第19話 世界はとてもカラフルだ(後)


 フロアでは引き続き、鬼軍曹の柏木による厳しい指導が続いている。


 もし竹刀でも持たせたなら、高瀬の身体に強烈な一撃をお見舞いしそうな勢いだ。時おり厨房とフロアの間にあるスペースから、余裕があるのだろう、太陽と月島がこちらに向けてピースサインを送ってくる。


「ところでさ、あんたたちのこのグループ、どういう集まりなの?」

 五つ目のキャベツを手に取り、いずみさんが尋ねてきた。俺はようやくネギの処理が完了し、今度は紅生姜を切り刻んでいる。


「よくある仲良しグループですよ」

 あの三人娘の未来は俺次第なんです、なんて口が裂けても言えない。


「ねぇ、悠介」

 いずみさんの声にはめいのそれによく似た、戯れの響きが聞き取れる。

「どの娘を狙ってるのさ」


「何のことですか」


「やだねぇ、惚けるんじゃないわよ。あんたらの年頃なんて、異性のことしか考えてないでしょ」


「そんなことないですよ」

 実はそんなことある。高瀬、柏木、月島のことを考えない日なんかあるわけがない。


「私があんたたちの歳の頃は、そりゃもうだったけどねぇ」

 いずみさんは派手に笑い、俺は何も聞かなかったように包丁を強く握る。

「本命、育ちの良さそうなお嬢様。対抗、うちの晴香。大穴、ショートカットの垢抜けた娘ってところかしらね?」

 

 俺は無言を貫く。黙っていればこの話題も自然と下火になるだろうと高をくくっていたが、いずみさんが「誰かもう食べちゃったの?」とささやいたから、危うく自分の指を切りそうになった。

「いい加減、そろそろ怒りますよ?」


「あらまぁ、赤くなっちゃってカワイイ」いずみさんは悪びれない。「でも父娘揃ってちゃんと同じような人を好きになるんだから、面白いもんだよねぇ。血は争えないってよく言ったもんだわ。あぁ、言っちゃっていいんだっけ? 晴香あのこがあんたに惚れてるの」


「大丈夫です。僕はもう知っていますから」

 

 それを聞くと彼女は包丁を離し、俺の肩に手を乗せた。

「悠介さぁ、高校出たら、晴香をもらってあげてよ。いつまでもウチにいられても困るんだよ。あの子がいたらおちおちオトコ探しも出来やしないもの。私だってね、もういい歳なんだ。身内の私が言うのもアレだけど、晴香っていいオンナでしょ? 脱いだらね、裸だってね、すごいんだから。きっと毎日寝不足になるわよ?」

 

「そうですか」

 俺は作り笑いを浮かべると、頭を空っぽにして紅生姜をひたすら刻む。


 ♯ ♯ ♯


 これといったセールスポイントのない俺たちの住む街ではあるが(そう言うと高瀬に叱られるけど)先日の野外ロックフェスティバルとこの花火大会は、それなりに有名な催しである。


 エンターテインメント性を前面に打ち出したこの天空ショーはテレビやインターネットで評判が広まり、今やこの地域の外からも観光バスに乗ってやってくる団体客がいるほどだった。


 花火見たさに何時間もバスに揺られるその気力体力に、出不精でぶしょうな俺などは脱帽するばかりなのだが、まぁとにかく、それほどに魅力的な大会ということらしい。

 

 開催されるのが毎年8月最後の日曜日ということもあって、この花火が終わると「あぁ、今年も夏が終わったんだな」としみじみするのがこの街の人たちの風習となっていた。

 

「今日は一年で最大の書き入れ時なのよ」と言って開店時間をいつもより大幅に早めたいずみさんの狙い通り、のれんを掲げると、すぐさまお客さんが入り始めた。


 まだ明るい時間だというのに、酒類が飛ぶように売れ、店からはまたたく間に空席が消えていく。

 

