第27話 野良犬には野良犬の矜持がある(前)


 太陽が二度目の失恋をしてからの一ヶ月は、月の満ち欠けを確認する余裕もないくらい慌ただしく過ぎていった。

 

 二学期中間テストで俺より一つ下の順位に甘んじた高瀬が天使の眠りを覚ましそうな麗しい舌打ちをし、クラスの出し物で女装して踊りを披露する屈辱を喫した学園祭では、月島の抱腹絶倒する姿を舞台上から見ることができた。

 

 心の鎖国を解いた太陽が来る者拒まずで次々と女の子と付き合い、そしてすぐに別れるそのていたらくぶりに柏木が「だらしない」と眉をひそめれば、日比野さんはしくしく泣いて俺や高瀬に電話相談してきたりした。

 

 それから、この時期に俺たちの間で最も大きなニュースだったのは、北向海斗が住居侵入罪の現行犯で逮捕されたことだ。


 北向は懲りもせずに用心深い彼氏を持つ女子大生の家に侵入したのだ。

 

 警察も以前から彼をある程度要注意人物としてマークしていたらしく、じっくり腰を据えて厳しく余罪を追及することになるという。

 

 とりあえず狂った男の理不尽な復讐に女性陣が怯える必要がなくなったのは、この上なく喜ばしいことだった。


 16歳という年齢にいまいち実感が伴わず、いまだにその言葉だけがふわふわと頭の上に浮かんでいる印象がある11月末の寒い夜、アルバイト先の居酒屋“握り拳”で俺はと出会った。


 ♯ ♯ ♯


「よう、しばらくぶりじゃねぇか、ぼんくら社長」

 

 雇い主であるマスターが愛想の「あ」の字もない低い声で客を迎えた。古びた重機の稼働音みたいな声だ、と耳にするたび俺は思う。


「誰がぼんくらだ、誰が。相変わらず減らず口だな、お前は」

 

 来店したのは、ポマードで髪を後ろに流したスリムな中年男性だった。一目見て、ナイスミドルという言葉が自然と浮かぶ。


 こんな場末の居酒屋にはそぐわない見るも高級なコートとスーツを着込んでいて、磨き上げられた革靴は、真夏のカブトムシのように光沢を放っている。


 その客とマスターは、旧知の間柄らしい。

 

「いらっしゃいませ」と俺はカウンターの端の席に座ったナイスミドルに声を掛けた。そして丁重に温かいおしぼりを提供した。


「さすがにビールって時期でもないしな」

 少し迷って、「かんを付けてくれ」と彼はうきうきして言った。

 

 あいよ、とマスターが応じ、熱燗あつかんの準備に取り掛かかったのを確認すると、中年紳士は視線を俺に転じた。

「ついに若者の力を借りなきゃ、一人じゃ仕事ができなくなったか?」


「腰をやっちまってなぁ。俺たちもいい歳だろ」

 けけけ、とマスターは黄色い歯を見せ笑う。


「この店の名前は私がつけたんだよ」

 紳士は右手でげんこつを作って俺に示し「ほら、そっくりだ」とマスターの顔を見やって言った。なるほど。ごつごつとした武骨な形相は、本当に瓜二つだった。


「自慢気に言うんじゃねぇや。『握り拳』なんていう、けったいな名前付けやがってからに。このへっぽこ社長が!」

 

 普段からマスターは景気付けで誰にでも「社長」と呼びかけるが、メニュー表ひとつ確認するにも腹心の部下が作成した企画案に目を通すかのように鋭い眼光を向けるところをを見れば、本当にどこかの会社の社長なのだろうと推測すべきだった。

 

 俺は皿を洗いながら、彼の容貌を観察することにする。


 人をあごで使ってきた顔だ、とすぐに予想が立った。しかし不思議なことに、それほど嫌な印象はない。


 王に兵士がひざまずくように、指揮者に奏者が従うように、この人に顎で使われるのはごくごく自然なあり方のように思える。ともすれば心地良さすら感じるかもしれない。

 

