第27話 野良犬には野良犬の矜持がある(後)


「どこまで知っている?」と尋ねられたので、俺は頭を整理して、母が高校時代に柏木恭一かしわぎきょういちという男と恋仲にあったこと、卒業と同時に二人は別れたことを順に挙げた。

 

 とりあえず高瀬の実の父が俺の母にだったという事実を耳にして、俺は、運命という言葉を改めて強く認識している。


「決して叶わぬ片想いだったけどな」と彼は照れて言った。「知っての通り、有希子は恭一にべた惚れだった。落ちこぼれの恭一あいつとは違い、私は常に成績上位で、そのうえ野球部のエースピッチャーだったが、そういったことは彼女にとって男を審査する上では取るに足らない要素だったらしい。耳垢みみあかはドライかウェットか、みたいなもんじゃないか」

 

 そうは言っても、この人だって若い時は相当女の子に人気があったんだろうな、と野心的な顔つきを見て推し量った。


「私も血気盛んな頃でね。何度も有希子に『恭一と別れろ』と迫っては、素っ気なく跳ね返されたものさ。そのたび、あのげんこつ頭と高校近くのカレー屋で反省会だ。今思えば、配球を組み立てるよりも、有希子を口説き落とす文句を考える方に情熱を注いでいたな」

 

 ふと、彼は柏木恭一とはどういう仲だったのか疑問に思い、それを口にしてみた。


「腐れ縁だ」と彼は答えた。「でかい図体して、おまけに性格も粗野なくせに、心臓が弱かったんだあいつは。登下校するためには必ず誰かの付き添いを必要としていて、中学時代は私がその役割を担っていたんだよ」


「それが高校に入って、僕の母の役割になったんですね?」


「面白くないがな、そういうことだ」彼は顔をしかめて、酒を口に運ぶ。「結局私は、高校三年間を通して、有希子にとって『友達』以上の男になることはできなかった。恭一の存在はあまりにも大きかったのだ。彼女を巡る私と恭一の争いに関しては、いかにも小便臭い馬鹿げたエピソードも数え切れないほどあるが、その全てを話していたらきりがない。省かせてもらう」

 

 もちろん興味はそそられたが、やむなくうなずいた。それを聞くのが目的ではない。


「君、名前は?」と尋ねられたので、俺は自己紹介した。


「そうか、悠介か」彼は一旦大きく息を吐き出すと、さっそく俺の名を呼んだ。「悠介。ここから先の話は、いささか不快な思いをすることになるかもしれない。それでもかまわないか?」


「かまいません」と俺は答えた。「親のことで不快な思いをするのは慣れています」


 同情するように眉をへの字に曲げてから、彼は語り始めた。

「悠介。君の母さんは、本当に素敵な人だった。『絶世の美女』と言うと、これはさすがに誇張になるかもしれないが、それでも、この街では三本の指に入るほどの別嬪べっぴんではあった。本当だぞ。いい女に目が無かった私が言うんだ。間違いない」

 

 もちろん悪い気はしないけど、脇の下に汗が滲み出るのは感じる。


「有希子の神秘的で浮き世離れした美しさは、男の理性に狂いを生じさせるような性質のものだった。言葉はやや乱暴だが、『何が何でもモノにしたい』と思わせる魔力が彼女には備わっていた。かくいう私もそのとりこになって青春時代を棒に振った一人であるわけだが、今はそれはいい。話を戻せば、その魔力こそが、有希子が恭一でもましてや私でもなく、神沢亨と――つまりは悠介の父親と――結婚することになった元凶というわけだ」


「何があったんですか?」

 数ある言葉の中から“元凶”という表現を選択するくらいだ。祝福と喝采かっさいの中の結婚、というわけではあるまい。


「高校三年に上がった春、有希子は市内の本屋でアルバイトを始めたんだ。そんな彼女に一目惚れをした客がいた。私たちより二歳年上で、働きもせず学校にも行かず、ふらふらしている若者だった。彼はかなりしつこく有希子に交際を迫った。私と同じようにきっと魔力に取り憑かれたんだろう。もちろん彼女は、そういったやからの扱いには慣れていた。男の自尊心を傷つけることだけはないよう細心の注意を払って、彼からのアプローチを断り続けた」

 

「その男こそが、僕の父親というわけですね?」


「そうだ。一度だけ君の父は有希子を求めて、鳴桜高校の校門にまで押し掛けてきたことがあった。その時たまたま私と恭一は彼の顔を見たのだが、軟弱な印象が強くてな。こう言っては息子の悠介には悪いが、『これは大したタマじゃないな』と二人とも高をくくっていたんだ。しかしそうは簡単にいかなかった。彼にはある秘策があったんだよ」

