第14話 今靴を履くからそこで待っていて(前)
「悠介と高瀬さんには曲を作ってもらう」
太陽のその発言を聞いて俺は耳を疑った。正面に腰掛ける高瀬も唖然としている。
我らが鳴桜高校は一学期のカリキュラムをすべて終え、夏休みに突入した。
その初日、バンド練習のため集まる正規の時間よりはだいぶ早く、俺と高瀬だけ、太陽に呼び出されていた。場所は無論、おなじみの旧手芸部室である。
「曲を、作る」と俺は繰り返した。
「そうだ」太陽は腕組みしてうなずいた。「悠介と高瀬さんには、野外フェスで演奏するオレたちのオリジナル曲を作ってもらう」
「でもね葉山君」次に喋らずにいられなかったのは、高瀬だ。「曲を作るって言っても……私たち、素人だよ?」
「大丈夫!」と太陽は笑顔で答える。「それを言うなら、オレたちはそもそもが素人集団だ」
* * *
俺の一世一代の誓いを高瀬に破棄されてから一週間が経過した昨日、俺は意見と激励とあるいは慰めを求めて、太陽とふたりきりで練習後に会っていた。
会談は高校近くのカレーショップで行われた。
心のケアと俺の未来のためなら、太陽のエビカレー代750円は安い、と自分に言い聞かせた。
「ちょうど良かった」というのが、俺の苦悩を聞いた太陽の第一声だった。
友人の失恋話に等しい悲劇を耳にしておいて「ちょうど良かった」とは何事だ、と憤慨する俺に「この葉山太陽に任せておけ」と彼は胸を張った。「実はこっちでも一つ、面倒なことが起こってな。ちょうど良い。オレに考えがある」
* * *
「実はな」と太陽は俺と高瀬を見て言った。「野外フェスで演奏するつもりだった曲の一つが使えなくなったんだ。あいつらと
あいつら。すぐに、太陽を追い出した新生ノースホライズンの連中、と脳内で変換する。
「今まで練習してもらっていた『Pleasure of life』はオレが作詞作曲した歌だから、誰にも文句は言わせない。でももう一曲の方は共同製作だから、向こうがダメだ、と言えば多勢に無勢。そこでアウトなんだ」
かつて同じ夢を志していた仲間との
彼は言った。
「フェスでは、二曲演奏する機会が与えられている。むざむざと一曲だけで退きたくないんだよ」
「でもね葉山君」高瀬が小さく挙手した。「今から曲を作って、それを演奏できるようになるまでには、ちょっと、時間が足りないんじゃないかなって思うんだけど」
フェスが開催される8月8日までは、今日を入れてちょうど二週間しか残されていない。彼女の言う通りだ。俺の不器用さまで考慮すれば、どこかの小国で小さな革命が成就する確率の方が高いかもしれない。
「簡単な曲でいいんだ」と太陽は言った。「悠介がギターの練習も兼ねて、メロディーを作る。高瀬さんには詩を書いてもらう。一週間やる。曲が完成さえすれば、編曲やその他諸々、後はオレがどうにかする。だから頼む」
ちょうど良かったというのはこういうことだったのか、とカレーショップでのもやもやがようやく解消される。
疎遠になりつつある俺と高瀬に共同で曲を作らせ、仲直りを促す。なるほど。たしかにちょうど良い。ただし「うまく事が運べば」というカッコつきではある。
「なんとかなるって」と太陽は俺の心を見透かしたかのように言った。「オレたちの最大の武器は若さだ。可能性を自分で閉じるな。悠介はできる! 高瀬さんもできる! オレにはイメージできるぞ。二人が作った曲をフェスで演奏して、
ふと視線を感じた。テーブルの対岸からだ。はっとして俺は顔を正面に向ける。高瀬と一瞬ではあるが目が合う。しかし彼女はすぐに顎を引いて、視線の交差を終わらせてしまう。
高瀬はもう、俺のことを嫌いになってしまったんだろうか。
そんな思いが込み上げてきて、胸がズキンと痛んだ。もしそうだとすれば、俺との共同作業なんて、彼女にとっては苦痛以外の何物でもないはずだ。一緒に曲を作れるわけがない。
