第40話 ただ抱き合って(後)


 柏木の人生において大きな意味を持つことになるであろう涙が流れているあいだ、俺を深く悩ませていたのは、下半身の一部が制御不能に陥ったことだった。


 要するに俺は、勃起していた。


 それは過去に類を見ない、すさまじいスケールの勃起だった。硬く、熱く、神懸かってさえいた。今ならば日本中のどんな丈夫な障子しょうじも突き破れるような気がした。魚拓みたいに記録を残しておきたいくらいだ。


「20××年3月3日 富山の古宿にて 勃起者・神沢悠介 全長××センチメートル」

 

 そんなものを家に飾るのは、まともな人間のやることじゃないので、もちろん実行はしないけど。

 

 泣いている柏木の心情を考えれば、この勃起が不適切なものだということくらい俺だって重々わかっていた。罪悪感すらあった。


 しかしこればかりは――この生理現象だけは――自分の意思ではどうにもならないのが、XY染色体を持って生まれた者の辛いところだった。


 布団の中で柏木の震える体を抱きながら俺は、物理学の知識をかき集めて宇宙の果ての姿を推測してみたり、スターリングラードの戦いから生還した翌日に雷に打たれ命を落としたソ連の無名兵士の、幸運か不運かよくわからない人生に思いを馳せてみたり、しまいには素数を小さい方から順に心で挙げてみたりした。

 

 そうすることで、意識を官能的な領域からできるだけ遠ざけようと試みたわけだ。


 しかし131まで素数を数えたところで、すべては無駄な努力であるという結論に達した。まさしく悪あがきだった。残念ながら、今この下半身で起きている反乱を鎮めるすべなどどこにも存在しないのだ。

 

 柏木の肉体のやわらかな触り心地が、かすかに見える鎖骨の艶やかさが、押し当てられる弾力性に富んだ二つの乳房の生命力が、初夏に咲く花の蜜を思わせる甘くかぐわしい匂いが――つまり俺を取り巻く何もかもが――その反乱をしかるべきものとして後押ししていた。


 ちょっとでも自分を律することをおこたれば、柏木の体に上から覆いかぶさってしまいそうだった。

 

 浴衣をまとった二つの体は、猫に追われたネズミが隠れる余地が無いほど密着している。俺の下半身の異変を柏木が知るのは、もはや時間の問題だった(口に出さないだけで、もうとっくに気付いているのかもしれないけど)。


「あの子たち、きっと幸せに生きていくよね」


 それが泣き終えた柏木の第一声だったので、俺はひとまず安堵した。というか、彼女は自分の布団に戻る気はさらさらないらしい。

「あの子たち――双子のことか?」

「うん」

 

 俺は彼女とは異なる見方を持っていた。

「そう簡単にはいかないと思うけど」

「え?」


「あの子たちは、少なくとも俺らみたいな惨めな思いをすることはないだろう。そして、両親の愛情をたっぷり受けて育っていく。そういう観点では、幸せだと言えるかもしれない。ただ――」

「ただ?」


「成長していく彼らの前に、大きく立ちはだかるものがある。それは、社会制度だ。どういうことかというと、あの子たちは、戸籍を作れないんだよ」

「コセキがないのが、何か問題なの?」


「大問題だ」と俺は言った。柏木はこういう分野の話にはめっぽううとい。このあいだの秋まで、婚姻届にプロポーズの言葉を書く欄があると本気で思い込んでいたくらいだ。


「平たく言えば、戸籍がないと、『存在しない者』として扱われることになるんだよ。それが何を意味するか、わかるか?」

「難しいことはわからない」と柏木は鼻声で答えた。


「存在しないのだから、学校に通えない。健康保険証が作れない。運転免許証が取れない。選挙権がない。アパートを借りられない。結婚ができない。就職だって難しい。彼らがこの先こうむることになる不利益は、挙げればきりがない」


「ないないないないない。それじゃ、なにもできないじゃん」


 俺はうなずいた。

「自治体によっては柔軟に救済措置をとるところも最近はあるらしいけど、それにしても現行法のままでは、あの双子はとても多くの制約を受けながら生きていくことになる。彼らもまた、ある意味では犠牲者なんだよ」


「もしかしたら、双子には、あたしたちよりつらい未来が待っているかもしれないんだ」


「そういうことだ」

「あたしの親父と有希子さん、そうなるのをわかっていて、子どもを作ったのかな」

 

 話の流れ上仕方ないとはいえ、柏木にはもう少し状況に即した物言いというものを心掛けてほしかった。。どうしても、良からぬことを連想してしまう。俺が過敏なだけだろうか?

