第41話 すべて燃え尽きてしまえばいいのに(後)


「神沢。いいかげん白状しなさい」

 月島の眼差しには、獲物の擬態ぎたいを見破ろうとする捕食動物のそれに勝るとも劣らない鋭さがある。

「キミ、富山で柏木とんだろ?」

 

 カンナ先生の精力的な進路指導が終わり、「けっぱれけっぱれ悠介!」の余韻よいんが耳に残るなか、俺は校舎隅にある旧手芸部室に顔を出していた。

 

 その“秘密基地”には月島がひとりでいた。彼女はなにやらお洒落な洋楽をイヤホンで聴きながら問題集を解いているところだった。しかし入室したのが俺であることを把握すると、ペンを置いてイヤホンを耳から外し、待ってましたと言わんばかりに富山の夜に関する尋問を開始した。


 それが15分前のことだ。


「別にね、やったらやったでかまわないんだ」と彼女は言った。「キミと柏木は男と女なんだから。そんでもって柏木は同性の私がクラッと来る時があるくらい、べらぼうに良い女だ。フェロモン・マシーンだ。歩くED治療薬だ。キミはそんな女と寝床を共にしたんだ。キミの理性が崩れ去ったって、これは仕方ない部分もある。嫉妬してるわけじゃないよ。ただね、私は隠し事をされるのがイヤなの。『あの夜のことはふたりきりのヒ・ミ・ツ』っていうのがムカツクの。さぁ神沢。怒らないから、本当のことを話しなさい」


「しつこいよ、月島」俺は心底うんざりしていた。それでも大事なことなので、声を張るべきではあった。「何度言えばわかるんだよ。俺と柏木のあいだには何もなかった。それが本当のことだ。本当の本当に何もなかった」


「富山まで行って、それぞれの親に会って、いろんな想いを共有して、柏木の記憶まで戻って、そして二人で旅館の同じ部屋に泊まって。『疲れたな。明日は朝早いことだし、今夜はもう寝るか、柏木』、『そうだね、悠介。おやすみ』――消灯」そこで先日めでたく17歳の誕生日を迎えたばかりのクールなお姉さんは、柄でもなく吹き出した。ないない、という風に手を振る。「そんなのありえない。お子ちゃまのお泊まり会じゃあるまいし」


「ありえないって言われたって困る」と俺は困って言った。「いいだろう。あの夜、それっぽいムードになったのは認めよう。もしもふたりの会話の順序や呼吸のリズムなんかがひとつでも違っていれば、最後の一線を越えていたかもしれない。でも結局、なんやかんやあって俺たちはその一線を越えることはなかった。それがおまえの求めている真実だ」

 

 左右の脇には尋常じゃない量の汗が滲み出ているが、堂々としていていいはずだった。八百万神やおよろずのかみに誓って嘘はついていない。勃起もしたし抱き合ったまま眠ったし盛大な夢精もしたけれど、俺は柏木の体のいかなる穴にも自分の一部を入れてはいない。


「何もなかったんだ?」

「なかった」


「揉んだり舐めたり噛んだりも?」

「なかった」

 

 月島の頬が赤らむ。「キスも?」

「なかった」


「そうですか」と言いつつも月島はまだ合点がいかない様子で片肘をテーブルに突いたので、俺は眉をひそめた。


 そんなに引っ掛かるのなら、柏木にも聞いてみればいいじゃないか。そう提案しようかとも思ったが、やめた。あることないことごちゃ混ぜにして自分の都合の良いように事実を歪曲し、今以上に事態をややこしくするのが柏木晴香という女だ。


「どうしたんだよ、月島らしくないな」と俺は所感を述べた。「おまえは人一倍敏感なんだから、俺と柏木のあいだに何かあったら、真っ先に気付きそうなものだけど」


「みんな、私のことを買いかぶりすぎ。私は、超能力者じゃないの」

「まぁ、そりゃそうか」

 

