第19話 世界はとてもカラフルだ(前)


 その幸福の電話は、なんの前触れもなくかかってきた。


「神沢君。もしよかったら、花火大会に一緒に行きませんか」


 夏休みも残りわずかとなったその日の午前中、俺は自宅のリビングでTシャツにトランクスというどうしようもなくだらしない格好で、やはりだらしなく横になり、テレビで高校野球の準々決勝を観戦していた。


 街には熱中症警報が発令される暑さだ。扇風機は欠かせない。

 

 突然野球熱が芽生えた、というわけではなくて、他にやることが何一つとしてなかったのだ。夏休みの課題は終えているし、なにしろ炎天下の中だ。掃除をする気も買い物に行く気も起きない。

 

 テレビをつけると鳴桜高校うちを倒して地区代表になった高校を、二回戦で破った北信越地方の強豪校が出ていたので、きわめて遠いものではあってもこれも何かの縁には違いないと、そのチームを応援して時間をつぶすことにした。

 

 試合は白熱した展開になった。どちらも譲らぬ点の取り合いで、終盤になっても勝利の女神は態度を決めかねているようだった。


 9回裏に肩入れしていた高校が逆転サヨナラ勝ちのチャンスを迎え、ごくりと息を飲んだところで、スマホが鳴った。


 タイミングの悪さに思わず舌打ちをしたが、画面に表示された名前を見てすぐさま立ち上がり、姿勢を整えた。


 もう少しフォーマルな服装に着替えようかとも思ったが、さすがにそんな時間はない。やむを得ず下着姿のままでその電話に応じた。


「花火大会のチケットが二枚手に入っちゃって」という言い方を高瀬は選んだ。


 入っちゃいましたか、と俺は内心で合いの手を入れた。


 口ごもりながら高瀬は言った。

「晴香と行くと月島さんがなんだか可哀想だし、だからといって、一人で行くのもつまらないでしょ」

 

「まあ、そうだね」と俺は答えた。表情はゆるみきっている。


「もちろん居酒屋のバイトも含めて、その日神沢君の都合が良ければ、の話なんだけど」

 

 俺はもうこの時には有頂天だったから、偉そうに「ちょっと待ってよ」なんて言ったりして、ありもしないスケジュール帳をめくるフリなんかをしてみたりして、「えーと、おお、その日はたまたま空いてるよ」などと白々しい台詞を吐いたりした。

 

 高瀬からお誘いに対し、言わずもがな心の中で回答はすぐに出ていた。


 俺が働いている居酒屋は花火大会の会場から遠く、毎年閑古鳥が鳴くことから、そもそもその日は休みになっていたし、他にどんな重要な用事があろうとも――たとえばノアの方舟はこぶねの乗船券が配布される夜だったとしても――俺はそれをあっさりキャンセルして高瀬と二人で花火を見ることを選んだだろう。


「わかった。行こう」と俺は言った。

 

 良かった、と電話の向こうから聞こえた後で俺はあることを思いつき、それを口に出してみた。


「もしかしてさ、浴衣ゆかたを着て来たりする?」


「え」高瀬は言葉に詰まった。「神沢君、女の子の浴衣、好きなの?」


「え」と、今度は俺が困った。「嫌いでは、ないよ」

 

 純和風的な美しさを持つ高瀬の浴衣姿を見ることができる、千載一遇の機会には違いなかった。そして浴衣からのぞく高瀬の生脚を拝みたかったのも違いなかった。

 

「それじゃあせっかくだから、浴衣で行こうかな」と彼女は少し照れて言った。

 

 花火大会の開かれる河原のそばで待ち合わせることにして、通話は終わった。

 

 放心状態でテレビに目をやると、応援していた高校がサヨナラホームランをライトスタンドに放り込んだところだった。俺の脳内も、歓喜で、まさしくそんな感じだった。


「劇的サヨナラホームラン! 俺の勝ちだ!」

 何が勝ちなのかはよくわからないけれど、とにかくそう叫んでいた。


 ひとしきり喜びの感情を爆発させた後で、高瀬は俺に異性として好意を抱いているとみていいのだろうか、とふと考えた。


 あの柏木や月島がそう言うのだから、そしてこのように花火を一緒に見ようと誘いかけてくれるのだから、その可能性は低くはないんだろう。


 両思い――。そんな甘い言葉が頭をよぎる。

 

 冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、グラスに注ぎ、飲む。気付けば「でもな」とつぶやいていた。

 

 俺と高瀬は、普通の高校一年生の男女とは大きく事情が異なる。


 両思いです。告白しました。付き合うことになりました――。そんなことにまるで意味がないのが俺たち二人なのだ。

 

 高校卒業までのあいだはそれで楽しいかもしれない。心の隙間も埋まるかもしれない。しかしその先では、まるで夢の時間は終わりだと言わんばかりに、現実が大きな口を開けて俺たちを待ち構えているのだ。

 

 残り約2年半交際し、卒業と共にさよなら、そして彼女は別の男の妻に――ヘドが出るほどくだらない物語だ。


 高瀬のあの柔らかく白い肌に自分以外の男の手が触れるところを想像すると、俺はみぞおちの辺りに何本もの冷たい針の先を当てられている感覚を覚えた。

 

 もう一杯麦茶を飲んで、深呼吸をする。雑念を払い、考えをまとめていく。

「今俺がすべきことは?」


 今俺がすべきなのは、好意の確認や、ましてや告白なんかじゃない。


 高瀬の前に立ちはだかるトカイとの政略結婚をぶち壊す手段を練る。やはりそれに尽きる。

 

 スマホを見て俺は「高瀬」と語りかけた。「高瀬、必ず俺が君の望む未来へ導いてやるから。今はどんなに劣勢でも、9回裏には逆転ホームランをぶっ放して、最後は笑って、俺たちの勝利で卒業できるから」

 

 まさか通話中じゃないよな、とヒヤリとした後で、それにしたって花火大会は楽しみに違いないぞ、と心は再度沸き立ち、小躍りして鏡の前へ向かった。

 

 高瀬の浴衣姿を見た際にどんな表情を作り、どんな言葉を掛けようか時間をかけて試行錯誤し「馬鹿馬鹿しいや」と思い至った。つい最近、海に行くことが決まり、同じ事をして無駄になったばかりだった。

 

 そして今回も、結論から言えば、この行動は時間の無駄にしかならなかった。


 ♯ ♯ ♯


「は!? 柏木おまえ、今、なんつった?」

 自慢の二重まぶたがわからなくなるほど、太陽が大きく目を剥いた。


「だーかーら」

 柏木は、腕を組んで繰り返す。

「花火大会の日、みんなには働いてもらうから」

 

 花火大会の誘いを高瀬から受けた二日後、俺たちは柏木の呼びかけで高校の秘密部屋に来ていた。夏休みも終わりが近いので、心なしか校舎内は、新学期の準備でそわそわしている。


「働くって、どこで」

 月島が無表情で質問した。俺たちの背後の棚には、新しく野外フェスのトロフィーが陳列されている。


「うちのお店『鉄板焼かしわ』でだよ」柏木は当然のことのように言う。「うちのお店、花火大会の会場のすぐそばにあるから、毎年その日はとんでもなく混むの。『お好み焼きで一杯やってから』ってお客さんが多くてね。とてもじゃないけどあたしと叔母さんだけじゃ、手が足りないわけ。でもほら、ここには、八本も手があるじゃないですか」

 

 それを聞いて、太陽は呆れ顔で口を開いた。

「オレたちはあくまでも『互いの未来のために手を貸し合う』集まりだ。そんな近所の互助会みたいなもんには付き合えねーよ」

 

 友が起こしてくれた波に、今すぐ俺も乗るべきだと判断した。

「そうだぞ、柏木。だいたい常識的に考えてみろ。花火大会は一週間後だぞ。俺たちはそれなりに忙しい高校生だ。おまえ以外の四人が四人とも、一週間後の予定が空いているなんて限らないだろう」

 心で強く、限らないだろう、と繰り返した。見れば高瀬の口もそう動いたのが、少し可笑しい。


「なによ悠介。いつになく威勢が良いじゃない?」

 

