未来の君に、さよなら
朝倉夜空
プロローグ
プロローグ
「あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております――」
老占い師はマントの下から俺を見据えてそう言った。そして、こう付け加えた。
「心当たりがおありなのでは?」
フィクション世界を思わせる漆黒のマントで全身を覆った、いかにも怪しげなこの老人によれば、なんでも俺には運命の絆で結ばれている異性が存在するらしい。
二人をつなぐ絆の強さは「世界一の名刀をもってしても断ち切れぬ」とまで彼は表現した。そして幸せを願うならば、俺はその人と共に、手を取り合って生きていかねばならないという。
決してその相手を間違えることなく。
“未来の君”という言葉が出てきたのは、俺がそれを聞いて目を丸くしている時だった。
老占い師は言った。
「あなた様にとって、女神のごとき大切なこの女性を『未来の君』と呼ぶことにいたしましょうか。一般的には『運命の人』という表現がそれに最も近いやもしれませぬ」
未来の君――俺の運命の人。
わけあってとにかく金が必要な俺は、高校入学直後から近所の居酒屋でアルバイトを始めていた。もちろん年齢をごまかして、だ。
俺が奇怪な老占い師に呼び止められたのは、その仕事帰りのことだった。
「わたくしは本日をもって、人様の
月がいつもより大きく見える、不気味に明るい夜だったことを覚えている。
“未来の君”についての心当たり、と聞いてもなお首を傾げていた俺を見て
「ご心配めされますな。運命の糸が必ずやあなた様とこの“未来の君”を引き合わせることでしょう。どうやらこの女性も御仁のように今現在、自らの未来に生じた困難に頭を悩ませている様子でございますな。そしてその解決のため、そう遠くない将来にあなた様に助けを求めて来ることになりましょう。それを契機に仲を深めていけばよろしい」
言い終えると彼は空をぼんやりと見上げ、銀河の果てでも見るような遠い目をした。俺もその視線の先を追うと、満月が大きな雲に飲み込まれている最中だった。
異様に明るかった夜は、次第に暗闇が支配を増していく。
「どうやらわたしくめの旅も、これまでのようでございますな」と老占い師は言った。「非常に興味深い運命に触れさせていただいたこと、感謝申し上げますぞ。あなた様がこれから生きていく先には、それはそれは、数多くの運命めいた出来事が待っていることでございましょう。しかし恐れないことです。逃げないことです。ご自身を、運命の女性を、そして未来を、ただ信じるのです。若き御仁、
この夜で占い師人生に終止符を打つというやけに腰の低い年老いた占い師はそう締めくくると、糸の切れた操り人形のように身動きすることを一切やめ、夜の闇に染まっていった。
今思い出してみても、実に不思議な夜だった。
結局俺はその夜、慣れない高校生活とバイトでこの上なく疲労していたはずなのに、ほとんど眠ることができなかった。
占い師の放った様々な言葉がいつまでも頭の中でこだまして、睡眠をさまたげたのだ。
――運命。
まさか自分がそんな言葉に振り回されることになろうとは。
占いが真実であろうとそうでなかろうと、一つ間違いないことがある。それは幸せな未来を手にすることを願って、毎日を生きているということだ。
中学以降、天涯孤独の身でも腐ることなく学校に通い続けてきたのも、校則違反を承知で夜遅くまで居酒屋で働いて金を稼ぐのも、その願いを成就させるためにほかならない。
だからこそ俺の未来に彩りを与える存在――“未来の君”なる人物がこの世界のどこかにいて、その人と共に生きていくのが俺の幸せにつながるというようなことを言われれば、どうしたって気になるというものだ。
