第一学年・春〈出会い〉と〈宝探し〉の物語

第1話 誰も見たことがないハッピーエンドを(前)


 翌日の昼休み、俺は学校の屋上に呼び出されていた。

 

 朝いつも通りに登校すると、下駄箱になにやら飾り気のない手紙があって、「昼休みに屋上で」とだけ書かれていたのだった。


 筆跡だけでは性別は判別できなかったが、俺は手紙の差出人が女の子であることを望んだ。それも未来に困難を抱えた高瀬優里であることを。


 少し頭を働かせれば、高校生くらいの女の子が異性に対し「昼休みに屋上で」などという可愛さのかけらもない、ぶっきらぼうなメッセージを送るなんてあり得ないことがわかるのだが、情けないことに俺の脳内は高瀬優里のことでいっぱいで冷静な思考というものができなくなっていた。


 だから実際に屋上に現れたのが男子生徒だとわかった時は、微かな期待が外れたことに対し、落胆の溜息をひとつ吐いたのだった。


「やぁ、変な呼び出し方してすまなかったな。でもおまえ、友達いないから誰も連絡先知らないし、教室じゃいつもムスッとしてるから話しかけにくいし、こうするしかなかったんだ。悪く思うな」


 批判された気がして苛立つも、事実なので言い返せない。


その男は、クラスメイトの葉山太陽はやまたいようという生徒だった。


 一人で屋上に現れた葉山は、恥ずかしそうに笑って鼻の頭をもじもじとかいた。背丈は俺と同じくらいだが、肩幅は向こうの方ががっちりしている。

 

 ほどよく焼けた血色の良い肌に磨き上げられた白い歯がえる。ちょうどいい長さの上品なショートレイヤーは育ちの良さをうかがわせた。


「クラスの人気者が俺なんかに何の用だ」と俺は突き放すように言った。


「ははっ。やっぱりサシで話してもそういう感じなのか。なぁ、神沢。なんでおまえ、いつも一人でいるんだ?」

「あいにく、俺は一人が好きなんだ」


 がきっかけで、俺はちょっとした人間不信に陥っていた。いや、ちょっとした、なんていう生ぬるいものではない。


 自分で評するのもなんだか妙だが、客観的に見てみても、俺の他者への拒絶反応はかなり根深いものがあると思う。


 だから高校に入学しても特別誰かとつるむことはせずに、他人に対して壁を築いて毎日を過ごしていたのだ。


 葉山は言った。「もったいないなぁ。お前と話がしてみたいって子、結構多いんだぞ。あ、もちろん女の子な」


「そんなくだらない話だったら帰るぞ」

「なんだよ、興味ないのかよ、女の子」


 ないということはないけれど、今の俺は高瀬優里のことしか考えられなかった。

「どうでもいい」と俺は言った。「帰る」


「ま、待てよ! 本当にしたかったのは、女の話じゃないんだ!」葉山は慌てて、本題を言う、と早口で続けた。「神沢悠介。ズバリ、オレと、友達・・にならないか?」


「はぁ?」

 全く予想していなかったその申し出に、俺はつい頓狂な声を出してしまった。


「頼むよ、この通りだ! なんとか応じてくれ」


 葉山は非礼を詫びるかのように深々と頭を下げる。なんだかこれではまるで、俺が彼をいびっているみたいだ。


「悪いけど俺は、友達とかそういうの、いらないから。それに葉山。お前にはたくさんいるじゃないか、トモダチ」


 葉山太陽の家はこの地域では知らない人がいない総合病院で、彼はそこの御曹司だ。人気俳優のように容姿は整っており、立ち振る舞いにも一定の気品があり、全身から血統の良さが滲み出ている。


 しかしそういったことはちっとも鼻に掛けず、おまけに気さくな性格をしていて、何もしなくても周囲には人が集まってくる。まさしく名前のように太陽のような男だった。


 そんなナイスガイであるから、俺が見るかぎり、クラスの中にも外にも、男でも女でも、葉山にはすでに友達と呼べそうな人間がたくさんいた。


「あいつらは、本当の友達じゃない」美男子は、渋い顔をしてそんなことを言う。「オレはホンモノのダチってもんが欲しいんだ。表面だけじゃなく、何でも話し合える、そんな友達が」