 そういう威光を放つことができる人を称し、一般的に何というんだっけ? と頭で辞書を繰った。カ行で見つけた。“カリスマ”だ。


「こいつとは高校時代からの付き合いなんだ」とマスターは俺に言った。「野球部でバッテリーを組んでいたんだよ。この男の制球難せいきゅうなんのせいで、最後の夏は一勝も出来なかったけどな」


「お前のその強面こわもてに似合わない臆病なリードが悪かったんだ」社長はちょっとムキになる。「何度言えばわかる」


 ほら持ってけ、とマスターが言うので、俺は湯気が立つ徳利とっくり猪口ちょこに加え、お通しのきんぴら小鉢を盆に載せ社長の元へ運ぶ。

 

 すると、「ん」とだけ言って、彼は猪口を俺に向けてきた。ちょっと意外だった。


「僕なんかのおしゃくで、いいんですか」

「かまわんよ」

 

 俺はいくぶん緊張して徳利の首を持ち、おしぼりで底を支えながら、猪口に酒を注いだ。小さく礼をしてからカウンターの中に戻ると、社長が俺の顔を凝視していることに気付いた。彼は言う。「若いな」


「はい?」

「相当、若いな」

 

 この空間において俺は、自分探しと彼女探しに忙しいどこにでもいる19歳だ。

「よく子どもっぽく見られますが、一応、大学生です」

 

 社長は舐めるように酒を飲んでから、人差し指をくいっと曲げた。顔をこっちに近づけろ、という仕草だ。もちろん拒めない。


「嘘はいかんぞ」と彼はすごむ。「私の目は誤魔化せんよ。君、高校生だろ」

「えっと、ですね」

 

 俺が当惑していると、社長はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「大丈夫だ。案ずるな。あの岩石面がんせきづらに告げ口などせんよ。何か事情があって、年齢を偽ってまで働いているんだろう?」

 

 俺は小さくうなずいて、彼は深くうなずいた。そして「それでいい」と満足そうに言った。「あいつは昔から洞察力がないんだ。だからバッターの心理を読めずに打たれる。打たれて負ける。ま、なんにせよ、若いうちから働いて世を知るというのは良いことだ」

 

 この人の言動の端々はしばしからは、なぜかしら土の匂いが漂ってくる。


 ♯ ♯ ♯


「私の相談に乗る気はないか」と社長殿が言い出したのは、俺の実際の肩書きがばれてから30分が経った頃だった。彼は脂の乗ったホッケや山菜の天ぷらをさかなにして酒を楽しんでいて、甘美な酔いの海を泳いでいる。


「相談、ですか」俺は利口だった。「僕で良ければ、いいですよ」

 

 どうせ元より拒否権など与えられていないのだから、悩むだけ無駄なのだ。俺のそんな思考回路を整備するのに貢献してきた面々が頭に浮かぶ。四人、いる。最近は高瀬までその一員だから、手に負えない。


「おい、ぽんこつマスター、彼をちょっと借りるぞ」


「あんまりいじめんなよ」と言った後で、マスターは俺にだけ目配せした。「すまんが、相手をしてやってくれ」という伝言付きの眼差しだ。

 

 平日だからだろうか、店内は空いている。社長を含めても客は三人だ。俺が動かなくてもマスターひとりで充分立ち回れる状況ではあった。


「こうしてよその高校生と話せる機会はそうそうないからな」と社長は言った。「実は私にも高校生の子がいるんだよ。女の子だ」


 俺は聞いているしるしにうなずいた。

 

「最近、娘の素行が悪いんだ。以前はそんな子じゃなかったんだが、高校に入ってから変わってな。どこをほっつき歩いてるのか知らんが夜遅くまで帰ってこないし、やけに反抗的だし、服や下着も派手になってきたし。そういう年頃だというのは私もよくわかっているつもりなのだが、気が気じゃないというのが、正直なところで」


「そのくらい許してやれってんだ」と近くまで皿を取りに来たマスターは言った。「娘さん、てめぇの会社のために犠牲になるんだから」


「人聞きの悪い言い方をするな」と言いつつも社長は決まりが悪そうだ。


「あの、犠牲というのは?」俺は聞かずにいられない。


「娘には、高校卒業後に結婚が控えているのだよ。私の会社のために、な」

 