 

 とにかく、平静を装って喋る。

「あの二人は、初恋に燃える少年少女がそのまま年をとってしまったような男女だけど、決して幼稚じゃない。社会の仕組みはそこらへんの大人以上に理解している。となれば、計画的な妊娠であり、覚悟の上の出産だったはずだ。それこそ恭一は、どんな困難からもあの子たちを守ってやるんだろうさ。最愛の有希子ひとと二人三脚でな」

 

 柏木は気怠そうに息を吐き出した。

「なんていうか、みんな、うまく生きられないもんなんだね」

 

 同感だった。本当だよな、とささやいてから俺は、時間の経過と共にまとまりつつある考えを彼女に聞いてもらうことにした。

「今ならばこう思えるんだけどさ、きっと、誰も悪くないんだよ。おまえの両親も、俺の両親も。みんな自分が信じる幸せに必死で手を伸ばしただけなんだ。俺たちや、他の誰かと同じように」

 

 頭では再び、母の発言が再生されていた。「きれいなだけじゃ生きられない」と彼女は自己弁護した。その言葉はあるいは、俺の父や柏木の母・夏子さんの汚名をそそぐ意味合いまでも含んでいたのかもしれない。


「誰も悪くない」と俺は自分に言い聞かせるように繰り返した。「あの人たちを責めるのはもうよそう。この世の中は、十代の俺たちが思っている以上に厳しい世界なんだろう。生きることと幸せを追及すること。そのどちらも両立させるのは、大人になると途端に難しくなっちまうんだ」

 

 そこで「そうだね」と相づちを打った柏木は、なぜか苦しそうだった。俺は何事かと思い、顎を引く。笑うのを必死で堪えている彼女と目が合う。

「だめだよ、悠介。あたしもう我慢できない!」

 

 柏木は身をよじってひとしきり笑った。それから、膝で俺の下腹部を突いてきた。

「あのさ、これだけ股間をビンビンに膨らませておきながら、よくこんな真面目な話ができるよね。感心するよ。なになに『みんな自分が信じる幸せに必死で手を伸ばしただけなんだ』だっけ? 悠介なんか、を伸ばしてたくせに。あぁ痛い。笑いすぎてお腹が痛い」


「おまえな……」

 体全体が熱くなってきた。柏木の背中から両手を離し、腰を後ろへ引く。


「あたしが悲しみの涙に暮れているそばで欲情していた、不謹慎野郎め」

「おまえはさ、自分がどれだけ色気をまき散らしているか、わかってないんだよ」

 反則だ、と心で訴えもした。


「誰も悪くない」

 柏木は急に同情の視線を寄越してくる。

「うんうん、実にその通り。したがって、悠介も悪くない。しょうがないもんな、男子は」

 

 俺が何も言えないでいると、彼女は調子に乗りすぎたと反省したのか、気まずそうに顔の前で両手を合わせた。


「ごめんごめん。笑ったのは謝る。ただね、悠介の話はちゃんと全部聞いてたよ。理解もした。『誰も悪くない』っていうの、なんとなくあたしも感じ始めてたんだ。そうだよね。誰かを憎みながら生きてくのって、すごくつらいことだもん。なんかもう、わだかまりはないや。本当だよ? 思いきり泣いて笑ったら、スッキリした。人間ってすごいね」


「それならいいけどさ」と俺は、浴衣だからえりなんかないけれど、襟を正して言った。ただ俺がそう言ってしまうと、それ以上会話はもう続かなかった。続く気配もなかった。不思議なもので、時間の流れ自体がぱたりと止まったようだった。

 

 おのずと二人は無言のまま、枕の上で顔を見合わせることになる。相も変わらず柏木は、瓶に詰めたら高く売れそうな良い香りをぷんぷん放ち、それによって俺の勃起は揺るぎのないものになっていた。


 にらめっこをしていたわけではないけれど、先に表情を崩したのは柏木の方だった。口元に妖しい笑みが浮かぶ。その瞬間、聞き覚えのあるサイレンが意識のどこか遠くから鳴り響き始めた。じりじりじり。じりじりじり。

 