マイナス思考になってしまうのは、体調が悪いせいもあるだろう。
傷心によって免疫機能が低下した、というわけではないのだろうけど、実は数日前からなんとなく体がだるい。咳が出るし、微熱がある。いわゆる“夏風邪”を引いてしまったみたいだ。この夏は踏んだり蹴ったりだ。
高瀬がこの話を断ったら、俺の初恋はここで終わりだな。そう思ってうなだれたその時だった。
「わかった」と高瀬は、たしかにそう言った。「神沢君、やってみよう」
俺は驚きと興奮で言葉が出てこなかった。奥歯が震えていた。
「はい、これで決まり!」太陽が豪快に手を叩いて宣言した。「悠介の意向なんて知らん。高瀬さんがやると言ったらやるんだ。いいな」
俺がなかば呆然としてうなずくと、彼はバッグから数冊の本を取り出した。作詞作曲の指南書だ。
高瀬がさっそくそのうちの一冊を手にとって、パラパラとめくる。その隙を見て、太陽は俺にだけ小さく微笑んだ。あとはおまえさんがなんとかしろ、という笑みだ。なんとかなればいいが、と俺は思った。
「じゃ、期待してるぞ」と太陽は言った。「オレは今からちょっと野暮用があるから、あとは二人で相談してやってくれ」
「なんかごめんね」と高瀬は太陽が退室してから言った。「私たちががんばるしかないかな、って思って」
私たちががんばるしかない。まさしくそうなのだ。この夏休みの間、太陽と柏木には“夏期特別講習”なるものが課されていた。理由は簡単だ。成績がふるわなかったのだ。
鳴桜は進学校なので、期末テストの学年下位30名には問答無用で一日二時間の補習が待ち受けている。「補習」という言葉に潜むただならぬ危機を察知した二人は奮起し、無事に安全圏に順位を押し上げた――ということにはならず、不名誉な補習者名簿にその名を連ねることになってしまった。
そのため、彼らには時間的な余裕はこれ以上なく、太陽もまさか月島に委託するわけにいかないから(拳が顔に飛んできた件で、彼は少し月島を恐れている)、俺と高瀬に曲作りの話が来るのは自然な流れだった。
さいわいなことに高瀬はどうやら、この時間の半分は作為的な意思によって作られていることに気付いていない。俺は咳をこらえて、口を開いた。
「謝らなくていいよ。どうせ俺のノーなんて、はじめから受け付けていなかったはずだから」
それを聞くと高瀬は「いつもそうだもんね」と言って苦笑した。しかしまだ表情にはぎこちなさが残っている。いずれにせよ、今日の彼女となら、ある程度まともな会話ができるようだ。
彼女と話すべきことは、俺の喉の奥で行列を作って待っている。作曲の話は後回しにして、まずは行列を解消させることにした。
「負けたよ。英語で差を付けられたのが痛かった」
240人で競われた期末テストで高瀬は学年総合38位、俺は41位だった。
「たった4点差でしょ」と高瀬は控え目に言った。「一問か二問でひっくり返っちゃう」
「その一問か二問が大きい。入学試験ならそこが分かれ目になって、天国と地獄が決まる」
入学試験、と耳にした時、高瀬の頬がびくっと動いた。俺はすぐに言葉を継ぐ。
「これが本気を出した高瀬の実力なんだな。参った」
「そんなことないって。むしろすごいのは神沢君だよ。夜に居酒屋のお仕事があって他の人より時間が取れないのに、あの順位は立派だって」
そう言ってもらえるのは素直に嬉しいけれど、ただやはり、彼女との距離が感じられてならない。どことなく機械的に発言しているように聞こえる。
俺は言った。
「高瀬が苦手だった数学がなんとかなったみたいで、よかった。基礎がなってないとこれから大変だから――」
そこで言葉を切って、国公立を目指すなら数学は必須だから、と続けるべきか否か黙考する。
高瀬は今、果たして、大学進学をどう捉えているのだろう?