 それを聞いて俺の足元だけ重力がぐっと増した気がした。


 もう一度中年紳士の顔を観察する。どんなに目を凝らしてみても、彼女・・の面影を感じることはできない。しかしこの地方都市に、結婚が定められている高校生の社長令嬢なんか、そう何人もいるわけがない。ましてや夜にあちこち出回る娘なんて。

 

 彼がトップとして君臨する組織の名がわかった気がした。


 まず間違いなく株式会社タカセヤだ。


 すなわち、今俺は、恋する人の父親と相対しているということになる。


「鬼畜だ鬼畜」とマスターは言った。「今日きょうび、戦略結婚なんて時代遅れなんだよ!」

 

「私はこのバイト君と話しているんだ」と社長殿――高瀬父(仮)は言った。「お前はさっさとだし巻き卵を作れ。注文してから何分かかってる!」

 

 ふん、と鼻息を残した旧友が厨房に消えたのを確認すると、彼は手を揉みながら続けた。


「娘の気持ちもわからないではない。せめて高校3年間くらいは羽目を外したいというのは、自然な思いだろう。ただ、何事にも限度というものがある。そろそろお灸を据えなきゃいけないかもしれんな」


「あの、お父さん」しまった! と思ったのは、口にして1秒後だった。

「ん? 今、“お父さん”と言ったか?」


「すみません、つい」俺は咳払いして「大目に見てあげてください」と素早く言葉を継いだ。「今しかできない冒険があるんですよ、きっと」


「冒険、と来たか。小便臭くて、私の嫌いな言葉だ」

 

 あなたの娘さんは大の冒険好きですがね、と内心でつぶやいた。


「君、好きな女はいるのか?」

「はい」と俺は正直に答えた。


「君らくらいの頃は毎日が恋の季節でもあるからな。それで言うと、うちの娘にも、好きな男がいるんだろうか?」

「どうでしょう?」


「いるんだろうな」と彼は言って額に手を当てた。そして酒を飲んだ。「じゃなきゃ、あんなに素行が悪くなるはずがない。まったく、女の子の父親になんぞ、なるものじゃないな」


 俺は徳利から猪口に酒を注いでやった。


「なんだか、相談というよりはただの愚痴になってしまったな」


「かまいませんよ」と俺はやんわり言った。「誰かに相談をした時点で問題の八割は解決している、という人もいますし」


「小生意気な高校生だ」と彼はうれしそうに言った。そしてウドの天ぷらを口に運んだ。「この調子だと、いつかあの子は、『結婚をやめさせてほしい』と言い出すんじゃなかろうか?」


「娘さんにそう言われたなら、結婚を取り消す可能性もあるんですか?」


「親馬鹿かもしれんが」高瀬父(仮)は目を細める。「あれは良く出来た娘なんだ。賢いし、多芸だし、心も優しい。小さい時は、いわゆる“パパっ子”でね。帰宅が遅い私を寝ないで待っては、テストの結果や何かの賞状を誇りに来たものだよ。それがもう、本当にかわいくてなぁ。酒を飲みながら娘の自慢話を聞くのが、日々の仕事に追われる私の唯一の楽しみだった。どんな疲れもストレスも、あの時間があれば吹っ飛んだものだ。そんな愛する娘を、惚れてもいない男の元に差し出すというのは……いくらそれが会社のためとはいえ……」

 

 苦渋の表情で酒を舐める彼を見て、この人も経営責任者である前に一人の子煩悩な父親なんだな、としみじみ感じていた。


 何はともあれ、俺のような身元不明の若者にこうして胸襟きょうきんを開いてくれるのは、ありがたいと思うべきだった。


「自信はないな」と彼は苦笑混じりに言って、鼻の頭を掻いた。「もし娘が本当に惚れている男を連れてきたとして、その男が私も認めざるを得ないほど立派な人間だとして、それでも『今更困るぞ』と言って結婚を押し通す自信が、私にはない。ははっ。社長失格だよ」


