第30話 あなたをいつでもそばで見守っています(後)
「柏木晴香さんの病名は、『
「かいりせいけんぼう?」
なんのこっちゃと思ったが、とりあえず口に出してみた。そうすると、医学素人なりにややこしそうな病であることだけはわかって、ため息が漏れる。
柏木に顔と名前を忘れられた俺は、院内の小部屋で、担当の精神科医から説明を受けていた。結局高校は休むことにした。
「平たく言えば『記憶喪失』です。晴香さんは、お母様を亡くして以降4年間の記憶を丸ごと失っています」
「彼女は地面に衝突した際に、頭を打ったんですか?」
「こちらとしましても、まずはじめにその可能性を考えました」と安田医師は言った。「しかし、検査の結果、晴香さんの脳に器質的異常は見られませんでした」
「それなのに、記憶が無いんですか?」
「記憶喪失と一口に言っても、大きく分類して二種類あるのです。頭部への衝撃が元で記憶を失うケースと、精神的なストレスが元で記憶を失うケースです。晴香さんの場合は後者にあたります。それを我々は解離性健忘と呼んでいます」
「精神的なストレス?」
少しもピンと来なかった。高校の屋上から転落した柏木が、どうしたらそうなるのか。
「脳の損傷が確認できない以上、医学的にはそれ以外に考えられません。ま、過去に実際にあった例を振り返りますと、患者さんの狂言という可能性も無くはないですが」
「彼女はそんなことをして周囲を惑わせる人間ではありません」
やんわり言いながら、俺のことを“あなた”と呼んだ柏木の顔つきを思い返していた。
そこには、今年の春から決して短くない時間を共に過ごしてきた者に対する安心感や親近感といった情感が、少しも残されてはいなかった。代わりにあったのは、警戒心だ。年頃の女の子ならば見知らぬ男に対して働かせて当然の、防衛本能。
あれは、あの表情は、芝居なんかで作れるものではない。
「これはあくまでも僕の憶測になりますが」と安田医師は言った。「地面へと落下する最中、晴香さんの心には、お母様の映像が浮かんできたのではないでしょうか? それもおそらくは、お母様が首を吊っている状態の映像です。瞬間的な出来事とはいえ、晴香さんの脳はそれを心を破壊しかねない危険なファクターと判断し、晴香さんを守るため記憶を閉ざしてしまった」
「そう考えれば、つじつまが合うんですね?」
「人間の脳と心のメカニズムは、いまだに解明されていない点が多いということをまずはご理解ください。ですから僕が今立てた仮説が
「はぁ」
天下の葉山病院に勤務するお医者様が言うのだから、俺はうなずくしかない。
「ただ、そう考えますと、晴香さんが地面に叩き付けられる直前にきちんと受け身を取れたことも、説明がつくような気はしますね」
そのおかげで柏木は大事に至らず済んだのだ。俺は耳をすます。
「お母様の映像は、晴香さんに、『生きなければ』という気持ちを湧き起こさせた。そうは考えられないでしょうか。その結果晴香さんは咄嗟に受け身を取り、一命を取り留めることができた。母は強し。お母様は晴香さんの命を守ったのです。引き替えに記憶を失うことにはなりましたが」
それを聞いて俺はポケットに手を入れた。中から母が娘に宛てた遺書を取り出す。
「あなたをいつでもそばで見守っています」
たしかそのようなメッセージがあったような気がして全体を見通すと、やはりあった。最後の一文だ。一言一句間違いはない。
それこそ非科学的なのもいいところだが、柏木のお母さんは本当に今も近くで娘のことを見守っているんじゃないか。そんな風に本気で思ってしまう自分がいた。
「晴香はまだこっちに来ちゃだめ!」
