第13話 色彩を欠いた風景、君が誇る風景(後)


 柏木のまるで宣戦布告のような告白が終わり、俺はおそるおそる窓辺を見やった。そこにいたのは、うつむき、唇を噛み、虚空をただ見つめる高瀬だった。

 

 これからのことを考えて途方に暮れる俺を尻目に、柏木は続ける。


「月島さん。あなたが手にしたい未来を話してくれたから、あたしも特別に話してあげる。あたしの将来の夢はね、世界で一番幸せな家庭を作ることなの。そしてそれには悠介が必ず必要なの。あたしはゼッタイに悠介と一緒にこの夢を叶えてみせるから!」

 

 沸き立つように体温が急上昇し、脇の下に汗が湧き出るのを感じる。かなうなら今すぐこの部屋から脱出して、そのままプールに飛び込んでしまいたかった。

 

 俺が目の前の現実から逃れるように意識を水面に飛ばしていると、月島が柏木の側面に回り込んで口を開いた。


「あれれ、おかしいなぁ。誰かさんが言うには、たしか神沢を独占するような未来は、無効なんじゃなかったっけ?」

 

 しまった、というように柏木は目を泳がせる。ここが攻め時だと判断したのか、月島はなおも「神沢がその未来に同意しているようには見えないけれど?」と、当人である俺からすれば、異論を挟む余地のない台詞を続けた。


「うるさいわね!」柏木はあからさまに動揺している。「なんで昨日今日入ってきた子にいちゃもんつけられなきゃいけないのよ! 悠介はね、誰がどう言おうと最後には必ずあたしを選ぶんだから! この街であたしと暮らしていくのが悠介にとっても一番幸せなんだから! 東京に連れていかせたりなんかゼッタイにしないから!」


 どうやら柏木は引っ込みがつかなくなっているらしい。もしこれを録音して後で聞かせたらどんな反応を示すのだろう? 

 

 これまで表情をまったく変えずクールにこの応酬にあたっていた月島だったが、柏木の台詞に何かしらの引っかかりを感じたらしく初めて眉をひそめた。そして言った。

「この街で……幸せ?」


「なによ、そりゃ東京にはかなわないけど、この街だってそれなりに栄えてるんだよ。こないだスタバだってやっと出店したし……」


「そういうことじゃない」と月島は抑揚を欠いた声で言った。「この街で生活し続けるかぎり、神沢は決して幸せにはなれない。私が言いたいのはそういうこと」


 全員の視線が自分に集まっていることを確認し、彼女は続けた。


「ある程度の秘密を共有している皆さんは、神沢の事情もよくご存じだろうから、はっきり言います。彼を苦しめて深刻な人間不信におとしいれたのは、この街だからね」


 過去の痛みがふとよみがえり、俺はうなだれた。


「中学時代の神沢はそりゃもう悲惨だったよ」と月島は言った。「普通の中学生なら気がおかしくなって不登校になるレベルだ。お父さんがやったことは、まぁ批判されて然るべきなんだろうけども、だからと言って、あそこまで全員が示し合わせたみたいに神沢に厳しくあたる必要があったんだろうか? 何の罪もないひとりの少年を、どこまで追い詰めれば満足だったんだろう? 都会ならば彼への風当たりが全くなかった、とは言わない。けれどね、少なくとも、少なくとも……」

 

 月島はそこまで言うと、途端に口ごもって、こちらに視線を寄越した。俺はすぐに彼女が言おうとしたことを頭の中で補完する。

「少なくとも、学校の屋上から飛び降りようなんて思うまで、苦しめなかったはずだ」

 

 月島は俺のそんな過去までは他の三人がまだ知らないと踏んだのだろう。彼女なりに気を使ってくれているのだ。


「とにかく、私にはこの街の人たちが異常に思えてならなかった。神沢のお父さんが放火事件を起こしてから3年、飽きもせず毎日のように神沢に対する行きすぎた攻撃は繰り返された。晴れの日も雨の日も雪の日も。あのさ、他にやることないわけ? 揃いも揃ってどれだけ暇なのよ。もっと自分のことで精一杯なものじゃない? これだからイナカは嫌なの」

 

 黙って聞いていた柏木がいよいよ反応する。

「ふん。ずいぶんと偉そうに語っちゃってるけども、そう言う月島さん。アナタは中学時代の悠介に何かできたって言うの? ただの傍観者だったら、それはアナタが馬鹿にするこの街の人たちと同じなんじゃない?」


