第31話 それでも愛すべき私の大切な人たち(後)
高瀬のために時間を使えないもどかしさを決して顔に出さぬよう、病室では俺なりに明るく振る舞っているつもりだったけれども、ベッドの上の柏木は明るさの裏にある焦燥感を見抜き、こともあろうに俺を気遣ってきた。
「悠介くん、ワガママ言ってごめんね。優里ちゃんと一緒にいたいよね」と。
それに対し俺は、ぎこちない作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。心身共に疲れ切って、「何言ってるんだよ」と取り繕う余裕さえ失っていたのだ。
その結果、強烈な自己嫌悪に陥りながら、俺は家路についている。
9時を過ぎた夜の街には、冬特有の冴え冴えと澄み切った空気が隙間なく敷き詰められていた。
病院を出たあたりから、やけに喉の奥がいがいがして不快だ。どうやら風邪をひいてしまったらしい。
もし熱でも出して倒れたら、「だから言ったじゃない」と高瀬に渋い顔をさせてしまうから、今夜は温かくして早めに眠ってしまおうと決めた。
しかしその決定は早々に覆されることとなった。自宅の軒先で、きれいに整えられたショートヘアが俺の目に飛び込んできたのだ。
「待ってましたぞー」
芝居がかった声を投げてきたのは、洗練されたピーコートに身を包んだ月島だ。彼女はいつだってオシャレだ。何があってもオシャレだ。オシャレではない月島涼はもはや俺の知っている月島涼ではない。
「夕飯、どうせまだなんでしょ」
白い息が言葉と共に吐き出される。見れば彼女は両手に買い物袋をぶら|
「まだだけど」夕方にフードコートで今川焼きをひとつ食べただけだ。「月島、わざわざ作りに来てくれたのか?」
「そういうことになる」
「なんだよ、それなら、事前に連絡してくれればよかったのに。そうすれば、こんな寒空の下、無駄に待たずに済んだのに」
「バッカ野郎」と月島はすげなく言った。「東京生まれで北国の真冬の寒さに慣れていない私が、凍えながら好きな人を待ってるから絵になるんだろ」
「演出家かよ、おまえ」
「とにかく、ほら、さっさと家に入れなさい。私はかれこれ一時間前から待っていたんだぞ」
♯ ♯ ♯
月島はこの街の寒さにぶつくさ文句を垂れながらも、実に手際よく調理にあたった。
彼女が動き回っているのは、使い慣れた自宅の台所のようだった。
夏にもこうして夕食を作りに来てくれたよな、とダイニングテーブルに肘を突きながら俺は思った。柏木もいて、料理対決さながらの様相を
「冬はやっぱり、鍋でしょ」
この時期ならば津々浦々で聞けそうな台詞を月島が言って、夕食は始まった。カセットコンロの上で湯気を立てる鍋を挟んで、俺たちは向かい合っている。
月島が甲斐甲斐しく小皿に具材を取り分けてくれた。野菜が多めだ。俺は礼を述べ、まずは鶏肉をふぅふぅ冷ましてから口に含んだ。
目の前に光が見えたのは、その直後のことだ。そして体の組織が活性化していく感覚が訪れる。古い細胞が新しいものに生まれ変わっていくかのようだ。
次に白菜を食べる。本来の甘みとスープのうま味が融合して、これまた美味だ。体が芯から温まる。こんなに幸せを感じながら白菜を食べたことは今までにない。
「うまいよ」と俺は言った。「お世辞抜きでうますぎる」
月島は得意になるでもなくクールに微笑んだ。
「ところで、何鍋なんだ、これ。鶏ガラのだしがよく利いているけど」
「ちゃんこだよ」と彼女は簡潔に答えた。「実家が昔から仲良くしている相撲部屋から特別に教わったレシピだから、美味しくないわけがない。本当なら門外不出の味なんだから」
「さすが、東京下町育ち」
地方都市に長らく住み続けている人間からすれば、仲の良い相撲部屋があるというだけで驚きだ。