 月島は一考してから、俺と柏木の関係を怪しむ理由をこう説明した。

「なにかあったと考える方が自然だろうが。だって柏木、富山から帰ってきてすごく変わったもの。一皮むけた感じがする」


「それは」自然と表情が和らぐ。「月島、それはな、女として成長したんじゃないよ。人間として成長したんだ。柏木は富山でしっかり弱さを克服したんだよ」


「ふーん」と言って月島は脚を組み替えた。そして再び問題集へ意識を転じた。ただ、イヤホンは耳にはめなかった。


 ♯ ♯ ♯

 

 他の三人が部屋に現れたのは、それから10分後のことだった。


 その時俺はちょうど新鮮な空気を体内に取り込むため、部屋の窓を一枚残らず開け放っていた。窓辺からの眺望には、消防車もパトカーも爆撃機も異星人が操る巨大なモンスターも確認できない。


 幼稚園の庭ではたくさんの子どもたちが無邪気に駆け回り、産婦人科の屋上では何枚もの真っ白なベッドシーツが帆のように風にはためく。


 高瀬が愛するこの街は、今日もなかなか平和だ。


「神沢君」頬の筋肉が条件反射でびくんと動いた。高瀬の声だ。「カンナ先生、何の用だった?」


「それがな」と言いながら俺は自分の席についた。「やっぱり二年生ともなると、不備のある進路希望調査票は受け付けてもらえないってことが証明された」


「叱られたの?」

「こっぴどく」


「嘘つけ」笑ったのは太陽だ。「カンナ先生が悠介を叱るシーンなんかイメージできねぇよ」

 

 俺も笑った。それから高瀬の顔を見た。カンナ先生の話を念頭に置き、「学部、早く決めなきゃな」と目でそれとなく語ると、彼女はこくんとうなずき苦笑してくれた。「そうだよね」と謙虚な唇が動いた気がした。

 

 高瀬とのささやかな交歓を柏木にいちいち見咎みとがめられるのも嫌なので、「三人とも、ずいぶん遅かったな」と適当なことを言ってみると、柏木はどこか自慢気に口を開いた。「それはね、新聞部の取材を受けてたから」


「ここへ来る途中につかまっちまってよ」太陽が補足する。

「けっこう楽しかったよね」高瀬は高揚を隠さない。

「で、何の取材?」月島は簡潔に聞く。


に関するインタビュー」と柏木が率先して答えた。「ほら、今校内は心霊現象の話題で持ちきりでしょ? 七不思議にまつわる心霊現象。落ち目の新聞部としては、ホットなネタを記事にして、ちょっとでも注目を集めたいんじゃない?」


「おい悠介。幽霊騒ぎって何だ? って顔してるぞ」

 別に太陽を喜ばせるつもりはないけど、「幽霊騒ぎって何だ?」と口に出していた。たしかに初耳だった。


「悠介って、オレたち以外からは本当に情報が入ってこないのな」


「交友関係が狭くて悪かったな」

 いったいいつまで俺はその泣き所をもてあそばれるのだろうか。


「まぁいい。せっかくだから、何も知らない悠介にオレが語ってやろう。身の毛もよだつ、恐怖の鳴桜めいおう高校七不思議を――」

 

 前口上がおどろおどろしかっただけにそれなりの関心をもって太陽の話を聞いていたが、なんてことはない、それはどこかで耳にしたことがあるような怪談の寄せ集めだった。

 

 誰もいないはずの音楽室からピアノの音色が聞こえる、であるとか、裏庭の焼却炉から何者かのうめき声が聞こえる、であるとか、階段の踊り場で無念の死を遂げた女生徒の霊が出る、であるとか。


 傾向としては他の四つもだいたい似たような感じだ。子供だましの非科学的ミステリー。高校生にもなって馬鹿馬鹿しい、というのが俺の率直な感想だった。

「幽霊なんて、俺は信じないぞ」


「でもね」高瀬はいくぶん怯えている。「実際に心霊現象に遭遇したっていう生徒が後を絶たないんだよね」


「わかった」と俺は情報を整理してから言った。「幽霊騒ぎは、新聞部の自作自演だ。紙面を盛り上げるための。春だし、新入部員をひとりでも多く獲得したいんだろ」

 

