第一学年・春〈出会い〉と〈宝探し〉の物語
第1話 誰も見たことがないハッピーエンドを(前)
「こらっ、
前の席の
「別に悩みなんかない。放っておいてくれ」
自分の運命がどうだこうだなんて、おいそれと口にできることではない。
柏木は我が物顔で俺の机に身を乗り出してくる。
「あのさ、暇さえあればあっちの方向見てるよね。なんで?」
俺は横目で高瀬優里を見ていたことに気づき、はっとした。慌てて取り繕う。
「な、なんでだっていいじゃないか」
「じゃ、アタシが当ててみよっか」と柏木は言った。「そうだ、女の子でしょ。ズバリ、気になる子がいるね」
なんという嗅覚だろう。女の勘はすごいものがあるというが、柏木もその例に漏れない。
「そんなんじゃない、変な詮索をしないでくれ」
涼しい顔で俺は言うが、柏木は全く耳を貸さずに「誰だろう? 悠介が気になりそうなのは……」と、高瀬の周辺を見てあの子はどうだ、この子はどうだ、と一人でつぶやいている。
彼女は馴れ馴れしく俺を「悠介」と下の名前で呼び捨てにしているが、それほどに俺たちは深い仲というわけではない。入学して間もないうちに、彼女がそう、勝手に呼び始めたのだ(俺は同級生であれば誰に対しても、基本的に敬称抜きの名字で呼ぶようにしている)。
人間関係が深まるにはそれなりのプロセスというものがあると思うのだが、この女にはそういう概念がまるで備わっていないらしい。
「おい、やめろ柏木。ただ天気が気になって窓の外を眺めていただけなんだ」
俺は時刻を確認して歯ぎしりした。いつもならとっくに朝のホームルームが始まっている時間なのに、職員会議が立て込んでいるのか、こんな日に限って担任は来やしない。
「もしかして悠介も優里狙いだったりして?」
その声色から、柏木が冗談で言っているわけではないとわかる。躍起になって否定するとかえって怪しまれそうなので、俺は静かに違うと答えた。
「いやいや。気になっているのは天気じゃなくて優里でしょ。隠すなって」
もうわかってるんだぞ、というニュアンスを言外に含んだ口ぶりだ。
協調的な性格の高瀬は多くの生徒と良好な関係を築いているが、昼食や班決めなどで一緒に行動しているのはこの柏木晴香だった。
傍目から見るかぎり、この二人はどうやら馬が合うらしい。それだけに俺の心のうちを彼女に読まれることだけは、なんとしても避けねばならない。
「いい加減にしろよ柏木。違うって言ってるだろ」
危機感もあり、つい、声を荒げてしまう。
「もうっ! ちょっと言ってみただけじゃないの。そうやってすぐムキになって怖い顔しないの。それじゃ、今日もよろしくぅ!」
柏木は警察の敬礼みたいに右手をこめかみに当てて、前へ向き直った。
今朝も先制パンチを喰らってしまった。こんなやりとりは日常茶飯事だ。彼女の中で俺は、いじりやすいオモチャであるらしい。
柏木晴香はいかにも男受けしそうなはっきりした目鼻立ちに加え、抜群のプロポーションを誇るアイドル的存在の女子生徒だ。日本的で奥ゆかしい高瀬の美とは対照的に柏木のそれは直接的で、言うなればピストルのようである。
柏木の顔の下部に大きく陣取る唇は、両サイドの口角がやや吊り上がっていることで、挑発的な光を放つことに成功している。彼女の顔で一番先に印象につくのは、まず、唇だろう。
二つの瞳は旬の巨峰のように大きく、丸い。残念ながら知的な印象を人に与えることは少ないだろうが、大事なことは見逃さないのだろうな、と感じさせる目ではある。
鼻は、言うなればオアシスだ。すっと、どこか申し訳なさそうに、あるいは存在を押し殺すかのように、顔の中央部に佇んでいる。目と唇の存在感が強いだけに、そんな鼻は、見る者をほっとさせる。
顎は鋭く尖り、耳は縦に大きい。肌にはつやがあり、笑うと頬にえくぼができる。
総合すると、柏木晴香は、腰が抜けるほど美しい女である。
思想や信条や国境を越えて、多くの人がそれに賛同してくれるに違いない。
