第37話 夜空に咲く、あの花よりも その10

 夏の夜は、じっとりと暑かった。

 吹き抜ける風すら熱っぽい湿気を含んでいて、息苦しくてしんどかった。

 見上げた空には月が輝き、一面に星が瞬いて……と言いたいところだが、実際は黒く塗りつぶされる部分が徐々に広がっていた。


――雲か……


 普通の雲ではない。

 重みを感じる、嫌な黒雲だ。

 鼻先を異臭が掠める。金属めいた匂いだ。


「ひと雨来るか、これは?」


 自分の口から出た声を耳にして、千里せんりは盛大に顔をしかめた。

 折り畳みの傘を持ってこなかったからだ。

 夕立ちなんて聞いてない。


「アンタ、何やってるの?」


 耳に心地よい声だった。

 透き通るような、それでいて甘さを含んだ声。

 千里は目線を空に投じたまま、しれっと答えを口にした。顔を見なくても、誰かはわかる。


「花火を見ていた」


「そんなのずっと前に終わってるし」


「じゃあ、人間観察だ。家に帰る人の流れを見ていた」


「アンタねぇ、今が何時だと思ってるの? みんなとっくに帰ってるんだけど」


「だったら……」


「……」


 沈黙に冷たく刺々しいものを感じた。

 首筋に気配を感じて手を当てると、鳥肌が立っている。

 軽めのため息とともに視線を降ろすと……白い浴衣に黒髪の美少女こと『泉 万里いずみ ばんり』と、私服姿の女子がふたり。

高峰 白雪たかみね しらゆき』と『星崎ほしざき ステラ』だ。

 白雪はいつもの黒タイツ、ステラは金髪のポニーテールがやたらと目立つ。

 ただ突っ立っているだけで後光さしてそうな三人(顔面偏差値高すぎ)が、揃って胡乱げな眼差しを向けてきている。

 以前の自分だったらビビってるな。

 他人ごとみたいに考えながら、千里は首の後ろをポリポリと掻いた。

 不思議なくらいに心は落ち着いていたし、心臓だって平常運転な鼓動を刻んでいる。

 

「別に待っててくれなくてもよかったのに」


「そうは言うがなぁ」


――あの状態で放ったらかして帰れないだろ。


 彼女を伴って喫茶店を訪れると、白雪とステラに迎えられた。

 ふたりが待ち受けていた件については万里の予想どおりだったが、空気はかなりピリピリしていて仲直りという単語とは程遠い状況だった。

 特に万里と白雪が酷かった。睨み合ってバチバチと火花を散らしていた。


『泉』


『なに?』


『なにってお前なぁ……ほら、高峰も落ち着け』


『私は落ち着いてるけど』


 取りなそうとしたら、左右から睨まれた。

 理不尽だ。どっちも仲直りしたいって言ってたくせに。

『お前ら、やる気あるのか?』とツッコみたくなったが、ぐっと堪えた。

 案内されたテーブルは四人掛けで、千里のスペースも用意されていた。

 迷った。迷って――座らなかった。


『……あとは三人で話せよ』


『ちょっと、真壁まかべ


『大丈夫だと思う、たぶん』


『たぶんって、アンタねぇ……』


 引き留めようとする万里にひと言だけ言い置いて、ひとりで外に出た。

 自分がいない方が気兼ねなく話し合えると思ったからだが……一抹の不安はあった。


――『一抹』じゃないよな……はぁ、コイツらもっと素直になればいいのに。


 事前に双方の話を聞いた限りでは、ちょっとしたすれ違いというかイタズラめいたトラブルの積み重ねみたいなものだと感じた。面と向かい合う機会さえ用意すれば、彼女たちは自力で解決するだろうと思っていたのだが……それだって百パーセントではない。

 友人からのメッセージを既読スルーする万里。

 ほとんど他人の千里を巻き込んで画策する白雪。

 よくよく考えてみると、どちらも結構な不安要因だ。

 だからと言って自分がいたところで何かの役に立つとも思えなかったので、万が一な場合に備えて店の外で張っていたわけだ。

 幸いと言うべきか、三人が陣取っていた席は外から見えづらい場所だったのでバレる心配はなかった。逆に言えば千里が店内の様子を窺うこともできないわけだが、これについては何とかなると楽観していた。