 柏木は首をひねる。

「たしかに廃部寸前らしいけど、かといってそこまでするかなぁ? 自演だとしたら、いくつも校則を破ってるわけだから、一歩間違えば停学処分だよ?」


「しっかしこんな春先に幽霊騒ぎなんて、季節外れもいいところだよな」そこで太陽は、幽霊さーん、と臆することなく呼びかけた。「今年は出てくるのがちょいと早いんじゃないですかねぇ? この辺にもいるんですかぁ? いたら姿を見せてくださいよっ!」

 

 もちろんどんな返事もどんな変化もなかった。あったら大変だ。

 

 そこで思いも寄らない反応を示したのは月島だ。彼女は「そういうの、やめようよ」といつになくか細い声で言って、肩をすぼめた。「本当に出てきちゃったら、どうすんの」

 

 太陽は、やにさがった顔をぬっと前へ突き出す。

「あれれ? もしかして、月島嬢って、お化けとかが苦手な人?」

 

 月島の首から上がみるみるうちに赤みを帯びていった。ビンゴ、らしい。


「あら、涼ちゃんカワイイ」柏木が皆の気持ちを代弁した。


「月島さんって、そういうの平気そうなのに」高瀬も皆の気持ちを代弁した。

 

「誰にだって苦手なものの一つや二つくらいあるでしょ?」と月島はあたふたして言った。「うまく説明できないけど、子どもの時から嫌いなんだからしょうがないじゃない。肝試しとか、心霊写真とか、ホラー映画とか、ああいうのを楽しめる人ってどうかしてると私は思う」


「クールビューティの意外な弱点、見っけ、の巻だな」と太陽は戯けて言った。「意外性のある女の子って、いいよな。17歳のお姉さん、ステキです」

 

 結論からいえば、太陽はもうこれ以上月島をおちょくるべきではなかった。ここでやめておくべきだった。からかわれることに慣れていない人間は、それを続けられると、どこでどんなスイッチがオンになるかわからないのだ。


 月島の場合、ハンサム野郎が整った顔立ちをわざわざ崩し、手首から先を下に向け「うらめしやー」と底気味悪い声を出した瞬間が憤怒のスイッチの入りどころだった。

 

 太陽の左頬の数センチ先を何かが高速でかすめていった。それはステンレス製の定規だった。中学時代から月島が愛用しているものだ。定規という名の凶器は、太陽の後ろにあるホワイトボードにしっかり存在を刻みつけ、鋭利な音をたてて床に落ちた。


 見れば月島は穏やかに微笑んでいた。「悪霊は退治しないとね」と彼女は言った。


「すみませんでした」と太陽は言った。その青ざめた表情は、まるで幽霊でも見たかのようだ。


 ♯ ♯ ♯


 それからしばらくとりとめのない雑談が続いた後で、話題の主役は退任するカンナ先生になった。


「寂しくなるよな」と太陽は生気の抜けた声を出した。「カンナ先生、もうちょっとで辞めちゃうんだもんなぁ。あーあ、ショックだなぁ」

 

 即座に柏木が応じる。

「まさかあんた、今度は人妻の女教師までターゲットにするつもりだったの?」


「アホか! そういうんじゃねぇよ。オレは、純粋にひとりの教師としてカンナ先生のことが好きだったんだよ!」

 

 太陽は、みんなもそうだろ、と言いたげな顔で続ける。

「なんつーか、厳しさの中にも愛があったよなぁ。オレたちみたいな落ちこぼれにも、分け隔てなく接してくれたしさ」


「まぁね」と柏木も別れを惜しんだ。「勉強ができない奴は人間のクズだ、みたいなことを腹の中では思ってる教師も多い中、あの人は成績下位の生徒にも優しかったよね。……っていうか、誰が落ちこぼれだ! あんたと一緒にすんな、バカ葉山!」

 

