第16話 君の手を引いて、暗い森を抜ける(前)
人の海というのはちょっと大袈裟だけど、少なくとも人の大河と評せるくらいには、地平線のそばまで観客で埋め尽くされていた。それが3500人という数の力だ。数え切れないほど多くの照明がえらく眩しい。
俺はエレキギターとアンプをつなぐ。その手つきのたどたどしさと言ったらない。他のメンバーも、それぞれの持ち場について準備を進める。
前方中央にボーカルの柏木、少し引いた位置の右方に俺、左方にベースの月島、そして最後列に、右からキーボードの高瀬とドラムスの太陽が並ぶ。
柏木の「やっほー」の声でMCが始まる。大勢の聴衆を前にして、臆している様子は見られない。たいしたものだ。その
「どうもー、みなさーん! 未来同盟です!」
静かでまばらな拍手が起きた。最後に登場してきた謎の高校生バンドの実力を推し量っている。そんな感じがある。
「この日のために、一生懸命練習してきました。聴いてください。『Pleasure of life』です!」
太陽がスティック同士を当てつつ、「ワン、トゥー、スリー、フォ」とリズムを作り、イントロが始まる。
まずはギターとベースだ。
俺は、弾けている。音がきちんと出ていることで、叫び声を上げたくなるほど強烈な安堵と興奮が全身を占めていく。手の震えもいつしかどこかへ消えた。すごい。本当に、なんとかなった。
太陽のドラムが勇ましく加わり、高瀬のキーボードが全体の調和を担う。月島のベースも安定感を見せている。ここまで一つもミスはない。いける。柏木が歌い出す。
『Pleasure of life』は迷いながらも前を向いて進み続ける道程での、葛藤や喜びを表現した、熱のこもったロックナンバーだ。
初めて聴いた時はボーカルがちりちりパーマの声だったということもあって、これは男の曲だなと感じたものだが、柏木が歌ってみると――これが不思議なことに――主人公は高校生くらいの女の子でもおかしくないように思えた。
というよりも柏木は、この歌を完全に自分のものにしていた。
明瞭で通った声は曲の雰囲気にぴったりだったし、歌詞の中にある青さや脆さ、強さや無鉄砲さといった要素は、まさしく彼女の中に眠る輝きだ。
歌唱力に関しては特別優れているとは言い難いものの、聴く者の耳に残る歌い方を彼女はどういうわけか会得していた。
だから観客が徐々に曲に乗り始める。曲調に合わせて手を上げ下げし、体を揺らし、リズムに身を委ねる。
柏木が観客の視線を一手に引き受けてくれているおかげで、俺は自分の演奏に集中することができる。数分前では考えられなかったことだが、今は、爽快ですらある。
「演者が楽しんでいないステージなんて、お客さんもしらけちまう」
太陽は夏のはじめにそう言っていた。その言葉の奥に潜んでいたものが、今ならわかる気がする。
音楽は、楽しんでこそ、音楽だ。
曲は一番のサビに突入する。柏木はマイクスタンドを握りしめ、全ての聴衆に訴えかけるように、力強く歌い上げていく。
照明が熱いのか、額には汗が光る。降ろしている長い髪が舞う。その姿はテレビで見るような一流女性ボーカルと遜色ないほど
はっきり言えば、これまでのバンドと比較すれば、ギターとベースが劣っているのは明白だった。
しかし柏木のパフォーマンスには、そういったマイナスの側面を覆い隠してしまうエネルギーがあり、サビの最後「Pleasure of life」と二度繰り返す頃には、地鳴りのような歓声が舞台に浴びせられたのだった。
間奏に入り、少し余裕ができた俺は、ちらりと斜め後方の太陽を見やる。
「この調子だ」彼の目はそう返してくる。
俺たちはやれる。このままなんとか走りきる。そう言い聞かせて、再び六弦に全意識を集中させる。
ただこの時、一つの問題が舞台上で静かに起こり始めていたことに、俺は気が付かなかった。
♯ ♯ ♯
二番は一番の繰り返しなので、それほど気を揉む必要がない。
この一ヶ月弱、幾度と失敗しては太陽に叱られ、柏木に
曲の半分を折り返す。柏木は調子がついて来たのか、アドリブでジェスチャーを加えるようになった。声の張りが一段増し、後方の俺たちを鼓舞する。
遠くにぼんやり、かすかにではあるが、ゴールテープが見え始める。
違和感を、確かな違和感を、俺の耳が感じ取ったのは、二番のサビに入る直前だった。
一つの音が聴き取りにくくなった。いや、より正確に言えば、|消えた(・・・)。
俺は舞台上に視線を散らす。
やはり後方の太陽と高瀬も何事かと、目を動かしている。三人の視線は共通の一人を捉える。月島だ。月島の動きが、完全に止まっていた。