 俺は基本的には厨房勤務で、フロアが困ればそちらへ救援に向かった。


 太陽は額に汗を浮かべながら生ビールをジョッキに注いで「くぅ、うまいんだろうなぁ」と漏らし、高瀬は柏木の視線に怯えながら、「モ、モダン、いっちょう!」と、おそらく、いまだかつて出したことのない声域から声を出していた。

 

 ひとつわかったのは、柏木はこの店の看板娘だということだった。


 顔馴染みのお客さんが何人もいて、彼らの中で柏木はマドンナであるらしく、その明るさと容姿を最大級の褒め言葉で賞賛されていた。

 

 長い髪を後ろで一つに束ね、笑顔を絶やさず、てきぱきと要領よく仕事をこなす彼女の後ろ姿は、俺の目にだって輝いて映る。授業中に居眠りしている背中が印象としては強いけれど、「柏木にはこういう面もあったんだな」と感心せずにはいられなかった。

 

 陽が落ちはじめ、店の外では、花火会場である河原へと向かう人の流れが出来つつあった。甚平じんべいや浴衣に身を包んだ男女もいたりして、こういう光景を見ると、日本の夏はいいな、と呑気にも思ってしまう。


 そして見ることが叶わなかった高瀬の浴衣姿を想像して、虚しくなってしまう。

 

 時間の経過と共に、フロアよりも厨房の仕事の方が多くなってきたので、最も戦力になるであろう月島がこちらに助っ人としてやってきた。


 お婆さん直伝という持ち前の包丁さばきで、豚肉やイカをリズミカルにさばいていく。頼もしいことに、俺より手際が良い。

 

 いずみさんは現在、常連と思われるお客さんに声を掛けられ、渋々ながらそれに応じている。それを機と見たのか、月島は隣で「神沢」と俺の名を呼んだ。


「どうした」

 月島の声には一定の重さが含まれていたので、サラダ用のトマトを切る手を止めた。


 彼女は言った。

「中学校の屋上でさ、声を掛けたの、正解だったんだよね?」


「は?」


「いやほら、考えようによっては、飛び降りちゃった方が楽だったのかもしれないわけでね」


「もちろん正解だよ」と俺は答えた。死ぬことで得るやすらぎよりも、生きることでともなう痛みを求めていたのだと、今なら胸を張って言える。


「それはよかった」

「月島。どうしたんだよ、いきなり」


「いきなり、とキミは言うが」

 包丁をこちらに向け、月島は小さな唇を尖らせる。

「全然ふたりきりになれないんだから、こういう時に話すしかないだろうが」

 

 照明が反射して光る刃におののきつつ「すまない」と詫びると、彼女は包丁をイカに突き刺し、上手にはらわたを取り出した。


「こんなはずじゃなかった」

 いずみさんがまだ戻らないことを確認して、月島は吐息をつく。

「私の計画では、この夏の間に神沢を実家に連れて行って、家族にキミのことを紹介しておくつもりだったんだ。それなのに、巻き込まれたバンド活動と海での酔っ払いの介抱と強制労働で、ついに高校一年生の夏が終わる」

 

 こんなはずじゃ……と彼女はもう一度肩を落とす。


「なぁ月島」と俺は言った。「俺をおまえの実家のせんべい屋・月島庵つきしまあんの跡継ぎとするっていうあの計画、今でも――」

 

 あははは、という月島の余裕ある笑い声に言葉は遮られた。

「本気だよ。高瀬さんも柏木も、今は泳がせているだけだから。最後は私が勝つ。絶対に神沢を東京に連れて帰るから」


 高瀬がフロアからこちらに顔を出して「神沢君、ミックス追加」とせわしなく言い、「モダンもだ」と太陽が続いた。「おわっ、ジョークじゃないぞ」

 

 二人がフロアに戻ってから「それにしても」と月島はシニカルにつぶやいた。

「それぞれの未来のために協力し合う、なんてさ、なかなかエキセントリックだよね。日本の高校見渡しても、こんなことやってるの、神沢とあの子たちくらいじゃない? しかもけっこう本気と来てる。ヒュー」