 

 俺は父親の顔を思い出した。実直さや男らしさとは対極に位置する浮薄な笑顔が、印象にはある。その秘策というのだって、正々堂々とはまるで言い難い一手なのだろうな、と簡単に想像がついた。


「有希子の家はこの街で小さな葬儀屋を営んでいた。小規模の家族葬を請け負う、社員数名の零細企業だ。一方君の父親は――こればかりは奇妙な縁としか言いようがないが――札幌に本社を構える、大きな斎場をいくつも抱えた葬儀屋の三男坊だった」


「まさか」ある可能性が頭に浮かび、二の句が継げない。


「そのまさかだ」と高瀬父は言った。「どんな脅し文句を実際に投げ掛けたかは、私のあずかり知るところではない。しかし君の父親は、有希子の家の家業を潰す可能性をちらつかせることで、彼女を恭一から横取りしようと考えたのだ」


「魔力、ですか」

「魔力だ」と彼は徳利を手に取りつぶやいた。「そこまでしても彼は有希子を手に入れたかったのだ。一方、有希子は大いに揺れた。彼女は冷淡な性格ではあるが、決してひとでなしではない。家族思いの優しい心を持っていた。次第に恭一とも明確に距離を取るようになっていった」

 

 俺は耳を塞ぎたい気持ちをこらえて話を聞き続けた。


「結局有希子は恭一と別れ、君の父親と一緒になる道を選んだ。家族と、少ないとはいえ社員を守るために。高校卒業を前にした冬、彼女のお母様――つまり、悠介の祖母にあたる方だな――が手術を要する難病に倒れたのが、決め手となった。『手術費用は任せておけ』というようなことを君の父は言ったようだ」


 俺は目の前が真っ白になりそうだった。

 

 母は、いや、、大切な何かを守るため自分を犠牲にする結婚を求められていたのだ。本当に望む未来と、そうではない未来の狭間で苦悩する日々を過ごしていたのだ。


 これではまるで高瀬と同じじゃないか。


「結果から先に言えば、有希子のお母様は助からなかった」と高瀬父は言った。「手術が失敗したのではない。そもそも費用が調達できなかったのだ」

「約束と違うじゃないですか」常套句じょうとうくしか思い浮かばない。


「そうだ。手術の段取りをつける前に、君の父は神沢家から追放されてしまったのだよ。どうやら彼は、会社の金を私的に使い込んでいたようで、それが社長でもある父親の逆鱗に触れたらしい」

「どうしようもない……」


「ただ、それをきっかけにして君の父が心を入れ替えたのも、また事実だ」

「そう、なんですか」


「ああ。彼は有希子をやしなうため、小さな不動産会社に勤め始めた。立場は決して安泰ではなかったはずだが、それでも身を粉にして働き、生活自体はなんとかしていけるようになった」

 

 実際父は、放火の罪で逮捕されるまで、その不動産会社に勤務し続けていた。

 

 俺はふと疑問に思ったことがあり、脇道に逸れますがと前置きした上で、それを口にした。

「あの、母が高校を卒業した後の事情を、どうしてこんなに詳しくご存じなんですか?」


「ああ、その説明がまだだったか。高校を出て4年ほど経ったある日、私は街でばったり有希子と再会し、近くにあった喫茶店で話を聞いたのだよ。思えば、その日に会ったのが最後だったな。あの時の彼女はえらくしおれていた」


「母は別れようとは考えなかったんでしょうか?」と俺は言った。「僕の父が家を追い出されたならば、それと同時に母が感じたような脅威も消えたはずなのでは?」


「違いない」高瀬父はうなずいた。「『あの頃に帰りたい』。そう、有希子は痛々しく笑いながら言っていた。もちろん頭には、高校時代の日々があったのだろう。君の父と別れ、新たな人生を歩む考えは、常にあったはずだ。しかしそうこうしているうちに――」

 

 彼はそこで言葉を切って、酒を一口飲み、こめかみを掻き、それからまた酒に口をつけた。


「ここからは私の憶測になるが、有希子は、別れようにも別れられなくなったのだ。そして考えられる理由は、あらゆる事情を勘案かんあんすれば、ひとつしかない」


「その理由とはなんでしょう?」

 口にした後で答えがわかって、俺は自分を殴りたくなった。ある意味俺自身がその答えだった。すぐに取り繕いたかったが、先に高瀬父に言葉を継がせてしまった。


「悠介。……それを、私に言わせるか」

「すみません。たしかに、ひとつしかないですね」


「君ももう、誰かを愛せる歳だろうに」

「はい」

 