 残念ながらカンナ先生の中でも、柏木は落ちこぼれかそれに類する生徒であるに違いない。


「葉山君、カンナ先生の古文だけは居眠りしなかったもんね」と高瀬は言った。


「いと悲し」と太陽は言った。そして力なくテーブルに伏した。いとあはれなり。


「A組の生徒にとっては、担任が変わるわけだから、感傷もひとしおだよな」

 俺がそんな風に月島に水を向けると、彼女は珍しく素直にうなずいた。


「カンナ先生、私のをなんとなくわかってくれてさ。私が自然にクラスに溶け込める雰囲気を整えてくれたんだよ。おかげですごーく楽に過ごせた。慣れない土地での慣れない高校生活をここまでまぁまぁ穏便にやってこられたのは、カンナ先生が担任だったから。卒業まであの人が受け持ってくれたら、どんなに良かったか」


 月島の弱み――中学時代の暴行未遂事件に端を発する深刻な男性恐怖症は、もちろん進級したからといって克服できたわけではない。彼女の人知れぬ闘いは17歳になった今も続いている。


「今からでも遅くない!」太陽には妙案が浮かんだらしい。「2年A組の生徒みんなで『辞めないで』って懇願すれば、カンナ先生、考え直すんじゃないか?」

 

 月島はシニカルに人さし指を左右に振った。

「無理だよ。決意は固いもの。なんでも過去に二回も流産してるから、今回は出産に専念したいんだって」

 

 専念と言ったって、誰の目にも妊婦だとわかるほどお腹が大きくなった今でもしっかり仕事をこなしているのだから、カンナ先生の教師魂には敬服するしかない。

 

 太陽は色つきのひやむぎを兄に取られた弟さながらのふて腐れようだった。

「これで、オレが起きているに値する授業はいよいよ何一つなくなったわけだな。もうあれも聞けないのか。えっと、何だっけ『あっぱれあっぱれ』だっけ?」

 

 高瀬が指を一本立てた。「たしか『けっぱれけっぱれ』だよね」


「そうそう。あれ聞くと、不思議と元気が体の底から湧いてきたのにな」

 

 生徒を励ますためのその掛け声が、カンナ先生にとって単なる方言の繰り返しではないことを俺は知っている。おそらく校内で俺一人だけが。


「みんな、実はな」と種明かしを始めたかったところだけど、カンナ先生は相手が俺だからこそ自分の過去を話してくれたのだ。それを易々と口外すべきではないと判断できるくらいのモラルは放火犯の子でも持ち合わせていた。


 弘前で名を馳せた不良少女の再生物語は、もうしばらくこの胸にしまっておくことにしよう。


 ♯ ♯ ♯

 

 トイレで用を足して秘密基地に戻ると、三人娘の姿は消えていた。


「姫様たちは?」と俺はアコースティックギターを弾いている太陽に尋ねた。


「小腹が空いたとかで、三人して購買部に行ったぞ。最近あいつら、いっつも何か食ってんな」


「結構結構」と俺は心からつぶやいた。食欲が盛んなのは、健康な証だ。


「そういえば」と太陽は言って、ギターを台座に立て掛けた。「悠介に話しておかなきゃいけないことがあったんだ。話せるのは、今しかない」


「あの娘たちの耳には入れられないことなのか?」


「まぁな」太陽は部屋の扉を目の端で見てから、こう続けた。「さて悠介。おまえさんにとって悪いニュースと超悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」


「普通さ、それを言うなら良いニュースと悪いニュースがある、だろ」

「仕方ねぇだろ。悪いニュースしかないんだから」


「一応確認しておくけど、どっちも俺に関係のあるニュースなんだよな?」

「あいにく」


「はぁ」と俺はため息をついた。

「聞きたくないって言うんなら、無理いはしないが」


「聞くよ。聞かずに帰ったら、気になって夜眠れなくなる」

 嘔吐へいたる発作だけにとどまらず、このうえ不眠まで発症してしまったら、俺は死んでしまう。

「悪いニュースから頼む」

 

 太陽はうなずいた。

「実は今、ある噂がクラス内で急速に広まりつつある。それは、悠介と柏木がデキているというものだ」

 

