第4話 アヒルの群れで育っても空は飛べる(後)


 そのような状況下にある人間に遭遇した際に、どんな第一声をかけるのが正解なのか。


 そういう知識を俺が持ち合わせていればよかったんだろうけど、残念ながら何も思い付かないので、とりあえず名前を呼ぶことにした。


「柏木」

 驚かせて惨事にならぬように、しかし確実に聞こえるように、声量を調整する。

「そんなところでなにしてるんだよ?」

 

 彼女は縁の部分でこちらに振り返った。そして肩をすくめた。

「どうして悠介がこういう時に来ちゃうかなぁ」


「とりあえずこっちに来い。馬鹿な真似はよせ」

「馬鹿な真似って?」とぼけるように彼女は言う。


「どう考えたってそこから――」飛び降りるところじゃないか、と言いかけてやめた。何が引き金になるかわからない。「柏木。そこで足を踏み違ったり、バランスを崩したりしたら、どうなるかわかるよな。とにかく、こっちに来い」


「大丈夫。ここね、意外と余裕あったりするのよ」

 彼女は戯けてそう言い、そこで平然とフラメンコを踊ってみせた。

「オーレ!」


「やめろ馬鹿、死にたいのかっ!」


 柏木は無表情でこちらを見つめると、体を反転させ、再び俺に背を向けてしまった。 

 

 身の毛がよだつとはよく言ったものだと、場違いながら感心していた。恐怖で体毛がぞっと逆立つ感覚が、本当にあった。


 もはや傍観していられなかった。俺は駆け出して、柏木との距離を一気に縮めた。


「ねぇ悠介」と彼女は背中越しに言った。「人ってなんで生きてるんだろうね?」


「なんでって……」

 そんなこと、一介の高校生に過ぎない俺が知るはずがない。でもなにか答えなきゃいけない。

「ある意味、それがわからないから、生き続けるんだろ」


「わからないから生き続ける、か」柏木は再びこちらへくるりと振り返った。「ねぇ悠介。あたしがここから飛び降りたらダメ? 死んだら、悲しんでくれる?」


「悲しむさ、そりゃあ。だから飛び降りたらダメだ」

 こんな状況では、相手がたとえ囚人だって、そう言わざるを得ないだろう。


「それじゃあ、あたしと恋人になってくれる?」

「今はそんな状況じゃないだろ。なんでもいいから、早くこっちに戻ってこいって」


「やだ。恋人になってくれなきゃ、鹿、する」

「くだらん冗談はやめろ」

「くだらん冗談じゃない」と彼女は真剣な顔つきで言い切った。


 俺はあたふたする。

「か、柏木。そ、その、恋人になってほしいっていう気持ちはうれしいよ。でもだな、とにもかくにも、まずはこっちに……」


 そこで柏木は身をよじらせて、くくっと笑い始めた。どうした? と俺が声をかけると、それが火に油を注ぐかたちとなって笑い声はますます大きくなり、ついには腹を抱えて笑うに至った。


「ごめんごめん、悠介」柏木は目元を指で拭う。「実はくだらん冗談でした。ほんっとゴメン。もう、かわいいんだから」

 

 彼女はしばらく笑い続けると、何事もなかったかのように、長い脚で軽快にフェンスをまたいできた。パンツ見えたでしょ、と抜かす余裕もあった。


 たしかに淡いピンクの何かが視界に入ったが、堪能している場合じゃない。

「あのな。いくらなんでも、悪ふざけにしちゃ度が過ぎるぞ。俺をからかうのはかまわないけれど、もし突風でも吹いて体勢をくずしたりしたら、おまえは今頃――」

 

「ちっとも悪ふざけじゃないよ」と彼女はさえぎって言った。

「まだ続ける気か」


「そうじゃなくて」それはむしろ俺がなだめられているような口ぶりだった。「全部本気と言えば、本気なんだよ」

「はぁ?」

 

 冗談だと言ったかと思えば、今度は本気だと言ったり、もうわけがわからなかった。

「どうしたっていうんだよ。いったいなにがあったんだ? 今日は朝から普通に授業を受けて、昼休みには四人で未来のため協力しようと盛り上がって、五限目はいつものように気持ち良さそうに居眠りして、その流れで、なんでこうなっちゃうんだよ?」