 

 やけに他人事じゃないかと突っ込むべきか、ずいぶん上から目線だなと嫌味を述べるべきか迷った後で、なんだか彼女が可笑おかしく思えたので「言っておくがおまえももう立派な『あの子たち』の一員だぞ」と言ってやることにした。


「冗談!」月島は空いている手で前髪を払った。「私はいつだってね、少し引いたところから傍観してるんだい。あくまで私の目的はキミの監視だからね。『それぞれの未来のため』あー、恥ずかしい恥ずかしい」

 

 火照りを取るように顔を手で扇ぎ、彼女は意識をまな板に転じた。

 

 案外まんざらでもない居心地のくせに、と思うと、顔がほころんで仕方がない。


 ♯ ♯ ♯


 響き渡る爆発音が、店舗の中にいる我々にも花火大会の幕開けを知らせた。


 先ほどまでとは打って変わり、閑散としている店内を見て「よくやってくれた。あんたたちは二階に行って花火でも見てなさい。後は私一人でなんとかなるから」といずみさんが言ったことで、俺たちはお役御免となった。

 

 太陽は花川先輩との約束を果たすため大急ぎで河原へ出発し、残された四人は階段を登り二階へ向かった。途中で柏木が「驚くよ」と言ったが、彼女の部屋に通されると、たしかにぶったまげた。


「わぁっ」まず高瀬が労働による疲れを感じさせない透き通った声を出し、それにつられて「おぉ」と俺の声も震え、おまけに月島まで「へぇ」と感心したように言ったから、目の前の光景が驚嘆に値するものであると評して良かった。

 

 柏木の部屋のベランダでは目をみはらずにはいられない、大輪の花火が俺たちを歓迎していた。


 ふふん、と柏木は得意になって、一人部屋の奥へ進む。

「すごいでしょ。河原までさえぎるものが何もないから、すごくきれいに見えるの。この場所、実は、一番の特等席だったりするんだ」

 

 彼女は部屋の電気を消し、ベランダの網戸を開け放った。それによってより鮮明に花火の色を感じることができる。


「蚊には気をつけてよ」柏木はTシャツから伸びた長い腕を指さして言う。「ま、この絶景のために、少しくらいは我慢しなさい」

 

 柏木の部屋は和室ではあるけれど、置かれている家具や施されている装飾は、いかにも十代の、それも若さを謳歌している女の子のそれだった。


 少なくとも生きていることに惑い、高校の屋上のへりに立つ子の部屋だという印象はどこにもない。

 

 とめどなく打ち上がる花火のおかげで、電気が灯っていなくても、部屋は明るい。手招きする柏木に応じて、俺たちはそれぞれ、花火を見るために最適なスポットを探す。

 

 高瀬は部屋からベランダに出て最前線に陣取り、月島は勉強机用の椅子に腰掛ける。その様子を見ていた柏木は少し迷ってから、高瀬の隣へ向かった。


 俺もベランダで見たかったが、そうすると月島に「夜空にも花、両手にも花じゃん」とか言って冷やかされそうなので、やむなく部屋の中央にあるテーブルの前に座ることにした。


 三人の女の子の後ろ姿は、率直に言ってとてもきれいだった。個人的には花火よりもこの光景をいつまでも眺めていたいくらいだ。休みなく働いた疲労からか、それとも花火に見入っているのか、彼女たち三人はしばらくの間、言葉を発することがなかった。

 

 俺はふと厨房で聞いた、いずみさんの話を思い出していた。


「二階の晴香が使っている部屋で、兄貴と有希子さんは放課後になると毎日のように小説について議論していた」と彼女は言っていた。


 まさしく今俺が呼吸をしている、この場所ということだ。


 父娘というあるじの違いがあるから、部屋のおもむきや雰囲気は20年前とは大きく様変わりしているだろうが、俺は恭一(意地でも敬称なんか使うもんか)と母の息吹を感じ取ることができないか、少しの間、意識を研ぎ澄ましてみることにした。

 

 二人はこの部屋でいったいどんな会話を交わしたのだろう? 