「よくわからない。なんでその『何でも話し合える本当の友達』の候補が俺になるんだよ?」

 彼の前で社交的な振る舞いや懐の深さを見せた覚えはない。


「だっておまえ、いろいろ考えて生きてそうだから」と葉山は言った。

「どういうことだよ?」


「なんていうかだな、おまえと一緒にいると、? って、わかりそうな気がするんだ」


 どうやらこの男は、冗談でこんなことを言っているのではない。その顔つきたるや、真剣も真剣だ。

「俺なんかと一緒にいたってろくなことにはならないよ。俺は疫病神だから。悪いことは言わない。他を当たった方がいい」


 それを聞くと葉山は憐れむような目でこちらを見てきた。

「なぁ神沢。なにがお前をそうさせている? どうして誰とも関わろうとしない? どうしてそんなにかたくなに人との関係を拒む? そんなに人が嫌いか?」


 葉山がふところに飛び込んできたような気がして、俺は強い嫌悪感を抱く。そして心で「ああ、嫌いだ」とつぶやいた。


「いや、あのな、責めているわけじゃないんだ」と葉山は俺の胸中を見透かしたかのように言った。「むしろオレと神沢は似た者同士だと思う。ああ、何を隠そう、実はオレにも人間不信の傾向があるにはあるんだ。ただ何が違うかって、だからといって俺は孤独を自分にいる勇気がない。孤立は、一人になるのは、なんだか怖いからな。でもおまえは何も恐れることなく孤立をつらぬいている。神沢、正直に答えろよ。おまえさ、教室で誰とでもヘラヘラ喋ってる俺を見て『馬鹿だな』って思っているだろ?」


 常に人の輪の中心にいるこの男にも人間不信の面があるなんて、にわかには信じられなかった。とりあえず俺は彼の質問に「思う」と即答した。


「だよな。だってオレが自分で思っちゃってんだもん」葉山は自嘲する。「オレ今なにやってんだろうって。『あ、こいつ信用できない』とか『なんだか嫌な奴だなぁ』とか思っても、うまく対処しちゃう変なテクニックが身についちゃっててな。オレはそんな自分が嫌いだ。ま、あいつらとの交友をやめる気はないけどな。だがな、ああやって和気あいあいと談笑していても、心の中では結構、葛藤してるんだぜ」


 それはむしろ世渡り術としては望ましいスキルじゃないかと思ったが、話に水を差すので黙っていた。


「だから」と続けて葉山は強く拳を握った。「だから神沢。おまえにはダチになってもらう。高校生のあいだくらい、俺は本当に仲良くしたい奴と仲良くする」


「お、おい、ちょっと待て」葉山に丸め込まれるような気がして、俺は慌てて口を開いた。「こっちの気持ちはどうなるんだよ。俺は友達なんか要らないって言っているだろ」


「ここまで頑固だとは、さすがに思わなかった。仕方ない」

 葉山はそう言うと、ブレザーの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、俺に手渡した。


 開いてみるとそれは、何かの解答用紙であることがわかる。そして次の瞬間、絶対に見てはいけないものを見ているような、ぞくっとした悪寒が俺を襲った。


「おい葉山! これって――」二の句が継げない。


 彼は後ろめたそうに浅くうなずいた。「そうだ。鳴桜高校ここの入学試験だ」


 氏名欄には手紙と同じ筆跡の「葉山太陽」という記述があるものの、紙上の全ての回答欄は枠だけぽつんとあって、まったく手付かずになっている。


 もちろんこれでは、点数は0だ。


 確実に不可解な点が二つあった。


 ひとつは、入学試験の回答用紙であるにもかかわらず、生徒本人がこの紙を所持しているということ。小テストや学期末考査でもあるまいし、そんなことはあり得ないはずだ。


 そしてもうひとつは、進学校と誰からも認知されている鳴桜めいおう高校の入学試験で、一教科とはいえ0点を取った人間が、生徒として今俺の目の前に立っているということである――。


「おいおい、そんな幽霊でも見るような目で見ないでくれよ。いや、無理もないか。それが普通の反応か」

 

 葉山は言葉を失っている俺の緊張をほぐすように自嘲気味に微笑んだ。そして俺の手から白紙の解答用紙をすっとつまみ、ため息をついた。


「オレさ、進学校の鳴桜高校ここじゃなくてもっと入るのが簡単な私立に行きたかったんだよ。実はオレ、中学ん頃からバンドでドラムやっててさ、メンバーみんなでそっちに行こうって約束してたんだ。勉強勉強うるせぇ鳴桜と違ってそこならバンド活動に打ち込めるしな」


