夏の章最終話 九月一日
夏休みが終わり――二学期が始まる。
九月一日の朝は、たぶんこの世で最も憂鬱な朝だと思う。
否。
思っていた。
「……変な気分だ」
家を出て、電車に乗って、そして今、通学路を征く足が……妙にフワフワ浮いている。
生まれてこの方十七年、こんなことは初めてだった。
「
隣を歩いている
その顔には疑念を筆頭に胡散臭い感情がありありと滲み出ていた。
ずっと一緒に暮らしてきた幼馴染の目には、今の自分が不審人物に映っているらしい。
「そう見えるか?」
「見える。超楽しそう。何かいいことあった?」
「楽しそうに見えるのか、俺は。自分では……よくわからんのだが」
「……そうなの?」
ふ~ん。
最近ときどき耳にする声色だった。
棒読みとは違うけれど、感情が籠っているようにも聞こえない。
よく言えば明朗快活、身も蓋もない表現をすれば単純明快な彼女には似つかわしくない響きだ。
「なんでそこで疑問形なんだ?」
「なんでって、それは……はぁ、やっぱや~めた」
プイっとそっぽを向いてしまった由宇は――にわかに目を輝かせて駆け出した。
その先には、見慣れた人影がひとつ。
スラリとしたシルエット、丁寧に整えられた髪型。
学校指定の制服をはじめ他の男子と同じ格好のはずなのに、存在感がまるで違う。
友人にして由宇の彼氏である『
止める間もなかったし、追いかけて声をかけようかと思ったが……やめた。
ふたりの逢瀬を邪魔するのは心苦しかった。
「……ふぅ」
見上げた空は青かった。
夏の空とあまり変わらないように見えるし、じわじわと肌を締め付けるような熱気は健在だ。
こうして歩いているうちにも、じっとり汗が噴き出してくる。
――夏、か……
心の中で独り言ちる。
今年の夏の記憶は、ほとんどない。
彼女と海で出会ったあの日と、花火大会の夜。
ふたつの記憶があまりにも色鮮やかに脳裏を占拠していて、それ以外の印象がとても薄いのだ。
特に花火大会が終わってから昨晩までの半月ほどは酷い有様で、あらかじめ宿題を片付けていなかったらトンデモナイことになっていたに違いない。
「おはよ、
不意打ちだった。
耳から入って脳を直撃する、透き通った声。
肩に触れる軽い衝撃。触れてないのに感じる、すぐ傍の体温。
千里の心臓が爆発するように踊り狂い、全身の毛穴が開いて先ほどとは異なる種類の汗が溢れ出る。
呼吸が止まり、背筋が不自然にピンと伸びた。
唾を飲み込んでから振り向くと――そこには、ひとりのクラスメートの姿があった。
腰まで届くストレートの黒髪。
端が少し吊り上がった、涼しげな眼差し。
キラキラと煌めく漆黒の瞳、スーッと通った鼻梁。
唇は桃色に艶めいていて、わずかに覗く歯がキラリと輝いている。
肌はシミひとつなく抜けるように白く血色もよく、うっすらと化粧が施されていた。
制服を内側から押し上げる豊かな胸元と、校則違反上等な短いスカートから伸びる長い脚に、目が引き寄せられそうになる。
思春期男子の妄想をこれでもかと詰め込んだパーフェクトなビジュアルだった。
『
同じクラスの、いわゆる一軍女子。
一学期の間では特に話す機会はなかったけれど……夏休みに偶然海で出会って声をかけて(つまりナンパして)からの日々は、彼女の存在抜きでは語れない。
逆に言うと、万里を見ていない日は虚無感がヤバかった。
「……」
「真壁?」
「あ、ああ、おはよう」
「なに? なんか考えてた?」
「いや……泉は今日も元気そうだな、と」
そう見える?
万里は口元をほころばせる。
心をズドンと打ち抜いてくる眩しい笑みだった。
「夏休みが終わって二学期が始まって……もう朝から憂鬱で憂鬱で」
憂鬱。
その言葉とは裏腹に、万里の表情は明るくて声はリズミカルだった。
普段はクールなイメージがある彼女だったが、小さく欠伸をする仕草は可愛らしくてとても似合っていた。
「まぁ、それは誰でもそうだろう」
「そう? 真壁は楽しそうに見えるけど」
「……さっき由宇にも同じことを言われた」
そう見えるか?
