が違和感を覚えるほどに凪いでいた。


「……真壁まかべ、大丈夫?」


 耳元で万里がささやく。

 彼女の白い手は、いつの間にか千里の胸に添えられていたし……その指先は千里の指に触れている。

 声には多分に千里を心配する音色が含まれていて、彼女が何を思っているのか想像することは容易くて……胸の奥には、ほんわかと明るい暖かさが灯っていた。


「ああ、何ともない」


 同じような言葉を繰り返した。

 でも、さっきと今では心境が大きく異なっている。

 振り返ってみれば、あの時は少なからず強がっていた気がしたのだが……今は本当に、何ともない。

 何なら困惑してしまうぐらいだった。


「何ともないが……見ていると、こう、居たたまれないというか何と言うか」


「他人のラブシーンなんて、じろじろ見るもんじゃないでしょ」


 まったくもって同感だった。

 視線は鋭さを増しているものの、万里の顔色はいまだに青ざめている。

 ふたりで盛り上がっているところに水を差すのは申し訳ないと思いながらも、彼女を早く休ませてやりたいという気持ちを抑えることはできない。

 相反する思考は、あっという間に一方に傾いていって――結論に到達した。

 

「由宇、陽平」


 口から出た声は、想像以上にフラットなものだった。

 素っ気ないという表現では追い付かないほどに。

 軽めにからかう口調の方がよかったのでは?

 そう思いはしたが、すでに手遅れである。


「え?」


「せ、千里!? こ、これはその……って、え? いずみさん? ええっ!?」


 呼びかけられて正気に戻って慌てて唇を離したふたりは――振り返って千里を見て、千里が肩を貸している万里を見て、思いっきり目を見開いた。

『まぁ、予想できないよな』

 驚く由宇たちを見て、ちょっと意地悪な気持ちが込み上げてきて、口の端がヒクヒクと震えた。


「お楽しみのところ、悪いわね」


 万里がほほ笑んだ。

 隣で千里は『これは余所行きの笑顔だな』と呆れた。

 その笑顔は学校でしばしば目にするカリスマじみたクールな表情に似ていたが……今となっては何匹も猫をかぶっているのがハッキリとわかる。


「え? え?」


「どうして泉さんがここにって……千里がナンパしたのって、ひょっとして泉さんだったの?」


「……まぁ、そうなる。相手が泉だとわかっていて声をかけたわけでもないんだが……それよりも、すまん。泉を寝かせてやりたい。場所を開けてもらっていいか?」


 陽平の目に鋭い光が宿った。

 千里の言葉にただならぬものを感じ取ったと見える。

 白昼堂々恋人とディープなキスしていた姿からは想像しがたいが、本来の陽平は基本的に目配りができてスキのない人物だ。


――まぁ、いいことだよな。


 そんな友人が、あんなことをしていた。

 それだけ由宇にのめり込んでいるということだろうから、交際は順調に進んでいるのだと思うことにした。

 それはともかく。


「寝かせてやるって……何かあったの?」


「ちょっとドジっちゃって。海で足をつって溺れたのよ」


「溺れた!? 泉さん、大丈夫なの?」


「ええ。すぐ傍に真壁くんがいてくれたおかげ。溺れたって大げさに言うほどでもないんだけど、ちょっと横になりたいかもって。それだったらって真壁くんが誘ってくれて……でも、ふたりのことも聞いてたから迷惑かなって思って、それで……」


「迷惑って……そんなことないない。溺れたなんて大変じゃん!」


 由宇はいそいそと立ち上がり、陽平もよどみなく後に続いた。

 長いまつ毛越しに漆黒の瞳がチラリと見つめてきたから、千里は『問題ない』と頷いて万里をレジャーシートに寝かせてやる。

 されるがままに仰向けになった万里は、艶めく唇から『ふぅ』と悩ましげな吐息をこぼす。

 陽平がつばを呑む音が聞こえた。なまめかしさに充てられたのだと思った。

 同じ男として、その気持ちは痛いほど理解できる。


「泉さん、飲みものいる?」


 由宇はクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出して手渡している。ふたりはそれほど親しい間柄ではなかったはずだが、善人気質の由宇は溺れてぐったりしている万里を放っておけないらしかった。


「ありがとう、日高さん」


「海水飲んだんだったら、口の中塩っ辛かったりする? 飲む前にうがいした方がいいかも」


 真水がないからスポドリだけど。

 そう続けた由宇は、キッと千里たちを睨みつける。

 いきなりすぎる豹変に、ボーっと突っ立っていた千里と陽平は背筋を伸ばした。


「男子、あっち向いてて」


「あ、はい」


「気が利かなくてすまんな」


 慌てて背を向ける男ふたり。

 ついでにそそくさと距離も取ったし背中を向けた。

 由宇の言うとおり、うがいとか口に含んだものを吐き出す音とか、あまり聞かれたいものではないと納得できたからだ。

 ふたりで並んであらぬ方向を眺めていると、隣で陽平がポツリと呟いた。


「泉さん、すごいな」


「……ああ、まぁな」


『何が?』と問いかけるほど野暮ではない。

 完璧な肢体、完璧な美貌。大胆な水着と露出した肌。

 気だるげな雰囲気をまとって横たわっている彼女は、確かに凄かった。

 大人っぽくて、色っぽい。あれが同い年でクラスメートなんて……直に目にしても、にわかには信じられない。


「いくら気づいてなかったって言っても、あの泉さんに声かける千里もすごいよ」


「それは本当に偶然だったんだ。それより陽平、お前……」


「大丈夫。僕は由宇ひと筋だから」


「違う、そうじゃない」


 陽平の口ぶりには、先走り気味なニュアンスが含まれているように感じられた。

 千里と万里は、たまたまあぶれた者同士で暇を潰していただけだ。

 都合よく勘違いをするほど思い上がってはいない。


「そうかな? いい雰囲気に見えたよ」


「幻覚じゃないか?」


「そうかなぁ? 学校での泉さんって、確かに美人だしカリスマあるなって思うけど……ちょっと壁作ってるって感じるときもある。でも、さっきの泉さんは」


 そういうのなかったし。

 カノジョ、かなり千里に気を許してるんじゃないかな。

 陽平は千里の脇腹を肘でつつきながら、イケメン面に意味ありげな笑みを浮かべている。

 自信に満ちたその顔に『そんなわけあるか』と言い返そうとしたが、反論は喉元あたりで詰まって口から出て来てくれない。


「千里には由宇の時に世話になったから、何かできることがあったら言ってよ」


「だから何にもないと言ってるだろうが」


「何にもないなら、何かあるようにすればいい。千里だって……まんざらじゃないんだろ?」


「……ッ」


 指摘されて口が動かなくなった。

 まさか周りからそんな風に見られているとは……

 顔が熱い。夏が悪いとか太陽のせいとか、そんな言い訳を並べたくなるほどに。

 

「とりあえず、僕は由宇とどこかで時間を潰してこようかな。さっきまで気を遣ってもらってたし、これぐらいはさせてもらうよ」


 余計な気遣いを見せる陽平をさとすなりたしなめるなりしようと口を開くより早く、後ろから由宇が『もういいよ』と声をかけてくる。千里の言葉を待つことなくシートに戻っていく友人の背中を見て――その足元に横たわる万里に目を向ける。

 彼女の瞳は少し濡れていて、しっかりと千里を捉えていた。

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