 月島は返すべき言葉を探しているようだった。私がをここで打ち明けてしまっていいのか。眉間の皺からはそんな葛藤が読み取れる。


 月島の肩を持つ、というわけではないが、彼女の名誉のため、ここは俺が正直に告白すべきだった。


 俺は目をつぶり、中学校の屋上から見た色のない世界を思い出し、口を開いた。

「月島は俺の命の恩人なんだ。みんな。今まで黙っていたけど、中学時代の俺は一度だけ、本気で自殺を試みたことがある。その時声を掛けてくれたのが、月島なんだ。『神沢、生きなきゃ』って。あの声がなければ俺はこうしてここにはいないよ。月島は決して傍観者なんかじゃなかった」


 太陽は絶句して、俺と月島を交互に見やる。まるで二人の間に芽生えた糸を目で辿るみたいに。


 そして高瀬と柏木も――とても二人の顔を見ることはできないが――おそらくは似たような反応を示しているはずだ。


「はぁ、やだやだ。こんなところ、さっさと出て行きたい」

 月島が肩をすくめて、両手を広げた。

「常に相互監視し合ってるかのような住人の目。合理性のない時代錯誤なローカルルール。粘着質でひがみっぽくて、デリカシーのかけらもない人たち。いかにもイナカだよね。もううんざり」

 

 東京生まれ東京育ちのこの街に対する非難はまだまだ続きそうだったが、窓辺からこちらへ向けての足音が、それを許しはしなかった。


「月島さん」と高瀬はたしなめるように言った。「たしかにこの街では、窮屈きゅうくつな思いをする人もいるかもしれない。月島さんのように都会育ちの人ならなおさらね。でも決して悪いところばかりじゃない。挙げればきりがないほど、良いところもたくさんある。月島さんには見えていないだけだと思うの。それとも見ようとしていないか。少なくとも私は、この街に生まれ育って、誇りを持ってるよ」


 そういうことなんだよな、と俺はそれを聞いて考えずにはいられなかった。


 俺が見た色のない風景は他の誰かにとってみれば色とりどりの風景なのだ。

 

 色彩を欠いた風景、君が誇る風景。そしてきっと月島にとっては一日でも早く忘れ去りたい風景なんだろう。


 高瀬はさらに前へ歩み出た。

「お願い、月島さん。これからもこの秘密基地に来るのなら、もう二度とこの街の悪口を言わないで。他の誰が許しても、私だけはそれを許せない」 


 柏木対月島の対立構図に、ついに高瀬まで加わってしまった。


 高瀬と月島は無言のまま、眼差しだけで戦い続ける。


 しばらくして、月島の顔がほころんだ。

「あはは。ごめんなさいね、高瀬さん。ちょっと調子に乗り過ぎちゃったかも。誰だって自分が生まれた街の悪口なんて聞きたくないもんね。住めば都とも言うし、私もあと3年ここにいれば、見えるようになるのかな? この街の、良いところ」

 

 謝意など感じない、むしろ小馬鹿にした口ぶりだった。しかしとりあえずは高瀬も柏木も臨戦態勢を解く。


「でもね」月島は軽やかに前髪を払って言う。「神沢を東京に連れて行く。これだけは訂正する気はないから。神沢はこの街にいる限り、誰とどんな大学に行こうと、本当の幸せを手に入れることはできない。神沢もなんとなく心のどこかではそう悟っているはず。……ね、神沢?」

 

 確実に月島は、俺の心に発生したを見抜いていた。なぜ俺と高瀬の約束を月島が知っているのだろう、と一瞬思ったが、考えるまでもない。かんたんなことだ。その形のきれいな頭に収まった優秀な脳によって、一つのストーリーが構築されたのだ。


「さ、練習再開しましょ」と月島はベースを持って言った。「8月8日のフェスまで一ヶ月無いんだもの。お喋りしてる余裕なんてないって」


 まだまだ言いたいことがありそうな高瀬と柏木だったが、月島が言うことはもっともだ。強ばった表情のまま、それぞれの持ち場へと散っていく。


 俺は高瀬と共に過ごす中で初めて、時間が早く経過することを切望する。


 ♯ ♯ ♯


 明くる日、昨日までとは打って変わって、街には寒気が入り込んでいた。


 7月と言えどもこの街では、昼間でも20度を下回る日が決して珍しくない。今日のように前日との温度差が10度以上という日もあるので、体調管理には気を払う必要がある。


 空には一面に灰色の雲が敷き詰められ、青空がのぞくことを許さないでいる。


 晴れ間を見たからといって俺の心にも陽光が差し込むというわけではないけれど、無慈悲な曇天のせいで、どんよりとした気分に拍車がかかっているのは間違いなかった。


 放課後、俺は一人で秘密基地に向かった。できることなら下校してしまいたかったが、太陽の未来が懸かっている。そういうわけにもいかない。

 