 ぎくりとするも、なんとか平静を装う。


「悠介の言う通りだ」

 太陽は俺と高瀬の約束を知らないけれど、賛同する。

「オレは無理だぞ。その日は花川はなかわ先輩と花火デートだから」


 高瀬がはっとする。

「花川先輩って、2年生一の美人って評判の生徒会副会長さんだよね?」


「そうそう。高嶺の花の花川さん、な」


「胸も大きいしねぇ」

 柏木が皮肉交じりに余計な一言を挟み、太陽が顔を赤らめて「うるせーよ」と返した。


 高瀬は案の定、海辺でたき火を囲んだ際の自らの暴走を覚えていないから、「あれ、晴香も葉山君の秘密を知っていたっけ?」と言いたげな澄ました顔をしている。

 

 月島がそれを見て、ぷっと吹き出す。


「太陽、恋愛を解禁したのか?」

 

 俺が聞くと彼は手を振った。

「こないだの野外フェスに出演できるようになったのは、花川先輩があちこちに奔走してくれたおかげなんだ。今回のデートが実はその条件だったんだよ。『私がなんとかしてあげるから、その代わり、花火大会の日は空けておきなさい』って。花川先輩には恩がある。だからオレは無理だぞ」

 

 すごい男だ、と俺は素直に感心した。この件は頭の中の「葉山レジェンドノート」に書き留めておくことにしよう。


 柏木は偉そうに腕を組んだ。

「じゃあ葉山君はトクベツに二時間だけ抜けるのを許してあげる」


「は? おまえ何様なんだよ。今の話聞いてなかったのかよ。オレは無理だって言ってんだろ」


「花川先輩への恩があるならあたしへの恩はどうなるのよ」と柏木は恩着せがましく言った。「誰のおかげでフェスで恥をかかないで済んだんだっけ? 誰のおかげでノースホライズンは復活できたんだっけ? さぁ、答えてみなさい」

 

 そこを突かれると太陽は弱い。歯ぎしりしながら「柏木だ」と答えた。

「聞こえませんねぇ?」

「柏木様です!」


「わかればよろしい」女帝はうなずく。「それじゃ、みんな、よろしくね」

 

 慌てて「俺は行けないぞ」と断固主張した。するとすぐさま「私もちょっと無理かな」と高瀬が続いたことで、なんとなく不穏な空気が室内に充満してしまう。


「んー?」

 柏木は家の中は見せられないと目を泳がせる成金に税務官が向けるような眼差しで俺たちを見る。

「なにかあるの?」


「バイトだよ。居酒屋」俺はもっともらしい嘘をつく。


「私は――」

 高瀬は咄嗟とっさの出任せが得意なわけがなかった。

「私は、あのね、花火会場に近いタカセヤでその日、イベントを計画してて、でも人が足りないから、手伝わなきゃいけなくて。だから、私も難しいかな」


 しどろもどろ、とはまさしくこういうのを言うのだろうな、という口ぶりだった。柏木がそんな隙を見逃すわけがない。


「どうにかすること。いいね!」

 柏木のこめかみはやや吊り上がった。

「来週の日曜、午後三時には五人ともうちのお店に集合。以上!」

 

 ぱんっ、と彼女は一つ手を叩いた。まるで俺と高瀬の夢を覚ますみたいに。


 このようにして、高瀬の水着姿と浴衣姿を見る機会は来年以降の夏まで、おあずけとなってしまったのだった。 


 俺と柏木の関係についてここで述べれば、二人の間にある〈隠された関係性〉が明かされたとはいえ、俺たちは特別なにかをするということをしなかった。

 

 現在高校一年生である俺たちは、それがわかったところで、どうすることも出来ないからだ。


 柏木の言うような「共に親を見返す、二人で幸せを築く物語」を俺が仮に選んだとしたって、まずは高校を卒業しないことには話にならない。


 つまり毎日をこれまでと同じように生きていくしかないのだ。それは柏木も共通認識のようで、星空の下の告白などなかったかのように俺に接していた。

 

 そして長かった夏休みの最終日にして、花火大会の日がやってきた。


 ♯ ♯ ♯


「あんたたちかい。ようし、今日はひとつ、よろしく頼むよ」


「鉄板焼かしわ」の店主にして、柏木の叔母おばで、なおかつ俺からすれば母親をどこかへかっさらっていった男の妹であるその女性は、いずみさんという名前だった。

 

 歳は30代後半だとは思うが、そのスタイルの良さや、潤いと張りのある髪によって、まったく経年による衰えを感じさせない。

 

