第一学年・秋〈失恋〉と〈探偵〉の物語
第20話 この想いには価値がある(前)
スマートフォンにダウンロードしてある、お気に入りのドラムソロを目覚まし時計代わりに大音量でセットしているためだ。
寝起きが悪い太陽はそれでも簡単に枕から頭を離さないため、もうすでに起きている他の家族からはえらく不評である。
朝の情報番組で世間のトレンドと一日のニュースを確認しながら、朝食をとる。
大病院の院長である父親は夜遅くまで家に帰ってこないことが多いから、この朝の食卓が父子の貴重な会話の場となる。
父は子に「病院を継いでもらうぞ」、子は父に「絶対にプロのドラマーになってやる」という本音をそれぞれ隠しながら、時にそれをちらつかせながら、とりとめのない会話をする。
マスコミによる揚げ足取りにも思える政治家の失言や、中東の石油利権欲しさに出る大国の
父は「まだまだ若いな」と鼻で笑うが、一人息子が案外しっかりとした考えを持っていることが、実は誇らしかったりするらしい。
朝食をとり終わると、太陽は丹念に顔を洗う。
彼は夏でなくても洗顔に冷たい水を使用する。そうすることで顔の筋肉が引き締まって、完全に目が覚めると言う。そして鏡を見ると、もうそこには冴えない男に変わって、きりっとした表情の好青年が佇んでいる。
肌を傷つけないよう優しく髭を剃り、二種類のワックスを使って寝癖を直し、自慢のショートレイヤーを整えていく。ドライヤーで髪型を固定させ、三面鏡で様々な角度から確認して、隙がなければ完成だ。
彼は常々口にする。「いい男は隙を見せちゃだめなんだ」と。
高校へは徒歩通学だ。
家から高校までの距離だけを考えれば自転車通学が可能であるが、太陽は敢えてそれをしないで歩く。というのも彼は、登校途中も重要な社交の場と考えているからだ。
示し合わせて共に登校する固定の友人がいるわけではないけれど、歩いていれば、ほぼ確実に見知った顔と出会う(それは8対2くらいの比率で圧倒的に女子が多い)。
その知人がもし初対面の生徒と一緒なら、太陽は「よろしくな」と虹が架かりそうなスマイルで迎えるものだから、高校に到着する頃には彼の校内支持率はいくぶん上昇している。
そのようにして太陽は人脈を着々と広げ、しかもそれを維持継続できるように努める。
そういった一連の行動は「上辺だけの友人関係」にうんざりしている男らしくないと言えばらしくなく、
地域では知らない者のいない大病院の御曹司にして、容姿端麗、人を選り好みしないオープンな性格と来れば彼には穴がないように見えるが、強いてそれを挙げるならば、成績が
しかしそういった泣き所すら、葉山太陽という人間の妙味を引き出しているように思える。
学校の成績は――当人には申し訳ないが――目が飛び出るほどに悪い。では頭が悪いのかと言えばそんなことは決してない。彼には一定の思慮分別が備わっており、話術もなかなかウィットに富んでいる。なにより血統の良さはテストで示さなくても誰もが知るところだ。
それにそもそも彼は勉強で目立たなくたって、ドラムスティックをひとたび持てば強く輝けるのだ。文字通り大空で光を放つ太陽のように。
このように弱みを弱みと感じさせない男が人を惹き付けないわけがなく、それはことさら異性に対して言えるのだった。
下駄箱にラブレターがひっきりなしに入っているなんていうのは漫画の世界のエピソードかと思っていたが、この男はそれをきっぱり否定してみせた。
本当に入っているのだ。彼の下駄箱には小綺麗な封筒が。
しかしその恋文の差出人が
「俺は彼女は作らんよ」と彼はいつも苦笑して言うのだ。
それでも「自分に向けられた好意へのせめてもの誠意」として太陽はそれをていねいに開封し、律儀に隅々まで目を通すことは忘れない。
返答を求められていたならきちんと返すし、そうでないとしても相手が自分の知っている娘であれば、放っておくことはせずにわざわざ自分から会いに行って、申し訳なさそうな顔で断りを入れる。
このようにラブレターの対処一つとっても太陽は実に男らしく、生真面目で小粋である。洗練されていると言っても良いだろう。
