第35話 夜空に咲く、あの花よりも その8
物憂げなため息が耳を撫でてくる。
眼鏡の横から盗み見すると……
手に持っているビンはラムネだから、酔っぱらっているわけではない。何かしら悩みがあるのは見え見えだったし、悩みの内容については容易に想像がついた。
ただ……迂闊に触れていいものか、どうにも確信が持てない。
「おねぇちゃん、どうしたの?」
ひよりが小さく首をかしげている。
その思い切りのよさに、心の中で喝さいを送った。
初対面の幼女には遠慮も会釈もなかったし、万里は小さな子どもを素っ気なく撥ねつけるほど無情な人物ではない。
苦笑いに、ねっとりした声が続いた。
「ん、ちょっとね……友だちのこと考えてた」
「おともだち?」
「そう、ケンカしちゃったの」
「ふぅん……じゃあ、なかなおりしなきゃ!」
幼稚園の先生が言ってた。
そう続けるひよりの頭を、万里の手がそっと撫でる。
優しげな眼差しと、穏やかな声。自分に言い聞かせるような声だった。
「そうだね……うん、そうだね」
口で言うのは簡単だけど……みたいに愚痴る感じではないし、この場限りで話を合わせている様子でもない。彼女は
――となると……だまし討ちは、よくないよな。
何かしらの理由をでっちあげて連れ出してから白雪の存在を告げるより、先に説明して納得してもらってから連れて行く方がいいように思える。
本当に今さらだったが、気づかずにカタストロフするより何倍もマシだ。
「なぁ、
「ひよりっ!」
間が悪かった。
悲鳴めいた声に、
万里と顔を見合わせ、互いに首をかしげたものの……ひよりが瞳を輝かせているところを目にすれば、それが誰の声なのか想像することは難しくない。
「ママ!」
ぴょこんと椅子から降りて、ひよりはテントに姿を現した女性に駆け寄って……ふたりは抱き合って、人目をはばかることなく再会を喜んでいる。
その光景を前にすると、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
「やっぱり正解だったな」
「そうね」
『何が?』とは尋ねられなかった。
潤んだ声を聴けば、彼女の心情は十分に理解できる。
千里もまったく同じ気持ちだった。ひよりを助けてよかったと、素直にそう思えた。
「ママ、あのねあのね。このおじ……おにいちゃんとおねえちゃんに連れてきてもらったの!」
「……痛いな」
わき腹に固い感触。
視線を落とすと、万里が肘で突っついてきている。
横に目をやると、じっとりした眼差しで見つめ返された。言わんとするところはわからなくもないが……そんなことをする奴だと思われていることが心外で、悔しかった。
何もかも自業自得なのだが。
「痛いんだが?」
「余計なことを言わないように」
「あのな……それぐらい俺だって空気読むから」
「どうだか」
ツイッと漆黒の瞳を逸らす万里。
つれない姿も絵になるなあと場違いな感想を抱いていると、ひよりを抱き上げたまま母親が近づいてきた。
間近で見ると、母親は汗だくだった。
ここにたどり着くまでの労苦が目に浮かぶようだ。
慌てて真顔を作って彼女と向かい合うと、横からも張りつめた空気が伝わってくる。
――泉でも緊張とかするんだな。
本人が聞いたら怒り出しそうなことを考えてしまった。
ひよりをここに連れてきたことは間違っていないと思うのだが……あちらにしてみれば、いつの間にか娘が姿を消していて、必死に探し回っても見つからなくて……みたいなことになっていたはずだ。
余計な心配をかけさせた可能性は否定できないし、万里が緊張するのも無理はない。
しかし、それは杞憂だった。
彼女は――こちらが恐縮してしまうほどに思いっきり頭を下げてきた。
その勢いとためらいのなさから、娘を思う母親の気持ちが痛いほどに伝わってくる。
「ありがとうございます。娘をここまで連れてきてくださったとお聞きして……」
「りんごあめもらったの!」
「まぁ!」
「あの……たいしたことはしてませんので、お気になさらないでください」
万里が慌てて口をさしはさんだ。
ひよりに矛先が向かないように話を誘導しようとしているのが見て取れる。
せっかく無事に再会できた親子が揉める姿など見たくないので、千里も追随もとい万里の援護に回ることにする。
「最初は『知らない人についていったらいけない』ってお母さんの言いつけを守ろうとしていたんです。俺たちが無理矢理……ではないですが、放っておけなくて説得して……まぁ、そういうことなので。娘さんは悪くないですから」
