第17話 空の色が見え始めたのかもしれない(後)


「なにか飲み物を買ってこようかな」と高瀬は言ってビーチチェアから立ち上がった。しかし彼女はどういうわけか立ったまま動かない。視線はある一点を捉え、固まっている。


 何事かと思い俺もその視線の先を見る。月島もそうする。そこには水着姿の二人の男がいた。


「おーい、じゃん」

 二人組の大きい方が大きい声で言って、こちらに近付いてくる。

「やっぱりそうだと思ったよ! またかわいくなった、なった?」

 

 この男、きょきょきょ、という、かなり独特な笑い方をする。

 

 高瀬は髪を耳にかけて「おおいわ君」とその名を口にすると、決まりが悪そうにチェアに腰を下ろした。そして俺たちに彼を紹介した。

「えっと、彼、小学校から中学校まで、ずっと一緒だったの」

 

 俺の高瀬を馴れ馴れしく下の名前で呼び捨てにするとは貴様一体どういう了見だ、という叫びはひとまず潜めておくとして、とりあえずはこの男の観察に徹することにした。

 

 とにかく図体が無駄に大きい、というのが第一印象だ。できることなら夏場にバスで隣に座ってほしくないタイプだ。


 色白で、顔や首筋、胸のあたりにはニキビの跡が多く残る。目が細く、唇が腫れぼったい。髪は派手な茶色に染められている。しかしそれは全く彼に似合っていない。夏休みの間だけ染めて、始業式の前日に戻すつもりなのだろう。


 全体にまとっている雰囲気からは、これは根拠がない俺の主観になるけれども、なんとなく高校一年生としては平均以上の軽薄さと残忍さが感じられる。


 率直に言って、俺が彼と友好的な関係を築くのは極めて難しいだろう(彼も俺とは仲良くしたいとは思わないはずだ)。


 そしてきっと「大岩君」なんだろうな、とその体つきから推測して、勝手に漢字をあてがっておく。

 

 もう一人の男は大岩とは対照的に小さく、坊主頭で、眼鏡を掛けていた。しかしその肉体はとてもたくましく、隆々とした筋肉が自ずと目を引く。


 もし大岩と彼が戦えば(なぜそうなるのかはさておき)、体格のハンディキャップを覆して、勝つのはおそらくこっちだ。二人は例のちりちりパーマも通っている南高なんこうのクラスメイトだという。

 

 大岩は坊主に「鳴桜めいおう高校に行ったんだ、彼女。アッタマ良いんだよー」と説明し、やはりきょきょきょと笑った。その声はファンの羽が一枚取れた、薄汚れた路地裏につながる換気扇を彷彿とさせた。


「偶然だね、まさかこんなところで会うなんて」

 高瀬が明るさを表面に、警戒を裏面に備えた声で言った。


「もしかして運命の導き、ってやつ? きょきょきょ」


 俺が脳内でこの男を頭のイカれた仮面男が主催するデスゲームへ強制参加させていると、彼は俺と月島の顔を交互に見た。「優里、も、鳴桜高校?」

 

 こいつら。全身の体毛がぞわっと逆立つ。いくら同級生とはいえ初対面だぞ、もう少し違った言い方があるんじゃないのか。喉元までそんな声が込み上げてくる。

 

 その無神経さは高瀬の気をも害したようで、彼女は実に不愉快そうに「そうだよ」と返した。

 

 きょきょきょ、と大岩は元々細い目をさらに細めた。この笑い方では一体、どれだけの人間を不快にしてきたのだろう?


「あのさー優里」大岩は高瀬に接近する。「やっぱり俺ら、付き合わない?」


 やっぱりってどういうことだ、と俺は思った。

 

 高瀬は思い当たることがあるらしく、動揺を隠せない。

「ちょ、ちょっと。やめてよ。何言ってるの」


「だってさー、チョコくれただろー。くれたんだよ、優里、俺にチョコ」言って、坊主に胸を張る大岩。坊主はそれに「へー」とすげなく返し、「くれたんだよ」と泣きつくように大男は繰り返した。


「ごめん、大岩君。何度も言うけど、あれは、そういうんじゃないんだって」

 

 バレンタインデーに高瀬からチョコレート(義理、ということだろう)をもらった大岩は高瀬が自分に気があると勘違いし、告白し、果てた。それを何度か繰り返している。そんなストーリーが過去にあったことが、二人の会話から予想できる。そして今日もまた、果てた。


「そうだったんだってな!」大岩の鼻が膨らむ。「いろんな男にチョコ配ってたんだよ、この女。その気にさせるだけさせておいて、ポイ、だ。男を|翻弄ほんろうして楽しんでいたんだ!」


「違うよ!」高瀬はチェアから立ち上がる。「そんなつもりはなかった」


「知ってるよ」

 大岩は狙い通りに獲物を罠に掛けたような湿り気のある笑みを浮かべた。知ってる知ってる、とねちっこく繰り返す。

 

 顔色がたちまち曇る高瀬を凝視し、大岩は「黒川」と言った。

 

 俺の頭の中で、その名字とあるエピソードが一本の線で結ばれる。

 

