第29話 愛をさえずる、つがいの文鳥(前)


「ちょっと、聞いてるの、悠介!」

 地核を貫きブラジルまで届きそうな柏木晴香かしわぎはるかの怒声に、全身がすくみ上がった。


「もう、今日は朝からずっとそんなんじゃん。上の空っていうか、心ここにあらずっていうか。授業中だっていつも以上に優里のこと眺めてたし。いい加減そろそろ目を覚ましなさいよ」

 

 タカセヤ本社へおもむき、高瀬とつかの間の恋人気分を味わった翌日の昼休み、俺は実習棟の廊下を歩いていた。例によって柏木に教室から強制的に連れ出されたのだ。

「わ、悪かった。で、何の話だっけ?」


「あたしの馬鹿親父と悠介のお母さんの話でしょ! インターネットで二人を見つけたから、今からパソコンルームで悠介にも見てもらうって言ってるの!」


「そうだったな、すまん」

 今俺が最も考えを巡らせるべきは、母の行方ゆくえではなく高瀬の未来の行方なのだが。


「それにしてもさ、あたしの勘ってどうなってるんだろうねぇ?」

 

「ああ、あれか。言い出しっぺの俺も、まさか本当に当たるとは思わなかった」

 

 柏木は「自分を捨てた父親を一発殴らないと気が済まない」と言うものの、行き先の見当が皆目かいもくついていなかった。そこで俺は、彼女に二択の質問をいくつか投じて、地域の絞り込みを――遊び半分だったのは内緒だが――試みた。


 結果、東北から北陸にかけてのエリアがその候補として残り、実際に自身の父と俺の母が富山県へ落ち延びたことを柏木が突き止めたのが、ついこの間、晩秋の夜のことだった。


「テストも全部選択肢だったらなぁ」と柏木は隣で言った。「このスペシャルな勘を駆使してあたしも学年上位に入り込めるのに」


「せこいこと考えず、ちゃんと勉強しろよ」と俺は言った。真面目にコツコツやってる俺たちみたいな凡人からすれば、たまったもんじゃない。

 

 ♯ ♯ ♯


 パソコンルームの扉を開けると、中にいた男子生徒たちの視線がいっせいに柏木へと注がれた。

「この美女はなにが悲しくてこんなパッとしない男を引き連れているんだ?」


 どの口からもそんな声が出かかっているに違いない。校内を柏木と一緒に行動すると、これがあるからいやだ。

 

 目についた適当な席に座り、パソコンを立ち上げる。一人一台が原則なので、二人で一台を使うとなると、おのずから早熟娘と身体を近づけざるを得ない。鼻を突く官能的な芳香に、今にも脳がクラッシュしそうだ。

 

 パソコンの操作は柏木に任せる。彼女は細長い指を使って、キーボードを小気味よく叩いていく。


 俺は言った。「しかし、なんだって富山だったんだろうな?」


「本当だよねぇ」柏木は首をかしげる。「日本地図を壁に貼って、ダーツの矢を投げたら富山に刺さった。だから行くことにしたぜ! ……そんな感じ?」

 

 まんざらその可能性も捨てきれないほどに、俺たちの親が新たな人生のスタート地点を越中国に求めた理由がわからなかった。

 

 俺は気を取り直し、パソコンのモニタに意識を転じる。柏木が表示させたのは、富山県のとある地方新聞社が開設・運営しているニュースサイトだった。


 トップページには氷の張った歩道を警戒しながら歩く、通学途中の小学生の写真が掲載されている。

 

 柏木は慣れた様子で現れる記事を次々に切り替えていく。

「悠介、次だよ。心の準備は大丈夫?」


 俺はうなずいた。

 

 彼女は一呼吸置いてから、マウスをクリックした。そしてモニタには――。


「ああ……」

 全身の筋肉がかちかちに強ばっていくのを感じる。

 

 間違いない。モノクロの画像ではあっても、見紛みまがうわけがない。なにより、体内に流れる血が、ざわめいている。


 そこに映っている人物は、俺をこの世へ産んだひと――母・神沢有希子だ。

 

 奥二重ながら存在感の光る目、小さくとも筋の通った鼻、そして絶対的な自信がみなぎる唇。

 

 俺が覚えている最新の彼女と、それほど風貌は変わっていないようだ。ただ一つ違うのは――決定的に違うのは――画像の母が、よどみのないどこまでも澄みきった笑顔を見せている点だ。


 それは、幸せの中に身を置いていなければ浮かべることができない笑みであるということくらい、俺にだって判別がつく。


 そして母のそんな素敵な笑顔は、記憶のどこを掘ってみても、もちろん出てきやしない。

 

 家を捨ててから4年の歳月を経ているのだが、心なしか彼女は若返ったように見える。そして、前よりはるかに綺麗になった。これは決して気のせいではない。

 