「柏木と教室でよく話しているからだろうか?」

「それも一因に違いないが、もっと決定的な理由があるんだよ」


「決定的な理由」

「三月にお前たち、二人っきりで富山に行ったよな。それがばれちまってる」


「はぁ? なんでだ?」

 言うまでもなくあの旅はこっそり始めこっそり終えたはずだった。学校関係者では高瀬、月島、太陽以外に富山へおもむくことを話した覚えはない。


「この街の空港に帰ってきたのは、3月4日だろ?」

「そうだ」と俺は答えた。


「その日、たまたまうちのクラスの女子生徒も空港にいたんだ。単身赴任で横浜へ行く父親を家族一同で見送るために、な」

 

 頭が痛くなってきた。「見られてたのか」


「世間は狭い。慎重を期すなら、サングラスと帽子で変装でもしておくべきだった。悠介、抜かったな」

「馬鹿げてる。ハワイ帰りの芸能人じゃあるまいし」

 

 太陽は右手をマイクに見立てて俺に向けてくる。

「お付き合いされてるんですか? 結婚のご予定は? もしかしてハネムーンだったんですか?」

「殴るぞ」

 

 笑ってから太陽は「目撃者となったその女子生徒いわく」と続けた。「『話しかけようかとも思ったけど、神沢君も柏木さんも近寄りがたいオーラを放っていて、すぐに無理だとわかった。ずっと仲良く寄り添っていた。ふたりだけの世界がそこにはあった。誰にも邪魔はできなかった』とのことだ」

 

 目撃されるのが“行き”ならば、また違った結果になったんだろうと思う。それがよりによって”帰り”とは。あの一夜を経た後とは。


 ふたりだけの世界がそこにはあった。なるほど。証言に対する反論の言葉が見つからない。

「噂がたって当然か」


「一番の問題は」と真顔で太陽は言って、俺の肩に手を乗せた。「同じクラスに悠介と同じ未来を誓い合っている女の子――少女Aとしようか――がいるとして、その少女Aはそんな噂が流れる現状をどう感じているか、ということだ。よしんばその噂が真実ではないと知っていてもな」


「おまけに少女Aは、思っていることをあまり表に出すタイプではないと来ている」

 肩が軽くなる。「わかってるじゃないか、神沢君」


「太陽、やっぱりこれは聞いておいて正解だった。恩に着る」

「おいおい待て。まだ終わっちゃいねーぞ」


「あ」

 ”超”のつく方が残っているのを忘れていた。超悪いニュース。


 さすがにちょっと心の準備をさせてくれ。そう言おうとした矢先、部屋の外から聞き慣れた黄色い声が耳に飛び込んできた。姫様たちのご帰還だ。


「やべぇ」太陽は声のボリュームを落とす。「くそっ、調子に乗って芸能レポーターの真似なんかするんじゃなかった。手短に言うから、悠介、聞き漏らすな。こっちはもっとおまえが知っておかなきゃいけない情報だ」


「お、おう」

 

 残された時間はほとんど無いにもかかわらず、太陽が言いにくそうに下唇を噛んだのが、事の重大さを何よりも物語っていた。扉の外で足音が止むと同時に、太陽は素早くささやいた。


「少女Aは最近、おまえ以外の男と密かに会ってるみたいだぞ、頻繁に」



「ただいま」と言って入室した柏木は、ただちに俺の異変に気付いた。彼女はこちらへ近寄り、手遅れの虫歯を見つけた歯科助手みたいな目つきで俺の顔をまじまじと見てきた。

「どうしたの悠介、ぽかんとしちゃって」


「まぁ、ちょっと」

 まともな言葉を喋れるようになるには、時間がかかりそうだった。頭では太陽の言葉が何度も繰り返されている。

「少女Aは最近、おまえ以外の男と密かに会ってるみたいだぞ、頻繁に」


 男と密かに会ってる?


 俺はおそるおそる少女Aを――高瀬を――見る。


 彼女の顔にとりたてていつもと違った様子は確認できない。1メートル先にいるのは、俺のよく知る高瀬優里だ。


「私の顔、どこか変?」と彼女は言った。

「いや」と俺は言った。そして目を逸らした。男と密かに会ってる? 


