第36話 夜空に咲く、あの花よりも その9

「実は……高峰たかみねたちと、待ち合わせしてる」


 そのひと言を口にするために、なけなしの勇気を振り絞った。

 とてもではないが万里ばんりの顔を見ることはできなかった。

 ただでさえレアな勇気はセリフだけで売り切れだ。


――いずみ……


 良かれと思ってやったこととはいえ、実際には彼女を裏切っていたに等しい。

 さすがにそっぽを向いたりはしなかったものの、視線は自然と下がって……浴衣の襟からのぞく白い肌に吸い寄せられる。

 布越しに膨らむ胸元と、むき出しの鎖骨あたり。

 祭りの喧騒は遠く、中途半端な沈黙に交じって万里の吐息が耳を掠めた。


――なにやってんだ、俺。


 頭を上げなければならない。万里と向かい合わなければならない。

 浴衣越しとは言えいつまでも胸をガン見するのはエチケット違反だろうし、吐いた言葉の責任は取らなければならない。

 ……腰あたりでワキワキといびつに蠢く彼女の指を目にしてしまうと、首根っこを引っ掴まれて、頭を押さえつけられる錯覚に囚われてしまうわけだが。


「……だと思った」


「え?」


 耳を疑った。

 視線を上げると――万里の顔は穏やかなまま。

 バレたらヤバいとビクビクしていただけに、この反応は予想外……


――いや、違うな。


 よく見ると万里の口元はヒクついていたし、声はわずかに上擦っていた。

 顔は紅潮していて、呼吸は浅くて……彼女の中でも並々ならぬ葛藤があると言うか色々荒れ狂っているように見えると言うか。

 

「……気づいてたのか?」


「何度もスマホを気にしてるから、変だなって」


 若干ながら言い訳じみているように聞こえた。

 結論が先にあって、理由を後付けしているみたいな。


由宇ゆうたちと連絡取ろうとしてたとは考えなかったのか?」


「信頼してるって自分で言ってたじゃない」


「……俺と高峰がどこでどうして繋がってるのか、不思議じゃないか?」


 何がわからないと言って、これが一番わからない。

 いくら自分の挙動不審を見咎められようとも、それが白雪しらゆきに直結する理由が不明すぎる。

 おっかなびっくり問いかけた千里せんりとは対照的に……万里はワザとらしく肩を竦めた。


「どうせどっかで見てたんでしょ」


 あの子、目ざといから。

 そういうこと、昔っからずっと上手だったから。

 その口ぶりは素っ気なくて、でも邪険にしている感じでもない。

 普段の学校で目にしている彼女たちの姿と照らし合わせようとすると、バグっているみたいな違和感がある。

 頭が着いて行かないままに口を開いた。

 漆黒の瞳が『続きを喋れ』と物語っていたから。


「ビーチバレーしてるところを見てたそうだ」


「あっそ」


「『あっそ』って……それだけか?」


「それだけよ……え、やだ、待って。変なこと、言ってないでしょうね?」


「変なことって……ああ」


 にわかに気色ばむ万里を前に、すぐに思い至った。

 ビーチバレーして、溺れて、助けて……そのあと、ほとんど裸で抱き合ったことを。

 ついでに、色々見えてはならないもの(ご褒美とかお宝的なアレコレ)を見てしまったことも。

 目にも脳にもはっきり焼き付いた記憶が脳内で勝手に再生されて――顔に熱が込み上げてきた。そんな千里を見て、万里の顔が真っ赤に染まる。

 

「思い出すな! バカ、スケベ、えっち、変態!」


「自分で話を振っておいて、それは理不尽じゃないか」


「うるさい、黙れ」


 プイっと横を向く万里。

 眼差しの圧力が緩んで、ホッとひと息ついた。

 汗ばんだシャツを指でつまみ、内側に空気を入れながら口を開く。

 ここまで口にしたなら、洗いざらい喋った方がいい。『毒食わば皿まで』と言うではないか。


「はいはい……とにかくだな、俺はあちらの言い分も聞いた。ちょっとしたすれ違いみたいなものだと思った。仲直りするかどうかは泉に任せるが……どうするつもりにしても、話すぐらいはしておいた方がいい」