 もちろん今の俺と同じ年頃の若い二人だ。小説の話ばかりをしていたわけではあるまい。

 

 授業のこと、家族のこと、友人のこと、病気のこと、そして二人の未来・・のこと。


 話すべき話題には事欠かなかったはずだ。風通しの良いこの部屋で移りゆく季節を感じながら、二人はとても多くの時間を共に過ごしたはずだ。

 

 小説に対する見解の違いをめぐって、喧嘩になったこともあったかもしれない。恭一の発作が止まらず、手当てに終始した日もあるかもしれない。階下の家族の目を盗んでは口づけを交わしたり、抱き合った日もあるだろう。


 二人は自分たちの未来に何が待ち構えているか知らぬまま、一切の邪魔が入らないこの部屋で愛を育み続けたのだ。

 

 恭一と母も、夏の終わりの花火をこの秘密の特等席から眺めたのだろうか? 


 この静かな場所でなら心臓に爆弾を抱えた恭一も人混み嫌いの母も、落ち着いて花火を楽しむことができただろう。


 そう思い、ベランダに意識を向けた時、背中が――そこに寄り添って空を見上げる男女の背中が――視界に映り込んだ気がした。ほんの一瞬のことだ。肩幅の広い男の肩に、髪の長い女の子が、頭を預けていたのだ。

 

 俺は瞬きをして、再度ベランダを見つめる。


 しかし「たまやー!」と唐突に柏木が叫んだことで、若い男女の幻は驚いてどこかに隠れたのか、どんなに目を凝らしてもその後ろ姿をもう見ることはできなかった。


 疲れているんだ、どうかしている。俺は小さくつぶやいて、気持ちを切り替えた。


「ねぇ、ところで、『たまや』ってなんなの? どういう意味?」

 柏木が振り返り、月島に真顔で問う。


「なーんで、私が知ってる前提だ?」

「なんかさ、江戸っ子なら、知ってそう」


「江戸っ子……」小さな額に手を当て、月島は言葉を失う。

 

 柏木は続ける。「東京の人ってみんな花火見て『たまやー』って言うんでしょ?」


「そういうのを偏見って言うんだよ」


 実際柏木はイメージだけで発言していたっぽいけれど、「でも、風情はあるよね」と高瀬がすぐにフォローを入れ、そして両手を拡声器にして「たまやぁ!」と彼女らしからぬ大声で叫んだ。


 すると柏木は何を思ったか「タカセヤー!」と、花火には何の関係もない宣伝を夜空に放ち、隣の高瀬と笑い合った。とても無垢に、とても無邪気に。


「馬鹿じゃないの」吹き出したのは月島だ。でも彼女はすぐに「いいぞー、もっとやれー!」と、最前線の二人を後方からはやし立てた。

 

 おいおいお嬢さん方、そういうのは近所迷惑になるからやめようよ、と思った俺は、果たしてつまらない男なんだろうか、それとも善良な市民だろうか。


 願わくば、後者であってほしいところだ。


 ♯ ♯ ♯


 ふいに外から風が流れ込み、風鈴を鳴らした。その風は少しだけ冷たくて、いよいよ季節が変わることを肌で実感させられる。


「あーあ、今年も夏が終わっちゃうねぇ」と柏木は寂しがる。ベランダで俺と同じことを感じたらしい。


鳴桜高校うちの補習って、本気なんだね。ここまでキツイとは思わなかった。バンドもあったし、全然遊べなかったんだけど! もう、最悪!」

 

 バンドはともかくとして補習は自業自得だろう、とこれは、おそらく俺以外の二人も思い浮かべた意見だけど、支離滅裂な反論が予想されるからか、誰もそれを口にすることはなかった。


