第23話 五千年の埃積もる羊皮紙の古文書と孤児エルピスの學び
「まったくの予想外だった。いったい、どうやって、あそこに、あらわれたのだ。あらわれることができたのか」
ユリアスさえ愕然としていた。
「奴はいつでもどこでもあらわれることができるのか」
ジョルジュも思案する。アンニュイも顔色を曇らせ、
「謎が多い。イマヌエルの調査の結果で何かわかるかもしれない」
いらふはペパーミント・グリーンの双眸で雪に閉ざされた彼方を睨むことをやめない。睨みながら、つぶやくように、
「あたかも、しばらくは姿をあらわさないようなことを言っていたが、信じられない。奴の思考は無明の狂気だ。目的のない我武者羅だ」
イユがイリューシュの手をつかむ。今までそんなことはなかった。
「怖い、あの絶壁にいた時みたいに。メタルハートはあの時の、眼も眩むような、怖ろしい谷底の深淵みたい」
猛吹雪の中、尾根を越えると、まったくの静寂である。死のような。
「大丈夫そうだな」
イリューシュが言うと、アッシュールは、
「いや、こういう瞬間が危ないんだ」
「本當かよ」
イリューシュが揶揄すると、アッシュールは肩をすくめて、
「まあ、半分はな」
ともかくも、無事にアカデミアに着くと、治療が始まった。しかし、アンニュイは治療中にも関わらず、イマヌエルを呼び出す。
「もう尠ししてから來ようと思っていた。大丈夫か」
哲学者はそう言ったが、アンニュイは、
「大丈夫だ。気にしなくていい。それより何かわかったかな」
イマヌエルの顔が暗くなる。
「うむ、いくつかのことは。
古い巻物や大判の羊皮紙本なのだが、古過ぎて、附属図書館からは持ち出せないのだ」
「問題ない。こちらから赴けばよいのであろう」
「來られるか」
「むろんだ、尠し待て。ユリアスを呼んだ方がよかろう」
呼ぶ。三人で歩き始めると、
「どこへ逝く、アンニュイ」
「おい、おい、イマヌエルとユリアスが一緒なんだぞ、図書館に決まっているだろう、ジョルジュ」
「ちっ、笑うな、アッシュール。我らも逝こうぞ、痛、いたた」
五人が十数歩も歩かぬうちに、
「どうしたの、ジョルジュ、じっとしてなきゃダメよ」
「イユ、見てみろよ、皆、図書館に逝くつもりらしいぜ。俺たちも逝こうぜ」
「もう、イリューシュったら。ねえ、アヴァを肩に乗せたまま?」
八人で回廊を逝くと、散歩していたイシュタルーナ&ラフポワとばったり。事情をさっと訊いた巫女騎士は、
「そういうことか。では、ご同行させてもらえるかな」
「僕も逝っていいの?」
十人が図書館の前に着くと、いらふが待っていた。
「ふ、來たな。そんなことだろうと思った。ダルジェロは既にいる、エルピスと一緒だ。彼女にせがまれたらしい」
「何で、エルピスが?」
「復讐のためだろう、ジョルジュ」
「そうか、しかし、アンニュイ、彼女には難しいだろう」
「気の済むようにやらせるしかない。それが心というものだ」
司書の坐るカウンターでイマヌエルが記名した。薄暗い閲覧室に入る。ダルジェロとエルピスがいた。合流して進む。奥に着くと、鉄条の柵があった。イマヌエルが許可証を見せる。
無表情な鍵番が開けてくれた。
「どうぞ」
イマヌエルが先頭となって「さあ、こちらです」と進む。
次にユリアスが「ここに入ったことはなかった。大変でしたね」、続くアンニュイも「まさに学者にしかできない戦いだ」とうなずくと、次に入ったジョルジュは「陰々滅々だな、この戦いは私には無理だな」、アッシュールが笑って「安心しろ、誰も期待していないから」、その後からイユ「凄い、お話の世界みたい」、アヴァを肩に乗せたイリューシュも「それよりか、黴臭いぜ」、イシュタルーナは「うむ、確かに。古文書の匂いだ。いずこも同じだ」、妙に感心するラフポワ「ふううん、そーなんだあ、あ、ほんとだ、臭うよ」、その次が感極まっているダルジェロ、エルピスは尠し苛立ち気味、最後尾が眼光鋭いいらふであった。ジョルジュが問う、