しばらくの間それぞれの空腹を埋める時間が流れた後で、月島は言った。
「帰ってきた時から比べれば、ようやく表情も明るくなってきた」
「俺、そんなに暗かった?」
「暗かった。酷かった。恐かった。目なんか死んでたし。病院でなにかしらマズイものを刺激しちゃって、それに
ははっ、と笑うしかない。
「憑かれてるわけじゃなくて、疲れてるんだよ。単に疲労だ」
「高瀬さんと、一緒に何かしてるよね」
その口調は、質問というより確認に近い。
「月島さんはさ、脈略のないことを平気で言うよね」
「で、どうなのよ」
「してるよ」
それを聞くと月島は一旦箸を置き、肩をすぼめる仕草をした。
「柏木が記憶を無くしたことまでは知ってるけど、高瀬さんに関しては、私、何も知らないの。12月になってからいつも難しい顔してるでしょ、あの子。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「難しい顔をせざるを得ない、きわめて難しい問題が持ち上がったんだよ」
「そして例によって、それに神沢も巻き込まれているわけだ」
巻き込まれている、という表現はいささか不本意だが、とりあえず俺はうなずいた。
「まさか『そっか、がんばれよ』と傍観するわけにもいかないだろ」
「何があった」月島は身を乗り出してくる。「そして何を思い悩んでいる。困難には慣れきっているはずの神沢がここまで疲弊するって、よっぽどのことだろ。さ、こういう時は遠慮なく、お姉さんに相談してみなさい」
俺は鍋をつつきながら、これまでのいきさつを彼女に話してみることにした。
「高瀬はさ、ようやく自分の足で自分の道を歩き始めたんだよ――」
* * *
「そういうわけで、時間が足りない。全然足りない。体が二つ欲しいと真剣に願ったりもする。一日が36時間になってもいいけど。ただ、どっちも叶うわけがないから、今のままでなんとかするしかない」
「なるほど」月島は腕を組む。「高瀬さんのために極力がんばるつもりでいたけれど、思いがけず柏木までもがピンチになったことで、サンタクロースに引けを取らないハードな年末を過ごしているというわけか」
「体が疲れているのはもちろんだけど、それ以上に心が疲れているな」
「ふむふむ」
「高瀬にしろ柏木にしろ、これまでのどんな時よりも俺のことを必要としているんだ。俺はそれに
月島は言った。
「
これには苦笑するしかない。「来るなんてな」
「それで、愛に生きるスーパーバイザーさんのお手並みはどうなの。タカセヤ西町店の売上20%アップ、達成できそうなの?」
「徐々にお客さんの数は増えているし、客単価も以前より上がっている」
今日聞いたばかりの中間報告を思い出していた。
「それでも、今の調子だと、上げ幅は8%にしかならない。目標の20%には遠く及ばない。それもあってか、
月島は、自身の細長い指を無表情でしばし見つめ、それから口を開いた。
「朝から学校に行って、放課後はタカセヤでスーパーバイザーとして立ち回り、それから病院に行って記憶をなくした柏木の付き添い。そこからさらに夜遅くまで居酒屋のバイト。そりゃ体も心も疲れるって。ねぇ。バイトはこの際、思いきって辞めちゃえば?」
俺は即座に首を横に振った。
「それはできないな。月島はムッとするかもしれないけど、そうすると今度は俺の『大学行き』の未来が危うくなる。進学資金を調達するうえでは、あの居酒屋ほど理想的な職場は他にないんだよ。近いし、時給は文句ないし、マスターは融通を利かせてくれるし」
マスターは俺が高校生時代の同級生・神沢(旧姓戸川)有希子の息子であると知ってからというもの、なおさら気に掛けてくれるようになっていた。
「忘年会シーズンで人手が足りないところを、俺を信用して、新しい人を雇わないでくれているんだ。そんな状況で、どうしたら辞められる? やっぱり、無理だ」