性格もひたすらに明るく前向きで、誰とも気兼ねなく笑顔で会話できる才を柏木は持つ。それで健全な年頃の青少年たちに人気が出ないわけがなく、もうすでに9人ほど彼女に告白し、フラれているらしい。
そんなゴシップにはさらさら興味のない俺の耳にもこうして情報が入ってくるほど、彼女の動向というのは常にクラスの話題の中心になってしまうのだ。
噂ではなんでも彼女には心に決めた男がいるらしく、だからこそ誰とも交際しないんだとか。
柏木は髪型をいじくり回すのが趣味のようで、地毛だという明るい栗色の髪に毎日必ず何かしらの工夫を施して登校していた。
つまりそれは毎日髪型が違うというわけで、後ろの席の住人としては風景がコロコロ変わるため落ち着かないといったらこの上ないのだが、男子生徒たちにはこれが好評で「毎日違う晴香ちゃんが見られて幸せ」なんて声を聞いたりする。
ちなみに俺は個人的には、ポニーテールが一番似合うと思う。どうでもいいが。
そしてそんな柏木は高瀬と仲良くしているわけで、このタッグの存在感といったら、これはもう、獅子と虎が組んだかのようなすさまじいものなのだ。
それにしても法律違反並みの艶めかしいボディラインだな、なんて思って柏木の背中をぼんやり見ていると、そのくびれの持ち主がまた突然振り返ってきた。
「そうだ、悠介! 英語の課題、やってきた? いや、やってきてるはず!」
「……はいはい」
柏木晴香の後ろの席に一ヶ月も座っていれば、彼女が何を求めているかだいたいわかるようになる。
俺は机から英語のノートを取り出して、青白くなっている柏木に手渡した。
「三限までに写しきれよ」
「サンキュ! さっすが悠介! 愛してるっ!」
嬉しそうに言って、投げキッスをする柏木。その姿はなかなか板に付いている。
「いいな、おまえは。なんの悩みもなさそうで」
脳天気な彼女を見ていると、ついそんな小言だって言いたくなる。夜に居酒屋のバイトがある俺にとっては、時間の余裕などそれほどない中、こなしている課題なのだ。
「なによ、それ。なんかアタシ馬鹿にされてる? むかつくんですけど」
「むかつく? ふーん。じゃ、返せよ、ノート」
「えっ……いや、すいませんっした」
柏木は苦笑いしてノートを大事そうに胸に抱え、何事も無かったように前へ向き直った。
前の席の天真爛漫な女子生徒――柏木晴香。
もちろん彼女も俺がもうすでに「出会っている」異性であるし、「“未来の君”の心当たり」と老占い師に聞いて、この一ヶ月の間、全く顔が思い浮かばなかったわけではない。
しかしエネルギッシュに毎日を過ごす柏木晴香の未来にも、高瀬同様やはり困難と呼ぶべき重荷はのしかかっていないように思えた。
彼女は誰もが羨む美貌を武器にこのまま十代後半を駆け抜けると、いつかは誰もが羨む結婚をし、誰もが羨む家庭を築き、誰もが羨む人生を送るのだろう。
そんな競技開始から着地まで十点満点のすばらしき人生に、俺などが関わってはいけない。彼女は普通に生きていれば、きっと幸せを手にすることが可能なのだ。俺と柏木では、用意されている道が違う。
目の前の背中に冷めた笑みを投げると、担任がようやくやってきた。
俺は朝から女の子のことばかりを考えて緩みきっている頭を振って、気持ちを切り替えた。
♯ ♯ ♯
翌日の昼休み、俺は学校の屋上に呼び出されていた。
朝いつも通りに登校すると、下駄箱になにやら飾り気のない手紙があって、「昼休みに屋上で」とだけ書かれていたのだった。
筆跡だけでは性別は判別できなかったが、俺は手紙の差出人が女の子であることを望んだ。それも未来に困難を抱えた高瀬優里であることを。
少し頭を働かせれば、高校生くらいの女の子が異性に対し「昼休みに屋上で」などという可愛さのかけらもない、ぶっきらぼうなメッセージを送るなんてあり得ないことがわかるのだが、情けないことに俺の脳内は高瀬優里のことでいっぱいで冷静な思考というものができなくなっていた。