 まずいぞ、と俺は思った。


 なぜならそれは、例の、一季節に一度は発令される対柏木専用警報だったから。


 まもなく彼女の口から、俺の度肝を抜くとんでもない言葉が飛び出すのだ。今の状況を考えれば、警報器の誤作動であることを祈るしかなかった。しかし、的中率100%を誇る警報の信憑性しんぴょうせいはたしかなものだった。


「悠介。ひとつになってみる?」


 柏木はそんなフレーズを口にするだけで、古宿の一室をたちまち官能的な空間に変えてしまった。「ひとつになる」という表現は多義的なようでいて実に一義的だった。頭で復唱すればするほど体温が上昇する、魔力を含み持っていた。


「柏木さん!?」

 

 彼女は俺の狼狽ぶりを笑うでもなく、再び体を密着させると、あろうことか脚を絡ませてきた。まるで知略に長けた二匹の蛇が布団の奥にいるかのようだ。

「あたしの親父に『チェリーかよ』って見下されたの、悔しくないの?」


「そっ」ろれつだって回らなくもなる。「そんなもん、あいつは俺の倍以上も長く生きてるんだから、いろんなことを経験していて当たり前だ」


「でもさ、あたしたちくらいの年の頃は、もうすでに『やりまくってた』って言ってたじゃない」柏木の人さし指が俺の無防備な胸をう。「これはもう、あの人たちの子どもとしては、負けてられないでしょ?」


「そんなところで対抗意識を燃やしてどうするんだよ」

「あたしはね、悠介に必要なのは、自信だと思うんだ」


「自信?」

「そう。ここで男になっておけば、もう今までみたいに、つまらないことでくよくよしなくなるって」


「どうだろう?」

「悠介。あたしとエッチしたくないの?」


 愚問の極致と評していい質問だった。「したいに決まってるだろ」


「じゃあ決まり」と柏木はささやいて、目をつぶり、均整のとれた顔を接近させてくる。3㎝先まで肉厚の唇が迫ったところで、ようやくと言うべきだろう、高瀬の声を、正月に聞いた彼女の声を、俺は思い出した。


「晴香ともし何かあったら、私は気付かなくても、月島さんは絶対気付くんだからね」 

 そんな恐るべき警告が、記憶から消失するわけがなかった。


「ストップ!」柏木の肩を両手でおさえる。彼女の両のまぶたが持ち上げられる。「『したい』と『する』は別の次元の話だ。ここでもししてしまったら、すべてが壊れちまう」


「壊れたからこそ、始まるものもあるんじゃない?」

 

 春先に比べればこの娘もずいぶん詩的なことを言うようになったものだ、と感動している場合ではない。


「いいか、柏木、良く聞け。俺とおまえは、そもそも恋人同士でもなんでもないんだぞ」あいにく運命の絆では結ばれているようだけれども。「それに、足の怪我だってまだ完治してないんだから。医者もこの旅を許可する条件として念を押していただろ。『激しい運動は厳禁ですよ』って」


「悠介……そんなに激しくするつもりなの?」

 

 完全なる失言だった。慌てて首を振り、取りつくろう。


 彼女は続ける。「悠介が愛してくれれば、怪我なんか治るよ」

「意味がわからない」


「もう焦れったいなぁ」俺の後頭部へ柏木の長い腕が伸びた。「あたしは悠介にバージンを捧げたいの」


 俺は視線を意図的に外した。そうでもしないと、今にも彼女の浴衣を引っ剥がして、豊満な胸に顔を埋めてしまいそうだった。

「いや、やっぱりだめだ。物事には順序ってもんがある。いろんなことをすっ飛ばして男女の一線を越えるわけにはいかない」


 それを聞くと柏木はため息をついて、俺に巻き付けていた腕と脚を解き、体を反転させた。「マジメというかなんというか。ま、悠介らしいけど」


 猛烈な後悔が襲ってきたが、「これで良かったんだ」と俺は自分に言い聞かせた。

 

 柏木はそのまま眠ってしまうのかと思ったが、ほどなくして仰向けになり、こんなことを口にした。

「あたし、悠介に約束するよ」


「約束? また急だな」

 

 彼女は入念に喉の調子を整えた。そして、言った。

「あたしもう、高校の屋上へは行かない」

 

 俺は思わず目を見張った。つい笑みがこぼれる。

「本当か!?」

 

