第23話 平穏はいまだ遠く その1

 ほほを撫でる冷風。

 強すぎもせず弱すぎもしない照明。

 書籍や木製の本棚から漂ってくる、独特のにおい。

 室内は静謐で、遠くから聞こえてくる運動部員の雄たけびや吹奏部員が奏でる音色も実に程よい……はずだったのだが……


――これは、ダメだ……


 シャープペンシルを握る手から力が抜けていく。

 参考書に並ぶ数式がグニャグニャに見えてきて、次第に視界が暗くなってきて、頭が重くて痛くて……今にも意識が途切れそうで……


「う……あ……」


 ゾンビめいた呻きが漏れた。

真壁 千里まかべ せんり』十七歳、高校二年生。絶不調であった。

 ここのところずっと寝不足の日々を過ごしており、今日も今日とて睡魔に襲われ全面降伏の様相を呈している。


――なんなんだ……


 寝苦しいし、落ち着かない。

 いくら酷暑であろうと、これは明らかにおかしい。

 ……と言っても、己を苛む不調の原因はハッキリわかっていた。

 あの日――幼馴染の『日高 由宇ひだか ゆう』たちと海に繰り出した日に、目蓋の裏に焼き付いたあれやこれやのせいだ。

 否。

 目にしたものだけではない。

 耳を掠める『彼女』の声、鼻をくすぐる甘やかな香り。

 直に触れた肢体の感触、その柔らかさ、瑞々しさ、暖かさ、生々しさ……

 浜辺を後にする際のひと悶着から駅で別れるまでに垣間見た、寂しげで物憂げな表情。

『彼女』にまつわる何もかもが千里の理性を焦がし、これまで身に覚えがないほどに欲望が滾って抑えが効かない。

 ひとり夜闇で目を閉じると感情が爆発しそうになってしまって……それで眠れていないのだ。


「ねぇ、こんなところで何してるの?」


 頭上から声が降ってきて、千里は眉を寄せた。

 聞き覚えのある、透きとおるような響きが耳に心地よい。

 ぼやけていた視界が、あっという間にビビッドに塗り替わっていく。


――幻聴か?


 そんな疑問が浮かんできて、『でも、もしかしたら』と期待を込めた視線を上げると――机を挟んで向かい合わせの位置に、ひとりの女子が仁王立ちしていた。

 

 腰まで届くストレートの黒髪は、いつも以上につややかで。

 漆黒の瞳が印象的な整い過ぎた顔は、疑念交じりな表情で彩られていた。

 身に着けている白いワイシャツは学校指定の制服ではあるものの、ボタンが外されていて胸の谷間があらわになっていた。

 スカートは校則違反確定の短さで、裾からは白くて長い脚がスラリと伸びている。


泉 万里いずみ ばんり


 千里のクラスメートであり、教室の中心人物のひとりでもある。

 二年生になって同じクラスになって数か月もの間、ほとんど会話する機会もなかった間柄だったが……つい先日、由宇たちと繰り出した海で偶然出会い、行動を共にした仲でもあった。

 ここ数日、千里を悩ませている人物でもある。

 想像どおりの顔があったことに安堵と高揚を覚え――疑問が続いた。


――何で泉がここに?