 葉山は続けた。

「ウチのオヤジ、でっかい病院の院長でさ。そのうえあっちこっちに金出してるし、“なんたら名誉会長”みたいな役職にいくつも就いているから、ものすごい力があるわけ。そんで長男であるオレに病院を継がせる気が満々なのよ。考えられるか? 今高校に入学したばかりなのに、もうとある私立大学の医学部への入学が決定・・してるんだぜ。すごいだろ。オヤジにとっちゃそんなの朝飯前なのさ。息子一人医学部に入れることくらい」


 庶民の俺とは全く無縁の世界の話に気が遠くなるも、一応うなずいて耳をすます。


「大学が決まっているなら高校はどこでも同じじゃないかって思うだろ? でもそうはいかないのが面倒臭いところなんだよ。地域一の進学校の鳴桜ここを出て医学部、っていうルートじゃないとその後がいろいろとうまくいかなくなるらしいんだ。とにかくそんなこんなで俺のバンド漬けライフは泡のように消えちまったんだ」


 葉山は解答用紙に皮肉めいた笑みを投げかけた。


「ガキの頃からずっと将来は医者になるよう親に言われてて、夢も満足に持つことができなくて、ようやく見つけた『やりたいこと』に挑戦すらさせてもらえなくて。それでちょっとした実験を兼ねた抵抗をしてみたんだ。それがこいつさ。オレ、実はここの入試、全教科こうして白紙で出したんだ。わざと間違えたとか、全部『1』に丸つけたとか、そんな甘いもんじゃなくて、もう本当にまっさら。綺麗なもんだ。


 そして結果は――まぁ、おまえの目の前にこうして今オレがいるのが全てだよな。合格発表の前日にオヤジがオレの部屋にこいつを持ってきて一言言ったよ。『馬鹿なことするな』って。ははっ。笑えるだろ? そこまでされちゃ、さすがのオレもお手上げだよ」


 権力にものを言わせた、まぎれもなき裏口入学。それは衝撃的な告白だった。


「こんな、高校に落ちることすらもできない決められた人生やってるとな、本当にわからなくなっちまったんだ。オレの人生ってなんなんだろう? って。さぁ神沢。率直に聞かせてほしい。オレのこんな人生、おまえはどう思う?」


 そこに教室で見るおちゃらけた葉山太陽は、もういなかった。眼光は鋭く、言葉の端々には聞いているこっちが思わず怯んでしまうような、確かな力強さがある。


 気がつけばいつの間にか葉山のペースが出来上がり、俺が淡泊な対応をすることが許されないムードができあがっていた。やむなく俺は頭の中で言葉を探した。


「そんな高尚なことをいちいち難しく考えなくたって、おまえの人生は充分バラ色だろ。おとなしく医者へのレールに乗っかりながら、趣味でドラムをやって花の高校生活を謳歌すればいい」


「そんな保険をかけるような生き方、オレは好かん。だいたい、ドラムは遊びじゃなく本気なんだ!」


 葉山は前のめりになって声を張り上げた。俺の発言の何かがしゃくに障ったらしい。とことん煩わしいが、一度導火線についた火はそう簡単に消えそうにはない。


「完全に校則違反だけど、俺は夜遅くまで居酒屋で働いている」と俺は言った。「それは、大学に行ける可能性を少しでも上げるためだ。俺にもいろいろと複雑な事情があってな」


 赤の他人にいったい何を打ち明けているんだ、と後悔するも、今さら退くことはできない。


「だから、裏口だろうが何だろうが、大学に行けるおまえはそれだけで羨ましいよ。ましてや医学部なんて絶対に俺は手が届かないだろうから。ひがみっぽく聞こえるかもしれないけれど、葉山、お前は『持てる者』なんだよ。聞けば、大学どころかその先だって約束されている。俺らのような『持たざる者』がいくら手を伸ばしても掴めないものをお前はとっくに得ているわけだ。


 『持てる者』には『持てる物』の生き方がある。それはそのまま世の中に対する責任と言ったっていい。悪いことは言わない。何も考えず大きい流れに身を任せておくのが、結果的にお前の幸せにもなる。そのままでいろ」