「それでいいじゃないですか。事情はいろいろあると思いますが、娘さんは、心から望む未来を手にすべきだと思いますよ」


「今度は未来、か。小便臭くて、やはり私の嫌いな言葉だ」

 

 社名を直接尋ねるのも野暮ったいので、試しに、深い意味はないですが、と前置きしたうえで、「料理が下手な女の子をどう思いますか?」と水を向けると「うちの娘がそれなんだ」と顔をしかめて返ってきたので、目の前の人が高瀬優里の父親だとさすがに断定してよかった。


「あれだけは家内に言って矯正させないと、嫁に出したら、我が家の名折れになってしまう」とこぼし、彼は酒の追加を俺に命じる。


 ♯ ♯ ♯


 高瀬父の視線が鋭さを帯びたのは、「君も付き合いなさい」と猪口ちょこをもう一杯用意され、俺が愛想笑いを浮かべた直後だった。


「君、今の顔――しばらくそうしていろ」


「はい?」指示の意図するところがわからず、きょとんとする。


「こら、動かすな」

「す、すみません」


「もう一度さっきのニヒルな愛想笑いをしろ。もっと目元を緩めて、頬は少しだけ膨らませる!」

 

 わけはわからないが俺は言われた通りにした。「こうですか?」

 

 彼の動きがぴたりと止まった。呼吸することすら忘れているかもしれない。数秒後、呪いが解かれたようにゆっくりと口が動いた。

「君のプライバシーに立ち入った質問をすることを、どうか許して欲しい」

 

「なんでしょう?」


「君の母親の名は、ひょっとすると『ゆきこさん』というのではないか?」

 

 動きが止まったのは、今度は俺の方だった。

 ――なぜ高瀬の父親が、俺の母親の名を知っているのだ?


「はい」と俺は認めた。

「旧姓は戸川とがわじゃないか? 戸川有希子」

 鳥肌が立っていた。「そうです」


「なんてことだ」彼は指先を眉間に押し当て、指と指の間から俺の顔をまじまじと見た。そしてこう言った。「ということはつまり、君のお父さんは、あまり大きな声では言えないが、その……」


「父のことまでご存じなんですか!?」目をみはらずにはいられなかった。


「知っている。神沢亨かんざわとおるだ。罪を犯し、今は塀の中で罰を受けている」

 

 一切の遠慮がないその物言いは、むしろ気が楽だ。


「おい真鍋まなべ!」と彼はマスターの名を大声で呼ぶ。「お前が雇っているこの若者は、有希子の息子だぞ!」


「なんだって!?」

 腹についた脂肪をゆさゆさ揺らしながら、マスターが厨房から駆けつけてきた。

「有希子って、あの戸川さんか!?」


「そうだ。まったく、お前の目は本当に節穴だな。なぜこれまで気付かなかった。よく見ればそっくりじゃないか。目元なんか特に有希子そのものだ」

 

 マスターは、菜箸さいばしを手にしたまま口をあんぐり開けて立ち尽くしている。「そうだったのかい」と言葉を捻り出すのがやっとだ。


「あの、もしかしてお二人は、母の同級生ですか?」

 可能性は、それくらいしか考えられなかった。


 高瀬父はうなずく。

「俺たちは高校三年間、ずっと同じクラスだった」


「こんな風貌でもな、一応鳴桜めいおう高校出身なんだぞ」

 マスターは嬉しそうに笑ったが、すぐに「いっけね」と額を叩き、厨房へ戻っていった。どうやら鍋を火にかけっぱなしだったらしい。


「どうだ、有希子は元気にしているか?」

 高瀬父は、母が家を出たことまでは知らないようだ。


「実は――」俺がそのむねを話すと、彼は「なるほど」と言って眉間を掻いた。

「遊ぶ金が欲しくて働いているわけではないみたいだな」


「あの、今僕は、母についての情報を集めているんです。恥ずかしながら、あの人のことはほとんど何も知らなくて。もしよろしければ、母の昔の話を聞かせていただけませんか?」

 

 高瀬父は、昔の記憶を思い返すように染みが広がる天井を見上げた。

「いいだろう。今夜は、特別な酒になりそうだ」

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