テーブルの向こうで月島は、真剣な顔つきで何かを考えていた。そして言った。
「クリスマスイブまでの間、居酒屋のバイト、私が代わってあげよっか?」
「え」
「そうすれば今より確実に高瀬・柏木ご両人のために使える時間が増えるでしょ。そしてバイト先のマスターに迷惑をかけないで済む。おやおや、大学への道だって途切れないぞ」
「でも月島は、秋からブティックで働いているんじゃなかったっけ?」
「いいのいいの。失恋のショックから、聞いたこともない変な宗教に店長が心酔し始めちゃって、ちょうど辞め時だなって思ってたところだから」
他の誰かならともかく、男性恐怖症を抱える月島だけに不安は残る。
「職場柄、男が多いぞ。しかもたいていは酔っ払いだ。もし絡まれたりでもしたら……」
「何かあったらその時はその時だ」と彼女はさばさばと言った。「変な客がいたら、ビール瓶で殴りつけて、帰ってやる。神沢の未来もそこで終わり。それくらい腹をくくりなさい。ノーリスクで何かを得ようなんて思うな」
なんだかだんだん愉快になってきた。自然と顔がほころぶ。彼女の言う通りだ。
「オーケイオーケイ。それでいいよ。結構だ。月島、恩に着る。ありがとう」
「ただし、ひとつだけ条件がある」
「条件?」
「神沢には、私の脚を舐めてもらおう。じっくり朝まで」
「なな」ろれつが回らない。「舐めていいのか!?」
「コラ。嬉しそうな顔すんな。冗談に決まってるだろ」
「冗談かよ」
女性の脚をこよなく愛する者の心を
「次が本当の条件」と彼女は指を立てて言った。「イブの夜、タカセヤさんで結果発表を聞いたなら、その後私のマンションに来ること。いかが?」
それを聞いて俺は、今日の夕方、西町店のフードコートで高瀬から向けられた質問を思い出していた。彼女は俺がイブの夜に柏木とは何の約束もしていないと知ると、「月島さんに誘われたりは?」と尋ねてきた。もちろん俺は否定したわけだが、まさか数時間後にそれが現実になるとは。
しかし俺は、ここで月島との取引に応じないわけにはいかなかった。喉から手が出るほど欲しかった“時間”を得られる、願ってもない申し出なのだ。
俺は「いいだろう」と承諾してから、ふと浮かんだ疑問を続けて口にした。
「なぁ、月島。どうして俺に協力してくれるんだ? お前にとっては、売上20%増が達成できずに、高瀬が鳥海家に入る結果になった方がいいだろうに」
彼女はいつになく機敏な動作で前髪を払い「わかってないなぁ」とつぶやいた。「そりゃあね、高瀬さんが退場してくれれば、私が神沢をゲットすること自体は簡単になるよ。強力なライバルが一人消えるわけだから。ただね、もしここで高瀬さんが高校を辞めて鳥海家に入ってしまったら、神沢の心にはこの先ずっと高瀬さんが住み続けることになるよ。もしかすると一生。違う?」
「違わない」と俺は即答した。
それだけじゃない。高瀬との約束を守れなかった無念や自責、あるいはトカイの御曹司に対する嫉妬なども、この心に強く根を張るはずだ。そしてそれらは、やがてイバラとなって絡み合い、俺を内から苦しめるのだ。朝も夜も、夢の中でさえも。
「しかもその高瀬さんは年をとることがないんだ」と言った月島の頬は膨らんでいる。「若くて可愛いまま、今の状態でキミの中に住み続ける。まるで絵本の中のお姫様のように。私はそんな決着をちーっとも望んでない! 私が思い描いているのは、高瀬さんと柏木に納得のさよならを告げた神沢に、東京へと、月島家へと、来てもらう結末だ」
「おまえが焼きもちを焼くことなく、俺がせんべいを焼く結末だな」