尋ね返したら――万里の眼差しがスッと細まった。
賑やかな空気が霧散して、冷気が首筋を撫で上げてくる錯覚を覚える。
これまでの経験上から察するに、どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。理由は不明だ。
「ゴホン……ま、まだ初日だからな。夏休み気分が抜けてないだけかもしれん」
「ふ~ん」
ま、いいけど。
表情を緩めた万里もまた、由宇と同じように千里から離れていく。
口振りといい声色といい何から何までさっきの由宇と酷似していて、猛烈に嫌な予感がして……後を追おうかと思ったが、やめた。学校に向かう生徒の群れから、これまた目立つ人影がふたつ、万里に近づいていくのが見えたからだ。
今日も今日とて黒いタイツを穿いた、黒髪ポニーテールの『
金色の髪が強烈にド派手な『
万里と近しい一軍女子コンビだ。
――上手くいってるようだな。
三人が並んで歩く姿を目で追いながら、ホッと胸を撫でおろした。
海でケンカして、花火大会の日に仲直りした彼女たちが、それからどうなったのか、何も聞かされていなかったからだ。
仲立ちをした千里としては、安堵もひとしおである。
――それにしても……人目を惹いてるよな、アイツら。
万里と白雪、そしてステラ。
タイプこそ違えど、いずれも校内有数の美少女であることに違いはない。
さながらゾンビのごとく歩いていた連中も、彼女たちの姿を認めるなり、むやみやたらと活気づいているように見える。
そっと胸を抑えた。
手のひら越しに伝わる心臓の鼓動は激しくて――万里と顔を合わせて以来、いまだに収まる気配がない。
――これが、恋ってやつなのか。
自覚してしまえば、それはやけにしっくりきた。
『真壁 千里』は『泉 万里』に恋をしている。初恋だ。
『いつから?』と問われれば――それは、きっと海で出会ったあの日から。
ゴチャゴチャ理屈を並べ立てて万里の言動を好意的に解釈したり、おせっかいを焼いたりしてきたが……何のことはない、単に千里は万里に恋をしていただけだった。
――恋、か……
怖かった。
恋をするのが、怖かった。
自分が恋をしていると認めるのが、怖かった。
高校に入って以来、由宇が陽平に想いを寄せるさまを特等席で見てきた。
今でこそ幸せいっぱいな彼女だが……相思相愛にたどり着くまでには、控えめに言って苦難の日々に苛まれていた。
その一部始終も、特等席で見てきた。
いざ恋をしたならば、今度は自分があの道を征くのかと慄いていた。
――バカバカしい。
そう。
バカバカしい。
臆病だった過去の自分に唾を吐きかけてやりたくなる。
万里への恋愛感情を認めずに、無為に彼女との時間が失われてしまう方がよほど怖いに決まっているのに。
『何もしないのは失恋と同じ』と陽平は語った。
『恋愛は戦いだよ!』と嘯いたのは由宇だ。
ふたりは戦った。千里は戦っていない。
だったら――
「やってやるさ」
ハッキリ口に出して、誓う。
万里への恋心と正面から向かい合って、受け入れて――ようやく千里は彼女に想いを寄せるほかの男子と同じ土俵に立つことができた。
たった一度の十七歳の夏は終わった。
たった一度の高校生活は、いよいよ後半戦に突入する。
遅きに失した感はあるものの……まだ、諦めるような時間じゃない。
「そうか……俺は……」
九月一日が待ち遠しかった。
万里と毎日顔を合わせることができる日々の始まりが、様々なイベントが盛りだくさんな二学期が。
ギュッと握り締めたこぶしに、気力の充実を感じる。
「ん?」
少し離れたところからチャイムが聞こえてきた。
まだ余裕があるはずなのに……時間を間違えただろうか?
ポケットからスマートフォンを取り出そうとして、眉をひそめる。
再び指を突っ込んでみると――きれいに折り畳まれた紙片が入っていた。
見覚えがないその紙片を開いてみると……そこにはアルファベットと数字の羅列があって、末尾に万里のサインが記されていた。
「これは……」
瞬間、脳内に閃光が奔る。
頭を上げて前を見やると、こちらを振り向いた万里と目が合った。
笑っている。機嫌は良さそうで、小悪魔じみた気配すら漂わせていて……千里は目線を落とし、もう一度手元の紙片に目を走らせ――
身体の内側から、得体のしれない力が溢れてくる。
夏の残滓を感じさせる陽光に負けない、熱いエネルギーが。
込み上げる興奮に突き動かされて吠えたら――通学路に沈黙がおりた。
我に返って周囲を見回しても誰も目を合わせようとしてくれないし、万里に至ってはすたすたと学校に向けて歩みを進めていた。
早足で。
振り向くこともなく。
【夏の章完結!】SummerDays(仮)〜海でナンパした女の子が、まさかのクラスメートで〜 鈴木えんぺら@『ガリ勉くんと裏アカさん』 @hid
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