「まぁまぁお嬢さん方。いつまでも立ってないで席について」太陽が気を利かせてくれる。「で、本日のおやつはいったいなんだい?」


「アイス」柏木が代表して答え自分の席に座った。横目では俺をうかがっている。「まだ4月だっていうのに、なんだか今日は暑いから」

 

 高瀬と月島も着席しパッケージを開封した。三人が買ってきたのは同じ商品だった。もなかタイプのバニラアイスだ。


「晴香が買ってるのを見たら欲しくなっちゃって」高瀬は苦笑した。

「高瀬さんが買ってるのを見たら欲しくなっちゃった」月島は微笑した。


「いいなぁ。誰かおすそ分けしてくれよ」

 太陽のおねだりが聞き入れられたためしはないが、この日の彼は粘り強かった。一番近い席の柏木に対して手を合わせる。

「一口でいいから、プリーズ」

 

 柏木はこれ見よがしにもなかを頬張った。

「なんで庶民の娘が大病院の坊ちゃんにおごらなきゃいけないのよ。普通、逆でしょうが」


「だ、か、ら、オレが自由に使える金はほとんどないの。アイスなんて高級品、買えないの!」


「そうだったねぇ。この街きってのプリンスが金欠王子に落ちぶれたのには、ちゃんとした理由があるんだったねぇ」

「柏木、おまえな、つらい過去を思い出させんな、悲しくなるから!」

 

 そう嘆くと太陽は、俺の背後にある棚をちらりと見やった。そこには実に四つの冒険の証が並んでいるわけだが、視線の先にあるのは、疑いの余地なく自らの涙が染みたロケットペンダントだろう。


 今でも羽田星菜の記憶は、太陽を苦しめていたりするのだろうか?


「それはそうと、あれ、何度見てもムカツク」と仏頂面で指を突き出したのは柏木だ。「あたしが記憶喪失になっているあいだ、ずいぶん仲が良かったみたいじゃない。優里、悠介」

 

 柏木を憤らせているのは、冬の冒険の証である漫画家・吉崎アゲハのサイン色紙に他ならない。


 色紙には、和気あいあいと語らう俺と高瀬の姿が描かれているのだから、当人からすれば、鍋敷きにでもしたいくらいなのではないか。


「まぁまぁ」と高瀬が隣の怒れる女をなだめた。「こっちもこっちでけっこう大変だったんだから。ちょっとは大目に見てよ」


「そうだよ」自然に口が動いた。やっと、まとまった言葉が出てくる。「あの冬はいろいろあったけど、みんなこうして無事に二年生に進級できたってことで、御の字じゃないか」


 語調と顔つきで、俺たちの富山行きを高瀬は止めなかったんだぞ、と暗にほのめかした。それでフィフティフィフティだろう、と。


「しょうがないなぁ、許してやるか」一転柏木はほがらかに笑った。そしてばつが悪そうに鼻をかいた。「ま、冬はみんなに迷惑かけまくりだったっていうのもあるしね。そうそう偉そうなことは言えないか。骨折が完治して、記憶が戻ったのも、四人のおかげです。よし、ここは、春の大感謝祭といこう」

 

 柏木は残っていたアイスを三等分して、俺と太陽に一切れずつ差し出した。


 もちろん太陽は喜んでそれを受け取った。俺もできることなら祝祭の輪に参加したかったところだけど、口の中に胃酸のつんとした匂いがまだ残っていたので、なくなく首を横に振った。

「すまん柏木。気持ちだけ、受け取っておく」


「え、なんで?」


「えっと」言い淀む。でも言うしかない。「実はついさっき、

 

「また?」柏木は顔をしかめる。「今日だけでもう、三回目じゃない」


「ごめん、神沢君」高瀬は食べかけのアイスを慌ててパッケージの中に戻した。「配慮が足りなかったね」

 

 月島はアイスを見ているようで俺をじっと見ていた。

 

 雰囲気がぎすぎすし始めていた。それを肌で感じた俺は「大丈夫だ」と言った。「みんな、いつも通り振る舞ってくれてかまわないから。変に気をつかわれるのが、胃に一番こたえるんだって。さぁ食べてくれ。今日は4月のわりには暑いから、溶けちゃうぞ」