「うまいこと言ったつもりか」と彼女は可笑しそうに言った。「そういうわけで神沢。こうなったら高瀬さんを救っちゃいなさい。おまけに柏木も。大切なのは持ち前の『なんとかする』の精神だ。私も手を貸す。私は立場上、表立ってタカセヤさんに行くことはできない。でも神沢のバイトを代わってやることはできる。困った時はお互い様だ。ま、最終的には私のためなんだけど」
「助かるよ」
「“未来の君”だっけ? 春に占われたっていう、神沢の運命の人」
「ああ。なんでも、俺を幸せに導いてくれるらしい」
「私は自信があるもの」月島は鎖骨のあたりにそっと手を添えた。「私、高瀬さん、柏木。三人の中で神沢に一番幸せな未来を与えられるのは、この私だって。おやおや。さては神沢の“未来の君”は、私なんじゃないか」
それを聞いて俺は、自らを取り巻く奇怪な運命を思い出していた。例の、親の代から続く俺と高瀬と柏木の関係性だ。
考えてみれば、三人娘の中で月島だけがその輪の外にいる。そしてそのことを知らない。
彼女にも話しておいた方がいいだろうと俺は思った。隠しておくこともない。
「月島。大事な話だから聞いてくれ。すべての発端は20年前の
* * *
「神沢ってすごいよね」と話を聞き終えた月島は背伸びをして言った。「見た目はいたって普通なのに、置かれた境遇だけは、まるで何かの物語の主人公みたいだもの」
「ぱっとしない外見で悪かったな」
「まぁそう腐るなって」月島はくすくす笑ってから、表情を戻した。「それはそうと、この街を舞台とした神沢、高瀬、柏木の親子二代にわたる劇的な恋物語を聞いて、自分の役割みたいなものがわかった気がする。なんとなーく」
「役割?」
「そう。神沢に対する私の役割。たしかに私だけは物語の輪の外にいるね。まさか私のパパまで神沢のお母さんに恋していたなんていう展開にはならないだろうから。でもね、輪の外にいるからこそ、見えることやできることもあるんだよ」
「というと?」
「親、運命、物語。そういうのって重たいじゃない。すごーく。私、目に浮かぶもん。その重みを背負って、へとへとに疲れ果てた神沢の姿が。そんなキミに『そんなもん全部捨て去っていつでも逃げておいで』って言ってあげるのが、私の役割なんだろうね」
俺は逃げたりしない、と心に浮かんだが、口にはしなかった。今の時点でさえ心身の疲れを隠せてはいないのだ。説得力など、まるでない。
「その時はお世話になります、とだけ言っておくよ」
俺がぶっきらぼうにそう返すと、月島は湖の透明度を測るような目つきでこちらを見つめた。そして「風邪、治ったみたいだね」と指摘した。「帰ってきた時は鼻声だったけど、良くなってる」
はっとして試しに唾を飲み込んでみた。すると喉のいがらっぽさがきれいさっぱり消えていることに気が付き、おのずと目を見開いていた。
「おお、本当だ! それになんだか体が軽い!」
「これで心置きなく明日から励めるね」と月島は言った。
「ちゃんこのおかげだよ」と俺は目の前の鍋を称賛した。「力がどんどん湧いてくる。すごいな、これ」
「そりゃ、相撲部屋の料理だから」
「月島。その、いろいろと、ありがとうな」
「本当、感謝しろよー?」月島は自慢気な顔を見せつけてきた。「私みたいな女、そうそういないんだからな」
「仰る通りです」
「そうだ」彼女は明るく手を叩く。「しばらくのあいだ、今日みたいに私がゴハンを作りに来てあげよっか? そしたらキミはより高瀬さんと柏木のために集中できるでしょ」
「それはやめてくれ」と俺は少し考えてから答えた。「まずいことになる」
「なんでさ」
「そんなことをされたら、おまえのことを好きになってしまうだろ」
「なるほどな」
月島は表情を変えず、しかしいくぶん嬉々とした声色で言った。
「なるほど、それはたしかにまずいね」
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