だから実際に屋上に現れたのが男子生徒だとわかった時は、微かな期待が外れたことに対し、落胆の溜息をひとつ吐いたのだった。
「やぁ、変な呼び出し方してすまなかったな。でもおまえ、友達いないから誰も連絡先知らないし、教室じゃいつもムスッとしてるから話しかけにくいし、こうするしかなかったんだ。悪く思うな」
批判された気がして苛立つも、事実なので言い返せない。
その男は、クラスメイトの
一人で屋上に現れた葉山は、恥ずかしそうに笑って鼻の頭をもじもじとかいた。背丈は俺と同じくらいだが、肩幅は向こうの方ががっちりしている。
ほどよく焼けた血色の良い肌に磨き上げられた白い歯が
「クラスの人気者が俺なんかに何の用だ」と俺は突き放すように言った。
「ははっ。やっぱりサシで話してもそういう感じなのか。なぁ、神沢。なんでおまえ、いつも一人でいるんだ?」
「あいにく、俺は一人が好きなんだ」
とある事情がきっかけで、俺はちょっとした人間不信に陥っていた。いや、ちょっとした、なんていう生ぬるいものではない。
自分で評するのもなんだか妙だが、客観的に見てみても、俺の他者への拒絶反応はかなり根深いものがあると思う。
だから高校に入学しても特別誰かとつるむことはせずに、他人に対して壁を築いて毎日を過ごしていたのだ。
葉山は言った。「もったいないなぁ。お前と話がしてみたいって子、結構多いんだぞ。あ、もちろん女の子な」
「そんなくだらない話だったら帰るぞ」
「なんだよ、興味ないのかよ、女の子」
ないということはないけれど、今の俺は高瀬優里のことしか考えられなかった。
「どうでもいい」と俺は言った。「帰る」
「ま、待てよ! 本当にしたかったのは、女の話じゃないんだ!」葉山は慌てて、本題を言う、と早口で続けた。「神沢悠介。ズバリ、オレと、友達にならないか?」
「はぁ?」
全く予想していなかったその申し出に、俺はつい頓狂な声を出してしまった。
「頼むよ、この通りだ! なんとか応じてくれ」
葉山は非礼を詫びるかのように深々と頭を下げる。なんだかこれではまるで、俺が彼をいびっているみたいだ。
「悪いけど俺は、友達とかそういうの、いらないから。それに葉山。お前にはたくさんいるじゃないか、トモダチ」
葉山太陽の家はこの地域では知らない人がいない総合病院で、彼はそこの御曹司だ。人気俳優のように容姿は整っており、立ち振る舞いにも一定の気品があり、全身から血統の良さが滲み出ている。
しかしそういったことはちっとも鼻に掛けず、おまけに気さくな性格をしていて、何もしなくても周囲には人が集まってくる。まさしく名前のように太陽のような男だった。
そんなナイスガイであるから、俺が見るかぎり、クラスの中にも外にも、男でも女でも、葉山にはすでに友達と呼べそうな人間がたくさんいた。
「あいつらは、本当の友達じゃない」美男子は、渋い顔をしてそんなことを言う。「オレはホンモノのダチってもんが欲しいんだ。表面だけじゃなく、何でも話し合える、そんな友達が」
「よくわからない。なんでその『何でも話し合える本当の友達』の候補が俺になるんだよ?」
彼の前で社交的な振る舞いや懐の深さを見せた覚えはない。
「だっておまえ、いろいろ考えて生きてそうだから」と葉山は言った。
「どういうことだよ?」
「なんていうかだな、おまえと一緒にいると、人生とは何か? って、わかりそうな気がするんだ」
どうやらこの男は、冗談でこんなことを言っているのではない。その顔つきたるや、真剣も真剣だ。
「俺なんかと一緒にいたってろくなことにはならないよ。俺は疫病神だから。悪いことは言わない。他を当たった方がいい」
それを聞くと葉山は憐れむような目でこちらを見てきた。
「なぁ神沢。なにがお前をそうさせている? どうして誰とも関わろうとしない? どうしてそんなに
葉山がふところに飛び込んできたような気がして、俺は強い嫌悪感を抱く。そして心で「ああ、嫌いだ」とつぶやいた。