 すれ違い。

 その単語に万里の身体が震えた。

 ふーっと大きく息を吐く音に、小さな声が続いた。


「それは……わかってるし」


「そうか」


 俯いた万里の顔を見ることはできなかった。

 不躾に覗き込むことは、しなかった。


「それで……どうする?」


「ん?」


「高峰たちと、ちゃんと話すか?」


 答えは返ってこなかった。

 イエスではないが、ノーでもない。


――迷うよな……


 千里と違って万里は話を聞かされたばかりなのだ。

 これまでポツポツと仲直りしたい的な意思表示を目にしてきたものの、いざとなったら即答できなくても無理はない。

 千里にできることは、ただ待つことだけだった。

 遠くの空で弾ける花火の振動が肌を震わせるが、そちらに意識を向ける余裕はない。


「……うん、話す。ひよりちゃんにも言われたし」


「『なかなおりしなきゃ』か」


「そう、それ」


 見られてるわけじゃないけど、カッコつかないし。

 顔を上げた万里は、笑みを浮かべていた。

 瞳には――淡い光が宿っている。


――ひよこに大感謝だな。


『情けは人の為ならず』とはよく言ったものだ。

 万里の本音はともかくとして、あの幼女がきっかけになってくれたことは間違いない。


「それで、私はどこに行けばいいの?」


「それがなぁ……わからん」


「……なんで?」


 万里の笑顔が凍り付いた。

 穏やかだった眼差しに剣呑なものが混じり始める。

 冷たい手がピタピタと頬を撫でまわすみたいな、名状しがたい恐怖を感じる。


「待て、落ち着け」


「落ち着いてるから、理由」


 仲直りしようと意気込んだら、いきなりズッコケた。

 おそらくそんな感じで、今の万里は急転直下でご機嫌斜めになっている。

 学校一の美少女から鋭すぎる眼差しをブッ刺された千里の心はズタズタで、聞くに堪えない悲鳴を上げていた。

 本人以外には絶対に聞こえないのが不幸中の幸いと言うべきか。


「……そのプレッシャー、何とかならんのか」


「なにか言った?」


「何も言ってない。えっとだな……花火大会の途中で抜け出して合流しようって計画だったんだが、スマホが繋がらなくてだな……」


「はぁ……アンタねぇ、待ち合わせの場所ぐらい先に決めておきなさいよ。電波通じなくなるなんて毎年のことじゃないの」


「まったくもって返す言葉がない」


 頭を掻き、うなだれる。

 言われてみればそのとおりなのだが……ふと、違和感を覚えた。

 自分はともかく、あの切れ者な白雪が、この状況を想定していなかったのだろうか?


――なんか、引っかかるな?


 不快感はなかったが、どうにも腑に落ちない。

 眉をひそめる千里を余所に、万里は顎に手を当ててしばらく何か考える素振りを見せていたが……


「行くわよ」


「行くってどこへ?」


「この近くに、私たちがよく使ってる喫茶店があるから」


「高峰たちはそこにいる、と?」


「違ったらあの子の家まで行けばいいわ」


 多分あそこだと思うけど。

 万里の表情を見る限り、かなり自信があるらしかった。

 他に行く当ても思いつかなかったし、このままここに突っ立っていてもどうにもならないことは事実だし、水を差すようなことを口にするのはやめておいた。

 

「で……真壁まかべはどうするの?」


「行く。話し合いに立ち入るつもりはないが、もう暗いからな。店まで泉をひとりにしておけない」


「あら、子ども扱い?」


「お前、ときどき危なっかしいんだよ」


「……あっそ」


 じゃあ。

 薄い笑みとともに手を差し出す万里。

 何が『じゃあ』なのか、サッパリ話のつながりが見えない。

 差し出された白い手を見て、万里の顔を見て、もう一度手を見ると……その手はプルプルと震えていた。


「エスコート」


「あ、ああ」


 ドスの利いた声に背筋が凍る。

 言われて反射的に首を縦に振りはしたものの……エスコートなんて、一介の男子高校生的には見聞きしたことはあってもそうそう縁のない単語だ。


「エスコートって、どうすればいいんだ?」


「私に聞くな」


『エスコート、エスコートなぁ』と口の中で耳慣れない五文字を転がしていたら……ピンときた。この珍しい単語と縁がありそうな友人がいるではないか。


――由宇、陽平……力を貸してくれ。


 ギュッとこぶしを握り締める。

 喉に渇きを覚え、唾を飲み込んだ。

 胸の奥からバクバクと強烈な鼓動を感じる。

 駆け巡る血潮、その狂おしい熱で思考が灼熱する。


「……ふぅ」


 足元を強く踏みしめ、大きく息を吸って吐いて吸って吐いて――その一部始終をしげしげと見つめていた万里の手を取った。

 しっとりして、すべすべして、少し冷たい万里の手。

 その肌触りは――否応なくあの夏の日に目に焼き付いた光景を思い出させる。

 青い空。

 白い砂浜。

 まとわりつく熱気。

 潮風になびく、ロングの黒髪。

 大胆な赤のビキニと、陽光に晒された白い肌。

 スラリと伸びた脚と、豊かに実った胸と、キュッとくびれたウエストと。

 そして――


「ひゃっ」


「すまん、強く握り過ぎたか?」


「そ、そんなことないし。それじゃ、はやく行きましょう」


「ああ」


 我に返って。

 頷いて、恐る恐る一歩踏み出して。

 横目で万里の様子を窺いながら、手を握りながら――


――さっきの声、可愛かったな。


『ひゃっ』てさ。

 声には出さず、ひとり口元を緩めた。

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