 

 そうは言ったものの、ひとたびよどんだ空気がすぐに回復するわけもなく、俺の目にはみんなのこわばった表情が映ってしまう。そしてまず柏木のアイスが溶けだしてしまう。ああ、と俺は声を漏らしてしまう。


「そろそろ限界だ」と切実な声でつぶやいたのは太陽だ。彼はそれから俺以外の三人に「みんなもそうだよな?」と同意を求めた。


 ようやくこの時が来たか、という風に彼女たちはそろって深くうなずいた。

 

「なぁ悠介。いい加減に白状しろ。そいつはただの胃の不調なんかじゃないよな?」


 俺は四人に本当のことを話していなかった。どうせこんな症状は一過性のものだろうと高をくくっていたのもあるし、なんといっても発作の正体をみんなに知られるのがたまらなく恥ずかしかったのだ。

 

「どう考えてもおかしいだろ」と太陽は続けた。「この一ヶ月でげっそり痩せたのに気がつかないほど、オレたちの目は節穴じゃねぇぞ。悠介、おまえさんの身にいったい何が起きてんだ? また一人で抱え込もうとしてるんじゃないのか?」


「隠し事は嫌いだ」

 そんな聞き覚えのある台詞が月島から出たと思ったら、次に柏木がこう言ってきたから、俺は逃げ道を完全に失った。

「悠介の問題は、悠介だけの問題じゃないんだよ」

 

 俺は胸にもっていた古い息を吐き出して、少しずつ新しい空気を取り入れた。考えを改めよう。柏木の言う通りだ。今や、俺の問題は俺だけの問題ではない。

「わかったよ。事の発端は、3月3日の富山である光景を目撃したことだ――」


 俺が筋道立ててすべてを語っているあいだ、四人の中でもっとも沈痛な面持ちをしていたのは、旅の同行者である柏木だった。話を中断して一声かけようかと思ったくらいだ。彼女のことだから、何かしら責任のようなものを感じてしまったのかもしれない。


「――というわけなんだ」と俺は言った。「唐突に双子のそばで笑う母親の姿がフラッシュバックし、それを拒むように嘔吐する。その繰り返しさ。まったく、これじゃあまるで母親の愛情に飢えているみたいじゃないか。自分が情けなくなる」

 

 すぐには誰も喋らなかった。いや、喋れなかった、という方が正しいかもしれない。二分ほど経ってからようやく、高瀬が口を開いた。

「なんとかして、吐いちゃうのを防げないのかな?」

 

 俺は首を傾げた。

「いろいろ試してはみたんだけどな。でもだめなんだ。万策尽きて、なすがままの状態だ」


「そりゃ食欲なんかなくなっちゃうよな」と月島がつぶやいた。

「食べる前からどうせ吐くってわかっているわけだからな」と俺は返した。


「なんだってこうも、厄介なことばかり起こるかね」と太陽がつぶやいた。

「同感だ」と俺は返した。同感だ。

 

 この会話の流れに乗って一度は何かを言いかけた柏木だったが、俺と目が合うとぎこちない咳払いをして、黙り込んでしまった。


 それでも、彼女の喉にぶら下がっている台詞はだいたい予想できた。


「あたしのせいだ」とか「富山に行かなきゃよかった」とかだ。いずれにせよ、あまり生産的なコメントとはいえない。空気を今以上重くするだけだ。そして彼女もそれがわかっている。だから発言することができない。

 

 早く誰かがこの話を締めくくってくれないかなと期待をかけたが、誰の口も結ばれたままなので、結局俺がその役を担うしかなかった。


「ほらほら」二度手を叩き、皆の注目を引く。


「まぁ、多少痩せはしたけれど、まさか命まで取られるわけじゃないし、そんな深刻に考えないでくれ。俺は現にこうして一日も休まず学校に通えているし、夜は居酒屋のバイトにだって行っている。そういう意味では、インフルエンザにかかったりするよりよっぽどマシさ。今まで通りだ。何も変わらない。元気元気。誰かの未来が危うくなったら、これまでと同じようにいつだって駆けつけてやるぞ。季節も変わったことだし、そろそろまた誰かの元に面倒な問題が転がり込んでくるんじゃないか? その時は仲間はずれにするなよ」