「いや、あのな、責めているわけじゃないんだ」と葉山は俺の胸中を見透かしたかのように言った。「むしろオレと神沢は似た者同士だと思う。ああ、何を隠そう、実はオレにも人間不信の傾向があるにはあるんだ。ただ何が違うかって、だからといって俺は孤独を自分に
常に人の輪の中心にいるこの男にも人間不信の面があるなんて、にわかには信じられなかった。とりあえず俺は彼の質問に「思う」と即答した。
「だよな。だってオレが自分で思っちゃってんだもん」葉山は自嘲する。「オレ今なにやってんだろうって。『あ、こいつ信用できない』とか『なんだか嫌な奴だなぁ』とか思っても、うまく対処しちゃう変なテクニックが身についちゃっててな。オレはそんな自分が嫌いだ。ま、あいつらとの交友をやめる気はないけどな。だがな、ああやって和気あいあいと談笑していても、心の中では結構、葛藤してるんだぜ」
それはむしろ世渡り術としては望ましいスキルじゃないかと思ったが、話に水を差すので黙っていた。
「だから」と続けて葉山は強く拳を握った。「だから神沢。おまえにはダチになってもらう。高校生のあいだくらい、俺は本当に仲良くしたい奴と仲良くする」
「お、おい、ちょっと待て」葉山に丸め込まれるような気がして、俺は慌てて口を開いた。「こっちの気持ちはどうなるんだよ。俺は友達なんか要らないって言っているだろ」
「ここまで頑固だとは、さすがに思わなかった。仕方ない」
葉山はそう言うと、ブレザーの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、俺に手渡した。
開いてみるとそれは、何かの解答用紙であることがわかる。そして次の瞬間、絶対に見てはいけないものを見ているような、ぞくっとした悪寒が俺を襲った。
「おい葉山! これって――」二の句が継げない。
彼は後ろめたそうに浅くうなずいた。「そうだ。
氏名欄には手紙と同じ筆跡の「葉山太陽」という記述があるものの、紙上の全ての回答欄は枠だけぽつんとあって、まったく手付かずになっている。
もちろんこれでは、点数は0だ。
確実に不可解な点が二つあった。
ひとつは、入学試験の回答用紙であるにもかかわらず、生徒本人がこの紙を所持しているということ。小テストや学期末考査でもあるまいし、そんなことはあり得ないはずだ。
そしてもうひとつは、進学校と誰からも認知されている
「おいおい、そんな幽霊でも見るような目で見ないでくれよ。いや、無理もないか。それが普通の反応か」
葉山は言葉を失っている俺の緊張をほぐすように自嘲気味に微笑んだ。そして俺の手から白紙の解答用紙をすっとつまみ、ため息をついた。
「オレさ、進学校の
葉山は続けた。
「ウチのオヤジ、でっかい病院の院長でさ。そのうえあっちこっちに金出してるし、“なんたら名誉会長”みたいな役職にいくつも就いているから、ものすごい力があるわけ。そんで長男であるオレに病院を継がせる気が満々なのよ。考えられるか? 今高校に入学したばかりなのに、もうとある私立大学の医学部への入学が“決定”してるんだぜ。すごいだろ。オヤジにとっちゃそんなの朝飯前なのさ。息子一人医学部に入れることくらい」
庶民の俺とは全く無縁の世界の話に気が遠くなるも、一応うなずいて耳をすます。
「大学が決まっているなら高校はどこでも同じじゃないかって思うだろ? でもそうはいかないのが面倒臭いところなんだよ。地域一の進学校の
葉山は解答用紙に皮肉めいた笑みを投げかけた。
「ガキの頃からずっと将来は医者になるよう親に言われてて、夢も満足に持つことができなくて、ようやく見つけた『やりたいこと』に挑戦すらさせてもらえなくて。それでちょっとした実験を兼ねた抵抗をしてみたんだ。それがこいつさ。オレ、実はここの入試、全教科こうして白紙で出したんだ。わざと間違えたとか、全部『1』に丸つけたとか、そんな甘いもんじゃなくて、もう本当にまっさら。綺麗なもんだ。