「来年はやるよ」花火を背に、柏木は決意表明する。「来年の夏は遊んでみせます。そういうわけでご指導期待しているからね、上位の君たち」


「他力本願じゃ、成績は上がらないよ」

 実は成績は悪くない月島が、もっともな指摘をした。


「そうだぞ、みんなそれなりに忙しいんだから」

 そう言いつつも、柏木の口から来年という言葉が聞けたので、「その調子だ」とひそかに心で続けた。


「鳴桜高校に受かるくらいだから、晴香だってやればできるんだよ」

 高瀬は彼女なりに落ちこぼれを励ます。


「とにかく!」柏木は文字通り地団駄じだんだ踏んだ。「せっかくこんなに優秀な先生たちがにいるんだもん、活用するから。お願いね、頼みますよ」

 

 なんとなく不穏だな、と感じ高瀬・月島と顔を見合わせるも、「たーまやー」と再度柏木が陽気に叫んだことで、再び夜空に視線を転じることになった。


 ♯ ♯ ♯


 花火は時間の経過と共に、華やかさを増していた。


 序盤はそれほどぱっとしない演出の連続であくびが出たりもしたけれど、中盤以降はそのあくびを見て「舐めるなよ」と発奮したかのような、目覚ましいエンターテインメントショーを見せつけてきた。


 俺たちは明日から新学期だという現実もすっかり忘れて、ただ夜空を舞台にした芸術に目を奪われていた。

 

 赤、青、緑、黄色、紫、橙、水色――。


 色とりどりの光が現れては消え、心にその色を刻みつけていく。そして俺はそれを素直にきれいだと思える。 

 

 ふと、当たり前のようにそんな反応を示した自分がいることに、強い違和感を覚えた。


 それぞれの色をそれぞれの色として認識できる。花火を花火として楽しめる。それは決して当たり前のことなんかじゃない。

 

 実はこのことは気に留めておくべきなんじゃないか? そう、冷静になって自分に語りかける。思い出してもみろよ、と。以前の俺が今夜と同じ花火を見たとして、こうして心を動かされただろうか?


 孤独に日々を生きる中で、いつからか俺の瞳に映る世界からは色が失われていた。

 昼も夜も晴れの日も雨の日も、街の風景は決まって重いなまり色だった。

 シチューにもオムレツにも熟れた桃にも、食欲をそそられる色はなかった。

 信号からだって色が損なわれ、車にかれそうになったこともあった。

 中学校の屋上から見た風景には、間違いなく死の色が含まれていた。


 それほどまでに俺は追い込まれていたのだ。

 

 そうである以上きっと、夜空に舞い上がるこの花火も俺の目には差違を欠いたモノクロの光景にしか映らなかっただろう。

 

 しかし今の俺は、しっかりと色彩を認められる。さらに素晴らしいことには、心から美しいとさえ感じることができる。


 そしてそれはまぎれもなく、今目の前で夜空を見上げている三人のおかげだ。

 

 俺は功労者たちの背中を順に見つめる。

 

 月島がこの命を救い、高瀬に生まれて初めての恋をし、柏木とは同じ痛みと戦う戦友だ。


 彼女たちが俺の世界に再び色を与えてくれた。


 そう考えると、とたんに心の深い場所でなにかが震えた。


 その震えはどんなに抑え込んでも収まりそうになかった。気付けば、両の頬を伝って落ちるものがあった。


「どうした、神沢?」

 月島のその声に、ベランダの高瀬と柏木もこちらへ振り返った。


「悠介、泣いてる……の?」

 柏木がかがんで言った。

 

 高瀬は明らかに俺の情けない姿に気付いていたけれど、何も喋らないで優しくうなずくという選択肢を選んだ。そこで俺はたまらなくなってしまった。


 無意識に口から出たのは「ありがとう」という言葉だった。


「今の俺は、花火が心からきれいだと思える。それは、みんなが、色を取り戻させてくれたからだ」

 