 葉山は口外したくはない秘密を俺に打ち明けたわけで、礼儀としてこちらも本気になって返すことにした。彼の顔はみるみる赤くなっていく。


「そのままでいろ? 冗談じゃない! オレはもうこんな生き方は嫌なんだ。医者なんてまっぴらだ。大学だって行かなくていい。進学校にだって来たくはなかった! もっと自由に生きたいんだよ! 何が『持てる者』の責任だ! 知るかよ、そんなもん! オレはドラムで生きていきたいんだ! 本気なんだよ! こんな人生糞食らえだ! オレは葉山家の駒じゃない!」


 爆発的に感情を露わにする葉山に驚きつつ、一方で俺は怒りが心に湧き出てくるのを感じていた。


 やはりとある事情で両親がどちらもおらず、高校に来るのがやっとで、大学なんて夢のまた夢の俺からすれば、大学、さらには医者というルートを切り捨ててまで夢を追いたいという葉山の考えは1%も理解できなかった。


 ましてや彼が勝負したいと言っている分野は、音楽だ。実力がどの程度かは俺にはわからないが、いずれにしてもドラム一つで簡単に身を立てられるほど、世の中は甘くないだろう。


 ここまできたら結構だ。とことん言いたいことを言ってやろうじゃないか。


「葉山。おめでたい男だな、おまえは。何不自由ない生活を提供してくれる葉山家の駒は嫌だと言えて、寄ってくる連中を本当の友達じゃないと拒絶できて、みんな普通はきびしい試験をパスしなきゃ入れない高校も大学も行きたくないなんて言えて。それで夢が追えないくらいのことで人生に迷ってしまうんだもんな。でも最終的には逃げ場あるもんな。どうせグダグダ言っている割には、ドラムがダメとなったらちゃっかりレールに戻って大人しく医者になっているんだろ? 


 さっきおまえ『保険をかけるような生き方は好かない』って言ったよな? でも結局おまえは文句を言ってるくせにその葉山家と将来に保険をかけているんだ。本当に保険をかける人生が嫌だと言うのなら今すぐ学校に退学届を出して、家も出て、バイトでもしながらドラマーの道を突き進めばいいじゃないか。本当におまえにその気があるならばなんとかなるはずだ。そうしたらそれこそ少しはわかるかもしれないぞ、人生の意味」


 思い浮かんだ言葉をいっさい躊躇ちゅうちょせず吐き出した結果、強い後悔の念がぞわぞわっと胃の奥から込み上げてくる。言い過ぎた、と。


 つい売り言葉に買い言葉で俺も荒ぶってしまった。一対一で話してみてまだわずか数分しか経っていないこの男にここまで辛辣しんらつなことを言う必要が、筋合いが、俺にあるだろうか?


 なんともいえない微妙な沈黙が昼時の屋上に流れる。気まずくて俺は、彼の顔を直視することができない。


 これでわかっただろ葉山、と俺は内心でつぶやいた。長く人と結びついていない俺は所詮こんな人間なんだよ。俺なんかがおまえの本当の友達になんかなれやしないから、どうか諦めてくれよ――と。


 教室へ戻ろうとひっそりきびすを返した、その時だった。


「なっはっは!」

 葉山の意外な反応に俺は足を止め、振り向いた。彼の口元には笑みが浮かんでいた。とびきり嬉しそうな、極上の笑みだ。

「そうだよな。神沢。おまえの言うことがもっともだよな!」


 そう言う葉山の顔は晴れ渡っていた。彼はこちらへ一歩一歩近づいてきて、俺の両手を力強く掴んだ。


「大声出したり、感情的になったりしてすまなかった。でもこういうことなんだ、オレが求めてやまなかったのは。言いたいことを言えて、それに対して忌憚きたんのない厳しい批判もあって。神沢悠介、お前やっぱりすごいよ。普通、会ってすぐの人間にあそこまできつくは言えない。どうかしてるよ、良い意味で。オレの目に狂いはなかった。間違いない。おまえとならいろいろ話し合える。見ろよ、さっきから鳥肌立ってるんだぜ」


 彼はワイシャツの右袖をめくって俺に見せる。そこには血色の良い肌に小さな突起がびっしりあった。


 葉山は言った。

「悲しいことに教室で擦り寄ってくる連中は、オレというよりかオレの影響力・・・を狙って近づいてきている。だからああいう話は絶対にできない。でも神沢。おまえはなんというか、良くも悪くも『恐れ』ってもんがない。自分がこれだと思ったら、それを言う勇気もある。タブーだとか、一般論だとか、そんなもんちっとも気にかけやしない。俺はとにかく、そういう友人が喉から手が出るほど欲しかったんだよ」


