第一学年・冬〈試練〉と〈スーパーマーケット〉の物語

第28話 最高のメリークリスマスを君に(前)


 その日、高瀬優里たかせゆうりの表情からはいっさいの光が消えていた。


 だからそんな彼女に「話がある」と呼び出された時はそれなりの覚悟をしていたのだが、「高校を辞めなきゃいけなくなる」と聞けば俺の目の前も真っ黒になった。


 街では呑気なクリスマス・ミュージックが流れ始めた12月の初日のことである。


「どういうことだよ高瀬。高校を辞めなきゃいけないなんて」


「タカセヤとトカイの合併が前倒しになるみたいで。本当は前も話したようにタカセヤ社長の娘の私とトカイ次期社長が結婚することが合併の条件だったんだけど、私はまだ年齢的に結婚できないから、その代わり高校を辞めて鳥海家に入って花嫁修業をするようにって。でもこれ、実質的には結婚だよね」


「なんで両社の合併が前倒しになるんだ? 高瀬が高校を卒業するタイミングじゃなかったのか?」


「うちの業績の落ち込みがこのところ顕著でね。トカイさん側からすれば、取り返しのつかないことになる前に合併しちゃいたいんだろうね」


「なんとかならないのか……」


「今はトカイさんの方が業績が上だから、どうしても『トカイがタカセヤを救ってあげる』っていう感じになっちゃうの。だから向こうの発言力が強くて。トカイさんが白と言えば白だし、黒と言えば黒なの」


「トカイが合併を前倒しにすると言えば、タカセヤは従うしかない」


 高瀬は小さくうなずいた。

「このまま行くと今月いっぱいで私の高校生活は終わりで、早ければ来月にも鳥海家に入って、両社が合併っていう流れになるみたい」


 俺たちのいるいつもの秘密基地には重い沈黙が漂った。

 

 壁に備え付けられている棚に目をやれば、おのずとこれまでの冒険の記憶がよみがえってくる。

 

 今でも光を放ち続ける奇跡のヒカリゴケ。

 夏フェスの記念トロフィー。

 太陽と月がデザインされたペンダント。

 

 まだまだ多くの“冒険の証”が部屋を彩ると思っていた俺の見通しは、甘かったということだろうか。

 

 胸に溜まった息を吐き出し、俺は窓の外に視線を転じた。そこには冬の白さを帯びはじめた街の光景が広がっている。

 

 高瀬が愛するこの街のための結婚。

 彼女の未来を閉ざす結婚。

 俺の想いを打ち砕く結婚。

 

 表現はどうあれ、高瀬といくつかの季節を共に過ごすうちに、結婚のその二文字はどこかリアリティを欠いて俺の中に存在するようになっていた。まだまだ時間に余裕はあると、油断していた部分も否めない。


 そして今、そんな俺の怠慢たいまんを衝くかのように、厳しい現実が濁った雲となってこの体を取り囲んでいる。えらく息苦しいのは、きっとそのせいだ。


「神沢君」と高瀬はテーブル越しに言った。「私の話を聞いてくれる?」

「もちろん」

 

「私ね、最近になって、ようやく自分のことがわかってきたような気がするんだ」

 

 本当の自分がわからない――それが高瀬の抱える苦悩の一つだった。


 小さい頃から周囲が作り上げた“高瀬優里像”を壊さぬよう立ち振る舞うあまり、彼女は本来の自分を見失ってしまったのだ。


「なんとなく、だけどね」と高瀬は言う。「自分の良いところ、悪いところ、がんばれば直せそうなところ、どうしても直せそうにないところ。そういうのがわかりはじめてるんだ。もちろん神沢君たちと出会ったのが大きいんだよ。春からいろんな経験をさせてもらって、その中で成長できた気がする」


「はじめは非の打ち所のない、完璧な人だと思ってた」


「私も思ってた」と言って高瀬は苦笑した。「でもね、そんなことないんだよ。頑固で気難しくて、思いのほか感情的になりやすいところがある。晴香ほど前向きで明るくはないし、月島さんほど冷静に物事を考えられない。そして一人では何もできない。それが、私」

 

