第30話 あなたをいつでもそばで見守っています(前)


 タクシーを下りて、夜間入口から葉山病院の建物に入る。


 静まりかえっている院内は、さながら無人の廃墟のようだ。そして、暗い。非常口を示す緑のライトが、陰鬱な不気味さを二割も三割も増幅させる。


 なんて寒々しいんだ、と眉をひそめたが、夜の病院に明るさや温かさを期待する方が間違っていた。

 

 慌ただしい足音を耳が拾い、顔を動かせば、廊下を駆けてくる男の姿があった。太陽だ。

「悠介、来たか!」


「柏木は!?」と俺は叫んだ。「状態はどうなんだ!?」


「オレも今来たばかりだから詳しいことはよくわからんが――」

 太陽は息を切らしながらも「とりあえず命に別状はない」と答えた。


「生きてんだな? 柏木は生きてんだよな!?」

「ああ、安心しろ! あいつはそう簡単におっぬ女じゃねぇよ」


 ♯ ♯ ♯


 病室に入るとぴんぴんした柏木が「遅かったじゃない悠介。あたしお腹空いたからさ、コンビニで何か買ってきてよ」といつもの調子で軽口を叩いてきて、俺を安心させた――とはさすがにならなかった。

 

 四肢のあちこちを白い包帯で包まれた彼女はベッドの上で仰向けになって、両のまぶたを閉じている。


「悠介、太陽君。来てくれたのかい」

 見覚えのある顔が迎えてくれた。柏木の唯一の身内で、叔母おばのいずみさんだ。こんな状況ではあっても、その頬はほころぶ。

「こんな夜遅くに、すまないね」


「いいんです。それよりいずみさん。柏木は」晴香さんは、と言い直す。「大丈夫なんですか?」


 いずみさんは柏木の顔を見てから、優しく微笑んだ。まるで自分の娘を見るような慈愛に満ちた顔つきだ。

「幸いなことに、一番ひどい怪我でも、左足の骨折で済んでね。落ちた場所が校庭の植え込みだったうえに、この子、地面に衝突する寸前にきちんと受け身を取ったらしいんだ。生きようとしたんだ。小さい捻挫ねんざや打撲のたぐいはいくらかあるけど、命さえあればそんなのはかわいいもんさ。いまだに目は覚まさないけど、朝になれば起きるだろうと医者は言ってるよ」

 

 俺の体はひとりでにベッドへ向かっていた。

 

 目には無表情で眠りこける少女の顔が映る。昼間に高校のパソコンルームで、笑ったり怒ったりふくれたり、いろんな表情を見せてくれた柏木が、ベッドの少女に重なる。

 

 悪しき予感が――こうなることまでは読めずとも――全く無いわけではなかった。


 少なくとも今日の柏木には、ある種の気配があった。生きることに怯える者の、脆く、危うい気配が。


 俺はそれを察知していながら、彼女のそばにいてやることも、注意を喚起してやることもできなかった。


 強烈な後悔が胸を刺す。


 いずみさんは言った。

「それにしても、なんだって晴香は高校の屋上のふちなんかに立っていたんだい? わかってる。自殺を試みたわけじゃないんだ。あくまで転落は、事故ということになっている。横風にあおられて、足を滑らせたらしい。でもさ、屋上の縁なんて、そんな場所に立つことそれ自体が……」

 

 “死にたいと言っているようなものだ”。きっといずみさんは、そう続けたかったはずだ。


 寝食を共にするめいっ子が変わり果てた姿になってしまった以上、彼女も柏木の苦悩を知るべき時に来ていた。俺は覚悟を決め、口を開く。

「いずみさん、聞いてください――」

 

 4年前の実母の首吊り自殺が、幼い柏木に「生」に対する恐怖感を植え付けたこと。

 

 自分が「生」の側に留まっていても良い理由はなんなのか。柏木はその答えをいつでも死ねる状況で、すなわち屋上の空に近い場所で、見つけようとしていること。

 

 俺はそれらのことをいずみさんに話した。


「教室やオレたちの前では明るい奴なんすよ」と続いたのは太陽だ。「自分勝手なところはあるけど、正義感が強くて、人を傷つけるような言動は絶対に許さねぇ。それが柏木晴香です。オレも彼女に助けられました。こいつは自分の命を粗末にする奴じゃないんです!」


