第34話 夜空に咲く、あの花よりも その7

「いやぁ~、ワザワザ迷子を連れてきてくれるなんて、若いのに感心感心」


 肩を並べてしばらく歩いて、屋台で教えてもらった迷子コーナーにたどり着いて、役員らしき中年男性に声をかけて……そして、今、千里せんりたちはべた褒めの嵐のど真ん中に立たされていた。


「この子のお母さん、こっちに来ていませんか?」


橋本はしもとさんという方は来てないねぇ」


「……そうですか」


 万里ばんりは声を沈ませ、ひよりは千里の首に巻き付けた腕をギュッと抱きしめた。

 顔にも声にも不安を滲ませているし、目じりには涙を浮かべている。

 首が締まって苦しかったが、どうにか我慢できるレベルだった。


「行っちゃうの?」


「行かない」


 心細げなひよりの呟きに、首を横に振った。

 ここにいれば安全なはずだが……周りは見ず知らずの大人ばかりだ。

 路地裏よりはマシと言っても、年端も行かない幼女を置き去りにするのは無責任に思える。


いずみもそれでいいよな?」


「え、ええ……私もひよりちゃんのお母さんが来るまで一緒にいようかな。いいかな?」


 パーッと顔を輝かせて、ヘッドロックから千里を開放するひより。

 柔らかい笑みを浮かべながら、その頭を優しく撫でる万里。

 心温まる光景に……一抹の申し訳なさを覚えた。


「……無理強いしたみたいで悪いな」


「いいって。真壁の言っていることは正しいと思うし」


 衒いのない笑顔を向けられると、照れる。

 正面から見ていられなくて、ついつい視線を逸らしてしまう。

『ダサい』とか『もったいない』とか、頭の奥から自分の声が聞こえてくる。


――しょうがないだろ……コイツの笑顔、破壊力が凄いんだぞ。


 ひとり煩悶する千里の耳が『こっちに座っときなさい。飲み物持ってくるから』と笑う中年女性の声を捉えた。


「……飲み物か」


 テントを見回し、何気なく呟きが零れた。

 蒸し暑い夏の夜道を歩いてきた身体は、確かに水分を欲している。


――ふむ……


 思い思いの姿でくつろいでいる役員たち、その手に握られている紙コップの中身と転がっている空き缶、漂うアルコールの匂い――


真壁まかべ、何考えているの?」


 冷ややかな声と、冷ややかな眼差し。

 椅子に腰を下ろした万里が、厳しい面持ちで見上げてくる。

 彼女の膝を占拠しているひよりは、何が起きているのかわからないようで、千里と万里を交互に見比べていた。

 無垢な瞳と剣呑な瞳に貫かれて、舌がうまく回ってくれない。

 

「何って……それは、まぁ、泉……今日は、ほら、祭りだろ」


「お祭りだったら、何?」


「……ちょっとビールを?」


「バッカじゃないの。アルコールは二十歳になってからでしょ」


「意外と杓子定規だよな、泉って」


 めちゃくちゃ遊んでそうに見えるのに。

 学校での一軍ムーブやら、海で身に着けていたアレな水着やら、何かと派手な印象なのに。


「杓子定規って……アンタにそんなこと言われるとは思わなかったわ」


「……どんだけクソ真面目だと思われてるんだ、俺は」


 千里は肩を竦めて、椅子に腰を下ろした。

 安っぽいパイプ椅子がギシギシと悲鳴を上げる。

 不自然な沈黙と、じっとりした眼差しを肌で感じた。


「……一応言っておくが、俺は別に重くはないからな」


「まだ何も言ってない」


「目が口ほどにモノを言ってるんだよなぁ」


「被害妄想じゃないの、それ」


「言うねぇ」


 ニヤリと口の端を歪め、万里を見やる。

 むき出しになった彼女のうなじはしっとり汗を滲ませていて、色気がヤバい。

 白い肌をガン見しないよう気を付けながら、空いた手でポケットからスマートフォンを取り出すと……相変わらず電波は繋がっていなかった。


――こっちはこっちで、どうしたもんかな……


 今頃どこかで白雪しらゆきもスマホを睨んでヤキモキしているのだろうか。

 考えても詮無いこととはいえ、何もかもが覚束なさすぎてウンザリしてしまう。


「はい、これどうぞ」


 朗らかな声とともに、横合いからビンが差し出される。

 節くれだった左右の手に、合わせて三本のビン。

 ひよりを抱えたまま、万里が腰を浮かす。

 

「ありがとうございます。その……」


「いいって、いいって。気にしない、気にしない」


 浴衣姿の中年女性はからりと笑って遠ざかっていく。

 その背中を見送ってから、受け取ったビンをしげしげと見やる。

 透明な液体を満たしたビンは見るからに涼しげで、ゴクリと喉が鳴った。

 熱気に充てられて火照った身体に、手のひら越しに伝わってくる冷気が心地よい。


「なにこれ?」


「どう見てもラムネだろ」


「ラムネって……サイダーとどう違うの?」


「そんな専門的なこと、俺に言われても困るんだが」


 ふ~ん、あっそ。

 これ、どうやって開けるの?