 明瞭な目鼻立ちは、自身に降りかかった多くの問題に白黒をつけてきた過去を物語っているようで、右の口元には多くの男の視線を受け止めてきたであろう、妖艶なほくろが際立つ。


 “きれいなおばさん”

 

 この言葉は、まさしくこのお方のためにあるのだなと思ったけれど、きっと“おばさん”と聞くと、封印されし門をこじ開けてい出てきた悪魔のような形相をすると予想されたので、間違っても口にはしないことにした。


「昔はけっこう遊んでいたらしいけど、いざ結婚相手ってなるとなかなか見つからないんだって」と姪の柏木は話していた。これほどの美人が独身というのは、世界のどこかにいるはずのいずみさんの運命の人は一体どこで道草を食っているのか、と首をひねりたくもなる。


「良く来てくれたねぇ」美熟女はチャーミングな声で言った。「今日はたんまり仕事があるから、存分に働いてもらうよ。ま、あんたらは若いし大丈夫だろう」

 

 いずみさんは俺がなのか柏木からあらかじめ説明を受けているらしく、俺の顔を隅々まで見ると「ふうん」という、あからさまに含みのある反応をした。

 

 今日のために招集された労働者四人の自己紹介が終わると、さっそく俺たちはいずみさんと柏木に仕事のやり方を教わることになった。

 

 注文の受け方から、ビールの注ぎ方、ドリンクに入れる氷の数に至るまで、いずみさんには一定の美学があるらしく、俺たちは修得しなければいけないことがたくさんあった。


「鉄板焼かしわ」は平均的なコンビニくらいの広さではあるけれど、四人がけのテーブル席が六卓、宴会を楽しめる座敷の部屋が五室ある。


 確かにこれらの客席が全て人で埋まれば、女性二人だけで対処するのは無理だろうと店舗を見渡して思っていたのだが、いずみさんはそんな心中を見通してか、俺の肩をつんつんと指で突き「今日は埋まるのよ、全部」と片目をつぶって言った。

 

 俺は元より居酒屋で働いているので、こういった場所での仕事となると、他のメンバーたちよりも一日の長がある。人間不信者だが接客となれば愛想笑いくらいは浮かべられるし、生ビールの注ぎ方だってお手の物だ。

 

 引き続きフロアで柏木が教官となり太陽、高瀬、月島の指導にあたり、俺はいずみさんに呼ばれ、厨房で仕込みに入ることになった。


「あんた、料理得意なんだって?」いずみさんが初対面とは思えないほどフランクに話しかけてくる。誰かさんと同じだ。「たいそう美味しいカレーを作れるそうじゃない」

 

 柏木、と喉元まで出かかって、場をわきまえねばと反省した。

「晴香さんから、聞いたんですか?」


「あの子、あんたの話ばっかりなのよ。口を開けば『悠介』だもの」

 あはは、といずみさんは愉快そうに笑う。

「実物の悠介に、ようやく、こうして会えた」

 

 フロアから柏木の大声が聞こえる。

「ほら優里、そんなんじゃダメだよ! もっとお腹の底から声を出すの! はい、もう一回!」


「厳しいなぁ……」これは、高瀬のか細い声だ。「注文入ります! モ、モダン一丁!」


「まだまだ!」と叫ぶ柏木の声には、たしかな悦びが滲み出ていた。

 

 あの女、と俺は眉をひそめる。あの女、さては実技指導にかこつけて『夏風邪』の件の憂さ晴らしをしているんだな、と。

 

 いずみさんは俺の顔をまじまじと見ていた。

「いやぁ。それにしてもあんた、有希子ゆきこさんに本当似てるわ。顔立ちはもちろんだけど、持ってる雰囲気や、匂いまでそっくりだ。今、一瞬、昔の記憶がよみがえったよ」

 

 嬉しいやら虚しいやら、複雑な気持ちになる。

「母をよくご存じなんですね」


「そりゃ知ってるさ。有希子さん、うちの兄貴と付き合い始めてからは、よくここにも来てたんだから」

 

 この建物は、よくある「店舗兼家屋」だ。


 一階が「鉄板焼かしわ」で、二階が柏木家の居住空間となっている。約20年前、自分の母親が父以外の男と逢瀬を重ねた場所で、俺は今から勤労しようとしている。まったく、おかしな人生だ。