葉山太陽は良く出来た男なのである。
しかし彼は、どういうわけか恋人をかたくなに作らない。
高校に入学以来彼は、ラブレターに限らず、全てのアプローチを拒絶し続けている。
「彼女を作らない方が高校生活を
煩わしかった暑さも急用を思い出したかのようにすっかりどこかへ退場し、代わりに肌寒さを確かに感じるようになった9月下旬の朝、若き乙女達を悩ませる罪な謎を抱えた伊達男の登校のお供は、俺が務めていた。
♯ ♯ ♯
「同性愛者じゃねーよ!」
俺は勇気を出して、噂の真偽を本人に確かめていた。
「おいおい、頼むよ。悠介までそんな根も葉もない噂を信じないでくれよ」
「そうは言うけどな」俺は周囲の目を気にする。「こうしておまえと一緒に行動する機会が多い俺まであらぬ風評被害を
おほん、と太陽は芝居がかった咳払いをする。
「とにかくオレの恋愛対象は男じゃないぞ! 女だ! オレは女が好きなんだー!」
「わかったよ!」
大声で何を白状しているんだ、と俺は慌てる。ここは無人の山頂じゃないんだぞ、と。
進学校ならではの登校風景と言っていいだろう。まわりを見渡せば、英単語帳をまじまじ見つめながら歩みを進める男子生徒が目に入り、模試の結果とにらめっこをして志望校の絞り込みに苦心する女子生徒も確認できる。
二学期中間テストもそう遠くはないので、誰もが一定の緊張感を持って数字と重圧と、あるいは自分と闘っている。
ただ例外として俺の隣を歩く男だけは、テストも偏差値も無関係とばかりに、大きく口を開けてあくびをする体たらくっぷりだ。なんでも朝の4時までオンラインゲームに熱中していたという。
同じ高校に通う生徒とは思えぬ時間の使い方に呆れていると、後方から「ようちゃん」という声が聞こえた。
それは自分が南国のお花畑にいるのかと錯覚するような、牧歌的な女の子の声だった。そしてきっと太陽のことを「陽ちゃん」と呼んでいる。
隣で呼ばれた当人は歩くのをやめ、「ぎゃっ」と肩をすくめた。俺たちは振り返る。
「陽ちゃん、おはよう」
鳴桜高校の制服をまとった女子生徒が、駆けてきたのだろう、少し息を切らして言った。薄いレンズの縁なし眼鏡が、真っ先に俺の目に留まった。
「まひる。その呼び方は、外ではやめろっていつも言ってるだろ」
太陽は恥ずかしそうに鼻を
俺は軽く会釈する。「どうも」
「あなたが神沢さんですね?」と彼女はたおやかな笑顔で言った。「あなたのことは陽ちゃんからよく聞いています。A組の
俺は日比野さんの顔を観察してみた。最も印象的なのは、眼鏡の奥にある純朴さが滲み出ている二つの瞳だ。垂れ目ぎみだからだろうか、実年齢よりもやや幼い印象を受ける。
顔のパーツはどれもおおむね整っており、もしこの顔で福笑いをやって、多少配置がずれてしまったとしても、それでもなお見るに
長く良い香りがしそうな髪を額の真ん中を境にして均等に流しており、その髪型は彼女の何物にも左右されない公明正大さを体現しているようだ。
眼鏡美人と称して良かったけれど、もし眼鏡を外せば、相当多くの男子がシャツの下で心臓の鼓動を早めることになるのは容易に予想できた。
俺たちは日比野さんを加えた三人で、あらためて高校へ向けて歩き始めた。
「陽ちゃんさ、嘘ついてるよね」と日比野さんは言った。「一学期のテストの順位、中間も期末も199位っておばさんに報告してるでしょ? 本当は239位のくせに。嘘つき」
「こいつ、暇さえあればオレん家に転がり込んで、母さんと
「一度でも200位以下になったらバンドをやめる。そういう約束だったよね?」
「まさかおまえ、母さんにばらした!?」と太陽は声を荒らげた。
「ばらしてないけどね」幼馴染みは深いため息をつく。「神沢さんからも言ってあげてください。陽ちゃん、病院を継がなきゃいけないのに、このままの成績だと医学部なんて絶対無理なんです。わたしの言うことはちっとも聞いてくれなくて……」
日比野さんは太陽の家に入り込んでいるとはいえ、父上の力によって彼がもうすでにどこかの医学部に入学が内定している事実は、幸か不幸か、知らされていないようだ。