ヒカリゴケの洞窟での誓い以前の、「受験はするけど進学はしない」というスタンスまで戻ってしまったのだろうか。
それとも、まさか、まさか、大学受験自体を選択肢からばっさりと切り捨ててしまったのだろうか。明らかに
結局、次に喋ったのは高瀬だった。
「神沢君が遅れを取り戻させてくれなかったら、ここまで順位を上げられなかった」
「いや、高瀬の地力があったからだ」
6月末にこの部屋で彼女と一緒に勉強した日々を思い出す。あの頃はよかった。
「そんなことないよ。神沢君の教え方が上手だったから」
俺はそれを聞いて浮かれていられなかった。
私を大学に行かせるっていう、あの約束、なかったことにしていいからね――。
この一週間、頼んでもいないのに幾度と耳元で再生されたその台詞が、今また繰り返されたからだ。
高瀬はそれを口にするにあたって「一晩じっくり考えた」と言った。
だからこそ俺は「もう一度約束させてくれ」と安易に言えないでいる。
仕方がないのでとりあえず自分の気持ちをはっきり表明しておくことにした。
「俺はやっぱり、大学に行きたいよ。その意思に変わりはない。つまりそれは、この街に留まって鳴大を目指すっていうことだ。柏木と幸せな家族を築く気もなければ東京に行って月島のせんべい屋を継ぐ気もない。だいたいがさ、めちゃくちゃなんだよ柏木も月島も。俺の気持ちなんか度外視だ。俺は大学に行くって言ってるんだ。そのためにバイトだってしてるのに」
その台詞の向こう側にあるものを読み解くような目つきで、高瀬が口を開いた。
「晴香も月島さんも、神沢君のことを真剣に考えてるんだよ。そんな風に言ったら、二人に悪いって」
思いがけず
「晴香ね、私と二人でいる時、神沢君の悪口ばっかり言ってたの。今思えばあれは、好きっていう気持ちの裏返しだったんだよね」
柏木がどんな言葉と表現を駆使して俺のことを
一週間前のあの日から高瀬がまとっている「神沢君と晴香・月島さんの恋模様を私は遠くから見守ろう」という感じの少し冷めた雰囲気が、見えざる二本の腕となって、俺の首を絞めているのだ。
「高瀬、俺は……」
その腕を払い、なんとか口にする。しかし二の句が継げない。我慢できず、激しく咳き込む。後頭部がやけに重く、喉の奥にはじんわりと痛みが広がってきた。どうやら風邪は悪化しているらしい。
「大丈夫? なんか顔色悪いけど」高瀬が気遣ってくれる。
俺は手の平を彼女に示し「ああ」と強がった。時計を見る。太陽と柏木の補習が終わり、月島がこの部屋に来る前に、作曲の筋道だけは立てておかねばならない。
「そろそろ曲作りの話に移ろう。ごめん、余計なことばかり喋って」
高瀬の心がひどく遠く感じる。体はこんなに近くにあるのに。
♯ ♯ ♯
「38.7℃」と体温計には表示された。
ここまでしっかりした風邪をひいたのは久しぶりのことだった。俺は自室のベッドの上で「みんなに移してないといいんだけど」と独り言を言った。
高瀬とのきわめて事務的な話し合いの結果、決まったのはおおむね以下の3点だった。
1、一曲目に演奏することになる『Pleasure of life』は作詞作曲者である葉山太陽という男の生き方を象徴するかのような、情熱的かつ扇動的でアップテンポなナンバーなので、メリハリをつける意味でも、俺たちは落ち着いたバラードを目指す。
2、まずは高瀬が詩を作る。作曲経験のない俺が少しでもそこから着想を得られれば、という狙いだ。とにかく時間がないので、早ければ今夜中にでも、完成した歌詞を高瀬がスマホから俺に送る。
3、一週間という納期は不服もあるが、なんとかして守ろう。今回は太陽のピンチに違いない。つまりフェスではきっかり二曲演奏しようじゃないか。彼の未来のためにも。
補習を終えた太陽と柏木、それに加え月島が合流した頃には、俺の体調の悪さは「なんのこれしき」と虚勢を張ってごまかしきれなくなっていた。
結果、俺だけは早退するよう他の四人に勧められた。俺はそれを甘んじて受け、帰宅し、少し眠り、今に至る。月が出ている、真夏の夜だ。
腹が減ってきた。何か用意して食べるべきだ。そして薬を飲むのだ。今日は居酒屋の仕事が休みで助かった。こういう不測の事態があるから、週に四日という勤務形態にして正解だった。
俺はベッドから起き上がり、部屋を出て、階段を降りる。熱があるから、できるなら火を使った面倒な料理はしたくない。栄養的には不十分でも、今日一日くらいなら「レンジでチン」でも許されるだろう。
俺はわりあい用意周到な人間なので、冷凍庫にはその期待に応える食品がきちんとストックしてある。仕方がない。いたわりという調味料の効いたおかゆや煮込みうどんを作ってくれる母親など、俺には存在しないのだ。