「ところで、ダルジェロ、やはり、メタルハートのことを調べていたのか」
「うん、エルピスが急に來てね、吃驚したよ、喋ることができるんだな、って」
「できるわよ、できるに決まっているわ」
皆が初めて聞く、エルピスの普通の声だった。何となく、気不味い雰囲気があったが、エルピス自身は、まったく気にしていない。
ユリアスが優しく訊いた。
「何かわかったかな」
「いいえ、特に何も」
「調べ方がわからなかったの、今日、今から勉強するわ」
「素晴らしいね」
アンニュイがそう言って尠し哀しげに笑った。
聳える書棚の間を迷路のように進み、着く。
「ここだ。君なら、梯子は要らないであろう」
イマヌエルが指差し、背の高いアッシュールが棚から重く大きな羊皮の巻子本を持ち上げ、運ぶ。閲覧机に広げ、皆がそれを囲む。
「これは『ノールマルン大公年代記』というクロニクルだ。
では、私が読み上げよう。ここからだ。最初の献辞や序、一族の來歴や先祖の羅列、関係者への謝辞や言辞は省こう。主要なところだけだ。〝……かくして、その勇武ならぶなき雷霆公ブギズキジークはあと僅かで勝利という時であった。戦場はたちまち様相を変えた。一匹の悪魔が舞い降りて殺戮の限りを尽くし、公の軍四千は屍の山となってしまったのである。血煙にかすむなかから微かにその異様は見えた。巨躯の騎士たちよりも頭二つ分も抜きん出て蛇の眼を持つ女、恐ろしい悪魔の剣は黒い炎に燃え上がる龍が絡み、鉄鋼の板のように巨大な剣は一振りで十数の機甲兵を破壊した……〟。どうかね」
イユが息を呑んだ。
「まさしくジン・メタルハートだわ」
「それ以外の何者でもないな。どこにある国の、いつ頃の話か」
「今から四千年前、かつてレオン・ドラゴ国(レオン・ドラゴ=クラウド連邦に吸収されたかつての王国)のあった辺りだ。この巻子本じたいが千年以上前のものだ」
「四千年前の記録!」
「奴は四千年前にもいたのか、四千年も生きているのか」
「人間じゃない……」
「そのとおりだ。ちなみに、こっちにある別の巻物だが、これは西大陸の神官ネルフォイが記した記録だが、ネヴァードという地方に二十年に一回、ジィンという修羅が満月の霧深い夜にやって來て村人を喰らうという伝承が載っている。蛇眼と黒い炎に燃える黒い龍が絡む剣を持っていると。この記録は今の西大陸のハードボルト族、ヘンヴィー族が來る前にいた先住民の史書で、五千年以上前のものだ」
「修羅! 人間じゃないってことか。五千年前も前から。いや、記録がないというだけで、それ以前もいたのかもしれない」
「道理で。死したかのように見えても、蘇って來るなどとまことしやかに言い伝えられる訳だ。神出鬼没なのもわかる」
「修羅を斃す方法ってないのか」
「聖剣が修羅を焼き尽くすとあるが」
「聖剣と何度か刃を交えているはずだが、今のところそういう兆候はなかったな」
そう言って、イリューシュはいつものごとく、からからと笑ったものの、急に眞顔に、
「しかし、聖剣を俺が使い熟しているとは言えねえから、できねえと決まった訳じゃ」
ユリアスは思案し、
「そのとおりだ。だが、まずは傷と武器の修復を急ごう」
大聖堂の執務室に報告に逝くと、ユリイカが、
「最高のオレイカルコス(オリハルコン。強靱軽量強硬なる聖金属)を用意したわ。それと、世界最高の鍛治職人に神官と呪術師、鍔や柄や鞘の拵えを企畫・設計・デザイン・監修・造作するための哲學者・藝術家・巨匠名人達人と、最高級の装飾細工の芸術職人たちを呼んでいるから、これで剣や『三叉屰』などを作りなさい。方位や吉日を選んで、加持祈禱の上で。
ちなみに、天領の聖域内には温泉もあるから湯治して。武具が仕上がるまでの時間を湯治に當てれば」
しかし、イシュタルーナは言う、