 視界は潤んで、もう何もまともに見えやしない。それでもなんとか言葉を継いでいく。


「世の中がこんなに色で溢れているなんて、前は気付かなかったんだ。ひどい毎日だった。つまらない毎日だった。一人で生きていた毎日だった。いや、そもそも、生きているか死んでいるか、それさえもよくわからなかった。でも今ならわかる。感じることができる。俺は笑えるし、生きているし、世界はとてもカラフルだ」

 

 三人の顔を直視できないから、涙を拭って、夜空を見上げる。それでもまだ、花火はにじんで見える。


 柏木がベランダからこちらにやってきた。そして「こんにゃろう!」と言って俺の髪を両手でくしゃくしゃにき乱した。「どうしてくれんのよ、この空気。しんみりしちゃったじゃない」


「すまんすまん!」と俺は言った。「悪かったって」

 

 月島が椅子から俺を見下ろし、続く。

「感謝しろよー、ナキムシ」


 それは最も男子に言ってはいけない言葉の一つに違いなかったので、「うるせーな」と返すと、彼女は無表情を解き、いつくしむような微笑みをその小さな顔に浮かべた。


「神沢君」今度は高瀬が澄んだ声を出す。

「とにかく、わかるんだね? 花火がきれいだって」


「ああ」俺は深くうなずく。

「それだけでいいんだよ」と高瀬は言った。彼女の穏やかな顔は、より一層かすんで見えた。

 

 繰り返される花火の爆発音と静けさのリズムが絶妙で、心地よい。神経は妙に高ぶっている。「みんなに会えて良かった」と俺は言う。


「本当に、良かった。みんなの未来は、必ずなんとかするから。問題は山積みだけど、とにかくさ、前に進もう。ひとつだけ言っておくぞ、今の俺は、ちょっとおかしくなっている」

 

 最後のは照れ隠しとしても、これは偽らざる本心だった。


 高瀬だけじゃない。柏木と月島も、最後には笑顔で、高校を卒業させてやらなきゃいけない。それが彼女たちの苦悩を知り、また彼女たちに救われた者の、果たさなければならない務めだろう。


「ま、がんばってもらおうじゃない?」

 柏木が高瀬と月島に向けて両手を広げた。

「悠介が今言ったこと、二人とも忘れないでよ。約束が守られそうになかったら、蹴っ飛ばしちゃっていいから」

 

 蹴っ飛ばされるだけで済めばいいが――高瀬にならば一度蹴られてみたい気がしないでもないが――いずれにせよ、なんとも柏木らしいその発言のおかげで、しんみりした雰囲気は立ち消え、主役は再び花火となった。


 ♯ ♯ ♯


「終わったねー」

 ベランダで高瀬が可愛らしく背伸びした。


「すごかった。たいしたもんだ」

 映画の悪役が主役を嘲笑うような拍手をして、月島が感想を述べた。


 この街は好きじゃないけど、この花火だけは褒めてやってもいい。言外にそういう意思がぷんぷん匂っていたけれど、実際にそれを口にするほど、空気が読めない娘でもない。


「来年も来るでしょ?」柏木は言う。「来年も花火の日はお店、混むから。手伝ってもらって、それからここで花火見物。もう恒例行事にしちゃおう、うん」

 

 柏木特有の人の事情を無視した物言いに、三人が呆れて閉口したところで、一階から聞き慣れた声で「おーい!」と聞こえた。「みんな、助けてくれー!」


「葉山君だ」と高瀬が言った。

 

 何はともあれ、助けをわれている以上、彼の元に向かうしかない。


 俺たちは階段を降りて店舗へと出た。見ればテーブル席の鉄板で帆立貝や|牡蠣かき、アスパラガスを焼きながら生ビールを楽しんでいるいずみさんに、太陽は文字通り、捕らえられていた。