 新鮮な空気を、身体は欲していた。


 求めに応じて大きく深呼吸をする。そこでようやく、母の隣にたたずむガタイの良い大柄な男に目を向ける余裕が出てきた。


 やはり彼も屈託のない笑顔を浮かべていて、俺の胸は痛む。

「この背の高い男が、柏木のお父さんなんだな?」

 

 彼女は深く顎を引いた。「そうだよ。こいつが柏木恭一」

 

 俺はあらためて自分の母親が惚れ込んだ男の顔立ちを観察する。端的に評すれば、彼は、“モテる男”だ。

 

 挑戦的かつ謙虚な二つの瞳からは、「不真面目さを内包した真面目さ」のような遊び心が感じられ、頬の無邪気なえくぼからは、「嵐の中の晴れ間」のような包容力が伝わってくる。


 いずれも、いかにも女受けしそうな外見的要素に違いない。

 

 この時点でもうすでに俺の平凡な父親に10.5ゲーム差はつけているわけだから、母がいかなる困難を押し退けてでも柏木恭一と共に生きる道を選んだのは、今ならばきわめて自然なことのように思えてしまった。


「あんまり認めたくないけど」柏木は言いにくそうに言う。「この二人、すごくお似合いの男女だよね?」


「おまえも思っていたか」同感だった。

 

 俺の母にとって柏木恭一の隣は居心地が良く、また柏木恭一にとっても、母の隣は極上の居心地なのだ。画像の二人はまるで、寄り添って愛をさえずる、つがいの文鳥みたいだ。


 柏木が風呂上がりに偶然見つけたというこの記事は、他の地域から富山県に移住してきた人や家族を紹介するコーナーの、バックナンバーだった。

 

 記事によれば、俺たちの親は家庭菜園の延長のようなことをやって、収穫した野菜や果物を加工、販売しているという。

 

 農薬に頼らず、重機を使わず、人の手のみで作ったという触れ込みで売り出し、これが富山のみならず、近隣県においても好評を博していると記者は解説している。


「なるほど。第六次産業というわけか」

「ダイロクジサンギョウ? 悠介、なにそれ?」


 得意な科目なんて保健体育しかない落ちこぼれに俺は説明してやることにした。


「自然界から作物を得るのが、第一次産業だ。農業や漁業などがそれにあたる。そしてそれを加工するのが第二次産業。ソーセージやかまぼこを思い浮かべるとわかりやすいかもな。第三次産業の役割を担っているのは、この街でいえばタカセヤやトカイだ。つまり販売ということだ」


「一次+二次+三次で、第六次産業ってことね」


 俺はうなずいた。

「要するに、自分で生産した作物を加工し販売まで行うわけだ。それが第六次産業。収入の安定やブランド化を狙って、最近は従事する人が増えているようだ。消費者側としても、作り手の顔がわかるという意味では、安心を得られるのかもしれない。そして俺の母とおまえの親父はそれをやって、この地域のちょっとした有名人になっている」


「なるほどねぇ。うちの父親、たしかにそういうの好きそうだわ」

 柏木は頬を膨らませて、画像の男にデコピンした。


「それにしても」と俺は記事を読んで言った。「ずいぶん手広くやっているみたいだな」

 

 彼らが手がけている作物は、いちご、ラズベリー、トマト、かぼちゃ、かぶなど多岐に渡っていた。さらには鶏を飼い、新鮮で安全なたまごも生産しているという。

 

 それらを原材料としたパンやケーキ、ジャムやアイスクリーム、あるいはけものを作り、近くの道の駅などで販売しているのだ。


 柏木は言った。

「これ……ケーキとかアイスとか作ってるの、絶対あたしの父親だ」


「え? 俺の母親じゃなくて?」


「うん。あの人、大ざっぱな性格してるくせに、こういう繊細なことは得意なのよ。特別、料理学校とかは行ってなかったけど、独学でちゃちゃっと作っちゃうの。すごく美味しいやつ」

 

 柏木はしかめっ面ながら、少しだけ誇らしげだ。なるほど、と俺は思った。父親がそんな特技を持っていれば、女の子ならば悪い気はしないはずだ。


「器用な人なんだな」


「生き方は不器用だけどね」

 柏木は苦笑いを俺に見せてから、椅子の背にもたれかかって、背伸びをひとつした。豊満な胸がくっきりと際立つ。この女は何をするにもいちいち色っぽいから、困ってしまう。


「で、俺たちはついに親を見つけてしまった。どうする?」

「どうするって、乗り込むに決まってるでしょ、ここに」


「ま、そう言うだろうとは思っていたけどさ」

「あのさ、悠介も行くんだからね。自分を置き去りにしてのうのうと平和そうに生きているお母さんを見たら、そりゃあ息子として物申したいこともあるでしょう。4年分の声を、思い切りぶつけてくるんだよ!」

 

 彼女はあたかもそれが神沢悠介おれという男子高校生の取るべき最善にして唯一の選択肢のように言うけれど、実のところ当事者である俺は、富山へ行くことにそこまで意欲的にはなれなかった。

 

 神沢有希子は好きでもない男とその間にできた子を捨てて、強く想い合っていた男と生きることを選び、結果、このうえなく幸福な微笑みを世界に発信している。

 

 ――それが、すべてじゃないか?