「わらわはイノーグ山の神の御前に残して來た先祖來の聖なる神剣を取りに逝く。幾星霜を経て、逝にしへの神威を深く宿す聖剣だ」
アンニュイは承諾してうなずき、
「逝くなら、皆で逝こう。イマヌエル、君も來たまえ。イノーグは確か南山脈の南側、聖域外だったな」
「そうよ、しかも、南にも湯治場があるわ」
ユリイカのその言葉を背に、一同は南へ向かう。雪が舞っていた。
龍馬と龍羚、特にダルジェロはその悟りの境地の深さから天馬(翼のある馬、神獣ペガサス)と龍との間に生まれた翼龍馬をユリイカから与えられ、イリューシュは世界最至高の神器である『龍肯の聖剣』を乗せるにふさわしい乗り物として鳳凰と迦楼羅と応龍(翼のある龍神)と麒麟の血を継ぐ世界で唯一の神獣、鳳凰迦龍麒麟を授かった。
イユは一角獣(ユニコーン、又はモノケロース)とペガサス(天馬)の間に生まれる一角天馬、アヴァは鳳輦(ほうれん)を背に乗せた龍神を拝受する。
鳳輦を牽く龍は賢者で、神声や人語を解し、話すことができ、乗り手や馭者による操作が要らなかった。龍の全長は四メートルほどで、かなり小型な方、天翔ることも、超低空を飛ぶことも可能だ。
輦には駕輿丁が舁くための華棒はなく、四つの棟を中央に集める方形造、ささやかな調度や設備があり、小柄なアヴァには十分な広さであった。
そういう装備にて一行は聖なる山嶺を眺めながらも、警戒を怠らない。聖域のなかにいるうちも用心をするのであるから、嶺を僅かでも越える時はなおさらであった。敵襲はいつでもあり得る。奇襲にも応ぜられるよう、隊列は次のとおり。
尖頭は、右からジョルジュ、アッシュールであった。剣の切っ尖にも等しい強豪の二人を雙頭のように配す。
続くは、右からアンニュイ、ユリアス、イシュタルーナであった。叡智なる参謀を尖頭に近いところに配し、状況をいち早く見極めさせるとともに、最適な道案内とする。武力に劣るのでその左右を武の心得のある者が囲むのであった。
その次は、右からダルジェロ、龍羚を乗りこなすエルピス、ラフポワ。弱そうで、強い三人であった。とは言え、純粋な戦士ではない。前後を強者でカバーするコンセプトだ。
その後ろは、右からイリューシュ、イユ、アヴァ。ここも前段同様。鳳凰迦龍麒麟に乗る聖剣保持者がいるのでこの隊の要とも言える。
最後尾は、いらふ、イマヌエル。いかなる隊も背後は守備の要とも言える。その点、いらふは不足なく、適任であった。難あるとすればイマヌエルであるが、後方の状況把握にも知を配備することは無駄ではない。
ダルジェロは緊張をしていた。尖頭を逝く二人の背を見て、その勇気を想う。じぶんは一番安全な位置だ。想いを凝らし、觀じていよう。覺醒した瞑想によって。
温泉地が近づくと、雪の舞が吹雪に変じたこともあって、
「学長が言ってくれたことだ、敢えて寄らぬというのも、申し訳ないから」
アンニュイは言い、湯治をした。「まあ、やってみれば存外いいものだ」とアッシュールは溜息し、堪能するも、ジョルジュは尠し浸かってさっさと上がると、素っ気なく、「扨、逝こうか」と捨てるように言い、颯爽と跨る。一同さらに南へ。
「そう言えば、ジョルジュの故郷はこの辺だったな」
アッシュールが言ったが、ジョルジュは、
「そうだが、一族は滅んだ」
「祖廟が残っているだろう。墓参でもしたまえ。次の戦いは、イ・シルヴィヱとの総力戦になる」
アンニュイが言うも、ジョルジュは、
「私は勘當の身だ」
そう言って首を縦に振らない。
イユが疑義を抱き、
「どうしてそんなに意固地になって、こだわるの」
「意固地でもないし、こだわってもいない。普通のことを言っているまでのことだ。
何なら、逝ってやってもよい、別にこだわりなんぞない」
かくして、ジョルジュ・サンディーニは図らずも故郷へ帰ることとなった。
一族は離散して、もういない。没落した貴族の典型だった。邸跡には寂寥しかない。