「この子ねぇ、一目見た時から、いい男だと思ってたのよ。最近珍しい、この情熱的なギラギラした瞳なんか、特に私好みだわぁ。ああ、美味しそうっ!」 

 いずみさんは、くっはー、と豪快にジョッキをあおり、唇に泡を残す。


「あ、だめだ」柏木が諦め口調でつぶやいた。「ああなっちゃったら、うちの|叔母おばさん、誰にも止められないから。今日はそういう日なんだ。朝まで飲む気だ。花火特需でがっぽり儲かったし、仕方ないね」


「おい、悠長に説明してんな、そこ!」太陽は椅子から身を乗り出して言うも、通路側に腰掛けるいずみさんにブロックされているため、逃げることはできない。「朝までとか、シャレにならんわ。ちょっと本当に助けてくれって!」

 

 哀れな色男は仔猫みたいに襟首えりくびを掴まれて、再度椅子に座らされた。


 俺は友を憐れんだ。「ずいぶん早かったんだな、花火は今終わったばかりなのに」


「花川先輩、怒って帰っちゃったんだよ。短い時間しか会えないって言うから。そして戻ってきたら、このザマだ。ったく! 柏木家のせいで、踏んだり蹴ったりだよ!」


「可哀想に」傑作だ、とばかりに手を叩いて月島が笑う。

 

 いずみさんはぷりぷりの牡蠣を太陽に「あーん」と食べさせた。「あら、太陽君、年上好きだったの? ちょうどいいじゃない。私なんか、人生の大先輩よ!」


「葉山君、良かったね、叔母さんに気に入ってもらえて。結婚しちゃいなさいよ」

 柏木のその提案は冗談に聞こえなかったから、太陽は「ふざけんな!」と声を荒らげた。


「さ、行こう行こう。叔母さん、後はごゆるりと」

 

 |めいの心配りにいずみさんは手を振って応じ、太陽に絡みついた。


「いいのかな?」高瀬が苦笑する。

 

「いいのいいの。叔母さん、仕事で忙しいからたまにはああやって発散させてあげないと」

 

 雨続きで散歩に行けない大型犬の元に投げ込まれたおもちゃのような友に「太陽も俺に色を取り戻させてくれた一人だよな」と心で感謝を告げる。

 

 ♯ ♯ ♯


 柏木が部屋の電気をつけ、俺は「さて」と息を吐いた。「そろそろ帰るか」


「そうだね、明日からいよいよ新学期だし」高瀬も続く。


「何言ってんの。あのね、実はもう一仕事残ってるんだよ」

 そう言うと柏木は、勉強机の引き出しから何かを取り出し、それを中央のテーブルに放り投げた。


「あ」月島の動きがぴたりと止まった。


 俺はその物体を確認する。それは夏休みの課題として一ヶ月前に配られた、分厚いプリントの束だった。今まさに刷られたように折れ目一つついていない。


「おい、柏木……」

 課題集を手に取る。優に50ページはある。俺は血の気が引くのを感じる。

「おまえこれ、一切手付かずじゃないか! どうするつもりだ!」


「教えてもらうつもりだ!」

 柏木は当然のように言って、お茶目に舌を出した。

 

 月島が偏頭痛を堪えるように頭をおさえる。

「それでさっき、私たちのこと、先生って」


「活用するって」高瀬は白い目で柏木を見た。


「だって」と柏木は駄々をこね始める。「補習もあって、バンドもあって、海にも行って、お店の手伝いもあって、その上こんなバカみたいな量の課題をやらなきゃいけないなんて、まともな高校生の夏休みじゃないもん! さ、教えてよ!」

 

 俺の手から課題集を奪い取ると、柏木はテーブルの前で威勢良くあぐらをかいた。はちまきを渡せば、「よし来た」と額に巻きそうな勢いだ。


「待てよ。今からこいつに教えるとなったら……」

 俺は時計を見る。時刻は夜の9時を回っている。


「徹夜、だよね」

 高瀬がおそらくは柏木の理解力を計算に入れた上で発言した。


「みんなの未来は、必ずなんとかするから」と柏木は俺の真似をした。「課題がこんな真っ白だとさ、明日あたしが学校でどんな目に遭うかわかるよね? ほら、さっそくピンチだ。明日だって立派な未来でしょ。なんとかしてみなさい!」


