第27話 エピローグ 第2篇

 この物語は無数にある並行(平行)世界・異世界のうちの一つである。イシュタルーナ(『巫女騎士イシュタルーナ』)や〝いらふ〟の物語、イユとイリューシュの物語(『龍肯の聖なる剣』)で語られた世界とは近似した別の世界の物語である。


 こののち、ジャン・〝アンニュイ〟・マータ、ジョルジュ・サンディーニとアッシュールとは三人の傭兵隊として、各地で活動した。


 イシュタルーナはラフポワとともにイノーグ山に戻り、いゐりゃぬ神を祀る日々を過ごす。


 ユリアスは流浪生活に還り、イマヌエルも故郷に帰って学究生活を続けた。


 イユとイリューシュもアヴァとともにイヴァント山に戻り、静かに暮らす。


 ダルジェロとエルピスとは、アカデミアで教授となった。


 神聖イ・シルヴィヱ帝国の一時的な衰退に伴い、西大陸(オエステ)のヴォード帝衆共和国の帝都メタルピシュカインペラステュートや南大陸(スール)のマーロ帝国や東大陸(エステ)の大華厳龍國(龍梁劉禪:リョンリャンリューゼン)が虎視眈々と来た大陸進出を企み、暗躍し始めるようになった。

  

 殉真裂士たちは、再び集結することとなるのである。




 最後に龍肯の聖剣について、附言して措こう。


〝ラベルには『鯡(ニシン)』〟とあった。BLIK製の缶に貼られ、賞味期限が〝齊暦四九八九・二・二八〟

 缶截(き)りの刃(やゐば)を用い、ZAKZAK截り裂き牽き剥ぐ蓋ふちZUDAZUDAあざやかな截り口がぎらぎら捲れ上って、頸刎(き)れ顚(さか)さ磔(はりつけ)の骸がごとく、叛(そむ)き仰(の)け反(ぞ)り逸(そ)れ皈(かえ)り屰(さか)剥(は)ぎがまま。

 缶はからっぽであった。孑(ぽつ)と存。

 存在が炸裂である。存在といふ炸裂である。平常(びようじよう)といふは狂絶空(くるひくうをたつ)がゆえ、自在奔放を解(ほど)く自在奔放、狂奔裂である。ただ、存在といふこと。        (『遺されざる古文書』より)


 それはポジ・ティフという名の乞食(こつじき)であった。

 罅(ひび)割れたように皺(しわ)深く日焼けした皮膚に被(かぶ)る布は胆嚢液の濃く煉(ね)り込まれた威(ど)す黟(ぐろ)い汚穢(をゑ)が滲み、黄のまじる焦茶、青錆びた赤銅(しゃくどう)、えたいのしれぬぬめぬめした黑い緑などが繊維の奥深くまで沁み込んでいて糞掃衣(ふんぞうえ)にしかならぬ襤褸裂(ぼろきれ)であった。

 それが颯爽と風に靡いていた。


 超然と澄み切ったまなざしで天を仰ぐ。痩せ窶(やつ)れた頬には超越者の自信があふれ、何もかもを俯瞰して眺めたかのような、超越的陶酔による、得も言われぬ、聖の聖なる微笑が浮かんでいた。無意識下最深層の虚空藏(あかしゃがるば、虚空の母胎)にて世界一切の情報を閲覧したかのように。

 穢れ醜く、貧相で、廃れ切った惨めな存在者が、こんなにも遙かに神々しく見えるまかふしぎは、妙義、としか言いようがない。すべての理を超越していた。


 七万年前に黎明し、偉大であった〝理〟は今や凋落の一途。誕生來、理の一黨独裁という宿痾(しゅくあ)、及び批判という一疾病により、躬(みづか)らを不合理、未証明、無根拠と否絶するに至る。


 イデア、ロゴス、エイドス、懐疑、批判(Kritik)、弁証、意志と表象、力への意志、現象學、存在、差異・差延等、いずれも葬られた。眞偽正誤是非當否という區劃・判定の在り方や、ロジカルという理解方式が無根拠とされ、意識される諸々の考概が無効となった。