荒れ果てた一族の霊廟へ逝った。どうにか現存している。
父は男の子を欲していた。高貴なる一族の血統を継ぐ男子を。ジョルジュは男として生きることを決意し、騎士となり、父の期待に応えようとした。父の愛を得ようとする。
しかし、父親はジョルジュの行動を顧みることがなかった。男になろうとするなど、嫌悪でしかなく、冷笑で迎え、寧ろ、妹に由緒ある家柄からの婿を迎えるように畫策することに心を砕き、奔走するうちに、不慮の病で斃れた。
ジョルジュへの理解も父親としての愛も与えぬまま。
答のない絶望のなか、ジョルジュは豪放磊落な騎士ギナカと知り合ったのである。二十歳以上年上だったが、彼には英雄の器があった。夢中であった。彼の愛人の一人となるも、不毛であった。
ギナカが戦場で行方不明となって以來、すべて終わりのないままに止まった。答のない煩悶のなか、當時のジョルジュは独り言つ、
「それもまたよし。うつし世のことは、ただ、只管(ひたすら)続く。続いて逝く、それしかない。ただ、それしかない。
終わりも解決も何もないまま、すべて宙に浮いたまま、いずれにも定まらず、いずこへも着地せぬ。
それを空蟬(実存)といふ」
強く心に戒め、決する。
その瞬間、忽焉と小解脱を味わった。
「ああ、恐るべき荒野よ、おそるべきこうやよ。
縋(すが)るべきものの何もない、空漠。上下左右前後も定かならぬ空間の宙空に放擲されたかのような平衡感覺の歪む嘔吐感、引き裂かれる諸感覺の苦しみ、生きるということの不安、恐ろしさ。
あゝ、この躬を牽き裂く無際限な、永遠の自由奔放よ!
畢竟、すべて太陽のごとし。無際限に全方位なる肯定、向日葵のごとき笑い、大歓喜!
太陽神よ、あなたは燃え上がり立ち昇る炎、生命のごとく聖俗混淆の大いなる憂き現(うつ)世(しよ)のいのち、躬らを焼き裂いて超えようとする」
太陽神アポロンと月読神(つくよみのかみ)とが降臨し、ジョルジュ・サンディーニを燦々たる黄金の横溢、光の氾濫で祝福した。ジョルジュはその日を忘れることはない。
「『太陽の弓』と『銀月の剣』とを授ける。汝の齢を二十歳とする」
ジョルジュはその言葉の意味を文字どおり二十歳までの寿命と解釈した。しかし、それは違った。二十歳で老いが止まった。そうと知った時、特段の感はなかった。嬉しくもないが、悲しくもなかった。ただ、
「そうか」
と、さらりと流しただけであった。
そして、今。
ジョルジュは祭壇と墓碑銘に黙礼し、
「ふ、父よ、近々お会いすることとなるであろうか」
そう言って霊廟の外へ向かった。
ダルジェロは廟の外で待つ間、アッシュールからジョルジュが親から勘當されたなどの話を聞いているうちに、思い當たる名前があることに気がつく。
「待って、その名前、聞いたことがあるよ」
タレスの名があった碑に、ギナカの名もあった。
アッシュールが驚き、すぐにアンニュイに知らせ、皆がそれを聞く。
「何ということか。やはり、死していたか。しかし、彼ほどの英雄が、なぜ、あのようなところで」
そこへちょうど、出て來たジョルジュ。
「何ごとか」
「実は」
聴き終えると、
「そういうことか。わかった。もはや、諦めていたこと、今さら何でもない」
平然と言った。だが、アンニュイは、
「そうか。当の本人がそういうことなら、これ以上、どうこうする必要もないが、一代の英雄のことでもある。私の判断でアカデミアに手紙を送って調査を依頼した。慰霊と鎮魂の意味も込め、事実を調べる」
「そうだな」
ジョルジュはそれ以上、言わなかった。南嶺を越え、イノーグ山に着く。山賊たちは命が懸かっているため、忠実にいゐりゃぬ神に仕え、社を立派にし、食糧を備蓄し、塀を廻らせ、石垣を築き上げていた。
「お帰りなさいませ」
そう言って歓迎してくれたが、イシュタルーナは、