「逃げられないみたいよ、神沢」月島が悟ったように言った。

「やるしかないか」高瀬も観念したようだ。「晴香。厳しくいくからね」



 こうして時おり一階から太陽の悲鳴が聞こえる中、俺と高瀬と月島で教科を分担して、柏木の指導にあたることとなった。「鉄板焼かしわ」の一日お好み焼き食べ放題券と引き替えにして。


 出口の見えないトンネルに足を踏み入れた気分でもあったが、もはや引き返すことはできない。入口には強固な柵がめぐらされている。進むしかない。


 うっすら明るくなり始めた外を見て、俺はふと物思いにふけった。

 

 春が過ぎ去り、夏も終わろうとしている。大口を叩いたはいいが、結局俺は高瀬の政略結婚を覆す起死回生の一手も、柏木を二度と屋上に行かせないための隙がない論理も、月島が心の傷を克服し東京の実家で暮らすに至る道筋も見つけられないでいる。


 ひそひそ話をしている人が目に入れば、自分のことを笑っているのかと疑ってしまうし、大学に行くための資金が足りていないのは、相も変わらずだ。


 そして俺たち五人の未来は、依然として濁った雲によって光が遮られている。

 

 おいおい、一歩も前進できていないぞ。そんな声がどこからともなく聞こえてくる。これで果たして未来はひらけるのか? と。

 

 ただ、少なくとも、俺は一度失った色彩を取り戻した。

 太陽はバンドに戻り、仲間たちと共に前にも増して練習に励むようになった。

 高瀬は何があっても大学に行くと、たしかに俺に誓った。

 柏木は集中できる何かがあれば、生に惑わないことを認識した。

 月島は小さな身体に強い勇気を宿し、黒い心を持つ男を断罪した。

 

 なんだ、まずまずじゃないか。


 その歩幅は大きいものではなくとも、俺たちは着実に前に進んでいる。決して小さくない問題を抱えたまま、俺たちはこのまま進む。

 

 購買の幻のきなこメロンパンを裏ルートで入手する方法を企み、関係代名詞の用法のわずらわしさにため息を吐き、新学期に待ちかまえる50㎞に及ぶ強行遠足をサボる口実を必死で考える。


 それでいい。俺たちは今のところ、きっとそれでいい。


 そんな日々の中にこそ、未来に立ちこめる雲を散らす手がかりは埋もれているはずだ。

 

 俺は注意深く目を凝らし、見過ごすことなく、それを拾い上げなければいけない。時には彼らの手を借りながら。


 結局俺は、笑顔でこの夏を終えることにした。


 なにしろ俺たちにはまだまだ潤沢な“明日”が残されているのだから。下を向いてばかりもいられない。顔を上げよう。


 夢見人だって、誰かが笑っても、かまうもんか。


 笑う奴がいるならば、いっそそいつに柏木の課題を丸投げしてしまおうか。我ながら、それはなかなかいいアイデアだ。


 

 最後に、「どうやって中学校を卒業したんだ、よく鳴桜めいおう高校に受かったな」と呆れ返ってしまうほど英語の基本がわかっていない柏木に対して、昼間の理不尽なスパルタ指導の仕返しだとばかりに、学業に対しては割と妥協を許さないタイプの俺でさえ思わず「厳しすぎだ!」と止めに入るほど、それこそ鬼女の顔つきで英語の基礎を叩き込む高瀬がいたことを、蛇足だそくながら、付け加えておく。


               

                    第一学年・夏〈終〉


 

 今回の季節もお読みいただき、ありがとうございました!

 一日お休みをいただき、6月20日から新章『第一学年・秋』の物語を投稿いたします。夏ではロックバンドを組んだ悠介たちですが、秋では探偵団を結成するようです。どうぞご期待ください!


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