「あたしね、時々ふと、生きていることが恐くなるんだ」

 柏木はシニカルに微笑むと、フェンスにもたれかかり、幻想的な朱に染まる空を眺めながら言葉を続けた。

「なんかね、生きていていいのかな? っていう不安がぞわぞわと襲ってくるの。そういう時はよくここに来て、さっきみたいに、いつでも死んじゃえる状況をわざとつくって、そこに自分を置いてみるのよ。


 そうすると生きていても良い理由、ちょっとはわかるかもって思ったんだけど、今のところダメだね、さっぱりわかんない。あたしね、そこに立ってもちっとも恐くないんだ。風が強い日でも、横殴りの雨の日でも。おかしいよね、生きていることは恐くなるのに」


 生きていて良いに決まってるじゃないか、と言うのはとても簡単なことだった。しかしそれを口にしたところで、言葉が柏木に浸透せずに、宙に浮くのは目に見えていた。そんな安直な一言で解決するならば、そもそも彼女はこんな馬鹿げた行為を日常的に行うわけがない。


 人ってなんで生きてるんだろうね――。

 

 俺は無意識に先ほどの柏木の問い掛けをつぶやいていた。生きていることが恐くなると聞いた後なら、回答は変わったものになる。

「15年そこらしか生きていない俺たちに、生きている意味なんて、生きていて良い理由なんて、わかるかよ」


「悠介、知ってる?」と柏木はそれには反応せず言った。「あたしたちの生と死ってね、紙一重なんだよ。ホントにもうびっくりするくらい。たとえば今ここに空から隕石や飛行機が落ちてきたらあたしたち、まず間違いなく死んじゃうよね? 今はこんなに生きているのに。


 いつかの悠介の言い方を借りればさ、隕石や飛行機が落ちてくる確率って天文学的に低いかもしれない。でも決してゼロじゃない。そしてどの瞬間もそのゼロじゃない確率で死はあたしたちを待ち構えている。そう考えるとさ、毎日こうして生きていられるのって、奇跡だと思わない?」


「奇跡。まぁ、そうかもしれないな」

 今目の前にいるのは本当に柏木晴香だよな、と首をかしげる自分がいた。生に苦悩する別人が、彼女の身体に憑依して喋っているのかとすら思ってしまう。

「どうしたんだよ。なんだってそんな厄介なことを考えるようになった?」


「小学六年生の時にね」と柏木は言った。そしていつになく悲しい目で空を見上げた。「あたしのお母さん、自分で死を選んだの」


 俺は息を呑んで彼女の話に耳を傾けた。 


「家の台所でね、首を吊ってね、死んじゃった。首を吊る三十分前まであたしと次の日の学芸会のことを笑って話していたのに。あたしが眠くなって自分の部屋に戻ったあとに、お母さん、天国に行っちゃった。あたしは寝付きが良いんだけど、たまたまその日は喉が渇いて台所に行ったら……びっくりしちゃった。ほんの三十分前まで元気に動いてた人が、冷たくなってるんだから」

 

 柏木は記憶の整理をつけるように間を置いた。俺はなにか相槌を打とうと思ったが、適切な言葉が見つからなかった。


「それがきっかけで『あ、本当に人って死ぬんだな』って、心に染みついちゃって。以来、いろいろ考えるようになったの。自殺という形ではあるけれどもね、お母さんの生と死を分けたものだって、きっと微妙なものだったはず。紙一重だったはず。あたしの喉が渇くのがもうちょっと早かったら止められたかもしれない。何か一つでも『死ねない』とお母さんを思わせる要素なり、偶然なりがあれば、死ななかったかもしれない。そう、あたしのお母さんはあの日、そのを引いちゃったんだ」

 

 柏木はそこまで言うと、一度深呼吸した。そして続けた。


「そういう風に考えてみると、あたしが今こうして生きているのって、すごい偶然と幸運の上に成り立ってるんだなって思ったわけよ。そうまでして生かされているあたしたちって、それに釣り合うほどちゃんと生きているのかなって、悠介は思わない?」