「まぁ、なんだ。その、申し訳なかったね」

 いずみさんは気まずそうに耳たぶをく。

「うちの兄貴のせいでさ、あんたにはいろいろと面倒かけたでしょ」


「やめてくださいよ」と俺は言った。彼女は俺の人生に訪れた不幸に何一つ責任を負っていない。「いい年をした大人の決めたことですし、残された人間は、僕に限らず、みんな苦しんだはずです。晴香さんも含め」

 

 柏木はもう二度と実の母に会うことができないのだ。

 

 いずみさんは唸る。

「あんたずいぶんしっかりしてるのねぇ。たいしたもんだ。本当に晴香と同じ高校一年生?」

 

 発育の良い柏木に日々そわそわさせられている身からすれば、「あいつこそ僕と同じ高校一年生ですか」と問い返したいくらいだった。

 

 その柏木の声がこちらにも響き渡る。

「優里、お金を稼ぐってのは大変なことなんだよっ! ほら、愛を込めて!」


「晴香、私にだけ恐いって」

 怯えた声の高瀬に同情を禁じ得ない。フロアに行って彼女の味方につきたいけれど、今は難しい。太陽と月島の苦笑いの声も聞こえてくる。


「さてと。仕込みに入るよ、悠介」

 

 いずみさんに従い、俺は、大量のネギと紅生姜を細かく切ることになった。いずみさんは隣のまな板で、やはり山盛りのキャベツを一個一個刻んでいく。

「キャベツの切り方はちょいとコツがあるから」と彼女は言う。

 

 包丁を使っているからまな板に意識を注いでいるつもりではあるけれど、母親の残像がどうしても視界にちらついてしまう。

 

 この家には高校生時代の柏木恭一(晴香の父親だ)と俺の母の写真があるというから、「見せて欲しい」と一言言えばきっとそれを見ることは可能だろうし、二人の馴れそめなんかもいずみさんから聞くことができるだろう。

 

 とりとめもなくそんなことをぼんやり考えていると、ふいに「馴れそめ」という言葉が意識の一部に引っ掛かった。


 もしかすると俺はそれを知っておいた方がいいんじゃないだろうか? そんな声が天啓のように自分の体に降りてくる感覚があった。しかし根拠はない。知ったところでどうなる、という反対意見も脳裏をかすめる。ネギの飛沫ひまつが目に染みる。


「どこに行ったんだかねぇ、あの二人。あんたにもまったく心当たりないんでしょ?」

 

 いずみさんのその質問で、何かが吹っ切れた。迷うなら前に進もう。多少の痛みは覚悟の上だ。


 柏木恭一と俺の母・有希子の逃避行には、依然謎が残る。話を聞くことで何かの取っ掛かりにはなるかもしれない。


 俺は一旦手を止め、「いずみさん」と呼びかけた。


 ♯ ♯ ♯


「もうね、大恋愛」といずみさんは言った。

「大がついちゃうんですか」俺はさっそく胸にちくりと痛みを覚える。


「そう。学年一の秀才と、学年一の落ちこぼれの恋物語よ」

 

 予想はつくと思うけど、と前置きした上で「秀才は有希子さん、落ちこぼれはうちの兄貴ね」といずみさんは説明を補足した。そして、記憶を手繰たぐるように目を細めた。


「兄貴は背が高くて体格もがっちりしてたから女にモテたけど、誰かと交際することはなかった。生まれつき心臓が弱くてね。激しい運動は医者に止められてたんだ。『俺は期待に応えられねぇもん』って言うのさ。見栄っ張りな性格だから、デートやなんかで発作で苦しむ姿や薬を服用するところを、女の子に見られたくなかったんだろうね」


「でも僕の母とは深い仲になった」


 いずみさんはうなずいた。

「あんたのお母さんもさ、あまり活動的な人ではなかったでしょ? たとえば、旅行とかキャンプとか、そういうのは好まなかったはずだ」


「あまり、なんてもんじゃないです」

 動物園に連れて行って、と昔せがんだ時に母が見せた、いびつに曲がった眉と冷えきった目つきを思い出して苦笑した。

「人が嫌い、外が嫌い、ありとあらゆるアレルギー。これで活動的なわけないです」

 

 ははは、といずみさんは憐れむように笑った。

「何かしら通じるものがあったんだろうね、二人には。うちの兄貴も、有希子さんの前ではつよがりを見せずに済んだんだ」

 