とりわけ占いなんてスラム街で聞く道案内並みに信じない俺ではあるのだが、この件に関してだけは、どうしても聞き流すということはできなかった。
だから、考えた。
俺がもうすでに出会っている、“未来の君”として心当たりのある人物。
そう言われてみれば――そう言われてみればたしかに――高校入学直後からひとつひとつの挙動がなんとなく気にかかる女子生徒が一人、いるにはいた。
俺と強い結びつきがあり、そう遠くない将来に助けを求めてくるならば、その“未来の君”とやらは、高校一年時のクラス分けで俺の級友となっていたって、ちっともおかしくないはずだ。
満月の夜の占いから一ヶ月。
決して人に緊張感を与えることのない、淑やかな二つの瞳。
正しいと信じた道を
我欲の乏しそうな、こぢんまりとした鼻。
汚い言葉が入らないようにフィルターがかけられているような、均整の取れた耳。
下品さのかけらも感じられない、潤った唇。
「生き方は顔に表れる」とどこかで聞いたことがあるが、高瀬優里はまさにそうだった。
顔のパーツ一つ一つが、彼女のこれまでの実直で品行方正な生き方を物語っているようだった。
まるで腕の良い職人がうるしで塗りこんだような日本人形を思わせる艶のある黒髪を、前も後ろも程よい長さで切り揃えていて、それが彼女にはとても良く似合っていた。
高校生にもなると、途端に美人と形容できる異性を目にする機会は多くなる。
しかしこういう清純な美人というのは、そうそうお目にかかれるものではない。
そういう意味では、高瀬優里は、絶滅危惧種と言っても過言じゃなかった。
特別自分を飾って美しく見せようとか、男の気を惹いてやろうとか、そういう思惑は彼女の頭のどこにも存在しないらしく、毎日のいでたちはいたってシンプルなものだった。それでいて表情の端々には年頃の乙女特有の女の色気もたしかに存在する。
そんな彼女に俺は、学校中のどの女子生徒よりも心をくすぐられていた。
おそらく彼女は育ちも良いのだろう。その一挙手一投足は実に洗練されていて、たとえば消しゴムの使い方一つとってみても「こんな上品に消しゴムを使いこなせるのか」と思えるほどだった。
もし茶道や書道みたいに消しゴム道なるものがあるならば、是非とも師範代としてその腕前を全国の子どもたちに広めてほしいくらいだった。
授業で教師に当てられても受け答えはしっかりしているし、近くの生徒に頼まれれば嫌な顔一つせず勉強を教え、体育で負傷した子がいればさして仲が良くなくても保健室まで付き添い、誰もやりたがらない委員会の役職を引き受けては文句もこぼさず無難に仕事をこなす。
では真面目一辺倒のお堅い子かと思えば、休み時間は誰と限ることなくフランクな会話で顔をほころばせ、白い歯を見せる――。
人はこういう子を優等生と呼ぶ。
美人で賢く性格まで良い優等生。
これでは高瀬優里という生徒には非の打ち所がないじゃないかということになるが、彼女はまさに非の打ち所がない完璧美少女なのである。
五月を目前に控えた現在、高瀬はこの公立
この春の最大の不幸は、よりによってそんな完全無欠な女子生徒に目が留まってしまったことだろう。
これといって俺と高瀬優里をつなぐ絆らしきものは今のところ何一つ見えていないのに、彼女が俺の“未来の君”かもしれない、と思うだけで胸の高鳴りは止まらなくなってしまった。
しかしだからといって、会話の一つもできるわけではない。虚しさと歯がゆさが、俺を苦しめていた。
老占い師は“未来の君”について、「未来に生じた困難に頭を悩ませており、近い将来にあなた様に助けを求めてくる」と予言していた。
もし彼の言葉が正しいのだとすれば、彼女の人生のどこに、そんな困難があるというのだろう?