 不完全さを知れば知るほど、君に惹かれていく俺がいるんだと心で告白していた。料理が下手だという重要事項が抜けていたが、今は不問にしておこう。


「私はね、これでいいと思ってるんだよ。自分の欠点がわかるっていうのは、大切なことだよ。この一年でやっと同じ歳の人たちに追いつけたような気がする。楽しいことばかりじゃないけど、それでも、こんなに充実した毎日を過ごせているのは、はじめてのことだ」

 

 そこでまた、静寂が俺たちを包んだ。しばらくそのまま夕凪ゆうなぎのような時間が流れた後で、高瀬は言った。


「私、高校を辞めたくない。既定通り高校卒業後の結婚ならば、それを一度は受け入れた手前、まだ踏ん切りがつくよ? でもね、今は毎日新しい発見があって、次の朝が来るのが楽しみで仕方ないんだ。やり残していることだってまだまだたくさんある。こんな状況で高校を辞めるなんて、とてもじゃないけど考えられない」

 

 彼女は俺の目をじっと覗き込んだ。俺も彼女の目を覗き込んだ。

 

 熱いものが腹の奥底からせり上がってきた。俺は言う。

「高校を辞めたくないんだな? それが、高瀬の正直な心の声なんだな?」

 

 彼女はしっかり首を縦に振った。


「それが聞けたなら充分だ」と俺は言った。「辞めさせるかよ。花嫁修業なんかさせてたまるか。約束通り、高瀬は俺と一緒に大学へ行くんだから」

 

「でもね、神沢君。どうしたらいいんだろう。私が高校を辞めないで済む、良い手立てはなにかあるのかな?」

 

 以前であれば途方にくれるしかなかった状況だが、幸運にも今は違う。俺の頭には、とある人物の顔がくっきりと思い浮かんでいた。

 

 まずは、に会ってじっくり話をするところからはじまる。すべてはそれからだ。

 

 俺はシャレにならないほど強烈な面映おもはゆさを感じながら、高瀬にこう告げた。

「今日の放課後、高瀬には、俺の恋人になってもらうから」


 ♯ ♯ ♯


「神沢君が私のお父さんと知り合いだったなんて」

 高瀬はコンパクトな手鏡を見ながら、くしで髪を整えている。

 

 町外れへと向かうバスの車内は空いていた。すべての授業を終えた俺たちは、二人がけの座席で隣り合って座っている。


 俺は財布から一枚の名刺を取り出した。そこから今にも「おい悠介!」と威圧的な声が聞こえてきそうだった。


「社長殿に直談判だ」俺たちは今から、株式会社タカセヤの本社に乗り込むのだ。「高瀬の親父さんなら、何か名案を思いつくかもしれない」


「でも、お父さん、本当にそんなこと言ったの? 『娘が惚れている男を連れてきたら、結婚を押し通す自信がない』みたいなこと」


「酒がかなり入っていたという点をどう取るか。それがやや問題ではあるけれど、確かに言ったよ。俺の聞き間違いとかじゃない」俺は秋の終わりの夜を思い出していた。「『社長失格だよ』と言って、笑ってもいた」

 

 信じられない、という風に高瀬は数度瞬きをしてから、手鏡と櫛を制服の内ポケットにしまった。

「それで私たちは、お父さんの――社長の前で恋人同士のフリをするんだね?」


 俺はうなずいた。赤面しているだろうけど、それが最善策なのだから仕方ない。


「恋人、か」高瀬はせっかく整えたばかりの前髪をかき上げる。「効果を考えれば、ものすごくラブラブの方が、いいのかな?」

 

 ラブラブという軽薄な言葉に、非高瀬的な何かを感じずにはいられない。彼女も平常心ではないらしい。


「どうだろう。厳しそうなお父さんではあるからな」


「腕とか、組んじゃう?」

「えっ!?」


「神沢君。恥ずかしがってる場合じゃないでしょ。どうすればお父さんをこっちに引き込めるか、私なりに真剣に考えて言ってるのに」

「ご、ごめん。そうだよな。これは遊びじゃないんだから」


「それこそ『結婚を前提にお付き合いしています』ってことにする?」

「なんかそれ、ちょっと古くない?」


「考えの古い人に私たちは今から会うんだよ。もしその台詞を言うなら、神沢君だからね」

「まさかさ、殴られたりしないよな?」


「さぁどうだろう。わからないな。なにしろ古い人だから」

 