「ご苦労であった。だが、またすぐに出掛けなければならない。先般、山の麓にあったイノーグ村の屋敷跡から発見した伝統の刀を出してくれ」
イノーグの神剣が恭しく運ばれ、捧げられた。イシュタルーナは手に取り、怜悧な刃を眺めながら、
「うむ、これだ。刃は研いであるな」
「ははっ、ご覧のとおり。もちろんで」
巫女騎士は聖剣を掲げて言う、
「今日から『いゐりゃぬ聖剣』と呼ぶ」
一行は急ぎアカデミアに戻り、疲れた身をいやす暇もなく、イマヌエルはすぐにアンニュイが手紙で依頼した調査結果を聞きに逝く。そして、その内容に驚く。
「あゝ、何と言う運命か。皆に報告しよう、ユリイカにも聞いてもらおう。集合して」
報告を聞くために、十三名はユリイカ学長の執務室に集まった。
「附属図書館で調べてくれた。世界史全記録から探してね。詳細精緻な索引がなければ、調べるのに何千年もかかったに違いない。大変な作業をしてくれた。扨。
ギナカはメガドの戦いで傷を負い、兵を失い、身一つとなって、庶民に身を窶し、湯治のために、聖域内の名高い温泉に向かっていた。だが、ヴォゼヘルゴの辺境の村で身分を察知されたようだ。
農家に生まれながら家業を手伝いもせず、酒や女や博打に明け暮れるモンというヤクザの男がギナカの情報を売ったのだ。
それは英雄の魂を手に入れようとしていた悪鬼、ジン・メタルハートの耳に入った。惨劇が起こる。身分を隠すためにギナカは巡礼者の集団に紛れ込んでいた。
タレス氏はそのために巻き添えとなった者のうちの一人だ」
「何と」
ジョルジュの眼に炎が上がる。ダルジェロにとってもショックであった。父はメタルハートに殺されていたのだ、巻き添えを喰らって。衝撃を受ける理由などないと思っても、一所懸命に解脱の境地を呼び戻そうとしても、空々しく無為であった。
いらふの苦い記憶をも呼び醒ました。
「またもや、民の裏切りか」
そう言い、唸った。思い出す。いらふの家族もメタルハートに殺されていたが、いらふを大華厳龍國(龍梁劉禅(リョン・リャン・リューゼン))の特殊部隊『非』の非情な戦士とするために、国家に依頼されて彼女の家族の殺戮を請け負っていたメタルハートはハイエナのように探していた。
それを察知して身を隠しながら逃避行する家族は彷徨の途中、山賊に襲われていた平民ロムドの家族を救ったが、不幸の重なるロムド一家はメタルハートに捕らえられ、尋問された時、恩人でもあるいらふの家族を裏切った。
「人相書きに似た一家とお前が接していたと白状した者がいる。もし、知らぬと言うなら、その子を殺そうぞ」
妻は夫に、
「あんたまさかこどもたちを見捨てる気じゃないわよね」
夫も苦悩の末、
「仕方ねえ。神はいない、仁義なんて何になる。神がいるなら、なぜ、俺たちゃこんなめに遭うんだ、何も悪いことはしてないのに」
情報を漏らされ、いらふの家族は虐殺された。神彝裂刀の使い手は吐き棄てるように、
「だから、民主などという思想、最悪の考えだ。だが、それより他にましなものがない」
ダルジェロは深くそのことを憂い想い、甚深に瞑想した。現実の虚しさ、儚さ。自己超越の天翔け躍るも、卑劣卑怯な自己保存もまた現実であり、絶空であり、答のない未遂不収と微妙(みめう)に觀ず。
翌日、何とはなくも、ダルジェロは鬱々としていた。決然とした表情のエルピスが告ぐ。
「教えてよ」
「何を?」
「何でもいい、わたしがメタルハートを斃すために身につけられる技を」
「そんなの、僕は知らないよ」
「あなたが使っているのでもいいわ」
ダルジェロは感心し、己を恥じた。よく考えたが、
「わかった。いいよ」
そして、彼女の練習が始まった。ユリイカも講師として加わった。
「教えるわ、これ」
空缶(からかん)を置く。截り裂き牽き剥がされた蓋が捲れ上って叛き仰け反り逸れ皈っている。
「何、これ」
「これ、見ていて。あたしもそうだったわ。じゃあね」
「えー、ちょっとーっ」