「なんだよ、試したのかよ?」

 すべてが俺の適性をはかるための芝居だったのかと思うと、ついムキになってしまう。


「そうじゃないよ」と葉山は白い歯を見せて言った。「さっきまでの話は全部ホントだし発言もホンネさ。まぁ正直言うと、おまえがどう出てくるかっていうテストの意味合いもちょっとばかりあったけどな。ほら、すぐ帰っちゃうだろうから、まずは交渉相手にはテーブルに着いてもらわないと」


 俺は肩をすくめた。

 葉山はその肩に手を置いた。

「さぁ、今度はお前の番だ、神沢」


「は?」

 言葉の意味がわからず俺は聞き返す。


「おまえが人との関わりを極端に避けたり、大学のために居酒屋で夜遅くまで働かなきゃいけない理由はなんだ。過去に何かあったんだろ? オレに打ち明けてみろ」


「なんでそうなる。さっきのはおまえが勝手に話し始めたんじゃないか」

「そうは行くかよ。ほれほれ」


 葉山はボクサーが対戦相手を挑発するみたいなポーズをして言う。いくら彼の秘密を知ったからと言って、自らの抱える困難を果たして話してよいものか、俺は悩んだ。


「そっか、信じられないか」葉山は残念そうにそう言って、再び俺に白紙の解答用紙を渡した。「それ、神沢にくれてやるよ。オレがもしおまえの秘密を誰かにしゃべったりしたら、その時は遠慮なくそいつを公表すればいい。裏口入学なんて鳴桜高校はじまって以来の大スキャンダルだ。オレは高校どころか、この街にすらいられなくなる」


 たとえ葉山が裏切ったとしても、そんな大それたことをする気はなかったが、この男の真剣さだけは伝わってくる。俺の負けだ、と俺は思った。


「調べればどうせすぐにわかることだから、べつに箝口令かんこうれいを敷くつもりもないけど、まぁ一応釘を刺しておく。これから話すこと――誰にも言うなよ?」


 腕組みしてうなずく葉山をしっかりと見据えて、俺は自分がこれまで背負ってきた過去を話すことにした。それは俺にとって、初めての経験だった。


「俺が小学六年生のとき、母親が家を出て行った。なんの予兆もなくある日突然、ばったりと。はっきりした理由も行き先も同行者の有無も、わからない。まぁ、ここまでなら、世間でよくある出奔しゅっぽん話なんだろうけど、この先が、ちょっと、な」


 緊張を和らげるために、背伸びをして息を大きく吐き出す。おそろしいほど効果はなかった。葉山は腕を組んだまま、こちらを凝視している。


「その一件で、父親が完全におかしくなってしまった。理不尽としか言いようのない理由で俺に八つ当たりするようになったし、飲めもしない酒を毎晩のようにあおるようになった。そして俺が中学校に上がった夏、あの男は絶対に許されないことをしてしまった」


 飛行機が上空を通過し、重い轟音を響かせている。

 俺は音が鳴り止むのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。


「葉山。覚えてないか? 今から三年くらい前に市内で起こった放火事件。駅前の市立図書館が狙われただろう?」


「ああ、全国ニュースにもなったんだよな。よく覚えてるよ――って、まさか」

「そのまさかだ。犯人は俺の親父だ。逮捕されて、今は刑務所の中にいる」


 告白がショッキングだったのか、葉山はすっかり目を丸くした。


「俺の母親は専業主婦で、明るいうちは図書館で過ごすのが日課だった。元々家庭をかえりみなかった母親にとっては、図書館だけが唯一気の休まる場所だったんだろう。そして親父は、母親の家出の理由は図書館にこそあると考えたんだ。それで犯行に及んだ」

 

 俺は記憶をたどりながら、続ける。


「不幸中の幸いでけが人も死者も出なかったけれど、父親が放火で逮捕されたとなると、俺に対する世の中の目は途端に冷たくなった。自分で言うのもなんだけど、俺は子供の頃からそれなりに勉強ができて、わからない子には手取り足取り教えてあげてたりして、ちょっとした人気者だったんだ。