そんな声を地表へと落下する娘にかけたのかもしれないな、と。
♯ ♯ ♯
夕方になり、高校の授業を終えた高瀬、月島、太陽が病院にやってきた。
とはいえ、記憶を失った状態の柏木と彼らをいきなり対面させる訳にもいかず、唯一事情を知る俺が、事前に状況説明をすることになった。場所は、昨夜いずみさんと語らったデイルームだ。
柏木は長い検査で疲れたのか、病室で昼寝をしている。
「かいりせいけんぼう? なんのこっちゃ」
太陽が、奇跡的に6時間前の俺と同じ反応をした。仕方ないので、医者の役は俺が担う。
「わかりやすく言えば、記憶喪失だ」
「そんな……」高瀬が口を手で覆う。「屋上から落ちて大怪我を負っただけじゃなく、記憶まで無くしてるなんて……」
「ある意味、こっちの方が外傷より厄介だ」と俺は安田医師の話を思い出して言った。「時間が経てば折れた骨はくっつくし、できた傷口は塞がる。ただ、失った記憶だけは、そうもいかない」
物わかりが早いのは、月島だ。
「もう一生、この4年間のことを思い出さないっていう可能性もあるわけだ?」
俺は顔をしかめてうなずいた。
「最悪の場合、そういうこともあるみたいだ。そして思い出すにしても、部分部分が抜け落ちた状態かもしれない。たとえば、高瀬のことは思い出せても、月島のことは全く覚えていない。俺たちはそこまで覚悟する必要がある」
「マジかよ……」太陽が肩を落とす。「あいつ、馬鹿な真似しやがって……」
俺は説明を続ける。
「ひとつ幸いだったのは、柏木は、お母さんが亡くなったことだけは忘れていない点だ。だから、記憶を取り戻させることを、こちらはそれほど尻込みする必要がないんだ」
「ふーん」月島は不思議そうに首を傾げた。「よくわかんないけど、こういう場合って、お母さんのことが真っ先に記憶から消えそうなもんだけどね」
たしかにそれこそが柏木にとって、最も記憶から消し去りたい出来事のはずだ。
「特殊な症例だと、担当の先生も言っていた」
高瀬は言った。「とにかく、晴香は記憶を取り戻した方が良いんだよね?」
「それは間違いない」と俺は言った。「この先日常生活に戻るにしても、記憶が無いと不便この上ないわけだし、それに、その、寂しすぎるじゃないか。あいつが俺たちのことを忘れたままだなんて」
「柏木は一緒に戦ってきた仲間だもんなぁ」太陽はしみじみ言う。「思い出させてやりてぇよな。柏木様の数々のご活躍を」
高瀬が続く。
「何かをきっかけに、『あっ! 思い出した!』みたいなことにならないかな?」
俺は腕を組む。「その何かとは、いわゆる“トリガー”と呼ばれるものだな」
「引き金、か」月島が言い換える。
「医者が言うには、何がトリガーとなるかは、患者によって千差万別だそうだ。過去に実際にあった例だと――ちょっと言いにくいけれど――
「へぇ」となにげなく言った太陽だったが、すぐにはっとして、「そういう意味じゃないぞ!」と取り繕った。馬鹿馬鹿しいので、かまわず続ける。
「ただ、傾向としてはやはり、その人が過去に強く感情を揺さぶられた出来事や風景、あるいは人や物なんかが、トリガーになることが多いようだ」
俺が説明し終わると、制服組三人の視線がこぞってこちらに突き刺さった。
「な、なんすか?」
「あのさ」と三人を代表して月島が言った。「当たり前の疑問過ぎて、口にするのもアホくさいんだけど、そのトリガーって神沢自身なんじゃないの?」
俺は手を振ってそれを否定した。
「それが、違うんだよ。何時間か柏木と一緒に過ごしてみたけど、俺のことは少しも覚えていないんだ。今の俺はあいつに何て呼ばれてると思う? 『悠介くん』だぞ。警戒心を解いてくれたのは助かったけど、違和感大アリだよ。くすぐったくて仕方ない」