視線を落とし、唇を噛みしめ、力なく佇んでいる。左手で四弦を抑えてはいるものの、右手が動いていない。きっと、動かせないのだ。何があったかは、なぜそうなってしまったかは、わからない。でもとにかく、それではベースの音が出るわけがない。
ドラムの方に目をやれば、太陽が何度も大きくうなずいていた。「よくわからんが、とにかく続行だ」きっと、そういうことだろう。
ベースの音を欠いたまま、曲はサビに入る。どこか物足りない感じは否めない。
もちろん聴衆も、異変に気付き始める。耳からだけではない。目にも、石像のように立ち尽くす
サビの最も重要なところで、柏木のボーカルが、やや上ずった。戸惑いが声に現れてしまったようだ。
焦りは伝染する。
俺もなんでもない簡単な場所を間違ってしまう。元より豊富な経験があるわけじゃない。一つの音が消えたとなると、こちらも調子が狂ってくる。そして、修正が利かなくなってくる。
再び、間違いを犯す。この一週間は一度もやらなかった、つまらない初歩的なミスだ。これで完全に頭が真っ白になった。そしてまた、手の震えが舞い戻ってくる。
残酷だが当然、曲はそれでも続く。
まともに機能している楽器は、キーボードとドラムだけだ。
最後のサビへ向けてギターとベースで盛り上げにかかる場面であるのだが、それが二つとも働いていないわけで、結果、ロックとは言い難い鋭さを失った単調なメロディを3500人へ垂れ流してしまうことになる。
ちりちりパーマの「お客さんは神様だ」が思い出され、余計にうまく弾けなくなる。後方を振り返ることができない。柏木を見ることもできない。
ただ、確実に観客の熱気が冷めていくことだけは、肌で感じ取ることができる。
この大河のどこかでこの演奏を見守っているであろう、芸能事務所の社員さんに心で訴える。
どうか、太陽の技量だけは真っ当に評価してあげてくれないか、と。
♯ ♯ ♯
曲が終了した。儀礼的に拍手はあるが、野次らしきものも確認できる。逆に、励ましの言葉もある。
「ちょっと時間をもらいます」
柏木がマイクで会場に告げて、俺たちは誰が呼びかけるでもなく、舞台中央に集まった。
「ごめんなさい」と月島はしおれて言った。
「
「家でもずっと練習していたから」月島は悔しそうに唇を噛む。「実は病院で医者から演奏を止められてたんだけど、頑張っているキミ達を見ていたら、そのことを言えなかった。もう、ごめん、本当にごめん。結果的に最悪だよね、これ」
「すまん太陽」と俺も続いた。「悪い癖が出た。やっぱり大勢の人の前はだめだ。頭が真っ白になってしまって」
「いいよ。おまえさんたちを責めることはできない。充分だ。むしろ良くやってくれた。なんとかなると思ったオレが甘かったんだ」
そこで言葉を切ると、太陽は大きく息を吐き出して「棄権しよう」とつぶやいた。
なんとも言えぬ重い空気が流れる。ただ、月島の指が動かない以上、俺の心が折れてしまった以上、『夏風邪』を披露するのは不可能だ。
ただでさえ時間が足りなくて、出たとこ勝負だったのだ。これ以上3500人の聴衆に醜態を晒すわけにはいかない。
俺は四人の顔を順番に見渡す。太陽と月島はもちろんだが、高瀬の顔にも「仕方ないね」というあきらめの色が浮かんでいた。
残る一人、柏木に視線を転じた時だった。
思わず声が漏れた。「は?」と。瞳には活力がみなぎっていて、これは何かあるなと予想していたら、案の定彼女は「終わりじゃないよ!」と声を張り上げた。
「終わらせないって。なにさ、棄権なんて絶対ダメ。やるよ、『夏風邪』。お客さんだって、こんなもやもやしたまま帰りたくないでしょ。夏の夜だよ。今日を楽しみにしていた人たちなんだよ。あたしに考えがある。みんな、来て」
柏木は舞台袖へとひとり歩いていく。会場の観客からすれば、これはおそらく仲間割れに映るだろう。不甲斐ないギターとベースに対し、ボーカルが愛想を尽かした。どう見てもそんな感じだ。呆気に取られる俺たちに、柏木は「おいでよ」と手招きする。
太陽がマイクを持って「少々お待ちください」と観客に伝えて、小走りで柏木を追う。俺と高瀬と月島もいろんな思いをぶらさげて後に続く。
舞台袖では、腕組みをして、今にも壁を蹴り壊しそうな目つきをしているちりちりパーマが待ち構えていた。素敵なことに、ノーホラの他の三人も、判で押したように同じ格好をしている。
衝突に備え、身構える。
やはり「なんだ、このザマは!」とさっそく食ってかかってきたちりちりパーマだが、「うっさい、ラーメン頭!」という柏木の一声で、抜いた刀を|
未来同盟の五人と、新生ノーホラの四人で輪が作られる。発起人はもちろん柏木だ。
彼女は言う。
「えーとね、これから、フェスの大トリ『夏風邪』を演奏する陣容を発表します」
みんなの顔に疑問符が浮かぶ。陣容?