「敬語は使わなくて良いよ、同じ歳なんだから」と俺が言うと、太陽がそれに反応した。
「こいつな、ひどい人見知りなんだよ。オレ以外とは、相手が同級生であっても敬語口調じゃないと喋れないの。そんなわけで、窮屈だとは思うが我慢してくれ」
見れば、日比野さんは頬を赤らめていた。
「ちょっとは勉強しろよ、太陽」
裏口入学の件を知らないフリして言っておいた。でも七割くらいは、実は俺も本気でそう思っている。
「へいへい頑張りまーす」と太陽が軽薄に受け流すと、日比野さんはもう我慢ならないといった具合に眉をひそめた。
「中間テストも近いから今日からわたしと勉強会だからね、陽ちゃん。放課後は寄り道しないで、家に帰るんだよ」
「はぁ!? 冗談きついぜ。何が悲しくてそんなことを。オレはおまえと違って、暇じゃないの! やることいっぱいあるの!」
「やることって言っても、どうせ、バンドとかゲームでしょ。いつまで遊んでる気なのさ」
「バンドとゲームを一緒くたにすんな! オレはドラムだけは本気なんだっつの! それにそもそも医学部なんか行かん! 病院も継がん! オレはオレの道を行くのみ! ゴーイング・マイ・ウェイだ!」
ふと「日比野まひる」という六文字をどこかで目にしたことがあるような気がした。
すぐに思い出した。一学期末テストの学年順位だ。俺の記憶に間違いがなければその名はたしか8位の欄にあったはずだ。なかなかの才女じゃないか、と目を見開かずにはいられない。
太陽が手にすべき未来は、医者となり人を救うこと。日比野さんは優秀な頭脳でそう考えているらしい。
駄々をこねる子どもを見る目つきで太陽を見て、彼女は「ばらすよ」と言った。
「神沢さんにばらしちゃうよ。いいの?」
「なにをだ」太陽の目は泳ぐ。
「お医者さんごっこ」
「あーっ!」と叫んだ太陽に口を塞がれそうになるも、それをひらりをかわし、日比野さんは俺の隣にやってきた。そして早口で言った。
「子どもの頃の話なんですが、陽ちゃん、『お医者さんごっこだ、パパの真似だ』って言って、わたしの胸やお尻を触ったり――」
「わーわー!」と太陽がわめいてその声をかき消す。
触ったり――それ以上に何をやったというのだ。
「悠介、この女にはな、実は虚言癖があるんだよ。信じちゃだめだ」
学年8位の言うことと学年239位の言うことのどちらを信じるべきかは明白で、時効だろう、という擁護も頭をよぎったが、結局俺は、太陽を冷ややかな目で見ることにした。
勉強しよう/しないの水掛け論を繰り広げる二人を横目に俺は、日比野さんの気立ての良さというか、お茶目さというか、とにかく飾り気のない清々しさのようなところに自分が親しみを覚えていることに気づいた。
人間不信は依然として治らないけれど、どうやら彼女は信じてよさそうだ。
「これが最後のチャンス」と日比野さんは言った。「陽ちゃん。勉強、する、しない?」
「しない!」と太陽はかたくなに答えた。
「あっそ。じゃ、とっておきを出すからね。神沢さん。実はですね“霧に閉ざされた幼稚園事件”っていうのがあるんですが……」
「ダメッ!」太陽は取り乱す。「あれだけは絶対言っちゃダメ! もう悠介と顔を合わせて話ができなくなる! わかった、やるよ。勉強する」
「最初からそう言えばいいのに」
「人の秘密をぺらぺら喋る嫌な女!」
「神沢さん、霧に閉ざされた――」
「わーわーわー!」
「陽ちゃん。わたし、嫌な女?」
「まひるはいい女」と太陽はしょんぼり答えた。
♯ ♯ ♯
昼食をとるため、高校の中庭に来ていた。昼休みで、太陽も一緒だ。
購買で運良く幻のきなこメロンパンが手に入ったので、俺はそれにかじりつき、太陽は隣で弁当を食べている。
「うまそうだなぁ、幻のきなメロ」太陽は箸を休める。「一口くれよ」
「そんな立派な弁当があるのになに言ってんだ」
見れば太陽の母上が作ってくれたというその弁当は、鮮やかな色彩に富み、様々な創意工夫が感じられる。肉、野菜、魚のバランスもとても良い。率直に言って、とてもうまそうだ。