 ほかに客はいなかったし……彼女たちは三人とも、とにかく存在感が半端ない。

 少し離れたところから見ているだけでも、異変があったらすぐに気づく自信があった。

 コンビニでペットボトルの麦茶を買って、ちびりちびりと口に含みながら待機して……現在に至る。

 遠目に見てわかるほどのトラブルはなかったと思う。


「それで、仲直りはできたのか?」


「……おかげさまで」


 万里はプイっと横を向いてしまった。

 わずかに紅潮した顔と、息切れっぽい口ぶり。

 三人とも衣服が微妙に着崩れていたし、ところどころ髪がほつれていた。

 どうやらひと筋縄ではいかなかったことが見て取れるが……まぁ、結果オーライということにしておいた。

 あまり触れるべきでないと直感したからだ。

 触らぬ神に何とやら。

 万里と反対側に並んでいた白雪と目が合うと、こちらは『ありがとね、真壁くん』と小さく微笑んでくる。

 彼女の隣に突っ立っているステラは無言だったが、機嫌は悪くなさそうだった。


「……それならよかった」


「心配かけたわね」


「本当にな」


「うわ」


 なにがどうしてこうなったのか。

 元をたどれば、あの海からすべては始まったように思える。

 老若男女がごった返した白い砂浜で、ひとり所在なさげにしていた万里に声をかけたところから。


「それにしてもさぁ……あの真壁が万里に声かけるとか、マジかよ」


 ステラが呻いた。

 向けられる視線も声も、お世辞にも好意的とは言い難いものだった。

 白雪からひととおりの話を聞かされているはずなのだが、そのビビッドな色合いの顔にはハッキリと疑念が浮かんでいる。

 あの砂浜でのナンパの件については、白雪からは好意的な印象を持たれている感じだったが……ステラは正反対らしい。仲直りしたいという点では共通していても、ふたりの間にも意見の相違が横たわっている。

 当然と言えば当然なのだが……今の今まで、その当然に気づいていなかった。

 彼女たちを『一軍女子』とひとまとめで考えていたからだ。

 閑話休題。

 

――まぁ……疑われても無理ないしなぁ。


 睨まれても特段腹は立たなかった。

 一学期の間は一度も話したことのない間柄だったし、千里だって自分がナンパすることになるなんて思ってもみなかった。何もかもが偶然の産物に過ぎない。

 運命のいたずらと呼ぶのは、カッコつけすぎて面映ゆい。


「世の中、何が起こるかわかったもんじゃないな」


「……お前が言うなっての」


「ちょっとステラ」


 万里が割って入って、ステラは肩を竦めた。

 ちょうど千里からは万里の後頭部しか見えなくて、彼女がどんな顔をしながら友人と向かい合っているのかはわからなかった。

 ただ、ステラの顔が少し引きつっているように見えるのが気にならなくもない。


「繰り返しになるが、仲直りできたならよかった。雨が降りそうだから、さっさと帰ったほうがいいぞ」


「え、やだ、ホント……私、傘持ってない」


「アタシも」


「傘ぐらい、買えばよくない?」


「せっかく稼いだ金をそういう風に使うのはなぁ」


「白雪はバイト頑張ってたよね。余裕ある感じ?」


「あれは文化祭用」


「なんで文化祭でバイトになんの?」


「部費が少ないから、みんなで……って約束なの」


「え、自前!? そういうの、生徒会に言えばいいんじゃ」


 三人の会話は途切れることなく、あっちこっちに話題が飛び回る。

 そのやり取りは一学期に学校で目にした姿そのままで……つまり、この夏に彼女らを襲った(ついでに千里も巻き込まれた)惨禍は完全に払しょくできたと見てよさそうだった。


――やっぱり、仲がいいに越したことはないな。


 もしもケンカしたまま二学期を迎えていたら……想像するだけで頭が痛い。

教室の空気は最悪になるだろうし、これ幸いと今日みたいに万里を巡った争いが勃発することは疑いようもない。


「嫌だな、それは」


「真壁?」


「すまん、なんでもない」


「ふぅん、ま、いいけど。駅まで一緒に行きましょ」


「ああ」


 頭だけ振り返った万里は、柔らかい笑顔を浮かべていた。

 ちょうど夜空に浮かんでいる月を思わせる優しい微笑みだった。

 上機嫌な彼女を横目に、白雪とステラがひそひそと言葉を交わしている。

 ケンカは終わったはずなのに、何やらのっぴきならない気配を感じて……しかも、そのふたりが千里にチラチラと視線を送ってくるのだ。

 あからさまに胡散臭い。特に白雪は何か企んでいるように見えてならない。

 こと謀略的な点に関しては、彼女に勝てる気がしない。


――はぁ……高峰のことは、気にしても仕方ないな。


 少なくとも今は。

 できれば永遠に敵に回したくないが。

 なぜなら――

 千里は自分の胸に手を当てて――力なく首を横に振った。


「『嫌だな』か……」


 その呟きは千里以外の耳に届くことなく、雨が近づく夏の夜に溶けて消えた。

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