そして結果は――まぁ、おまえの目の前にこうして今オレがいるのが全てだよな。合格発表の前日にオヤジがオレの部屋にこいつを持ってきて一言言ったよ。『馬鹿なことするな』って。ははっ。笑えるだろ? そこまでされちゃ、さすがのオレもお手上げだよ」
権力にものを言わせた、まぎれもなき裏口入学。それは衝撃的な告白だった。
「こんな、高校に落ちることすらもできない決められた人生やってるとな、本当にわからなくなっちまったんだ。オレの人生ってなんなんだろう? って。さぁ神沢。率直に聞かせてほしい。オレのこんな人生、おまえはどう思う?」
そこに教室で見るおちゃらけた葉山太陽は、もういなかった。眼光は鋭く、言葉の端々には聞いているこっちが思わず怯んでしまうような、確かな力強さがある。
気がつけばいつの間にか葉山のペースが出来上がり、俺が淡泊な対応をすることが許されないムードができあがっていた。やむなく俺は頭の中で言葉を探した。
「そんな高尚なことをいちいち難しく考えなくたって、おまえの人生は充分バラ色だろ。おとなしく医者へのレールに乗っかりながら、趣味でドラムをやって花の高校生活を謳歌すればいい」
「そんな保険をかけるような生き方、オレは好かん。だいたい、ドラムは遊びじゃなく本気なんだ!」
葉山は前のめりになって声を張り上げた。俺の発言の何かが
「完全に校則違反だけど、俺は夜遅くまで居酒屋で働いている」と俺は言った。「それは、大学に行ける可能性を少しでも上げるためだ。俺にもいろいろと複雑な事情があってな」
赤の他人にいったい何を打ち明けているんだ、と後悔するも、今さら退くことはできない。
「だから、裏口だろうが何だろうが、大学に行けるおまえはそれだけで羨ましいよ。ましてや医学部なんて絶対に俺は手が届かないだろうから。ひがみっぽく聞こえるかもしれないけれど、葉山、お前は『持てる者』なんだよ。聞けば、大学どころかその先だって約束されている。俺らのような『持たざる者』がいくら手を伸ばしても掴めないものをお前はとっくに得ているわけだ。
『持てる者』には『持てる物』の生き方がある。それはそのまま世の中に対する責任と言ったっていい。悪いことは言わない。何も考えず大きい流れに身を任せておくのが、結果的にお前の幸せにもなる。そのままでいろ」
葉山は口外したくはない秘密を俺に打ち明けたわけで、礼儀としてこちらも本気になって返すことにした。彼の顔はみるみる赤くなっていく。
「そのままでいろ? 冗談じゃない! オレはもうこんな生き方は嫌なんだ。医者なんてまっぴらだ。大学だって行かなくていい。進学校にだって来たくはなかった! もっと自由に生きたいんだよ! 何が『持てる者』の責任だ! 知るかよ、そんなもん! オレはドラムで生きていきたいんだ! 本気なんだよ! こんな人生糞食らえだ! オレは葉山家の駒じゃない!」
爆発的に感情を露わにする葉山に驚きつつ、一方で俺は怒りが心に湧き出てくるのを感じていた。
やはりとある事情で両親がどちらもおらず、高校に来るのがやっとで、大学なんて夢のまた夢の俺からすれば、大学、さらには医者というルートを切り捨ててまで夢を追いたいという葉山の考えは1%も理解できなかった。
ましてや彼が勝負したいと言っている分野は、音楽だ。実力がどの程度かは俺にはわからないが、いずれにしてもドラム一つで簡単に身を立てられるほど、世の中は甘くないだろう。
ここまできたら結構だ。とことん言いたいことを言ってやろうじゃないか。
「葉山。おめでたい男だな、おまえは。何不自由ない生活を提供してくれる葉山家の駒は嫌だと言えて、寄ってくる連中を本当の友達じゃないと拒絶できて、みんな普通はきびしい試験をパスしなきゃ入れない高校も大学も行きたくないなんて言えて。それで夢が追えないくらいのことで人生に迷ってしまうんだもんな。でも最終的には逃げ場あるもんな。どうせグダグダ言っている割には、ドラムがダメとなったらちゃっかりレールに戻って大人しく医者になっているんだろ?