最後の『娘さんは悪くない』のくだりは取ってつけた感あった。
もっと上手い言い回しはなかったかと呆れるものの、理路整然とした言葉はとっさに出てこないものだ。
時間はあったのだから、あらかじめセリフを考えておけばよかった。
後悔をするのは、いつも手遅れになってからだ。
「いえいえ、そんな……私が目を離したのが悪いんです」
「お母さん、あの……あら、ひよりちゃん?」
万里の視線の先で、ひよりの頭が揺れていた。
おねむの時間だと、ひと目でわかるほどに。
母親が娘の後頭部をポンポンと撫でた。
安堵と慈愛の笑みを浮かべながら。
「ひとりになったり初めて会った俺たちと一緒にいたりで緊張してたんだと思います。早く娘さんを休ませてあげてください」
「……いろいろとお気遣いいただいて、本当にありがとうございます」
お礼はまた。
いつか、必ず。
母親は何度も頭を下げ、ひよりを抱きかかえてテントを後にした。
ふたりの姿が雑踏に紛れて消えるまで見送って――ひと仕事終えた満足感とともに大きく背筋を伸ばした。母親が姿を現さなかったらどうしようとか(チラッとだけ)考えていただけに、満足感よりもホッとひと息な感覚の方が大きいかもしれない。
万里は、なおもひよりたちが帰った方向を見つめている。
その横顔に、ふと閃くものがあった。
「泉って、子どもが好きなのか?」
「え?」
「いや、別に何がどうってわけじゃないんだが……いつもと雰囲気違うなって」
「う~ん、まぁ、好きよ。子どもって可愛いし」
「そうか?」
「私ってひとりっ子だから、弟とか妹ほしかったなって」
万里はそっと目を細めた。
『ほしいなら親に頼めば?』とは言えなかった。
子どものころならともかく……その言葉の意味を理解できる年齢になると、口にするのはいろいろと無理がある。
「……弟なんて、いいもんじゃないぞ」
「
「ああ。中三な」
「じゃあ、受験じゃん。どこ受けるの?」
「俺たちと同じ学校だ。この辺だと……あんまり選択肢ないだろ」
「それもそっか」
「ま、アイツのことは置いといて」
「置いといてって……そんな、弟くんかわいそう」
「ゴホン。とにかく……ひよりが無事に片付いてくれてよかった」
「そうね。なんか変なタイミングになっちゃったけど……お疲れさま、真壁」
「どういたしまして。しかし……泉がアイツを見つけてなかったらって思うと、ゾッとするな」
とんでもない人出で沸き返る歩行者天国の傍ら、光が差さない路地裏で幼稚園児がひとり泣いている。誰も彼女に気づかずに夜が更けて……なんて絵面は、ちょっとしたホラーだ。
自分だけだったら気にも留めなかっただろうという確信が、妄想からゾワゾワと滲み出てくる恐怖に実感を与える。
「ホント面倒かけたって思って……いえ、違うわね。真壁、ありがとう」
「……まぁ、終わり良ければ総て良しってことで」
――そうじゃないだろ。
自分で自分にツッコんでしまった。
今日ここに来た目的は、まだ何も終わっていない。
忘れていたわけではないのだが、ひよりに意識を割き過ぎた感はある。
「……」
打ち上げ会場では最後の連発が始まっている。
夏の夜空は色とりどりどころか目がチカチカするほどに彩られていた。
ポケットからスマートフォンを取り出すも……今なお電波は繋がっておらず、白雪たちと連絡を取る手段はない。
付け加えれば、時間もあまりない。
どうしたものかと顎を撫でていると、横から万里が話しかけてくる。
「ねぇ、真壁」
「どうした?」
「ひよりちゃんのお母さんが来たとき、なんか言おうとしてたよね?」
「……ああ」
「あれ、なに?」
まごついていたら、先手を打たれた。
アッサリした口振りなのに、その声には有無を言わせない力がある。
ゴクリと唾を飲み込んでから万里を見やると……鋭く細められた漆黒の瞳はガチな光を宿していて、正直かなり怖かった。
――ビビってる場合じゃないよな。だよな?
『さっきは話そうとしていただろ?』と何度も何度も自分に言い聞かせた。
生半可な決意では、万里の眼差しに気圧されてしまいそうだった。
胸に手を当てて、深呼吸して、覚悟を決めて――口を開く。
「実は……
言った。
言ってしまった。
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