 俺の顔がいろんな形に歪むのをひとしきり楽しんでから、彼女はおほんと声の調子を整えた。そして言った。

「とにかく私は、神沢君のことが好きで好きでどうしようもない女の子なんだよね」


「はい」と俺は平静を装って答えた。「そういうことにしてください。俺も高瀬に心から惚れている男になりますから」

 

「神沢君は演技できる?」

 

 なんて意地の悪い質問をするんだろう、と俺は思った。

 

 もちろんこれは口にはしないが、ひとつ言えることは、彼女の父親の前で俺は演技をするつもりなんか少しもないということだ。なぜなら本当に心から惚れているんだから。

 

 黙ったままも気まずいので、とりあえず「未来のために」とだけ答えておく。


 ♯ ♯ ♯


 本社、というからにはそれなりに権威的な高さを持つビルを想像していたけれど、バスを降りた俺たちが実際に目にしたのは、二階建ての横に幅の広い凡庸な建物だった。


「ほら、うちはスーパーマーケットだから」とご令嬢は解説した。「高いところから見下ろされると、あまり良い気分はしないでしょ。この業種にとって何より大切なのは、市民目線ってこと」

 

 これには素直に、なるほど、と感心していた。商売を行うためには、細かいところまで気を配る必要があるらしい。


 エントランスの自動ドアを抜け、一直線に受付へと向かう。ロビーは活気に満ちていて、ここ最近業績がかんばしくない会社とは思えなかった。


 受付の背後には、高瀬が提案したという鮮やかな赤を使ったタカセヤのロゴが掲げられている。


「こんにちは」と俺は受付のお姉さんに挨拶をした。


「いらっしゃいませ」と彼女はそれに笑顔で応じる。美しい。夕方のニュースで天気予報を担当していそうな、知的な魅力に溢れるお姉さんだ。意図せず胸が高鳴ってしまう。


鳴桜めいおう高校の神沢悠介と申します。本日16時、高瀬社長にお約束を頂いております」


「神沢様ですね。伺っております。高瀬は二階の社長室におりますので、ご足労願えますか?」

 

 流暢な言葉遣いに俺がうっとりしていると、彼女は怪訝そうな顔つきになって言った。

「あの、失礼ですが、そちらの女子学生の方はどちら様でしょうか?」

 

 俺が説明しようとした矢先、「社長の娘です」と本人が即座に答えた。心なしか高瀬は、少し苛立っているようにも見える。


「あっ、これは、失礼しました!」

 お姉さんはたじろぐ。どうやら受付史上最大の珍客だったようだ。

 

 二階へと向かう階段を登る最中、「神沢君」と高瀬がいやにゆっくり声を掛けてきた。「受付のお姉さん、好きなタイプだったでしょ?」


「え? いや、そんなことは」ある、のだが、否定する。「ないよ」

「嘘つかなくていいのに。目元、緩みっぱなしだった」

 

 そこを衝かれると、もはや反論の余地はない。隠せていなかったらしい。


「今はまだいいけどね」と高瀬は言う。「お父さんと会うまでには、神沢君の心の中を私でいっぱいにしておいてね」

 

「すみませんでした」俺は頭を垂れるしかない。


 ♯ ♯ ♯


 結局俺たちは、腕を組むことはしなかった。


 高瀬父の人物像を改めて考えると、そういったつつしみを欠いたような振る舞いは嫌悪されそうだという結論に達したからだ。


 想いの強さは、正々堂々と言葉で訴えれば良い。今から会うのは、決して聞く耳持たずの人ではないはずだから。


「準備はいいか?」

 社長室の扉の前で、俺は呼吸を整えつつ言った。もちろん高瀬の厳命にしたがい、心の中から彼女以外の女は追い出している。ここで眼鏡の似合う美人秘書でも登場したらいくぶん面倒なことになったが、さいわいそうはならなかった。

 

 高瀬はしっかりうなずいた。それを受けて俺は木製の扉をノックした。


「どうぞ」

 社長は愛娘がここに来ていることを知らない。だから俺の隣にその姿を確認すれば、頭を抱えてしまうのは当然だった。


「悠介」イントネーションが乱れに乱れる。「お前という男は……」


「この間はお世話になりました。なにかあったら連絡を寄越せと言っていただいたので、さっそくお言葉に甘えました」


「優里」

 父は娘を見つめる。彼は椅子に腰掛け、机に両肘を突いていた。

「これはいったい、どういうことだ」


「お父さん。驚かせてごめんなさい」

 そこで高瀬は、俺の手を握った。思わず歯を食いしばるような、ものすごい力だ。腕を組むのはアウトでも、これは有効だと彼女は咄嗟に判断したらしい。父親の反応が予想以上に悪かったせいもあるかもしれない。