「わかってるよ」

 いずみさんがうつむいてつぶやいた。彼女は「わかってる」と何度か繰り返してから顔を上げた。

「太陽君。ちょっとの間、晴香を看ていてくれるかい? 悠介に用があるんだ」


「任せてください」と太陽は言った。

 

 目配せをしてくるいずみさんに従い、どういった用件なのか考えながら、俺は病室を後にする。「頼む」と太陽の背中に言い残して。


 ♯ ♯ ♯


 いずみさんは院内の案内図を確認してから廊下を進み、デイルームの前で立ち止まった。そして自動販売機で缶コーヒーを二本買って、そのうちの一本を俺に手渡した。


 俺たちは目についた席に腰掛け、しばし黙ってコーヒーを飲んだ。やがていずみさんが口を開いた。

「晴香がああなったのは、私の責任なんだ」


「……どういうことですか?」

「実はね、何日か前に、晴香に遺書を見せてしまったんだよ」


「遺書、ですか」

「そう。晴香の母親が、あの子に宛てて遺していたんだ」

 

 いずみさんは脇に置いていたバッグから一枚の便せんを取り出し、それを静かにテーブルの上に置いた。


「あの子が母親を亡くしたのは、父親が家を出ていった直後だからさ。その悲しみようといったら目も当てられないほどでね。おまけに当時はまだ小学生だろ? そんな状況で遺書を見せたって余計混乱させてしまうと私なりに考えて、最近までずっと隠していたんだよ。高校生にもなれば母親からの最後の言葉を受け止める余裕もあると思ったんだけど……」


 俺はどんな言葉をかければいいかわからず、黙ってコーヒーを飲んだ。

 

 彼女は言った。「悠介。遺書を読んでみてもらえるかい? あまり気乗りはしないと思うけどさ」

 

 推察通り気は重いが、断れる雰囲気でもない。

「わかりました」


 B5版の便せんには、死を覚悟している人のものとは思えないほど、整った字が横書きでつづられていた。


 いつか柏木が「学芸会の前の日に母を亡くした」と言っていたことを思い出す。俺は深呼吸をひとつしてから、便せんに目を落とした。


 * * *


 ――晴香へ


 明日は学芸会ですね。

 

 お遊戯でみんなの中心で踊る晴香の晴れ姿を楽しみにしていたのですが、

 もう、どうしても、どうしてもあと一日、生きることができなくなりました。

 

 お母さん、つらいんです。

 

 最後までどうしようもなく駄目な母親で、本当にごめんなさい。


 私はあなたのお父さんのことを愛していました。

 

 高校生の頃からずっと憧れていた人でした。

 

 一緒になれた時はとても嬉しかったですし、なにより、

 彼の子であるあなたをこの身体に宿し五体満足で産めたことは、

 私の生涯において一番の幸せでした。

 

 入院している他のお母さんたちから、「眠れない」と苦情が来るほど元気な産声を晴香が上げてくれた時の感動は今でも忘れることができません。

 

 産婦人科の先生が「これは将来、とんでもないオテンバ娘になるぞ」と言って笑っていたくらいですからね。

 

 母親としては、とても誇らしかったですよ。


 私はあなたのお父さんのことを愛していました。


 けれど、結局私は、

 何年かかってもお父さんの心に触れることはできませんでした。

 

 あまりにも大きな壁が、

 彼の心の前に存在していたからです。

 

 もちろん私は彼の妻として、そしてあなたの母として、

 心の距離を縮めようとあらゆる努力をしてきました。

 

 しかしその壁はあまりにも高く、そして厚く、

 私が彼の心に近付くことを決して許してはくれませんでした。

 

 私の、負けです。


 晴香は将来きっと美人さんになるでしょう!

 

 男の人もそんな晴香を放ってはおかないはずです。

 

 どうか、素敵な男性を見つけ、素敵な恋をしてください。

 そして明るい家庭を築いてください。

 痛みを知るあなたならば、それができるはずです。

 私の過ちを繰り返してはいけませんよ。

 

 晴香、幸せな時間をありがとう。

 そして、さようなら。


 あなたをいつでもそばで見守っています。


 * * *


 気づけば便せんを持つ手が震えていた。

「この手紙にある“大きな壁”というのは、僕の母ですね?」


 いずみさんは小さくうなずいた。

「勘違いするんじゃないよ、悠介。この遺書を読んでもらったのは、有希子さんの息子であるあんたに対する当て付けとか嫌味とかじゃないからね」


「わかっています」と俺は言った。いずみさんはそんなひねくれた人じゃない。「これは僕も一度は読んでおくべきものでした。今やこの件は、僕にとっても無縁ではないですから」