「柏木のやつ、悠介悠介うるさかったのにな」と太陽が言っちゃうから、実際に悠介悠介うるさかった昨日までの柏木を思い出し、せつなくなる。
「柏木の状況をまとめると、知能に異常はみられない。簡単なかけ算わり算くらいなら即答できるし、スマホが普及し公衆電話が過去の遺物となりつつある時代に自分が生きているということも把握している。ただ、性格は、多少子どもっぽく感じられるかもしれない。当然だ。なにせ、小学6年以降の記憶がごっそり抜け落ちているわけだから。そして怪我の程度からすると、少なくとも12月いっぱいは入院することになるようだ」
何か質問は? と続けたが何も返ってこなかった。とりあえず、一目会ってみてということだろう。
「それじゃ、行ってみようか」
記憶を失った哀しきお姫様は、そろそろ眠りから覚める頃だ。
♯ ♯ ♯
「バーカバーカ」という月島の第一声を受け、ベッドの上の少女は、きょとんとしている。だからといって尻込みしないのが月島涼だ。
「やい、学年最下位の劣等生。可愛いだけしか取り柄がないアバズレ女。尻軽。ビッチ。悔しかったら、何か言い返してみやがれ、柏木晴香!」
「えーっと、悠介くん」柏木は俺に耳打ちしてくる。「わたし、なんだかこの人恐いんだけど」
「だめだったか」月島はこめかみに指を当てた。「気性の荒い柏木のことだから、怒りが記憶を取り戻すためのトリガーになるんじゃないかって私なりに思ったんだけどな」
ふと、冷蔵庫の上に残されている書き置きが目に留まる。
「店の仕込みがあるので帰ります。あとはよろしくお願いします」とある。いずみさんが俺に宛てたものだ。
「晴香」高瀬が声をかける。「私、優里だよ。覚えてない? 高瀬優里」
柏木は首をかしげた。「ごめんなさい」
「私たち、いつも一緒にゴハン食べたりしてるんだけどな」
「お友達なんだね。優里ちゃん」
柏木がそう言ってぎこちない笑みを浮かべたことで、高瀬は早くも言葉に詰まってしまった。眉根を寄せ、天を仰ぐ。高瀬にとって柏木は、初めて獲得した気の置けない友人でもある。
沈んだムードを追い払うように景気よく手を叩いたのは、太陽だ。
「やっぱりさ、春からの活動の中にこそ、手がかりは眠ってるんじゃねぇか?」
彼はバッグから何かのディスクを取り出し、それを病室に元から備え付けられているプレイヤーに挿入した。
テレビには夜のライブステージが映し出される。観客は皆、薄着だ。
「夏フェスの俺たちの登場シーンか!」
俺は興奮の声を上げていた。これならば確かにトリガーになり得るかもしれない。
「柏木、ほら見てみろ、真ん中。おまえのボーカルはけっこう好評だったんだぞ」
「わたし、こんなことやってたの?」彼女は恥ずかしそうにテレビを見る。「あ、みんなもいるね。悠介くんに、優里ちゃん、格好いいお兄さんに、恐いお姉さん」
柏木がボーカルを務めた曲『Pleasure of life』が始まる。
曲の後半になると、指の
観客席のざわめきが、数ヶ月経った今でも耳に刺さる。
曲が混沌のうちに終了する。
俺たちは一抹の期待を抱きながら柏木の反応に注目したが、「照れるなぁ」と呑気な声を聞けば、そろって首を垂れるしかなかった。
それでも太陽は“春からの活動の中にこそ手がかりは眠っている説”を諦めきれないらしく、「それじゃあ」と息巻いた。「視覚がダメなら、次は味覚に訴えかけてみるっていうのはどうだ? この春以降、柏木にとって一番衝撃的だったのはアレだろ。春の林間学校で地獄を見た、
俺と高瀬の視線が交わった。彼女は首を大きく横に振っている。