 扉を開け、室内の状況を把握した途端、俺の心臓は早鐘はやがねを打ち始めた。

 

 高瀬がひとりで窓際に佇んでいたのだ。

 

 キーボードを挟んで目が合い、背筋が伸びる。まともに正面から彼女の顔を見るのはいつ以来だろう? しかし今はその均整の取れた美しさに浸っている場合じゃない。

 

 何か喋らなくては、という思いが口を勝手に動かした。

「高瀬、久しぶり」


 ついさっきまでH組の教室で同じ空気を吸っていたのに、久しぶりはないだろう。皮膚の内側からそんな声が聞こえる。


 彼女は無言で作り笑いを浮かべると、すぐに意識を楽譜へ転じた。

 

 話さなければいけないことはたくさんあるのに、これでは……。つい、内心で嘆く。

 

 仕方がないので俺はエレキギターとテキストを手に取り、高瀬とは不自然なくらい距離をとって練習を始めた。もちろん顔が合わないよう、彼女には背を向けて。

 

 音色、とは言いがたい不細工な音が鳴る。


 振り返って「だから俺は楽器は苦手だと言ったんだ、太陽の奴」と小言でも言えたなら、どんなにいいだろう?


 今までの高瀬ならきっと「最初はみんなそうだよ、頑張ろう」とか「神沢君ならできるよ」って励ましてくれて、それで本当に俺はやる気が回復してしまうのだ。

 

 でもそんなことにはならないだろうから、俺は黙々とギターのコードを身体に馴染ませることにした。

 

 高瀬の姿を見ることはできなくても、彼女の奏でる音を聴くことはできる。

 

 もうすでに彼女は、自分のパートの仕上げにかかっているようだ。


 曲の冒頭から弾き始め、納得いかない場所があれば立ち止まり、いろんな風に弾いてみる。俺のような音楽の才が無い人間にはよくわからない、ちょっとした違いだ。そして満足のいく弾き方を見つけたら、楽譜にメモを書き込んで(何かを書き記す音がする)、また演奏を再開する。


 その一連のルーティンがとても手慣れていて、俺は振り返って「さすがだな高瀬、プロみたいだ」とでも言いたいところだが……いや、もうやめておこう。

 

 そこで途切れることなく続いていたキーボードの音がぱたりと止んで、後には俺のみっともない音だけが残された。


 どうしたんだろう、と俺は思った。ほどなくして、上履きで床を踏む音が聞こえてきた。そしてそれはこちらに近づいてきた。


「神沢君」と高瀬の声がした。俺は手を止めて振り返った。「お話があるの。ちょっといいかな」


 俺はうなずいた。

 

 彼女は椅子を一脚持ってきて、俺の斜め前に位置を定め腰掛けた。俺はギターをかたわらに置き、彼女が話し出すのを待った。


「なんか、ごめんね。……いろいろあって混乱してて」

 

「高瀬が謝ることはないよ」


「月島さんって、あんな風に見えてすごいよね。きちんと神沢君のことまで考えられてる。自分のことだけじゃなく、神沢君にとって何が幸せなのか、まで」

 

 どう相づちを打てばいいかわからず、俺は高瀬の顔を見続けていることしかできない。


「晴香もすごいよ」と彼女は続けた。「神沢君と世界一の家庭を築くとか、ああやっておおっぴらに言っちゃうんだから。さすが晴香だ。そして、晴香の好きな男の子って、神沢君だったんだね」


「柏木は」慌てて口を挟んだ。「赤い糸がどうとか言っていたけれど、俺はあいつには運命なんか感じてないからな」


 高瀬はそれを受け流すように、乾いた咳払いをした。そして窓の外に顔を向けた。

「神沢君の運命の人――“未来の君”は、月島さんなのかもね。中学生の頃に神沢君の命を守って、今度は神沢君を幸せにしようとしている。月島さん、言い方はちょっときつかったけれど、言っていること自体は間違ってないもん」

 

 彼女は軽く息を吐き、椅子から立ち上がると、俺の真正面へと移動した。

「私ね、きのう一晩じっくり考えたの。神沢君は、何が本当に自分の幸せになるのか、もう一度ちゃんと考えたほうがいいよ。選択肢はいくらだってある。なにもね、大学にとらわれる必要はないと思うんだ」


「高瀬、それはどういうことだ? 何が言いたい?」

 

 凍てつきそうな間の後で、高瀬は痛いほど優しい笑みを見せて、それに答えた。


「私を大学に行かせるっていうあの約束、なかったことにしていいからね」

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