 知っている人を見れば必ずきちんと挨拶もするから『よく出来た子』って近所の人には褒められてたりもした。でも事件以降、それこそ掌を返したように、人々は俺から離れていった」


 忌まわしい思い出がよみがえり、刺すような痛みが胸を襲う。


「犯罪者の血は誰からも恐れられ、疎まれた。それまで仲良くしていた友達はもちろん、教師ですら俺とは距離を取りたがるようになった。まわりのひそひそ話は、いつだって俺を揶揄やゆするものだった。母親が家を出て行って親父が塀の中の住人となると、俺は完全に孤独になってしまった。励まし合う兄弟もいなければ引き取ってくれる親戚もいなかった。

 

 だから俺はあの事件以降、やむなく一人でひっそりと生きてきたんだ。でもこのまま一生やさぐれて生きるつもりはない。人並みの――いや、人以上の幸せを手に入れるため、最底辺から足掻けるだけ足掻いてみるさ。居酒屋で働いて大学を目指すのも、その一環だ」


 葉山は言いにくそうに口を開いた。

「その、住むところとか生活費は、どうしてるんだ?」


「さいわい持ち家の一軒家があるし、親父は逮捕されるまで不動産会社に勤めていてそこそこ貯蓄があったから、それを切り崩してなんとか生きてる」


「なんていうか」葉山は言葉を選ぶ。「月並みだが、その、大変だったんだな。人間不信になって誰とも関わろうとしなくなるのも無理はないか。なんだかオレの悩みは途端に贅沢に思えてきた」

 葉山は恥じ入るように苦笑しながら、こめかみをぽりぽりかいた。


「まぁそう言うな。みんなそれぞれ背負っているものが違うんだ。俺には俺の苦悩があるように、おまえにはおまえの苦悩があるんだろう。どっちが軽い重いの話じゃない」


 俺はそう応じると、右手にある0点の解答用紙を紙飛行機にして、葉山の元へ飛ばした。

「返すよ」


「おい、なんでだ?」


「俺はもう加害者側にだけはなりたくないんだ。もしおまえがこのことを口外したって、おまえの人生を破滅させるような真似はしない。いや、できない」


 葉山はそれを聞くと足下に不時着した紙飛行機を拾い上げた。そして何かを決意したような眼差しでこちらへ歩みを進めてきた。


「よし、もう決まり! やっぱ神沢、おまえで間違いなかった。おまえはオレの本当の友達になれる人間だ。逸材だ! 思った通りいろいろ考えて生きてるんだな。おもしろいよ! あいつらとは全然違う! もう拒否権なんか与えないぞ。今日から俺たちはダチだ!」


「お、おい」葉山にがしっと肩を掴まれ、俺はたじろぐ。「そんな強引な……」


「神沢悠介。いいか、よく聞け。オレは長いあいだずっと本当の友達を欲していたわけだが、話を聞いていて思った。おまえにも必要なんだ、本当の友達。だから、このオレがなってやる。互いのために、それがベストな選択肢だ」


 葉山の身の上話を聞き、怒りにまかせて無配慮な言葉を浴びせ、更に自分自身の境遇を打ち明ける中で、俺の対人警戒機能はいくぶん麻痺してしまったらしい。


 何はともあれ、葉山のその言葉は俺の心を大きく揺さぶった。全く自分らしくないのだが、それを受けて感銘すら受けていた。


 うれしいような、恥ずかしいような、こそばゆいような、不安なような。様々な思いが、浮かんでは消えていく。


 ただ、この機を逃せば葉山がこだわるような「本物かどうか」は別にしても、“友達”なるものをもう一生得られないんじゃないかという気がしないでもなかった。


 孤独な人生はある程度覚悟していたし、慣れっこだったけれども、心のどこかでは親しい友人を求めていたのは事実だ。


 葉山太陽――大病院の御曹司にして人生の意味に悩めるドラマー、か。


「本当の友達なんて仰々しい間柄になれるかどうかはわからないけど、とりあえず、俺でよければ、話し相手くらいにならなってやる」そこでためしに俺は、微笑んでみた。「よろしく」


「ははっ、それ、笑顔のつもりかよ。硬いんだっつの」


「こ、これでも勇気出したんだぞ」


「よしっ、じゃ、オレのことは以降『太陽』って呼んでくれ、俺も『悠介』でいいよな、相棒」


 彼は枯れた花さえももう一度咲かせてしまいそうな会心の笑みを見せて、言った。

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