 

 意識と舌がうまく連動していなかった。要する俺は、虚勢を張っていた。

 

 高瀬はそれを見抜いていた。

 柏木もそれを見抜いていた。

 月島ももちろんそれを見抜いていた。

 太陽は軽く舌打ちした。

 

 みんなの懐疑的な視線が痛かった。たまらず俺は立ち上がって窓辺へ行き、そこから春の街を眺めた。日陰の雪も完全に溶けきり、若い緑が芽吹きはじめていた。街は春の暖かな光を余すことなく享受していた。


 最高の春だ、と俺は思った。


 わけのわからない発作に一日何度も襲われ、将来の自分の姿はいまだにちっともイメージできず、こともあろうに高瀬には他の男の影がちらつく。素晴らしい。最高だ。反吐へどが出るほど最高の季節だ。

 

 落ち着こう。美しい空を見よう。こんな時はいっそ未来のことを考えよう。


「大学卒業後のその先を考えなさい」とカンナ先生は言った。大学を終着点にしてはいけない、と。たしかにその通りだ。大学大学と能天気に言っていればそれだけで前に進めた季節はすでに終わった。


 これからは10年後20年後の自分を考えなきゃいけない。


 具体的な未来。俺が選ぶべき未来。実現可能性のある未来。

 

 俺はいったい将来何になるのだろう?


 そもそも俺は大学に進学するべきなのだろうか? 


 高校を停学や退学になるリスクを背負ってまで進学費用を稼いでいるものの、現状のままでは、たとえ四年制大学に合格できたとしても最初の一年しか籍を置けないのだ。


 それも国立の文系学部という限定付きだ。どうにかして大金を獲得しないかぎり、俺は大学中退という刃の折れた剣だけを手に社会という戦場に放り出されることになる。


 ××大学××学部中退。


 そんな生半可な肩書きを履歴書に書くためだけに俺は多くの時間と労力を費やしているのか。考えてみればこれほど割に合わない努力もそうはないな、と俺は心で自嘲した。

 

 閑話休題。


「就きたい職業によっては、無理をして大学に行く必要はなくなるかもしれない」ともカンナ先生は言っていた。ごもっとも。我々生徒は、なにも母校の進学実績の見映えのために生きているわけではない。

 

 大学に行かなくても就ける職業は世の中にいくらでもある。

 

 たとえば市役所職員。

 高卒でもよほどの贅沢さえしなければ、食いっぱぐれることはないはずだ。

 

 たとえば調理師。

 中学以来続く長い自炊経験は、俺に料理の楽しさを植え付けていた。

 

 実現可能性のある二通りの未来を思い浮かべてみたところで、口の奥から胃酸の不敵な匂いが漂ってきて、俺を萎えさせた。

 

 今のままではどちらも俺が就くべき職業ではないようだ。

 

 誰が好んで納税相談の途中に嘔吐する職員がいる役所に行くだろう?

 誰が好んで調理中に嘔吐するシェフがいるレストランに行くだろう?

 

 少なくとも俺なら行かない。よって、却下。

 

 たとえば消防士。

 何を馬鹿なことを。父は放火犯なのだ。よって、却下。

 

 早くも手詰まりのようだった。


 なんだか悲しくなってきた。大学のその先。イメージができない。なりたいものがない。結局そこに帰結してしまう。

 

 もう今日は考えるのはやめよう、と俺は思った。このままではらちが明かない。

 

 発作を止める術も見つからなければ、将来の目標も定まらない。一歩も前に進めていない。今俺がすべきなのは考えることではない。動くことなのだ。

 

 ひとつだけはっきりしているのは、高瀬の周辺で|何か(・・)が起きているということだ。俺と彼女の関係性を根本から揺るがしかねない大きな何かが。

 

 なにはともあれ、まずは高瀬とふたりきりでじっくり話をすることだ。


 そこから何かが動き出すような気がする。

 

 

 ――そしてこの予感は、見事に当たることになる。

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