 彼女は枕の上でしっかりうなずいた。

「なんかあたし、今日一日で生まれ変わったみたい」


「うんうん」おのずと合いの手にも力が入る。


「さっきまでホテルがどこも満室で、長いあいだ雪の中をあてもなくさまよっていたじゃない? 歩きながら、ふと思ったんだ。『死にたくないなぁ』って。いつ以来かわからないほど、久しぶりの感覚だった。大袈裟だって言って笑わないでね。あの時は、心も体も疲れ果てていたんだから」


「笑わないよ」元はといえば悪いのは、ホテルの予約をとらなかった俺だ。「柏木。つまりもう、おまえは、生きていることが恐くはないんだな?」


「今のあたしが恐いのは、死ぬこと」と明言した後で柏木は、布団の中から右腕を出し、袖をめくってこちらに伸ばしてきた。「さわってみて」

 

 俺は彼女の手首に触れた。

「鳥肌だな」


「今ね、屋上のへりから見えた光景を思い出してみたの」柏木は腕を元の位置に戻す。「ぞっとしちゃった。そんな場所に自分が何度も立っていたなんて、信じられない。普通の人間のやることじゃないよ。もう誰かに頼まれたってあそこへは行かない。たとえ100万円積まれたって行かない」

 

 そこで試しに、300万円だったらどうする? と尋ねてみると「それなら考える」と返ってきたので、いくらか残っていた俺の不安は完全に拭い去られた。


「小さい時のあたしは、将来、先生になりたかったんだ」

 一呼吸置いてから、柏木はそう言った。


「先生? 学校の教師か?」

「そう。小学校の先生。子どもが好きだったから」


「初耳だ」

「高校に入ってからは誰にも言ってなかったもの」

 

 俺の脳裏には、ジャージ姿の柏木が、体育座りの児童たちに跳び箱の模範演技をしてみせるシーンが浮かんでいた。運動神経のすこぶる良い彼女がもっとも本領を発揮できる授業は、おそらく体育だ。


 体操選手さながらの華麗な跳躍に拍手が巻き起こり、ゆさゆさ揺れる胸には思春期のドアノブに手を掛けた男子たちの視線が突き刺さる。


 なるほどなるほど、と俺は思った。活発な柏木先生は、さぞかし学校の人気者になるだろう。いろんな意味で。


「でもあたしは、その夢を諦めなきゃいけなかったんだ」と彼女は続けた。「親でもないいずみ叔母おばさんに面倒を見てもらうことになったんだから、当然だよ。食べさせてくれるだけでもありがたいのに、『将来は大学に行って教員免許を取りたい』なんて図々しいこと、口が裂けても言えないもん。

 

 こう見えてもあたしはけっこう本気で先生になるつもりでいたからさ、夢を断ち切るふんぎりがなかなかつかなくて、苛立ったりもした。でも高校の屋上の縁に立てば、諦めがついたんだ。こんなことをしているあたしが、先生になんかなれるわけがない。そう思えて。要するに現実から逃げてたんだよね」


柏木にとって屋上の縁は、生きていて良い理由を空に問う場所であると同時に、逃げ場所でもあったようだ。


「富山まで来て本当に良かったよ」と柏木はさっぱりした声で言った。「心臓の病気を治して幸せそうに暮らしている父親の顔を見たら、なんだか悩んでたことが急にあほくさくなっちゃった。あんな人に迷惑かけまくりの馬鹿親父がぬくぬくと生きてるんだから、あたしなんか生きていていいに決まってるじゃん。ねぇ?」


 俺は枕の上でうなずいた。

「それにしてもおまえ、本当に今日一日で生まれ変わったんだな」


「あたしはもう大丈夫だから」

 柏木はしっかりそう告げると、はるか遠くを見上げるように目を細めた。

「屋上の縁にはあたしが求める答えはない。これからは逃げずに自分に向き合う。生きて、幸せになる。それがなにより、天国のお母さんのためでもあるし」

 

「よく言った」と俺は褒めてやった。「それでいい。それで」


 ♯ ♯ ♯


「記憶、戻ったんだよな」

 柏木と話しているようで赤の他人と話しているようなもどかしさがあったこの三ヶ月を思い返し、俺はあらためて喜びを噛みしめていた。


「あはは、その節はご心配をおかけしました」

「本当だよ。こっちは、もう二度と戻らないことも覚悟してたんだから」


「それも悪くなかったかもねぇ。そうしたら、責任感の強い悠介をこの先もずっと独占できたかもしれないんだから」出し抜けに柏木は顔をしかめ、頭をさすった。「痛っ! ヤバっ! 記憶がまた飛んでいく……」