 神沢有希子は、子を身籠もったのだ。


 ♯ ♯ ♯


「それにしても有希子は家を出て、いったいどこに行ったんだろうな?」

 長い沈黙の後で高瀬父はそう言った。


「どこに行ったかは、わかりませんが、誰と行ったかは、判明しています」隠すこともないので、俺はその名を口にする。「柏木恭一さんです。二人は4年前に再会し、すべてを捨ててどこかへ旅立ったんです」


「そうだったのか。高校を卒業してからは仕事が忙しく、恭一とも会えなかったからな。結婚し、娘が生まれたことまでは風の便りで耳にしていたが、あいつもあいつで家族を捨てたのか。そうか、結局、そうなったか」

 

 俺はしばし間を置いてから、口を開いた。

「あの、ひとつうかがってもよろしいでしょうか?」


「なんだ、妙にあらたまって」

「僕のことが、憎かったり、うとましかったりしないんですか?」

 

 高瀬父の言動を振り返れば、俺に対して彼が肯定的な感情を抱いているように感じられたのだ。それは、俺と彼の関係性を考えると、やや不自然なことのように思えた。


「それがな、そんなに胸はざわめかないのだよ。もちろん、私にとって神沢亨は憎い男だ。なにしろ私が心底惚れた女の人生を、身勝手な想いをぶつけて滅茶苦茶にしたわけだからな。もし私と同じ立場に置かれたとしたら、そんな男の実子である君を嫌悪する人間も少なくはないだろう。しかし私の中に、君への憎しみや怒りといった負の感情は湧いてこないんだよ。むしろ私は、君に自分の姿を重ねているのかもしれない」


「僕に?」

「ああ。悠介は、言うなれば“野良犬”だろう?」


 心づかいのない言いっぷりが、かえって心づかいのように思えた。

「血統証付きの野良犬ですよ」と俺は苦笑混じりに言った。


「私もそうなんだよ」と言って彼も小さく笑った。「今でこそ社長という地位にいるが、出自は決して人に誇れるものではなくてね。表現は古いが、私はめかけの子で、若い頃はそのせいでずいぶん冷や飯を食わされたものだ。今の家に婿養子として入り、なにくそ、と自分を奮い立たせながら、なんとかここまでのし上がってきた。しかし元を辿れば、ゴミ捨て場で残飯を漁り、雨風をしのぐ屋根にも恵まれない、憐れな野良犬なのだよ」

 

 この人からどことなく土の匂いが漂っていたその理由が、わかった気がした。


「母親に捨てられ、父親にとがを負わされ、非行に走ってもおかしくないところをそうせずにこうして夜遅くまで働く君の中に、私は若い頃の自分を見ているのだろうな……」


 憎めるわけがない、と彼は視線を落として小さくつぶやき、酒をあおった。


「ただな、悠介。野良犬だからといって、臆することはまったくないぞ。誰の目を気にすることなく、堂々と道を歩けばいい。そして電信柱に満足いくまで小便を引っかけてやればいい。野良犬には野良犬の矜持きょうじがある。君はとてもいい目をしている。野良犬は、決して負け犬ではない。何があってもくじけるんじゃないぞ」


 俺が深くうなずいて礼を述べると、彼は上着の内ポケットへ手を伸ばした。そして名刺をこちらに差し出した。


「私は初恋のひとが望まぬ婚姻で苦労したというのに、今また自分の娘にも同じ道を敷いてしまったどうしようもない男だが、何かあったら、連絡を寄越してこい。遠慮は要らん。ここでこうして有希子の息子と会ったのは、何かの縁を感じる」

 

 その名刺には、土の匂いとは遠く掛け離れた、おごそかな字がつづられていた。


『株式会社タカセヤ 代表取締役社長 高瀬直行たかせなおゆき


 ♯ ♯ ♯


 吐く息の白さに冬の急接近を感じつつ、俺は夜の街をひとり歩いていた。

 

 考えるべきことはたくさんあった。ありすぎて頭は今にもはち切れそうだった。まさか柏木の父親のみならず、高瀬の父親まで俺の母とつながりがあったとは。いやいや、と俺はすぐにかぶりを振った。つながり、なんてものじゃ済まない。


 彼らの関係性にはそれぞれの強い想いが介在していて、それによって、喜び、悲しみ、苦しんできたのだ。そしてそれは彼らの子たちにもそっくりそのままあてはまってしまうのだから、これは、運命という言葉をもって語っても決して大袈裟ではないだろう。

 

 おりしも、春に老占い師と出会った商店街にさしかかった。


 俺に“運命”という言葉を意識させるきっかけを与えたのは、他でもなくあの占い師だ。

 

 彼はあの時点でこうなることまで予見していたのだろうか? 