時間と手間が惜しげもなくその弁当には投入されていて、一見しただけで、長男への深い愛情が伝わってくる。
俺はそんな弁当を高校の昼休みに食べることができる友人に、強い羨望を抱いていた。
どれだけふざけていても、どんなにテストの点は悪くても、太陽はきちんとした家できちんとした親の元に生まれたきちんとした人間なのだ。それに対し俺は――。
手作り弁当の有無ひとつとって、今更ではあるが、そんなことを考え卑屈になってしまう。
俺は首を振って別の話題を振ることにした。
「なぁ、“霧に閉ざされた幼稚園事件”って、おまえ、日比野さんにどんな
「バ、バカ。言えるわけねーだろ!」太陽はむせ返る。「これだけはな、たとえどんな拷問を受けたとしても、墓場まで持って行くことに決めてるんだよ!」
「ふぅん」俺にはそれほどの秘密はない。よほどのことなのだろう。
「それにしても参ったなぁ」太陽は顔をしかめる。「勉強するって、まひるに言っちまったよ。やる気ゼロだけどな」
「彼女、立派な幼馴染みじゃないか」
「まひるなんかな、うっとうしいだけだって」太陽は手を振って言う。「母親が二人いるみたいなもんだ。実際俺の母親よりもああしろこうしろって口うるさいし、勝手にオレの部屋の掃除とかしていきやがるし」
母親が一人でもいるだけ恵まれているじゃないか、と思って何も返せない。どうも今日はいつになくナーバスだ。
そこで太陽は隣で急に固まった。何事かと思って前を見ると、ちょうど花川先輩が通りかかったところだった。こないだの夏に太陽と一緒に花火大会に行った美人さんだ。
花川先輩は太陽の顔をちらっと見て気まずそうに顔を伏せると、何も言わずそそくさと立ち去っていった。
「彼女のこと、振ったんだってな」と俺は言った。“高嶺の花の花川さん”が太陽に告白して失敗したというニュースは生徒なら知らない人はいなかった。
「まぁな。キレイな人だけどな」
「花川先輩でダメなら、誰なら葉山君を落とせるのって学校中の話題になってるぞ」
「誰も落とせねぇよ。彼女は作らん。それがオレの主義だ」
またそれか、と俺は太陽の発言を気に留める。その言葉の奥に何か重いものが潜んでいるような気がしてならない。
男の俺から見たってドキッとする時があるほど太陽は美男子だし、持ち前の明るく竹を割ったような性格は、決して少なくない数の女の子のハートに矢を放ち、彼女たちにその矢を抜くことを
そんな男子高校生が誰とも交際しないなんて、宝の持ち腐れだとさえ思ってしまう。
ちょうどいい機会なので、俺はいつか聞いてみようと思っていたことを、今尋ねてみることにした。
「あのさ太陽。おまえが彼女を作らないのって、きちんとした理由がありそうなんだが、実際どうなんだ? 思い返せば、春に俺たちが話をした最初の日、たしかおまえ『オレにも人間不信の傾向があるにはある』って言っていたよな? それも踏まえれば、なにかあると思うんだけど」
「なんにもないよ、なんにも。葉山太陽は、孤独を愛する男なのである」
彼は語り部口調でそう言って、口角を気持ち悪いくらいぐっと上げる。それが俺をはぐらかそうとしている
「なぁ太陽。俺たちは包み隠さずなんでも話し合う関係というものを志向していたんじゃないのか? 少なくともおまえはそう言って、俺に近付いてきたはずだ。だから俺はありとあらゆる秘密を、言いたくもない秘密を、お前に打ち明けてきた。違うか?」
太陽は残っていた卵焼きと白米をかっ込むと、渋い顔をして茶を飲み下し、秋の高い空に浮かぶ雲を遠い目で眺めた。そして口を開いた。
「まったく、春先から見たら悠介も成長したもんだ。俺の見立てはやっぱり間違ってなかったんだな」
喜びと照れの入り混じった表情で、彼はぱちんと指を鳴らす。
「やられたぜ。いいだろう、話してみようか」
俺はうなずいて耳をそばだてた。
「結論から言っちまえば笑い話だ。葉山太陽という哀れなピエロの結末を、どうか楽しみにしていてくれ」
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