エルピスは追い縋ったが、ユリイカは逝った。ぷんぷんしながら、エルピスは缶を睨む。
二週間が過ぎ、ウパニシャッド大聖堂にて新たなる『三叉屰』の授与が行われた。
「海のイデアの眞咒を込めてあるわ。三叉の刃がそれぞれ貪瞋癡を滅ぼすの。無明の大暴流、氾濫する土石の濁流を海の大怒濤で滅し尽くすわ」
ジョルジュの兜もアンニュイの鎧も燦然と新調され、聖化・聖別された。すべての傷が癒える。武具装備は整い揃った。戦うだけだ。祝いの宴が催された。輝かしい武具が飾られ、華やかな雰囲気で賑々しくも、どこか儚げな澄んだ哀しみが狭霧のように漂う。
翌日。晴れた爽快な朝。アカデミアの国際情勢研究部の謹厳儼粛な老教授キシムシャーが來て言う、
「北極海艦隊の超巨大航空母艦五千隻が北極海上を移動し、それぞれ二百機の戦闘機、総勢百万機の戦闘機がスタンバイしています。
これだけで一億の兵が配備されています。
その他に巡洋艦や駆逐艦、千人輸送艦十万隻も含め、一億人以上の兵士が動き出しています。
又千発の核弾頭ミサイルも聖都ヒムログリフ発射準備が終わったとのことです。
東西南北の各山脈を囲むように、小型無人戦闘飛行機数百万機、戦闘車輛、兵器、戦闘員の輸送も兼ねて一機當たり千人以上を乗せて移送も兼ねた超大型戦闘ヘリコプター二十万機が展開中。
西部に『死屍の軍団』の目撃情報もあります。二億以上の兵が配されていて、北極海と合わせて四億、帝国軍総勢の八割です。史上空前の決戦です」
アンニュイの表情がやわらかな髪の翳りの下に厳しくなる。
「いよいよか」
まるで、蟻の群れのように、未だ嘗て誰も見たこともない史上空前絶後の大軍団が地表を埋め尽くす。北極海を覆う舟艇の大軍勢、次々と兵士が上陸する。
悪夢のように。
蒼穹はジェット噴射式戦闘飛行機によって蓋をされて暗くなる。アカデミアに向けて真っしぐらに飛ぶ。自動装填する連射式機関銃や、追尾型ミサイルを備える。黒き鋼の翼を持つ死の鳥たちだ。
無数のキャタピラ式走行の戦闘車輛が岩を砕き、氷を破り、村を潰し、旋回式砲台で大型の砲弾を放ち、人や家畜を無差別に殺した。これも自動装填する連射式機関銃を備え、生ある者全てをミンチにする。その黒い鋼鉄の装甲は地獄から来た悪魔の軍団のように見渡す限りの大地を一色とし、生けとし生けるものを殺戮し尽くす。地獄の犬ケルベロスのように人を喰らい尽くす。
兵士はケプラー繊維のヘルメットに暗視装置や赤外線装置のゴーグルを被り、腰や迷彩服の上のベストに弾倉を収納したポーチをつけ、手榴弾を備えた。
照準器や赤外線装置などのアクセサリーをつけたライフル銃、マシンガン、ミサイル・ランチャー、ロケット・ランチャーなどから野戦砲、対戦車ミサイル、大型の地対地ミサイルまで、数々の兵器を用いて侵攻する。
無線通信で連絡し合い、さまざまな機器で武器以外にもフル装備の戦闘員たちは、破壊と殺傷に特化した黒い非情な鬼神のように見えた。
魑魅魍魎のごとく大地を黒く蔽い尽くす。
史上類のない、究極の戦いが始まろうとしていた。
又、超大型戦闘用ヘリコプターから降りて陸の狭隘路を通って南から攻め込む陸軍。
「現在位置は」
「北緯五十九度五十六分、東経三十度二十分」
ポール少年はたくさんのヘリコプタが上空を飛ぶのを見て恐怖に襲われた。
大部分は大山脈群を越えようとしているかに見えたが、そのうちのいくつかからは落下傘部隊が降りてきた。全体のほんの一部とは言え、それでも数千人を超えた。次々と着地し、速やかに隊列を整える。
小隊単位で揃うと、各々行軍を始めた。
「進めーっ!」
少尉の叫びで鬨を上げて地を鳴らす。これもまた荒地を埋め尽くす勢いであった。
たちまち黒い魔物のような完全武装した兵士たちの軍団がポール少年の方へと迫って來る。
「ぅわあーっ、た、大変だあーー」
泣き叫びながら、村の方へ逃げた。
しかし、非情な銃弾が胸を貫く。