炒飯とボンゴレビアンコ、どっちにしようかな。どっちも胃に来るぞ、風邪の時に食べる料理じゃない、と思って階段を降りきったその時、家の呼び鈴が鳴った。
玄関のドアスコープから外を覗くと、よく知った顔があった。風邪をひいて心細かったというのもあって俺はほっとして鍵を開けた。
「よっ、来てやったぞ」開口一番、恩着せがましく柏木が言った。「ゴハン食べた?」
「いや、これから作ろうと思っていたところだけど」咳を
見れば、彼女は大きく膨らんだ紙袋を胸の前で抱えている。
「焼くから」
「は?」声が裏返る。
「お好み焼き! 今から焼くから。うちのお店から持ってきたんだよ、これ」
袋の中を覗き込むと、そこにはお好み焼きのタネらしきものが入った容器やソース、金属へらなんかがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「一人だと風邪の時大変じゃん? だからあたしがなんとかしてあげようと思って来たの。さ、入れなさい入れなさい」
俺の返答を待たず、柏木は花柄のサンダルを脱ぎ、家に上がり込む。考えてみれば彼女の私服を見るのはこれが初めてだ。
シンプルな白のTシャツにデニムのショートパンツという出で立ちは、当然ながら肌の露出面が多くて、視線のやり場に混乱を生じさせる。そしてその格好は、議論の余地がなく彼女に似合っていた。改めて骨格と肉付きの良さに感心する。
素脚が美しい。制服のスカートから覗かせる脚とはまた違う
もう何も面倒なことは考えず、後ろからぎゅっと抱き付いてしまいたい衝動に駆られる。でももちろんそんなことはしない。すべてが終わってしまうから。
「ねぇ悠介、ホットプレート出して」
柏木はダイニングテーブルに紙袋を降ろして言う。
「そんなものうちにはない」と事実を告げると、彼女は「はぁ?」と呆れ返った。
「ホットプレートがない家なんてあるの?」
「うちがそうだ。家中ひっくり返しても、出てこないよ」
俺の中でホットプレートは、幸せな家庭を象徴するアイテムの一つだ。すなわち我が神沢家には無縁なアイテムの一つということでもある。
柏木は腰に手を当て、髪をかき上げる。くびれが
「今から買いに行くわけにもいかないし、フライパンでなんとかすっか」
「それにしても」と俺はつぶやいた。「お好み焼き……か」
「なによ」文句でもあるの、というように柏木は下唇を突き出す。
「いや、俺、風邪だからな?」
もう少し身体にやさしいものを食べたかった、というのが本音だ。冷凍食品よりは断然ましではあるけれど。
柏木は口の前で人差し指を振ると、得意になってまくし立てた。
「甘いわね。風邪だからこそ、ガツンと食べて体力つけるんでしょうが! うちで一番の看板メニュー、豚モダンスペシャルを用意してきたから。残さず食べるの。わかった?」
なんとそれには、焼きそばも入っているらしい。胃薬はどこにあったかな、と俺は先回りして部屋を見渡した。
「それじゃちょっと台所借りるよ。期待して待ってて」
柏木はゴムで後ろ髪を一つに束ね、紙袋からエプロンを取り出して着用する。彼女らしくない、無地できわめて実務的なエプロンだ。きっと店でもそれを身に着けて、仕事にあたっているのだろう。
「店の手伝い、今夜はいいのか?」
「そんなこと気にしない気にしない。ほら、細かいことは考えず、病人は大人しく座って待ってなさい」
これは俺の推測だけど、柏木はそれなりに無理をしてこの時間を作ったんじゃないだろうか? だとすれば俺は彼女に感謝する必要があるだろう。ま、今日がたまたま定休日だった、というだけかもしれないが。敢えてそこまでは問うまい。それは野暮というものだ。
「助かったよ」と俺が言って彼女が微笑んだところで、信じられない音を耳が拾った。
またしても家の呼び鈴が鳴ったのだ。
俺が立ちすくんでいると、出ないの? という顔つきで柏木がこちらを見るので、仕方なく応対することにした。新聞は取らないし、幸運を呼び込む壺も買わない。それだけははっきりしている。
リビングを出て、再び玄関に向かう。柏木も興味があるらしく、距離を保って背後からついてくる。俺は再びドアスコープから外を覗く。そこには、この状況下ではあってはならない顔があった。
命の恩人を粗末に扱うこともできず、俺はドアを開けた。
「ハロー。元気?」と買い物袋を提げた月島は言った。「あ、風邪だっけか、あはは」
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