さっきおまえ『保険をかけるような生き方は好かない』って言ったよな? でも結局おまえは文句を言ってるくせにその葉山家と将来に保険をかけているんだ。本当に保険をかける人生が嫌だと言うのなら今すぐ学校に退学届を出して、家も出て、バイトでもしながらドラマーの道を突き進めばいいじゃないか。本当におまえにその気があるならばなんとかなるはずだ。そうしたらそれこそ少しはわかるかもしれないぞ、人生の意味」
思い浮かんだ言葉をいっさい
つい売り言葉に買い言葉で俺も荒ぶってしまった。一対一で話してみてまだわずか数分しか経っていないこの男にここまで
なんともいえない微妙な沈黙が昼時の屋上に流れる。気まずくて俺は、彼の顔を直視することができない。
これでわかっただろ葉山、と俺は内心でつぶやいた。長く人と結びついていない俺は所詮こんな人間なんだよ。俺なんかがおまえの本当の友達になんかなれやしないから、どうか諦めてくれよ――と。
教室へ戻ろうとひっそり
「なっはっは!」
葉山の意外な反応に俺は足を止め、振り向いた。彼の口元には笑みが浮かんでいた。とびきり嬉しそうな、極上の笑みだ。
「そうだよな。神沢。おまえの言うことがもっともだよな!」
そう言う葉山の顔は晴れ渡っていた。彼はこちらへ一歩一歩近づいてきて、俺の両手を力強く掴んだ。
「大声出したり、感情的になったりしてすまなかった。でもこういうことなんだ、オレが求めてやまなかったのは。言いたいことを言えて、それに対して
彼はワイシャツの右袖をめくって俺に見せる。そこには血色の良い肌に小さな突起がびっしりあった。
葉山は言った。
「悲しいことに教室で擦り寄ってくる連中は、オレというよりかオレの影響力を狙って近づいてきている。だからああいう話は絶対にできない。でも神沢。おまえはなんというか、良くも悪くも『恐れ』ってもんがない。自分がこれだと思ったら、それを言う勇気もある。タブーだとか、一般論だとか、そんなもんちっとも気にかけやしない。俺はとにかく、そういう友人が喉から手が出るほど欲しかったんだよ」
「なんだよ、試したのかよ?」
すべてが俺の適性をはかるための芝居だったのかと思うと、ついムキになってしまう。
「そうじゃないよ」と葉山は白い歯を見せて言った。「さっきまでの話は全部ホントだし発言もホンネさ。まぁ正直言うと、おまえがどう出てくるかっていうテストの意味合いもちょっとばかりあったけどな。ほら、すぐ帰っちゃうだろうから、まずは交渉相手にはテーブルに着いてもらわないと」
俺は肩をすくめた。
葉山はその肩に手を置いた。
「さぁ、今度はお前の番だ、神沢」
「は?」
言葉の意味がわからず俺は聞き返す。
「おまえが人との関わりを極端に避けたり、大学のために居酒屋で夜遅くまで働かなきゃいけない理由はなんだ。過去に何かあったんだろ? オレに打ち明けてみろ」
「なんでそうなる。さっきのはおまえが勝手に話し始めたんじゃないか」
「そうは行くかよ。ほれほれ」
葉山はボクサーが対戦相手を挑発するみたいなポーズをして言う。いくら彼の秘密を知ったからと言って、自らの抱える困難を果たして話してよいものか、俺は悩んだ。
「そっか、信じられないか」葉山は残念そうにそう言って、再び俺に白紙の解答用紙を渡した。「それ、神沢にくれてやるよ。オレがもしおまえの秘密を誰かにしゃべったりしたら、その時は遠慮なくそいつを公表すればいい。裏口入学なんて鳴桜高校はじまって以来の大スキャンダルだ。オレは高校どころか、この街にすらいられなくなる」
たとえ葉山が裏切ったとしても、そんな大それたことをする気はなかったが、この男の真剣さだけは伝わってくる。俺の負けだ、と俺は思った。
「調べればどうせすぐにわかることだから、べつに
腕組みしてうなずく葉山をしっかりと見据えて、俺は自分がこれまで背負ってきた過去を話すことにした。それは俺にとって、初めての経験だった。
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