「いや、笑えないから」

 

 世界中の猿が木から落っこちそうな柏木のやかましい笑い声が響くなか、俺の胸には熱いものが沸き上がっていた。彼女が記憶を取り戻す前後の場面が脳裏に蘇っていた。

「おまえの記憶を呼び起こすトリガーは、いずみさんでも恭一でもなく、俺が大学進学に苦労していることに対する怒りだったんだな」


「どうしたの、しんみりしちゃって」


「過去に強く感情を揺さぶられた記憶が鍵となることが多いようだ。担当の医師がそんな感じのことを言ってたからさ」


「ま、そりゃあ、恋する悠介が苦悩する姿を一年近くもすぐそばで見てたんだからね。当然と言えば当然でしょう」

 

 俺は照れて何も喋れなかった。彼女は続けた。

「そうそう、あの家で言ったこと、全部本心だから。別に有希子さんの前だからって格好つけたわけじゃないよ。あたしは、悠介が大学に行くのを全力で応援する」

 

「すまんな」と言いつつも、ただそうなると、と俺は冷静に考えを掘り下げていた。柏木の目指す未来は、世界一幸せな家庭を築くことだったはずだ。無論、想定しているパートナーは俺なんだろう。その俺の大学進学が滞りなく叶ってしまえば、彼女の理想とする未来は遠のくはずなのだが。


「わかった」と俺は閃いて言った。「さては、おまえも大学に行く気だな?」

「はぁ?」


「やっぱり小学校の先生になる夢を捨てきれなくて、どうにかして大学に行くことにしたんだろ。そうなんだろ?」

 

 柏木は大きく手を振った。

「ないない。その夢はもう本当に諦めたから」


「それなのに、俺のことは応援してくれるんだ?」

「だって、片方が大学生になったって結婚はできるでしょ?」


「そりゃそうだけど」

「家族一同幸せに生きていくためには、どうしたってある程度の収入は必要だから。悠介には学歴を武器に出世街道を突っ走ってもらって、たくさん稼いでもらうことにした。どうだ、この柔軟な発想の転換」


「どうだ、って言われても」

 柏木に財布の紐を握られ、少ない小遣いをやりくりする憐れな恐妻家の姿が容易に思い浮かんだ。

「とりあえず、手にしたい未来は今までと変わってないってことだな」


「それが変わったんだよなぁ。世界一どころじゃない。幸せな家庭を作る。それが新生晴香ちゃんの目標。なんか文句ある?」


「馬鹿だよな、おまえ」と俺が愉快な心持ちで言うと、柏木は笑った。そしてこちらを向き、抱き付いてきた。おのずと股間の膨張が再度彼女の太ももに当たる。


「息子君、まだ元気なの」

「出番は無いんだぞってさとしているつもりなんだけどな」


「よし。やっぱ、一発やって寝る?」

「本気にするぞ」


「え」

「冗談だよ」

 半分は冗談じゃなかったけど、彼女の当惑顔を見れば、それ以外の台詞は吐けなかった。


 柏木はオーバーな咳払いをしてから、「あたしは、悠介に感謝を伝えておきたかったの」と言った。俺は心を入れ替え、彼女の声に耳を傾ける。


「この冬はよくがんばったね。今までのどんな季節よりもよくがんばった。本当は優里のためにもっと時間を使いたかったはずなのに、毎日のように病院に来て、あたしの話し相手になってくれた。おいしくない病院食も、とならごちそうだった。悠介がいなかったら、あたし、壊れていたと思う。ダメなあたしを守ってくれたんだよね。ありがとう」

 

 彼女は俺の反応を待たずに言葉を継いだ。


「恩返しさせて。今度はあたしの番。これからは、あたしが悠介のことを守るから」


「誰かさんと同じこと言ってるぞ」

「細かいことはどうでもいいの。あたしが守るって言ったら守るの」

 

 女に守られるというのは男として決まりが悪いけれど、甘受するしかなかった。彼女が一度言ったことを取り下げるとも思えない。


「ただ今夜だけは」と消え入りそうな声でささやき、柏木は俺の顔を見上げた。「今夜だけは、悠介があたしのことを守っていて。弱さがこの体にもう二度と戻って来られないように、しっかり抱き締めていて」

 