「知らんのか……貸してみろ」


「え、ええ」


 ビンを受け取って、封を開ける。

 飲み口に手のひらを当てて一気に押し込むと……口をふさいでいたビー玉が透明な液体の中に沈み、炭酸が奏でる清涼な音色が溢れてくる。

 しゅわーっと。


「ほれ」


「……ありがと、真壁」


「おじさんおじさん、わたしのも!」


「はいはい」


 ひよりのラムネも同じように開けてやった。

 最後に開けた自分のビンに口をつけると――口中に甘味が広がり、喉を爽快な刺激が駆け抜ける。


「ふぅ」


「おいしい……」


 囁くような声に目を引かれ――息を呑んだ。

 こくこくと前後する白い喉。

 ラムネに濡れた桃色の唇。

 唇を舐めるきれいな舌。

 わずかに覗く白い歯。


――露出がなくてもエロいんだよ、お前は!


 身勝手な煩悩を奥へ押しやるために、ラムネを喉に流し込む。

 急激に強烈な炭酸がなだれ込んできて――メチャクチャむせた。

 万里の前で鼻から噴き出さずに済んだのは、不幸中の幸いだった。


「何やってんの、アンタ」


「な、なんでもない」


「……あっそ」


 それ以上ツッコまれなくて……正直ホッとした。

 遠くからは打ち上げ音と歓声が聞こえてくる。

 夜空を何発もの花火が華やかに彩っている。

 じっとりぬるい風が汗ばんだ肌を撫でる。


「夏だね」


「夏だなぁ」


 それっきり会話が止まる。

 沈黙は不快でも不安でもなかった。

 静寂が心地よい。それだけで十分だった。


「真壁」


「ん?」


「その、ありがと」


「気にするな……と言いたいところだけど、ひとつ言っておきたいことがある」


「……聞くわ。言って」


 硬い声に、反射的に口元が強張った。

 しかし、ここから『やっぱナシで』とは言えない。

 千里はラムネのビンをギュッと握りしめて――ゆっくりと口を開いた。


「さっきのな……ひよこを見捨てておけないってのはいいことだと思う。でもさ、泉、お前……誰にも言わずにひとりで行っちまっただろ。あれ、よくないぞ」


 傍に俺たちがいたんだからさ、水臭いことするなよ。

 そう続けると万里の顔がわずかに陰りを帯びた。

 反論はなかったので、さらに言葉を重ねる。


「人ごみの中でひとりになるとか軽率だ。お前ってただでさえ目立つんだから。その……別に俺らに限った話じゃなくて……まぁ、誰でもいいから、知ってる奴にひと声かければよかったんだ」


「……それは、わかってたけど」


「けど?」


「……なんか悪いなって」


「悪いって……」


 意外な気がした。

『泉 万里』は教室の中心人物のひとりで、男と言わず女と言わず周囲は常に人だかりができていて……だから、頼り頼られは日常茶飯事、あるいは得意分野だと思い込んでいたのに。


――高峰たかみねがうまく捌いてたのか?


 陽平が白雪とステラを助さん角さんに例えていたことを思い出した。

 どうやら、あれはかなり的を射た表現だったようだ。

 万里ひとりでは、想像以上に危なっかしい。


「真壁って……人助けってやって当たり前みたいな感じなの?」


 重みを増した沈黙を破る万里の声。

 その内容は、かなり奇妙なものだった。

 奇妙というか、バカげているというか……


「何を言い出すかと思えば……そんなことないぞ」


「じゃあ、私を助けてくれたのは」


「当然、下心がある」


「ウソ」


 なぜ断言されるのか、それがわからない。

 万里と抜け出して白雪と合流する機会を虎視眈々と狙っていたのだから、これは立派な下心のはずなのだが。

 信頼を寄せられるのは嬉しいが、行き過ぎるとちょっと怖い。

 いつか足元を掬われそうな気がしてならない。


「そんな風に見られてるのか、俺は」


 おずおずと頷く万里。

 そこは笑って流してほしかった。

 腕を組んで目を閉じて、記憶を遡ってみる。

 一学期のころ、一年生のころ、小学生のころ、中学生のころ……そして、高校に入ってから。


「アンタ……なんでそこで悩むの?」


「……全然記憶にない」


「はぁ!?」


 万里の声が裏返った。

 目を開けると、千里を見つめる瞳が大きく見開かれている。

 今までで一番驚かれているような気がしたが……心当たりがないのは本当だ。むしろ、驚かれることに千里の方が驚いているぐらいなのに。


「そこまで驚くことないだろ」


「え、いや、だって」


「おねぇちゃん、どうしたの?」


「気にするな。色々難しい年ごろなんだ」


「ふ~ん」


 なおも口をパクパクさせる万里をスルーして、ラムネを喉に流し込む。

 万里は――不思議なものを見る目つきのままだった。


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