「私たち、付き合ってるの。私は神沢悠介君のことが、好きなの!」

 

 夢見心地に浸っている場合じゃなかった。俺も続く。


「僕も優里さんのことが好きです。大好きです! 彼女から聞きました。トカイとの合併が前倒しになるのだと。このままでは優里さんは高校を辞めなければいけないのだと。それは彼女の恋人として、絶対に認められません!」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」と高瀬父は言った。そして首をゆっくり回し一度深呼吸した。「ようやく状況が把握できてきた。40近いせいか、最近は理解が遅くていかん。立ち話もなんだ。とりあえず二人ともそこに座れ。そして、手を離しなさい」

 

 部屋の中央には応接用の長ソファが置かれていた。言われた通りにそこへ向かいはするが、高瀬は俺の手を強く握りしめたまま離しはしなかった。


 社長も俺たちの正面へと移動し、一人がけ用の椅子に腰掛けた。そして顔をしかめた。当然だ。依然手がつながれたままなのだから。


「私が納得いくまで、この手は離さない」

 高瀬は腰を下ろしてそう言い切った。


「強情な娘だ」父のひたいには諦めが浮かぶ。「もう好きにしろ」

「好きにします」と答えて高瀬はいっそう力強く俺の手を握った。


「おい、悠介」と彼女の父は言った。「お前は優里のどこに惚れたというのだ。答えろ」


「すべてです」と俺は答えた。「僕は優里さんのすべてを愛しています! 笑われたってかまいません。でも本当なんです。顔も、声も、頭の良さも、プライドの高さも、名前の通り古里のこの街を優しく思うところも、少し気難しいところでさえ、全部愛しています。こんなに素敵な女の子に巡り会えたのは、僕の人生における奇跡です!」

 

 隣はもちろん、正面を見ることもできない。仕方なく社長室全体をぼんやり眺める。

 

 部屋の主の性格を体現するような、無駄のない、きわめて実務的な空間だ。


 パター練習用の芝も鎧兜よろいかぶと一式もこの部屋には存在しない。額縁に入れられた大量の賞状や感謝状がやや目障りに感じてしまうのは、ご愛敬か。


「優里はどうだ。悠介のどこに惚れた?」

 

「最初は何も思わなかった」と高瀬は語り始めた。「でも、どんな苦境にもめげない彼を見ているうちにどんどん惹かれていって、気が付けば私も、彼のすべてが好きになっていた。私はこの人と出会って、初めて自分のことを知ることができたの。お父さんもわかると思うけど、高校に入ってから私は、とても明るくなったでしょ? それもこれも全部、彼のおかげなんだよ。私にとって彼は、世界一大切な人なんだよ」

 

 これは、演技なんだ――。そう、自分に言い聞かせる。


 中学時代にジャンヌ・ダルク役で話題をかっさらった名女優の渾身こんしんの演技なのだ、と。高瀬に握られている手が濡れていた。どちらの手汗かまでは、わからない。


「おまえたち、私の前でよく恥ずかしくないな。愛だの奇跡だの世界一だの。ひとまずその勇気だけは褒めてやろう。たいしたものだ」


「恥ずかしくなんかないよ、こっちはそれだけ本気なんだから」

「本気、か」


「私たちはね、高校でもけっこう有名な二人なんだよ。いつだって仲良しで、邪魔者が入る余地のない完璧なカップル。ね、悠介?」

 

 高瀬に下の名で呼ばれた。うれしい。。うれしい。

 

 俺は胸の高鳴りを抑え「そうです」と続いた。「僕らは互いの足りない部分をおぎない合える、最高のパートナーなんです。僕には優里さんが必要なんです!」


 そこで高瀬父は突然はっとした。そして言った。

「待てよ。あまり考えたくはないが、夏以降、やけに優里は夜遊びや外泊をしていたよな。それはまさか……」


「そうだよ」と父の望みを断ち切るように娘はきっぱり言った。「彼とふたりきりで一緒に過ごしていた。悪い?」

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