 発作に苦しむ男をいたわる母の姿を想像するのは、スマホで本能寺の変を知る羽柴秀吉を思い浮かべるくらい、難しいものだった。俺はあのひとにまともに看病されたことなんて、一度だってないからだ。


「兄貴は高校入学前後から、小説を書くようになってね。私には意地でも見せてくれなかったから、内容はよくわかんないよ? でも賞に応募するくらいだから、それなりのレベルではあったんだろうさ」

 

 立派な図体のわりに、心臓には爆弾を抱える。高校では落ちこぼれのくせに、小説に情熱を傾ける。なんとなく、なんとなくではあるが、柏木かしわぎ恭一きょういちという人物の横顔が見え始めてきた。


 きっとある種の人たち――その代表格が俺の母だったりするわけだが――を惹き付けてやまない魅力が彼には備わっていたんじゃないか。そう推測する。


「小説の第一の読者は、僕の母だった」と俺は言ってみた。


「鋭いね、血ってやつかい」といずみさんは言った。「そうさ。うちの二階の、今ちょうど晴香が使っている部屋で、兄貴と有希子さんは放課後になると毎日のように小説について議論していたね。兄貴、『有希子の指摘は耳が痛いが、もっともだ。まったく、あいつは優秀な編集さんだよ』って言って笑ってたっけ」

 

 俺の父が市の図書館に放火をしたのは、母が足しげく通っていたから、というのが最たる動機だった。


 では、母は何を目的にして図書館に行くことを日課にしていたかと言えば、もちろん読書か、それに準ずる何か、ということになるだろう。まさか折り紙講座や空襲体験を聞くために行っていたわけではあるまい。


 そして高校時代の柏木恭一と母を結びつけたのは――二人の間にあったのは――小説だった。


 母は恋人として読者として、恭一の小説を磨き上げるため、助言を与え続けたのだ。この建物の二階で。

 

 ばらばらの珠に一本の糸が通り、一連の数珠じゅずになるように、俺の中でも情報の断片が一つにまとまっていく感覚がある。抜け落ちている珠も依然多いけれど、それでもぼんやりとつながりが見えてきた。


「息子のあんたには悪いけど、有希子さんってさ、なんだか冷たい印象があるでしょ?」

「冷たい印象しかないですよ」本心なので、すぐ口に出てきた。


「同じ女だからわかるけど、そんな有希子さんでもね、うちの兄貴には相当惚れ込んでいたみたいなんだわ。目がね、もう、熱を帯びていたよ」


「二人は惹かれ合っていたんですね」

「とても惹かれ合っていた」といずみさんは修正した。「結局兄貴の小説は大きな賞を取ることはなかったけど、二人は高校卒業まで、そんな風にそれはそれは仲睦まじく過ごした。本当にね、大恋愛だよ。てっきりそのまま結婚することになるんだろうと、私もうちの両親も思ってたんだけどね……」

 

 そこまで言うと、いずみさんは一旦包丁を置き、両手を振ったり揉んだりする。疲労が溜まってきたらしい。


「二人に何があったんですか?」俺も手を休めて尋ねた。「そんなに親密だった二人は、どうして別れて、それぞれ他の人と結婚することになったんですか?」

 

 俺の父は母よりは二歳年上で、なおかつ鳴桜高校の卒業生ではない。今いずみさんから聞いた話の流れからすると、いったい母の人生のどこで彼が登場することになるのか、まったく考えが及ばない。

 

「それがね、わからないんだよ」といずみさんは肩をすくめて答えた。「二人がなんで別れたか、詳しいところはわからないんだ。見栄っ張りの兄貴はどうしてもそれを教えてくれなくて。『別れたよ』――聞けたのは、その一言だけだ。鳴桜高校の卒業式の日だった。ただね、泣いてたよ。柄でもなく、わんわんと。大号泣。後にも先にも、兄貴が泣いているのを見たのはあの時だけだ」

 

 いずみさんはその後、恭一は高校時代のクラスメイトで市役所に勤務していた女性と結婚したと教えてくれた。その女性が、すなわち、もうすでに亡くなった柏木晴香の実母ということだ。


 俺はためしに父の名前を出してみたが、「聞き覚えがないわ」といずみさんに首を傾げさせるだけだった。

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