 

 彼女はずいぶんと難しいことを問うてくる。俺はそんなに立派な人間ではないけれど、だからといって、誰かに自分のせいの質を審査される筋合いなんてない。

「俺は神様なんか信じてないから『生かされている』と思ったことはないし、図々しいと言われても『釣り合ってなくたって生きてやる』っていうくらいの気概でいる」


「そっか。タフだね、悠介は」と柏木は言った。「あたしはダメだ。そんな風には思えない。生きていて良いなんて、思えない」


「結果、生きていることが恐い」

 俺が言うと、柏木はうなずいて「恐い」とオウム返しをした。そしてそのまま話し続けた。

 

「言っておくけど、あたし決して、死にたいわけじゃないんだよ? お母さんが自殺して、あたしもそっちの世界に行っちゃおっかな、っていうんじゃないからね」

「あくまでも、生きていて良い理由を求めている」

 

 柏木は静かにうなずいた。


「だったら」俺はすぐに反応する。「さっきみたいなのはもうやめた方がいい。おまえの求める答えが見つかる前に、本当に死んじまうぞ。いつか」

 

「死んでもそんなに後悔しないかも」と彼女は好きなかき氷の味を答えるようにしれっと言った。「ただ『ついにここで小さい確率を引いちゃったか』って、地面に落ちながら、思うだけじゃないかな」

 

 母親の後追いをするような形で自殺願望があるわけではないと聞いて一息ついたのも束の間、なんだか俺は純粋にもったいないな、と感じていた。柏木ほどの美しい容姿と明るい性格があるならば、そんな七面倒くさいことは考えずに、美人女子高生として毎日を楽しく過ごせばいいじゃないか、と。


 誰しも羨やむような非の打ち所のない彼氏でも作って(柏木にとってそれはさほど難しいことではないはずだ)イタリアンの店で優雅にデートでもしていればいいのだ。

 

 そんな日々は彼女の頭から生への恐怖心や厄介な疑問を、きれいさっぱり追い出しはしないだろうか?


 そういうことをぼんやり考えていると、柏木は俺の顔を覗き込んできた。

「痛い女とでも、思ってる?」


「思ってないよ」

「本当?」


「ああ」なんだか可哀想だな、とは思ったが。

「でも驚いたでしょ。あたしがこんなことを考えて毎日過ごしていただなんて」


「正直、驚いた」

 

 教室での天真爛漫な柏木を見るに、なんの悩みもなさそうだと一度判定を下したわけだが、今やそれは撤回せねばなるまい。彼女もまた肉親の自殺という決して小さくないショックを抱え、さらにはそれを契機に、広い迷宮に迷い込んでこの高校生活を迎えたのだ。


「柏木、なんだか悪かったな」俺は詫びることにした。「俺はおまえのことを勘違いしていたよ」


「いいってことよ。誰も思いつかないでしょ。あたしにこんな悩みがあるなんて」

 彼女は俺のよく知る、おはじきをまき散らしたみたいな明るい顔に戻って言った。

 

「そういえばたしか昼休みに、将来の夢は幸せな家庭を築くこと、って言ってたよな? それってお母さんの件が関係してるのか?」


「悠介にしては鋭いね」と柏木は言った。「あたしの両親は仲が悪くてほとんど会話がなくてね。ある日父親が耐えかねたらしくとうとう家を出て行ったの。その何日かあと。お母さんが死を選んだのは。お母さんはなんとか家族として三人でうまくやっていけるよう望みを持っていたみたい。でも父親が家出して、その望みが絶たれた」

 

 それを聞いて俺は自分の家庭環境を思い出していた。俺の両親も似たようなもので、表だって口論するわけではないが、不仲なのは明らかだった。とりわけ母が父を嫌悪していて、母からは事務的な用件がある時しか話しかけなかったように記憶している。学校で「冷戦」という言葉を習った時には「まさにうちのことだ」と思ったものだ。