「……有希子さんと兄貴、富山にいるんだってね?」


「そうです。ちょうど今日の昼休みに、晴香さんと富山に行く話をしていたところなんです。もちろん僕らの親に会うためです」


「タイミングを間違えた」いずみさんは顔を手で覆う。「遺書を晴香に見せるのは今はまだ早すぎたんだ……。なんていうか、急にいろんな情報が入ってきたもんで、頭の中がこんがらがっちまったんだろうね。やっぱり晴香がああなったのは私の責任だ」


 俺は首を振った。「僕がもっと彼女と一緒にいてやれなかったのが悪いんです」


 ややあって、いずみさんが一度ぱちんと手を叩いた。

「やめやめ。こんなね、責任の綱引きみたいなことしてたって何にもならない。今一番つらいのは晴香なんだ。あの子のことを第一に考えなきゃ」

 

 鼻をすすって、「ただね」といずみさんは続ける。


「最も責められるべきは、あの子を捨てた父親だ。そうだろ? 奥さんを自殺に追いやり、今度は娘まで……。あんな男が自分の実の兄貴だと思うと、まったく、恥ずかしいかぎりだよ」

 

 それを耳にして、俺は心の中で容疑者をもう一人付け加えていた。自らの母親だ。柏木夫婦の心の接近を――本人は意図せずとも――壁となり、|さまたげ続けた人物。

 

 さらに、果たして、と考えを掘り下げていく。柏木恭一と神沢有希子。果たして、どちらが富山への逃避行を持ち掛けたのだろう? あるいは主導権を握ったのだろう? 

 

 4年前に再会した時点で、互いがすでに家庭があることはどちらもわかっていたはずだ。


 そして二人で新しい人生を歩むという選択をすることが、残された者たちに対し、どんな苦労を強いる結果になるのか。どんな変化をもたらす結果になるのか。そういった部分にだって考えが及んだに違いないのだ。

 

 そのうえですべてを捨て富山へと逃れた彼らの罪は、決して小さくない。

 

 生きることを絶った者がいる。

 苦しみから解放されない者がいる。

 塀の中の住人となった者がいる。

 閉ざされた未来をこじ開けようとする、俺がいる。


 多くの嘆きを代償にして、彼らは富山の地で幸福な笑顔を浮かべている。

 

 どちらが逃避行を立案したにせよ、そして実行までにどれだけ葛藤があったにせよ、俺はこの二人を許すことはできなそうだ。


「悠介」といずみさんは言いにくそうに言った。「ひとつ頼みがあるんだけどさ」

「なんでしょう?」


「しばらくのあいだ、晴香のそばにいてあげてくれないかい? もちろん学校を休めとは言わないよ。でも放課後・・・なら、少しは時間に余裕があるだろう?」


 放課後。12月24日までのその時間は――。

 タカセヤの赤エプロンをまとった高瀬の姿を思い出し、俺は唇を噛む。

 

「こんなことお願いできるの、あんたしかいないんだよ。晴香にとって一番そばにいてほしいのは私じゃなくて、悠介だろうから。店だっていつまでも休むわけにはいかないし」


「年末ですもんね」

「ああ。宴会の予約も多く入ってるからね」

 

 ここでいずみさんの要請を受け入れれば、タカセヤ西町店の売上向上のために使える時間が大幅に減ることとなる。


 それはつまり、高瀬と共に歩む未来に、重い暗雲が立ちこめることを意味している。


 しかしそうではあっても、断ることだけはどうしてもできなかった。できるわけがなかった。俺は柏木の苦悩を知る者であり、また、神沢有希子の息子であるのだ。

「わかりました」


「恩に着るよ」

 

 俺は再度遺書を手に取り、言った。

「これはしばらく僕が預かっていてもいいですか?」


「かまわないけど、なんでまた?」

「理由はうまく説明できませんが、そうすべきなんです、きっと」


 ♯ ♯ ♯

 

 病室に戻ると、すかさず太陽が歩み寄ってきた。依然として柏木は微動だにせず眠り続けている。


「なぁ悠介。このことはまだ高瀬さんと月島嬢には伝えてないんだが、どうする?」

 