「いや、やめておこう」と俺は不安がる柏木を見て言った。「あのカレーは、今以上に柏木の記憶を飛ばしかねない」
次にアイデアを出したのは、月島だ。
「そうだ。秋に柏木を怒らせたあの男なら、刺激になるかも」
「あの男?」
「変態ストーカー野郎。またの名を
「“ひたむき先生”は今、留置場にいるんだぞ。どうやって柏木に会わせるんだよ」
「神沢、持ち前の『なんとかする』の精神で、なんとかならない?」
「ならんわ」
一人の女子高生の記憶喪失が、司法取引を持ち掛けられるほどの案件とも思えない。
「あーあ。一体どうすりゃいいのかね」
太陽がしょげる。
しかし当の柏木はといえば、初々しい笑みを浮かべていた。
「記憶は戻らないけど、でもね、みんなと楽しい毎日を送っていたっていうのはなんとなくわかったよ。わたしと仲良くしてくれてたんだね。ありがとう、みんな」
身体のあちこちが痛いはずなのに、わざわざお辞儀なんかしてみせるから、湿っぽい空気になってしまう。
「その制服、
「今の、笑うところだよな?」
太陽はうかがうようにそう言ってから、実際笑った。いつもよりだいぶ控えめに。
それに呼応するように、柏木も小さく笑う。こっちは自嘲だ。
「そうそう。わたし、そんなに勉強は得意じゃないはずなんだよね、あはは」
記憶を失った者なりに、なんとか場の空気を悪くしないよう必死なのが伝わってきて、いたたまれなくなる。
ふと見れば、月島の鼻が横に大きく膨らんでいた。
「あー、ちがうちがうちがう! こんなの、私の知ってる柏木じゃなーい! そこはさ、『なによ、葉山のバカ息子!』って始めるんでしょ!? ひとしきり荒れ狂うんでしょ!? そして神沢や高瀬さんを困らせるんでしょ!? それが柏木晴香でしょ!」
「……わたしって、どんな人だったのかな?」
ベッドのまわりで四人が無言で顔を見合わせていると、「遠慮しなくていいから教えてよ」と柏木が言った。「はい、優里ちゃんから、簡単に一言で」
高瀬は少し考えてから「嵐を呼ぶ女」と答えた。
「将棋の駒なら香車」月島の例えはなかなか的確だ。
「女暴君」俺も本音を口にした。
「エロエロマシーン」太陽はどさくさに紛れるように言う。
「えぇ?」柏木は困惑する。「みんな、本当にわたしの友達だったの?」
高瀬と月島が慌てて柏木の長所を列挙しはじめたところで、太陽が俺に耳打ちしてきた。
「悠介的には、正直、どうよ?」
「なにが?」
「いやほら、柏木って、ルックスは文句のつけようがないだろ? そのうえ今みたいに性格まで柔らかくなったとなると、悠介としても心が揺れちゃうんじゃないかと思ってな」
「たしかに穏やかな柏木も悪くないとは思うけど」
「このまま、記憶を取り戻さない方が良かったりするか?」
太陽のその声には意地悪な響きが潜んでいたので、「わかっていることをわざわざ聞くなよ」と俺は返した。
「俺はどんなに振り回されようと、面倒を押しつけられようと、前の柏木がいいよ」
♯ ♯ ♯
帰り際、高瀬に声を掛けて病院のロビーに残ってもらった。彼女にはどうしても伝えなければいけないことがあった。
「なんだか大変なことになっちゃった」と高瀬は言った。
「ああ」と俺は言った。「俺もいまだに信じられない」
「神沢君、昨日の夜からずっと……病院、にいるんだってね」
それは妙にぎこちない口ぶりだった。そこには、何らかの変更が加えられた形跡が感じられた。たとえば、頭に浮かんだ“晴香と一緒”という言葉を、口にする直前に“病院”と置き換えたかのような。
気まずさを打ち消すように、俺は少し明るい声を出した。
「明日学校で、今日の分のノートを写させてくれ。太陽は居眠りばかりで当てにならないから」
彼女は無表情に近い顔でうなずいた。