 不思議に思っていると、万里の瞳が細められた。

 こちらが訝しんでいることが、どうやらお気に召さないと見える。

 とても理不尽なように思えるのだが、冷ややかな眼差しは彼女にとても似合っているものだから、文句を言う気になれない。

 それどころか、新しい性癖に目覚めそうだ。

 閑話休題。


「何をしてるって……見たらわかるだろ?」


「勉強?」


「ああ」


 万里が言うとおり、千里は勉学に勤しんでいた。

 実際には、意識が遠ざかりかけて……というか居眠り寸前だったが、ワザワザ事実を指摘するほど彼女は野暮ではなかった。

 千里的には、却って凹む。


「それは見たらわかるけど、なんでこんなところでやってんの?」


「こんなところって、そんなに変か?」


「変よ。わざわざ学校に来なくてもよくない?」


 そう、千里は今――学校の図書室にいた。

 夏休みなのに。

 万里の疑問はもっともだった。


「そうは言うがな……ここは静かだし、電気代タダで冷房使い放題だし、家でやるより気が乗りやすいんだ。気分転換したくなったら、そこらに読む本だってたくさんあるしな」


「……まぁ、静かってのはそうかもね」


 万里はほんの一瞬だけ視線を逸らし――ずいっと覗き込んできた。

 下半身が相当鍛えられているらしく、不自然な体勢にもかかわらずふらつく様子はない。


――うっ……


 吐息が頬に触れそうな至近距離。

 つばを飲み込むことすらためらわれる緊張感。

 ド迫力な胸(の谷間)が強調されて、引力が半端なかった。

 何か言わなければと焦りを覚える千里より先に、万里が口を開いた。


「吹っ切れた感じ?」


「……何がだ?」


「日高のこと。さっき言ってた『静か』って、あの子のことじゃないの?」


――由宇、か……


 由宇。

『日高 由宇』

 幼馴染でお隣さん。

 物心ついたころから行動を共にすることが多かったせいか、周囲からは交際していると勘違いされることが多くて、彼女が『池澤 陽平いけざわ ようへい』と付き合い始めて以来、あれこれと口さがない噂にさらされてきたことは事実だったし……実のところ、千里自身も胸の奥にモヤモヤを抱えてきた。


「……それもあったな。今はもう何ともない」


 自分の口からあっさりと出た言葉に、自分で軽い驚きを覚えた。

 燻っていた感情を認めつつ『違う』と首を横に振る。

 気負いもなければ衒いもなく、自嘲すらない。


「俺がいない方が、気兼ねなくデートできるだろうしな。せっかくの高二の夏なんだ。思いっきり羽を伸ばせばいいさ」


 宿題を手伝ってくれと言われるくらいなら構わないが、どこかに遊びに行こうとか誘われるとメンドクサイことになる。決して煩わしくはないのだが、陽平に対しては申し訳なさが募るし、どこかに出かけたところを誰かに見られでもしたら、くだらない噂を広められかねない。

 三人で一緒となると、それはそれで居心地が悪い。

 だから夏休みが始まるなり、朝から『勉強』と称して家を離れ、アルバイトの時間まで学校で過ごしていたわけだ。

 万里はそこまで見通していたし、千里はそれを否定しなかった。


「ふ~ん、ほんとに吹っ切れたんだ」


「おかげさまでな」


「ひょっとして、私に惚れた?」


「……どうなんだろうな?」


 とぼけているつもりはなかった。

 その可能性も考えはしたが……答えが出なかったのだ。

 先日の海で万里と色々あって以来、由宇に対する感情の揺らぎは不思議なくらいに消えてなくなった。

 それは紛れもない事実だ。

 万里を見ると胸が高鳴るのも事実だ。

 でも、これを恋と呼んでいいのかと問われると、どうにも自信が持てない。

 由宇と陽平のカップルが成立する過程を間近で見ていた千里には、あのふたりが抱いて育んできた想いと自分のそれが一致しているとは思えなかった。


「疑問形って……ま、いっか」


 万里はあっさり引き下がった。

 この話題を続けることは千里としても避けたかったから、無理に引き留めようとは思わなかった。

 

「それで、今さらだが……泉こそ、こんなところで何をしてるんだ?」


「散歩」


「夏休みに学校に散歩しに来る奴がいてたまるか」


「夏休みにわざわざ学校に勉強しに来る真壁に言われても説得力ないわ」


 まったくもって彼女の言うとおりだったが、素直に首を縦に振る気にはなれない。

 テーブルを挟んで睨み合って、沈黙が重くのしかかってくる。


――埒が明かんな、これは。


 結局、折れたのは――千里だった。


「……まぁいい。それで、なんか用か?」


「別に。忘れ物取りに来ただけ」


「忘れ物?」


「そ。宿題を置きっぱなしにしてたって、昨日気が付いたの」


「それはよかったな。気づかないままだったら、夏休み明けに教師どもにどやされるぞ」


「それ」


 万里が笑った。

 嫌味のない笑みだったが、心の底から笑っている感じでもない。

 胸の奥にモヤモヤしたものが渦を巻く千里の前で、万里は――椅子を後ろに引いて腰を下ろした。


「……なんで座るんだ」


「もちろん、アンタに用があるからに決まってるじゃない」


「ほう、俺に用か?」


 問い返す声が上擦らないように、喉に力を込めた。

『さっきと言ってること違くないか?』なんて思っていても言えるはずもない。

 それどころか、万里に会えたら聞きたかったことがあったのに……そのあたりのアレコレすら、とっくの昔にどこかへ吹き飛んでしまっていた。


――おおおおお、俺に用!? 泉が俺に用だと!?


 興奮しているのか混乱しているのか,自分でもわけがわからなかった。

 今や頭の中は真っ白で、口の中はカラカラで、心臓は爆発しそうなほどに激しく鼓動して止まってくれない。

 次の言葉を待つ時間が、ほんの一瞬にも永遠にも感じられる。

 固唾を飲んで見守る千里の前で――艶めく桃色の唇が開かれた。


「口封じに来たのよ」

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