高瀬の瞳はいつだってきらめいていて、傍目からすると彼女は、来たるべき明るい未来に備えて、高校一年生の春を最大限謳歌しているようにしか見えなかった。
高校を欺き年齢をごまかしてまで夜に居酒屋で働かなきゃいけない俺とは、住む世界が違うのは明白だった。
高瀬優里は俺の“未来の君”ではない――。
募りゆく想いとは反比例して、俺は日に日にその可能性を考えるようになっていた。
今もずいぶん楽しそうに近くの女子生徒と歓談する高瀬の横顔を見て、おそらくこれは俺の思い過ごしなんだろうな、あんなきれいな子と運命で結ばれているかもしれないなんてどれだけ痛い男なんだ、と自嘲しながら、そして胸に痛みを覚えながら、俺は穏やかな春の日の朝に身を委ねていた。
♯ ♯ ♯
「こらっ、
前の席の
「別に悩みなんかない。放っておいてくれ」
自分の運命がどうだこうだなんて、おいそれと口にできることではない。
柏木は我が物顔で俺の机に身を乗り出してくる。
「あのさ、暇さえあればあっちの方向見てるよね。なんで?」
俺は横目で高瀬優里を見ていたことに気づき、はっとした。慌てて取り繕う。
「な、なんでだっていいじゃないか」
「じゃ、アタシが当ててみよっか」と柏木は言った。「そうだ、女の子でしょ。ズバリ、気になる子がいるね」
なんという嗅覚だろう。女の勘はすごいものがあるというが、柏木もその例に漏れない。
「そんなんじゃない、変な詮索をしないでくれ」
涼しい顔で俺は言うが、柏木は全く耳を貸さずに「誰だろう? 悠介が気になりそうなのは……」と、高瀬の周辺を見てあの子はどうだ、この子はどうだ、と一人でつぶやいている。
彼女は馴れ馴れしく俺を「悠介」と下の名前で呼び捨てにしているが、それほどに俺たちは深い仲というわけではない。入学して間もないうちに、彼女がそう、勝手に呼び始めたのだ(俺は同級生であれば誰に対しても、基本的に敬称抜きの名字で呼ぶようにしている)。
人間関係が深まるにはそれなりのプロセスというものがあると思うのだが、この女にはそういう概念がまるで備わっていないらしい。
「おい、やめろ柏木。ただ天気が気になって窓の外を眺めていただけなんだ」
俺は時刻を確認して歯ぎしりした。いつもならとっくに朝のホームルームが始まっている時間なのに、職員会議が立て込んでいるのか、こんな日に限って担任は来やしない。
「もしかして悠介も優里狙いだったりして?」
その声色から、柏木が冗談で言っているわけではないとわかる。躍起になって否定するとかえって怪しまれそうなので、俺は静かに違うと答えた。
「いやいや。気になっているのは天気じゃなくて優里でしょ。隠すなって」
もうわかってるんだぞ、というニュアンスを言外に含んだ口ぶりだ。
協調的な性格の高瀬は多くの生徒と良好な関係を築いているが、昼食や班決めなどで一緒に行動しているのはこの柏木晴香だった。
傍目から見るかぎり、この二人はどうやら馬が合うらしい。それだけに俺の心のうちを彼女に読まれることだけは、なんとしても避けねばならない。
「いい加減にしろよ柏木。違うって言ってるだろ」
危機感もあり、つい、声を荒げてしまう。
「もうっ! ちょっと言ってみただけじゃないの。そうやってすぐムキになって怖い顔しないの。それじゃ、今日もよろしくぅ!」
柏木は警察の敬礼みたいに右手をこめかみに当てて、前へ向き直った。
今朝も先制パンチを喰らってしまった。こんなやりとりは日常茶飯事だ。彼女の中で俺は、いじりやすいオモチャであるらしい。
柏木晴香はいかにも男受けしそうなはっきりした目鼻立ちに加え、抜群のプロポーションを誇るアイドル的存在の女子生徒だ。日本的で奥ゆかしい高瀬の美とは対照的に柏木のそれは直接的で、言うなればピストルのようである。
柏木の顔の下部に大きく陣取る唇は、両サイドの口角がやや吊り上がっていることで、挑発的な光を放つことに成功している。彼女の顔で一番先に印象につくのは、まず、唇だろう。