「私はこれから西町店に行って、昨日の続きをするからね」
話すべきなのはまさにそのことだった。
「高瀬、よく聞いてくれ」と俺は彼女に歩み寄って言った。「柏木は
俺としてはここで納得してもらいたかった。しかし高瀬は「神沢君、無理してない?」と言いはじめてしまった。
「昼間は学校、夜は居酒屋のアルバイト。その合間に西町店のために働いて、そのうえ晴香の付き添いまで。……あのね、一日は24時間しかないんだよ? 夜眠れるの? ご飯は食べられる? もしかしたら過労で倒れちゃうんじゃない? そうしたら神沢君の未来は――」
「大丈夫だって!」俺は彼女の言葉をさえぎった。「せっかく高瀬が大学に対して意欲的になってくれているのに、俺がここで踏ん張らないでどうするんだよ。なんとかなるって。多忙なのはせいぜい12月中だけだろ。年が明ければ、きっと少しは楽になるさ」
正直なところ、新年になったらなったで、新たな問題が俺を困らせようと手ぐすね引いて待ち構えている確信に近い予感があるのだが、今はそんなこと口にできない。
「約束を信じていていいんだよね?」と彼女は言った。
「もちろんだ」と俺はすかさず答えた。「なにがあっても俺は高瀬を大学に行かせる。その約束だけは、絶対だ。こんな道半ばで高校を辞めさせたりなんかしない」
「わかった」と彼女は言った。ただし、下唇を噛みながら。
♯ ♯ ♯
居酒屋のバイトを終えて帰宅したそのタイミングでちょうどスマホが鳴った。時刻は夜の11時を過ぎている。二日ぶりにゆっくり湯船に浸かって疲れを取るつもりだったのに、この冬は俺に一息つく暇さえ与えないらしい。
見覚えのない電話番号だったので無視してもよかったが、なんとなく出ないと後々かえって面倒なことになりそうな気がした。その勘は当たった。
「私だ」と高瀬の父の直行さんは言った。「この時間ならおまえと話ができると思ってな。番号は優里から聞いた。今、大丈夫か?」
「大丈夫です」大丈夫じゃないがそう答えるしかない。
「悠介。さっそく奮闘しているみたいじゃないか」直行さんは満足そうだ。「西町店がたった一日で生まれ変わったと優里が誇らしげに言っていたぞ。最初はどうなることかと思ったが、まったく、
わはは、という耳障りな笑い声を受けて、「相当お酒が入っていますね」と指摘した。ついさっきまで酔っ払いを相手にしていたからよくわかる。
「これが飲まずにやっていられるか。あと一ヶ月そこらで愛娘が家を出るかもしれないんだぞ。酒の力でも借りなきゃ眠れんよ」
まぁ、その気持ちもわからなくはなかった。
「こうして夜遅くに電話をかけたのはほかでもない。悠介、おまえを激励するためだ」
「はぁ」
「おまえにだから打ち明けるが、私は優里にトカイとの政略結婚を強いてしまったことを後悔しているんだ。私の心の中では『これでタカセヤを守れそうだ』という社長としての安堵感よりも、『会社のために娘を犠牲にして良いのか?』という父親としての罪悪感の方が日を追うごとに強くなっていった。そうこうしているうちに、縁談を土台とする両社の合併話は軌道に乗り、もう後戻りができないところまで来てしまっていたのだよ」
「そして今回の合併前倒し案」
「そうだ」と直行さんは言った。「悠介。これはタカセヤ社長としてではなく、優里の父親として言う。西町店の売上20%増を達成し、優里を救ってみろ。優里の結婚相手となるトカイの次期社長は、私とほとんど年が変わらない中年男だ。なおかつ品が無く、人の揚げ足を取っては、ねちねち笑う癖がある。私はこの男を見るたび『ナメクジ野郎』と心で呼ぶことにしている。塩を振りかけて撃退できれば良いのだが、いかんせんそういうわけにもいかない」