 扨(さて)、ポジは怠惰で頓着せずに乞食をし、じぶんの人生にも無責任であった。努力も功績もなく、善行も修行もない。そんな男が神に選ばれるなど、俗世の価値観から言えば、あってはならなかった。だが、理は脆弱な形骸だ。すべての現象と同様に、時には切実であっても、実体も本質も見當たらない。繁文縟礼など無視する天衣無縫天真爛漫なる天の機(はた)らきはそんな理など遙かに超える。乞食ポジは選ばれ、神の御言葉を預かる。預言者となった。見窄らしい乞食ポジを見窄らしいまま崇高なる大聖人へと変えてしまった。ポジは神聖なるオーラを帯びる。誰もそれを理解できなかった。 


 無理解など意に介さぬ。決した。人跡未踏の嶮しい山脈の奥深い高みに独神のよう身を隠匿し、清廉潔白に、人知れず、看取られず、理解もされぬまま死なんと欲する。


 山脈の麓に辿り着くだけでも大難儀であった。麓から山の高みへ逝くまでがさらに峻険、人を寄せつけぬ地である。食べるものもなく、雪氷を少し水筒に入れて懐で溶かし飲むのみで、このまま体力を失って、中腹すらも逝くことができぬはずであった。


 しかし、越えられないクレパスの連続をも渉る。氷壁を攀じ登った。凍った垂直の絶壁に齧りつき、道なき急傾斜の雪上で何度も滑落し、遂に死ぬるかと想うこと度々、尖った岩が鋭利に突き上がった空気の薄い、人も來ぬ、眼も眩む断崖の大峡谷すらも踏破する。

 銀嶺の頂上に近い、雲よりも遙か上の洞窟で、息絶えた。彼が不幸であったか、幸福であったかを誰に判ぜられようか。幸か否かは幸福と感ずるかどうかである。


 遺骸は屍とならず、楕円の石へと変じた。石が神の言語であった。神の思考が留められていた。預言は石として遺ったのである。数千年間、乾冷風雪が蝕し続けた。


 神考は論で解せぬものである。神の思考は我々とは異なる。我々は理をつかい、理をつかわぬ思考はない。理とは慣習が敷いた一定の経路を思惟が経由することで、理解・納得という心理状態を做(つくる)に過ぎぬ。経路を論と呼ぶ。AとBとが符合すると、胸の詰まりが氷解して解放の快が生じる。それが理解・納得というものの実像であった。


 そもそも、思惟など、神経伝達物質を軸索で受容したニューロンのイオン・チャネルが開き、イオンが細胞膜の内又は外へ移動、それに伴い、内外の電荷の正負関係が逆転する刹那の、電気的な発火現象(インパルス)であり、化学的な現象に過ぎない。

 これを思惟・概念として竟(つい)の窮みまで究めて何が得られようか。必定窮する絡繰である。本質(イデア)とは縁なきもの。


 しかも、眼に見えたと思われている事実(脳神経細胞の機らき)が見たとおりであるとは限らない。誰にも保証できない。いや、それ以上に、真実というカテゴリー、保証という構造が何ものか。何であるというのか。そのような根源からは誰も答えられない。


 ならば、この知は何ごとか。無もまたインパルスにしかざれば、無知非知といふとも奚や。竟に、しらず。会得せず。すなわち空也。空を会得とふ。

 非情、無味乾燥なる無慈悲な金属、BLUES HARPのリードの震え、音、なにものでもない かたちもない、存在。


 古來、何人もの預言者が神から預かった言葉で、その構造を指摘し、いつか來るカタストロフを予告していた。だが、論理的思考に依拠・依存する学者たちは振り向かなかった。預言者たちは迫害された。やがて、架空の構築が破綻する。諸々考概・本質(イデア)が礎を喪失した。物質主義が起こる。科学者たちは現実追従でしかない実践主義者となり、理や義を無視し、実証主義に陥った。因・経緯という機械的な部分を追究し、実利を求め、利を貪る富裕の俗人らを喜ばせ、倫理を蹂躙し、現状・実態・実状を優先する主義へと堕する。


 それは一見、理の破綻のカタストロフを回避したかに見えた。弓の弦をさらに引き伸ばし、崩壊破綻への緊張を高めたに過ぎぬが、破滅は超越の兆し、畢竟、全宇宙も含め存在一切は超越への無限旋律でしかない。



 

 

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殉真裂士 龍のごとく肯んぜよ しゔや りふかふ @sylv

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