「時間が無いからパパッとね。ギター、ラーメン頭」
「んあー?」と口をあんぐり開けて、顔をぐいっと突き出したちりちりパーマだが、有無を言わせないといった様子で柏木の指名は続く。
「ベース、影の薄いあんた。キーボード、影の薄いあんた、その二」
当然これは、ノーホラの二人だ。彼らにとっても、青天の
「で、ドラムは、葉山君ね」
柏木に名を呼ばれた太陽は、居心地が悪そうに、旧友たちの顔を見渡した。
「おい、女、ちょっと待てよ!」ちりちりパーマが一歩前に歩み出た。「なんだよ、これ。最後の一曲って、たしかおまえらのオリジナルだろ? 太陽はともかく、俺たちは弾けねーよ」
「なんとかしなさいよ!」柏木は負けじと声を張る。「お客さんは神様なんでしょ? 感動を持って帰ってもらうんでしょ? トリは重要なんでしょ? あんた、そう、偉そうに言ったじゃない。変な対抗意識なんか捨てて、演奏するんだよ。お客さんに『今日は良い日だったな』って思ってもらうんだよ!」
これにはちりちりパーマも拳を握って、口を
「15分、あたしがなんとかMCで場をつなぐ。その間に、曲を覚えて」
彼女は各パートの楽譜を集め、ノーホラの三人に渡す。それを受け取りはしたものの、ちりちりパーマはどうしようか考え込んでいるようだ。
観客席からは、どよめきが起こり始めた。「これで終わりなのか?」「どうなってんだ?」そういう性質のものだ。きっと、それが、メジロの巣みたいな頭の中のどこかを刺激した。
「あーっ! わかったよ! やるよ! やればいいんだろ。やるぞ、おまえ達。そして太陽! こうなったら、グダグダ言ってられねぇ。一秒でも時間が惜しい。ほら、集まりやがれ」
ちりちりパーマのその声がきっかけとなって、新たに輪が作られる。取り残されるかたちとなった新生ノーホラのドラマーは、呆気に取られて立ち尽くしている。
「君は、おつかれさま」
柏木は彼にそう告げると、『夏風邪』の歌詞が書かれた紙を手に、高瀬の元へ向かった。そして言った。
「ボーカルは、優里がやるの」
「晴香、嘘でしょ?」と高瀬がいつになく早口で返したのもうなずける。俺も心で「柏木、嘘だろ?」と言っていたくらいだ。
「おい、高瀬さんがボーカルって、柏木おまえ、どういうつもりだ?」
さすがに太陽も輪の中から口を挟む。
「いいの。『夏風邪』は、優里が歌わなきゃいけない曲なんだから」
柏木はこの場にいる全員に聞こえるように言った。苛立ったり、やけっぱちになっているわけではない。至って冷静で、そして本気だ。
「優里、歌えるでしょ? さ、そっちの輪に入って」
高瀬は何かを言いかけたが、言葉ではなく息を吐いて、前髪を手でかき上げた。その状態のまましばらく制止したのち、柏木から歌詞を受け取り、太陽たちの方へ進んでいく。輪は、五人になる。
「おい、あんた。ボーカルなんかできるのかい?」
ちりちりパーマがつっけんどんに問うと、高瀬は真剣な眼差しで、それに答えた。
「できます。これは私の歌ですから」
これで良しという風にうなずいた柏木は、舞台に向けて一旦歩き始めるも、何かを思い出したように足を止めた。そして俺の方へ来て、こう命じた。
「悠介は、観客席で優里の歌を見守るの。いいね」
「は?」
「ほら、15分後には、始まるよ。ダッシュで、急いで」
俺の回答を待たず、柏木は舞台へ小走りで駆けていく。後ろ姿が視界から消えて数秒後、「お待たせしました」の声がマイクを通して聞こえてきた。
『夏風邪』を披露することになる五人は、打ち合わせに集中している。ふと月島と目が合う。彼女は「ふふん」と涼しく笑って、顎を観客席へ向けて突き出す。頭はえらく混乱している。でもとにかく俺は、無我夢中で走り出す。
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