 “未来の君”なる存在が迷える若者を明るい未来へと導くイメージに留まらず、その若者が激しい渦の中に呑み込まれていく姿までも、浮かんでいたというのか?

 

 相づちを打ってくれる人などいないので、「そういうことなんだろうな」と独り言を言ってうなずいた。


 数多くの運命めいた出来事が待っていることでございましょう――。


 そう老占い師は俺に告げた。その台詞が今夜ばかりは強い実感を伴って胸に反響した。

 

 どうやらこの人生に不可思議や物語性と距離を置いた安穏とした日々は、まだまだ訪れてはくれないらしい。誰よりもそんな毎日を願ってやまないのが、俺という人間なのだが。


 今夜は家に帰ったら、熱めの風呂にじっくり浸かって一旦頭の中を整理整頓しよう。そんな風に考えながら足早に商店街を抜けたその時、後方から聞き慣れた声がした。

「悠介っ!」

 

 俺は立ち止まり、背後を振り返る。後ろで一つに束ねた髪を左右に大きく揺らし、一直線に駆けてくるその人物は、柏木だ。


「どうしたんだ! こんな時間に、こんな場所まで!」

「どうしても悠介に、直接会って伝えたいことがあって!」


 彼女は肩で息をしていたが、すぐに呼吸を整えた。

「よかった、ちょうど仕事帰りで。行き違いになったら泣けるから」


「電話じゃだめだったのか? それに明日になれば、どうせ学校で――」

「だめなの」彼女は俺の言葉をさえぎった。そして真面目な顔で言った。「悠介、見つかった」


「え?」

「見つかったんだよ。あたしの父親と有希子さん」

 

 俺は目を何度もしばたたいた。「どこにいる!?」

「トヤマ」


「トヤマ? 北陸の富山か?」

「うん。あの二人、富山県の山奥で一緒に暮らしてる」

 

 俺たちの周囲だけ、時間の流れが止まったようだった。


 彼女は言った。「前に電話で、ゲームみたいなことやったでしょ。ほら、悠介が出す二択にあたしが勘で答えていくやつ。あの二人が向かったのは、この街より北か南か? とか、都会か地方か? とか」


「ああ」その結果、東北の日本海側から北陸地方にかけてのエリアが候補地として浮かび上がったのだった。


「地図にしるしをつけた地域のことを順番に調べていたら、本当に見つかったんだよ。間違いない。あの二人は富山にいる。今夜はどうしてもこのことを悠介にも直接伝えたくて」

 

 何かが大きく動き出している、と俺は思った。

 

 俺はあとどれだけの真実と向き合わなければならないのだろう? そしてそこから何を獲得し、何を喪失するだろう? 得たものの重みで、失うことの哀しみで、俺の心は壊れてしまうかもしれない。


「恐れないことです。逃げないことです」と占い師は春に言った。


「わかっている」俺は心で答える。この旅が何かに導かれていようとも、そうでなくても、目の前の道を進んでいくしかない。それが俺の運命だ。


 ふいに鼻先を何かがかすめていった。冷たい、と感じたのはそれからまもなくのことだ。


「あはっ、雪だ」

 柏木が無邪気に笑って俺の鼻を指で拭った。そのあどけない笑顔を見て、俺のささくれだった心は少し軽くなった。


 それから二人は共にゆっくりと空を見上げた。どちらが言い出すでもなく。

 

 寡黙かもくな夜空から、はらりと次々に白雪が舞い降りてくる。きれいだ。毎年見ているはずなのに、今年の雪はどういうわけか、やけに心に染みるものがある。


「今年も冬が来たんだね」

 柏木がコートのポケットに手を入れて言った。


「ああ。長い冬になりそうだ」

 俺が言うと、彼女は静かにうなずいて、肩を少しこちらへ寄せた。

 

 俺も柏木もしばらくそのままで、俺たちの街が白の世界へと変わっていく様子を黙って眺めていた。


 そのようにして、愛と試練の季節は始まった。



                 第一学年・秋〈終〉



 読者の皆様。今回もご覧頂き、ありがとうございました!

 次の季節は物語全体を通しても、超重要な意味合いを持ちます。

 なにしろ悠介の“未来の君”が誰なのか思いがけぬかたちで判明します。


 第一学年・冬の物語、明日からスタートです。どうぞご期待ください!

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