そのわずか十分後には、村は焼夷弾で焼かれた。数十人の村人は岩山へ逃げた。兵士たちは黙々と山を登り、山の亀裂を走る峡谷を進み、アカデミア天領の大山脈を目指す。山嶺を籠る氣の精神である龍神があらわれた時に地上から撃つためであった。
西の山脈。
百万の『屍の軍団』が百鬼夜行のように侵攻する。
黒い鉄鋼製の地獄の人食い蟻の大軍団のようだった。
狂信者たちは口々に叫ぶ。
「偉大なる聖者のために」
「聖者イヰは偉大なるかな、褒むべきかな、讃うべきかな」
「真究竟真実義のために命を惜しまず」
「我ら既に屍なり」
「讃えあれ、聖の聖なる聖者様へ」
その禍々しさは言語を絶する。
いずれも黒い武装で髑髏の兜を被り、死神のような大鎌やら青龍刀やら偃月刀、長槍や戟、巨大な矛や百キログラム以上はありそうな大戦斧や棍棒、鞭や鎖鎌。
咒を喚(おめ)き、奥義を喚(わめ)く。
「偉大なるかな。
究竟なるかな。
究極奥義なり。
これを超えたる偉大はなし。
神は真究竟真実義なり。
萬事萬物萬象を統べる。
萬事萬物萬象の原理なり。
萬事萬物萬象の本質なり。
萬事萬物萬象それ自体にしあり
萬事萬物萬象遺漏なく網羅す。
全網羅なり。
狂裂なる自由を以て、全てを網羅し尽くす。
非網羅を網羅す。
すなわち、一切を網羅せず。
又、全て網羅するがゆゑ、一部のみを網羅することをも網羅せり。
すなわち、一つのみを網羅し、全網羅をせず。
一つのみを網羅し、非網羅をせず。
一つ網羅のみなりけり。狂裂なる自由なり。
これ全てを肯定するに齊し。
燦然たる太陽のごとき全肯定なり。
全てを肯定す。
否定を肯定す。
全否定を肯定す。
全否定にしありて、全肯定にあらず。
否。或る一つのみ肯定す。一のみ肯定し、全肯定せず。一のみ肯定し、全否定せず。
狂裂なる自由なり。
肯定し、網羅し、畢竟、萬事萬物萬象それそのものなり。
萬事萬物萬象それ自体なりけり。
無際限に一切合財なり。
一切ありとしあらゆる何もかもゆゑ、一切ありとしあらゆる何もかもにあらじ。
一切ありとしあらゆる何もかもにあらず、一切ありとしあらゆる何もかもにあらぬのみなり。
或る一つのみなり。
一つのみにしあり。
一切ありとしあらゆる何もかもにあらず。
一切ありとしあらゆる何もかもにあらぬにあらじ。
かくなるものは、〝かたち〟なきものにしあらば、いかに解すべきや。
解することかなわじ。
いかようなる決着も見ず。
いかなる結論にも至らず。
いかようなる着地も遂げず。
いかようなる〝かたち〟にも収まらじ。
未遂不收といふ。絶真究竟真実義。
されば、我知らず。不可得なり。不捉なり。
これ空を解すといふ。
これすら空といふ〝かたち〟あり。
されば、空にあらず。
空にあらずを空といふ。絶空なり。
されども、それも〝かたち〟なり。
空は空をも絶す絶空なりといへども、それも〝かたち〟なりけり。
空といふは、未遂不收なり。
それも〝かたち〟なり。
されば世は今かく見るがごときにあらん。
きはなきじゆうなりけり。
日常茶飯の存在といふが空の証にこそしあれ。
すなわち、ありとしあらゆる〝かたち〟に囚われぬ真の自由なりき。
〝かたち〟なきゆえ、〝かたち〟なきといふ〝かたち〟なし。
自由といふ〝かたち〟なき。
師曰く「綴られし文言のいかんにかかはらず、此なる巻子は究竟書なり」
弟子曰く「さればいかな巻子も同じう究竟ならんや」
師曰く「すなはちそれ、この巻子のみ究竟たるのゆゑんなり」
現実あらん。世は生誕せり。宇宙唐突に開闢す。
いま眼のまへの、現実の、一つ定まりたるは、きはなき自由の精華。
狂裂なり。
狂奔裂なり。
これ真究竟の真実義なり。
聖者いふ、『これ龍肯とぞいふ』と。
耳ある者は聞くがよい」
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