 時計を見れば、もうすぐ日をまたぎそうな時刻になっていた。


「今日はもう遅いから、このままにしておこう」

 少なくとも高瀬は、慣れない仕事で心身共に疲れ切っているはずだった。今夜はできるだけ静かに眠らせてやりたい。

「明日になれば、みんな嫌でも知ることになるだろうし」


「そうだよな」


「太陽、お疲れさん。今日はもう、帰って寝なよ」

「おまえさんはどうすんだ、悠介」


「俺はこのまま、ここで過ごすよ」

 そう口にしたはいいが、それが病院の規則に抵触しないか、不安になってしまった。よって「いいのかな?」と誰ともなしに尋ねる。


「大丈夫だよ」といずみさんが背後から答えた。「なんせ、坊ちゃんが働きかけてくれたからね」


 それを聞いて院長の息子が胸を張る。

「この病室の患者はオレの友達だから、融通を利かせてくれないかと親父に言っておいたんだ。柏木が目を覚ました時に、誰かがそばにいた方がいいだろ? ははっ、こういう特権の使い方なら、誰にも文句は言われねぇよな?」

 

 太陽の好判断と行動力に感心しつつ俺は、いずみさんに一度帰宅して朝まで休息をとるよう勧めた。彼女の目の下には、看過できない程の大きな|くま(・・)ができていた。


「悪いね」と彼女は言った。「どっちみち、あらためて準備をしてこなきゃいけなかったんだ。どうやら長い入院になりそうだからね。なにからなにまで本当に助かるよ、悠介」


 ♯ ♯ ♯


 太陽たちと入れ替わるようにして個室に訪れたのは、徘徊はいかいする痴呆老人でも、行くあてを失った亡霊でもなく、かぎりなく冷たい静寂だった。まるでこの空間だけが世界から切り離されてしまったかのようだ。

 

 俺は目についた丸椅子をベッドのそばに置き、それに腰掛けた。そして柏木をあらためてじっくり見た。

 

 あまりに動きがないので、あるいは心臓が止まっているんじゃないかと勘繰ってしまった。枕元にゆっくり顔を近づけると微かながらも確かな寝息を耳が拾ったので、ほっと安堵し、小さく笑った。さすがに考えすぎだ、馬鹿か俺は、と。仕方がない。今日は尋常じゃないくらい疲れている。


 なので俺は枕の隣にあるチェス盤ほどのスペースを借りて、体を休めることにした。両腕を交差させて置き、その上に顔を乗せる。


 お世辞にも上等なマットレスとは言えないけれど、久し振りの柔らかな感触に、意識はどこか遠くへ飛んでいってしまいそうだった。

「柏木。富山に行こう。歩けるようになったら、行こうな、一緒に」


 ♯ ♯ ♯


 実際、意識は飛んだらしい。

 

 気が付けば、カーテンの隙間から淡い陽光が病室に射し込んでいた。朝だ。

 

 口元のよだれを拭い、身を起こす。


 窮屈な体勢で眠ったせいか、体のあちこちが痛む。疲れはそれほど取れていない。しかしそんなことはすぐにどうでもよくなった。

 

 ベッドの上の柏木と、目が合ったのだ。巨峰みたいな両目はぱっちり開かれ、彼女はこちらをまじまじと見つめている。

 

「よう柏木」と俺はうれしくなって言った。「やっと目覚めたか。寒くないか? 腹は減ってないか?」

 

 彼女はそれには答えず、無表情のまま目の玉だけを動かしている。


「いや、いいんだ。無理して喋ることはない。まだなにがなんだか、わかっていないのかもな」

 

 彼女はそこで「あ」と一語だけ漏らし、言葉を切った。無理もない。久しぶりに喋ったので声ががらがらに枯れているのだ。


「『あ』? 何が言いたかったんだ? 『朝ごはん』か? それとも『あ、痛い』か? まさか、『愛してる』じゃないよな。朝から勘弁してくれよ。いずれにしても、とりあえず少し待ってくれ。こういう場合だとたしか、まずは看護師を呼ばなきゃいけないんだよ。えっと……」

 

 柏木が何を言いたかったのか、それがわかったのは、俺がナースコールを手に取るため枕元に体を寄せたその時だった。

 

 それはやはり「あ」から始まった。「あなた」


「なんだよ。『あなた』だなんて、笑わせるなよ。ずいぶん他人行儀だな。おまえらしくない」

 

 俺が苦笑する余裕があったのは、ほんのわずか、一秒か二秒そこらだ。見れば柏木の顔はいたって真面目で、どこにも戯れの色は浮かんでいなかった。

 

 彼女は言った。


?」

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