 

 今さら俺がそこに介入し、文句を付けたからといって、いったい何が変わるというのか。

 

 記事によれば、この人たちが営んでいる事業はそれなりに成功を収めているらしいから、「大学に行くつもりなんだ」とすがるような口調で告げれば、ひょっとすると、金銭面での援助は多少なりとも引き出せるかもしれない。


 望んだ子であろうとそうでなかろうと、俺は彼女の実子に違いないのだ。法律的にも、生物学的にも。


 しかし、そんなゆすりみたいな真似をしてまで、大学に通いたいとは思わなかった。俺にだって矜持きょうじがある。野良犬ではあっても、物乞いではない。


 隣で俺がそんなことを考えているとは露知らず、「富山ってどんなところだろう?」と呑気な声を出したのは柏木だ。「カニが美味しいんだっけ?」


「富山でも食べられないことはないと思うけど、あの辺りでカニが有名なのは福井じゃないか? 越前ガニ」


「じゃ、加賀百万石の町並み?」

「それは金沢だ。石川県」


「よし。こうなったらついでだから、福井と石川にも顔を出しておくか。ふふん、こりゃ、四泊五日だな」

「それじゃただの北陸観光じゃないか」


「冗談はさておき」柏木はくすりと笑う。「行くのはいつにする? こういうのは早い方がいいよね。今週末はどう?」


「待て待て」

 すぐさま、高瀬の寂しげな顔が思い浮かんだ。


 少なくとも12月中は、これ以上予定を増やすわけにはいかなかった。ただでさえ年の瀬で忙しくなる居酒屋のアルバイトに加え、タカセヤ西町店の売上げ向上のため、肉と骨を削ってでも動き回らなければいけないのだ。富山に飛んでいる時間的余裕など、あるわけがない。

「そう、急ぐなって」


「なんでよ。せっかくこうやって見つけたんだから、気分が冷めないうちに行くべきでしょ」


「落ち着いて考えてもみろ。旅費の工面くめんとか、飛行機の手配とか、いろいろ準備があるだろ。隣町にスキーに行くわけじゃないんだから」

 

 ここで正直に高瀬のことを持ち出すのは、避けるべきだと判断した。十中八九、話がややこしくなってくる。


「ふーん……じゃ、そういう面倒臭いのは悠介に全部任せるね。あたし、飛行機の予約の仕方とか全然わかんないから」

 

 丸投げかよ、と舌先まで出かかったが、俺たちの親の行き先を突き止めるという大ファインプレーを彼女がやってのけたのは間違いなく、その功績を考えれば、後は俺が引き継ぐのが妥当に思えた。

「わかったよ」


「この冬はあたしたちにとって大事な季節だよ」と柏木は言った。「見てよ、この笑顔」

 

 再度モニタに目をやった。何度見ても胸がざわめく、輝かしい笑顔だ。


「ムカツクじゃない。いろんな人を不幸にしておいて、そのくせ、自分たちだけはこうやって最高に幸せそうな顔してさっ! この画像をあたしたちに見つけられるとは、二人とも夢にも思わなかったんだろうね。そうだよね。たしかに富山なんて、この街に住んでいたらまず思い付かないもん。でもあたしたちは見つけた。偶然でもなんでも、とにかく見つけた」

 

 柏木はそこで一旦言葉を切ると、奥歯を噛みしめて「絶対に許さない」とつぶやいた。「今から楽しみだよね。あたしたちを見て、この平和ボケした顔がどれだけ歪むか、ね」

 

 暖房が効いていて居心地が良いのか、先程来、季節外れの小さな羽虫が柏木のまわりを飛び回っている。虫の知らせ、というわけではないのだろうが、なんとなく、なんとなく、俺は嫌な予感を覚えていた。

「なぁ、柏木」


「なに?」

「その、あまり難しく考えるなよ」

 

 場所柄を考えれば、それ以上の具体的な言葉を――つまり、生であるとか死であるとかを――口にするのは躊躇われた。


 きっと彼女だって、これまでの付き合いから、俺の言いたいことはわかっているはずだ。


「ふふん」と柏木は笑った。それは彼女にしては珍しい、曖昧な性質の笑みだった。「なんかお腹空いちゃったな。悠介、購買できなこメロンパン買って帰ろうよ」

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