 柏木は言った。

「小さい頃なんか、家族仲の良い友達の家に遊びに行くと、もう羨ましくて羨ましくて仕方なくてねぇ。『家族ってこんなに話をするんだ』ってびっくりしたくらい。好き同士で結婚して子どもができて家族になっているんだから、そんなに難しいことでもないはずなのに、どうしてウチは仲良くすることが出来ないんだろうって、あの両親の元に生まれたことを呪ったりしてたな」

 

 幼き日の柏木の気持ちは、俺も痛いほどわかった。両親仲の良い同級生の子にはいくら勉強や運動で勝っても追い越せていないような、そもそも自分が人間として負けているような、大きな劣等感を抱いたものだった。


「お母さんの意思を継ぐ、って言うと格好つけすぎかもしれないけど、そんなわけであたしは幸せな家庭を築きたい。お金持ちじゃなくてもいいから笑顔の絶えない家族の一員になりたい。それがあたしの望む未来」


 ふいにひとつ疑問が込み上げてきた。父親が行方をくらまし、母親が亡くなったとなると、今は誰が彼女の保護者なのか。俺はそれを訪ねてみた。


叔母おばさん」と柏木は答えた。「父親の妹さん。昼に『うちは鉄板焼き屋』って言ったでしょ? 叔母さんのお店なの。けっこう繁盛してるのよ。あたしもタダ飯食いってわけにはいかないから店の仕事を手伝ってるの。女ふたりだけで切り盛りするの、大変なんだから」

「そいつはご苦労さん」


「とにかくあたしは本気だよ。日本一――いや、世界一幸せな家庭を築いてみせる。でも……」

「でも?」


「幸せな家庭どころか、普通の家庭すら知らないあたしがそれを実現できるのか、そこがすごく不安なんだよね……」


 柏木は今にも泣き出しそうだった。下唇を噛み、肩は震えている。それは普段の高飛車で自信満々な彼女からはとうてい想像できない姿だった。


 俺の耳には老占い師が口にした“未来の君”についての説明がよみがえった。

「どうやらこの女性も御仁のように今現在、自らの未来に生じた困難に頭を悩ませている様子でございますな」


 柏木もまた自身の思い描く“未来”と、現行の延長線上に待ち構えている“未来”とのギャップに苦しんでいる一人だった。アヒルの群れで育った幼鳥が空の飛び方を知らないように、彼女もきちんとした家庭というものを知らないのだ。


 ただきっと、と俺は思う。ただきっと、柏木はアヒルの群れにうっかりまぎれ込んだ白鳥の子なんじゃないか、と。

 

 アヒルの群れで育っても空は飛べる。

 空を飛びたいと羽を広げ続ける限り、その願いはいつか成就するはずだ。


 柏木は不安を追い払うように頭を数度振ると、何を思ったか俺の肩になれなれしく右手を置いた。

「そんなわけで頼りにしてるから、悠介」


「どういう意味だよ?」

「そのままの意味だよ」


「何を言ってるのかわからない」

「幸せな家庭には、が必要不可欠でしょうが」


 俺がなにも喋れないでいると、彼女は左手も肩に置いた。

「悠介、あたしたちは運命で結ばれてるんだよ。今は優里のことが好きかもしれない。でも最終的に悠介が惹かれるのはこのあたし。そして一緒に生きていくことになる。だって悠介はあたしの運命の人であたしは悠介の運命の人だからね」


「どうしてだ」と俺は言った。「どうしてそう思うんだ?」


 彼女はそれには答えず、肩から手を離すと、「優里かぁ」と背伸びして言った。「かわいくて優等生のお嬢様。ライバルとしてはなかなか強敵だけど、ま、がんばりますか」


 俺と俺の疑問を置き去りにして、柏木は屋上の入り口へ向けて歩いていった。

 

 強力な嵐が過ぎ去った後の農夫のような心持ちでぽかんとしていると、その嵐をもたらした女は扉の前でこちらに振り返った。そして両手でメガホンを作ってこう告げた。

「好きだぞ、未来の旦那さん!」


 彼女が去ると俺は一つため息をついた。

 

 茜色の空を名もなき鳥たちがじゃれ合って飛んでいく。

 

 黄昏に落ちていく世界を、俺はただぼんやり眺めていた。

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