“ヒキガエルが何かの間違いで人の魂を持っちまったんじゃないかって感じの中年男”
そうトカイの次期社長を称していたのは、太陽だ。ヒキガエルにナメクジと来たら次はなんだろう? ウジ虫だろうか? もはや癌細胞でも驚きはしない。
「とにかく」と直行さんは声に力を込めて続けた。「あんな気色の悪い男に『お義父さん』と呼ばれるなんて、想像しただけで虫酸が走る。悠介、おまえ、私にはっきりと宣言したよな? 『優里さんを幸せにできるのは世界で僕ただ一人です』と。娘の幸せを願わない父親などいない。……
「はい」俺はスマホをしっかり握った。「大丈夫です。優里さんとは、未来の約束を交わしていますから。約束は必ず守ります」
「そうか。その言葉を、信じるぞ」
「あの、今日は僕のことを『小便臭い』と笑わないんですね」
そう俺が口にしたことで、高瀬父はようやく笑った。そして言った。
「おまえは案外、意地の悪いところがあるんだな」
♯ ♯ ♯
その日の夜は、心身共に疲れきっているはずなのになかなか眠ることができなかった。
ふと思い立ってスマホのカレンダーを見てみれば、12月になってまだ3日しか経っていないことに気がつきベッドの上で仰天してしまった。嘘だろ、と。
高瀬が高校を辞めて鳥海家に入る話が急浮上し、柏木が高校の屋上から転落し記憶を失った。
それがこの72時間の間に起きたことだ。
なんて素敵な3日間だろう。運命の神様は俺を弄んでいるとしか思えない。少なくとも試すという域をとうに越えている。さすがに今回の件は職権乱用にあたるんじゃないか。
愚痴のひとつくらいこぼしたところでバチは当たらないはずで、「冗談じゃねぇよ」と夜の闇に向けてつぶやいていた。それで事態が好転するわけでもないのだが。
「体調管理と時間の使い方だな」
俺は気を取り直し、試練の
健康であることが求められるのはもちろん、時間の配分にも気を使う必要があるだろう。
学校、バイト、タカセヤ、病院。
これらを同時にスケジュールに組み込まねばならない。夕方に高瀬が指摘してきたように、まさしくきちきちだ。
学校やバイトを休むことも脳裏をよぎったが、それは禁じ手だろう。俺の未来が危うくなる事態を、高瀬は――そしておそらくは柏木も――望んではいないはずだ。
そうなると、限られた時間をタカセヤと病院に割り当てるということになってくる。
高瀬のためにより多く時間を使いたいのはやまやまだが、柏木の無垢な声やいずみさんの沈痛な面持ち、そして何より、遺書に
「乗り切れるか?」と俺は自問する。
「どうだろう?」首をかしげる自分がいた。「体がふたつあればいいんだけど」
もし俺が倒れたら高瀬と柏木はどうなってしまうのだろう? そう考えると不安で、今にも夜の闇に呑まれてしまいそうだ。
ただ、気持ちだけははっきりしていた。彼女たちを救いたいという、強い気持ちだ。
ヒキガエルだかナメクジだかよくわからない男の腕で高瀬を眠らせるわけにはいかないし、記憶を失った柏木にこの世界はえらく哀しい場所だと刻みつけるわけにもいかない。
俺にしか、あの二人を救うことはできないのだ。
心さえ死ななければ、春には笑顔のみんなと花見にでも行けるはずだ。
高瀬は、と考えて舌がぴりぴり痛み始めた。高瀬は、花見と聞けば、弁当作りを誰よりも張り切ってしまいそうだ。それはいただけない。
どうすれば高瀬の気高き誇りを傷つけることなく、弁当作りを諦めさせることができるか。
その方法を考えながら、俺はゆっくり目を閉じた。
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