 黒川さん――小学校時代の高瀬のなにげない一言がきっかけで、苛酷ないじめの被害に遭い、転校を余儀なくされ、唯一の特技だったピアノもやめてしまったとされる女の子だ。

 

 高瀬はまさか夏のバカンスで来た海でその名を聞くことになるとは思わなかっただろうし、できることなら今すぐ耳をふさぎたいはずだ。


 月島だけはここで話についていけなくなり、きょとんとしている。「黒川?」と、その涼しい顔に書いてある。

 

 この流れでなぜ黒川さんの名が出てくるのか疑問に思っていると、「おまえって嫌な女だよな」と大岩は始めた。そして高瀬をその巨体で威圧するように、さらに前に歩み出た。

「黒川のことがあって、おまえ、焦ったんだろ。だからキャラクターを作り直してさ、男には義理チョコ配ったり、女には下手したてに出たりして、なんとか乗り切ろうとしたんだ。今ならよくわかるよ。そうだ、優里、俺をフリ続けてくれたお礼に、一つ良いこと教えてやるよ」

 

 そこで口元に優越感を滲ませ、大岩は笑った。きょきょきょ。


「おまえ、あのキャラクター、周りに受け入れられていたと思い込んでるかもしれないけど、それは大間違いってやつだ。実際はけっこう嫌われてたんだからな。八方美人だよなって。おまえだけだよ、気付いてなかったの。残念でしたー」

 

 忌まわしい笑い声が浜辺に広がる。高瀬は力なくチェアに体を沈める。それを見て俺は拳を握りしめる。頭に血が上る。大岩は続ける。


「まー、顔は良いしよー、おまえ、あのタカセヤの娘じゃん? 彼女にするならオイシイと思ったんだよなー。もうさすがに諦めるけど。ちなみにこの無愛想な男、カレシ?」


「黙れ!」俺は反射的に立ち上がり、声を張り上げていた。無論、無愛想に立腹したわけではない。「過去のことを持ち出すな。誰にだって触れられたくない傷はあるだろう? 高瀬は今、たしかに未来に向けて歩いている。どんな理由があれ、その邪魔だけは許さない」

 

 静寂が広がる。周辺を歩いていた人々が、なんだなんだと、こちらに注目しはじめているのがわかる。

 

 大岩は坊主に共感を求めるように「聞いたかよ!」と高い声を出すと、明らかに俺を小馬鹿にして、神棚や地蔵を拝むみたいに、両手を合わせた。


「かっけー、こいつ、かっけーよ。『未来に向けて歩いている!』未来、だって! すげーわ、こんな奴本当にいるんだな。青春映画とかの見過ぎなんじゃねーの!」

 

 一発そのニキビ跡の目立つ頬に拳をめり込ませて、警察沙汰となり、「カエルの子はカエル」と揶揄やゆされたってかまわないと思えるほどに、我を失っていた。今日一番のきょきょきょが拳を震わせる。

 

 そんな俺を正気に戻したのは、月島だった。


 いつの間にか彼女はテーブルを挟んだ向こう側、大岩の正面に移動していた。そして彼の左頬目がけて、右の手の平をスナップを利かせ、素早く振り抜いた。


 鮮烈な高音が、あたりに響き渡る。

 

「消えろ、ゴミ」と月島は言い放った。

 

 体格で言えば自身より二回りは小さい華奢きゃしゃな女の子に、白昼堂々、公衆の面前で平手打ちをお見舞いされた大男の全身は、みるみるうちに赤らんでいく。見れば高瀬も再度立ち上がり、その光景を注視している。


 大岩はわめき始めた。

「あああ、なんだよ、なんだよ、おまえ、誰がゴミだよ、なんだよ、殺すぞ、この!」

 

 危ない。すぐに危険を察知した。ただでさえ、月島は普通の女の子とは違う。


 俺は駆け出したが、月島は怯まず、

「あんたは誰かの過去を笑えるほど、立派に生きてきたのか」と続けた。


 大岩の右手が、明白な意思のよって振り上げられる。月島を殴る気だ。まずい。

 

 月島が目を閉じたその時、坊主がすっと歩み出て、大岩の右手を掴んだ。そして言った。

「やめろ。どう考えてもこれはおまえの負けだ、大岩。情けないぞ」

 

 大岩はなおも月島に殴りかかる気でいたが、坊主は強引に彼を引っ張っていった。


 坊主は去り際、空いている手を顔の前に出して小さく頭を下げた。「こいつの悪い癖なんだ、すまん」とでも言いたげに。


 二人組が見えなくなると、俺はすぐに月島の元へ向かった。

「おい、大丈夫か?」


「大丈夫よ」と彼女は言うけれど、その声は震えていて顔からは血の気が消え失せていた。


「怖かったんだろ」

「別に」


「月島、もうこんな真似はよせ」

「許せなかった」

 

 許せなかった? と俺は疑問形にして返した。月島は下唇を噛んで「同じ色が見えた」と答えた。


「あの男、中学の時に私を襲った男たちと、同じ色が見えた。どこまでも罪深い、そして救いのない、渦を巻いた黒。暗黒。ああいう男が女の魂を殺す」

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