二つの瞳は旬の巨峰のように大きく、丸い。残念ながら知的な印象を人に与えることは少ないだろうが、大事なことは見逃さないのだろうな、と感じさせる目ではある。
鼻は、言うなればオアシスだ。すっと、どこか申し訳なさそうに、あるいは存在を押し殺すかのように、顔の中央部に佇んでいる。目と唇の存在感が強いだけに、そんな鼻は、見る者をほっとさせる。
顎は鋭く尖り、耳は縦に大きい。肌にはつやがあり、笑うと頬にえくぼができる。
総合すると、柏木晴香は、腰が抜けるほど美しい女である。
思想や信条や国境を越えて、多くの人がそれに賛同してくれるに違いない。
性格もひたすらに明るく前向きで、誰とも気兼ねなく笑顔で会話できる才を柏木は持つ。それで健全な年頃の青少年たちに人気が出ないわけがなく、もうすでに9人ほど彼女に告白し、フラれているらしい。
そんなゴシップにはさらさら興味のない俺の耳にもこうして情報が入ってくるほど、彼女の動向というのは常にクラスの話題の中心になってしまうのだ。
噂ではなんでも彼女には心に決めた男がいるらしく、だからこそ誰とも交際しないんだとか。
柏木は髪型をいじくり回すのが趣味のようで、地毛だという明るい栗色の髪に毎日必ず何かしらの工夫を施して登校していた。
つまりそれは毎日髪型が違うというわけで、後ろの席の住人としては風景がコロコロ変わるため落ち着かないといったらこの上ないのだが、男子生徒たちにはこれが好評で「毎日違う晴香ちゃんが見られて幸せ」なんて声を聞いたりする。
ちなみに俺は個人的には、ポニーテールが一番似合うと思う。どうでもいいが。
そしてそんな柏木は高瀬と仲良くしているわけで、このタッグの存在感といったら、これはもう、獅子と虎が組んだかのようなすさまじいものなのだ。
それにしても法律違反並みの艶めかしいボディラインだな、なんて思って柏木の背中をぼんやり見ていると、そのくびれの持ち主がまた突然振り返ってきた。
「そうだ、悠介! 英語の課題、やってきた? いや、やってきてるはず!」
「……はいはい」
柏木晴香の後ろの席に一ヶ月も座っていれば、彼女が何を求めているかだいたいわかるようになる。
俺は机から英語のノートを取り出して、青白くなっている柏木に手渡した。
「三限までに写しきれよ」
「サンキュ! さっすが悠介! 愛してるっ!」
嬉しそうに言って、投げキッスをする柏木。その姿はなかなか板に付いている。
「いいな、おまえは。なんの悩みもなさそうで」
脳天気な彼女を見ていると、ついそんな小言だって言いたくなる。夜に居酒屋のバイトがある俺にとっては、時間の余裕などそれほどない中、こなしている課題なのだ。
「なによ、それ。なんかアタシ馬鹿にされてる? むかつくんですけど」
「むかつく? ふーん。じゃ、返せよ、ノート」
「えっ……いや、すいませんっした」
柏木は苦笑いしてノートを大事そうに胸に抱え、何事も無かったように前へ向き直った。
前の席の天真爛漫な女子生徒――柏木晴香。
もちろん彼女も俺がもうすでに「出会っている」異性であるし、「“未来の君”の心当たり」と老占い師に聞いて、この一ヶ月の間、全く顔が思い浮かばなかったわけではない。
しかしエネルギッシュに毎日を過ごす柏木晴香の未来にも、高瀬同様やはり困難と呼ぶべき重荷はのしかかっていないように思えた。
彼女は誰もが羨む美貌を武器にこのまま十代後半を駆け抜けると、いつかは誰もが羨む結婚をし、誰もが羨む家庭を築き、誰もが羨む人生を送るのだろう。
そんな競技開始から着地まで十点満点のすばらしき人生に、俺などが関わってはいけない。彼女は普通に生きていれば、きっと幸せを手にすることが可能なのだ。俺と柏木では、用意されている道が違う。
目の前の背中に冷めた笑みを投げると、担任がようやくやってきた。
俺は朝から女の子のことばかりを考えて緩みきっている頭を振って、気持ちを切り替えた。
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