 俺は黙って彼女の背中に腕をまわした。今夜のふたりに、言葉はこれ以上要らなかった。


 ♯ ♯ ♯


 柏木の無垢な寝息が聞こえるようになってから俺は、“運命”についてぼんやりした頭で考えていた。


 春先の老占い師の予言通り、その言葉でしか説明のつかない数多くの出来事が俺を待ち構えていた。


 時に影となって背後から忍び寄り、時に渦となって呑み込もうとした、運命。


 俺にとっての運命とは、天使が鈴を鳴らしながら空から運んでくるものというよりはむしろ、悪魔が魔笛を吹きながら夜道で押し付けてくるものという方が印象としては近かった。


 まぁ要するに、ありがた迷惑な訪問販売とさほど変わらない。

「お兄さん、話題沸騰中の運命は要りませんか。今ならキャンペーン中につき、4割引きの出血大サービスですよ」

 

 残念ながら、今やクーリングオフは不可能だろうけど。

 

 この富山への旅は、受動的だったそれまでの姿勢から一転、攻勢に転じる意味合いを含んでいた。自ら踏み込んだわけだ。俺につきまとう運命の正体を探るべく。

 

 柏木恭一と神沢――いや、旧姓で呼ぼう――戸川有希子は見えざる強い絆でつながっており、互いを求め合う想いは、離れたふたりを再度引き合わせる幸運すらも呼び寄せた。


 言うなれば、彼らはどうしたって結びついてしまうのだ。それこそ運命だ。そして運命に抵抗することをきっぱりやめ、今を力強く生きている。限定された枠から幸せがはみ出ないように、警戒をおろそかにせずに。

 

 運命に身を任せてしまうのは、楽なんだろうと今なら俺はつくづく思う。


 問いかけてくる相手が悪魔だろうが訪問販売員だろうが、頭を空っぽにしてイエスと答えていればいいのだから。


 その選択の理由だとか正当性なんか、黙っていても後からついてくる。他でもなく母の生き方がそれを証明しているのだから笑うしかない。柏木の眠りを妨げたくないから、笑うわけにはいかないが。

 

 いずれにせよ、俺の母が選んだのは、運命に従う生き方だった。それではいったい、俺はどうするのだろう? どうなるのだろう? わからない。運命とはなにか? 結局、それもわからない。肝心なことは、いつもわからずじまいだ。

 

 結ばれるべくして再び結ばれた柏木恭一と戸川有希子。

 

 それぞれの道草の途中でこの世界に生を受けたふたつの命、柏木晴香と俺。

 

 そんなふたりは多くの傷をそこかしこに抱えながら生きてきた。不良品の烙印らくいんを押されても文句を言えないほどに。


 あるいは我々は、そもそも完成された状態ではなく、カケラとして産まれてきたのかもしれない。互いの断面を重ねることで、綺麗な玉を形づくるガラスのカケラ。ふたりでひとつ。俺の片割れ。柏木の片割れ。


 柏木は俺にはないものをいくつも備えている。


 決して退くことをしない負けん気の強さ。

 初対面の人間にも突っ掛かっていく剛胆さ。

 何事にも物怖じしない積極性。

 絶対に悪を見逃さない正義感。


 時にはそれらが過剰に働き過ぎて、あらぬ問題を呼び込むことだってある。ただ、その問題に収拾を付ける才覚が、俺にはあるらしい。

 

 俺たちの特徴がうまく噛み合えば、マイナスがプラスになり、届かなかったものに届くようになり、見えなかったものが見えるようになり、不可能が可能にさえなる。ひとつになったふたりに、付け入る隙はない――のかもしれない。


 彼女と生きる未来はとても――。


 気が付けば、俺は大きなあくびをしていた。どうやらついに眠気が訪れたらしい。


 考えるべきことはまだまだ山積していた。しかし俺は、今夜はもうこれ以上頭を使うべきではなかった。さすがに疲れた。脳が休むことを求めている。残された問題は、次の季節までの宿題としておこう。


 柏木は森の奥のお姫様みたく深い眠りについている。このぶんだと、朝まで目覚めることはないだろう。


 俺は彼女の背中を撫でてみた。温かくも繊細で、少し力を込めれば、砕け散ってしまいそうな背中だった。


 しかし彼女は安心して眠っていればいい。もう弱さが舞い戻ることはない。この手がそれを許しはしない。今夜は俺が守っている。このままただ抱き合って、新しい一日が来るのを待とう。きっと明日は今日より良い一日だ。


 俺は“未来の君”を強く抱きしめて、ゆっくり目を閉じた。



    

                    第一学年・冬〈終〉

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