第24話 聖なる大戦 神聖イ・シルヴィヱ帝国の四億の兵
「いやよ、絶対逝くわ」
エルピスは言い張った。アンニュイは哀しく物憂げ。睫毛が翳す双眸、怜悧な長い髪靡かせ、霓艶を微妙繊細に移ろわせる。単純素朴で激越なエルピスとの熱量差は甚だしい。
「それは了承できない。あまりにも危険で、しかも意味がない」
「意味がないって、どういうこと? 闘いの役に立たないという意味?」
「それもある」
ぷいっとそっぽを向いた。不貞腐れてその場を去ろうとしているように見えた。
そこは、アカデミアの迎賓館に附属する宿泊施設の庭である。アンニュイもまた、立ち去ろうとした。背を向けようとした刹那、
「あっ」
消えた。エルピスが。
「そんなバカな……」
消えるはずがない。だが、消えたとしか思えない。たとえ、素早く移動したとしても、アンニュイの眼に止まらぬはずがない。
「うっ」
アンニュイが顔を顰めて首をすくめた。誰かに後頭部を叩かれたのだ。だが、後ろを見ても誰もいない。エルピスだろうと推測はできたが、そんなバカなというのが彼の最初の思いであった。たとえ、姿を消したのだとしても、彼が気配を感じないことはあり得ないからだ。
「ふふふ、吃驚した? だって、存在は空でしょ? 気配だってある訳ないわ」
アンニュイも寂しげに苦笑した。死のように辛い魂の地獄から甦った彼女だからか。
「凄い。君の言うとおりだ。空か。それができないから、皆苦しむ。見事ではあるが、しかし」
エルピスが姿をあらわし、
「しかし、何?」
と言ったと同時に、轟音とともに、眼前の庭が消えて、大きな縦穴になった。
「さあ、これでどうかしら? 戦いには、大して役に立たない、って言おうとしたんでしょ? 役に立たないように見える?」
アンニュイが呻く、
「庭がなくなった。すべては空だからという訳か。いや、わかったよ、しかし、ユリイカ学長には悪いことをしたな。君の力を疑ったばかりに、こんなことに」
「あはは、庭を消してしまって、アカデミアに申し訳ないことだと思ってる訳? 小さいわね! 何よ、これくらい、ユリイカなら気にしないよ。あは、でも、心配ないわ。ほら」
再び見えない炸裂が起こって、庭のすべてが元に戻った。
「すべては空だからね。無ですらもないわ。つまり、私は何もしてないのよ。空缶(つまらないもの)よ」
「?」
出立の準備は整った。ユリイカはアカデミアの守備を残しつつも、龍馬を駈る精鋭部隊、三百の騎士をアンニュイら殉眞裂士の仲間たちに附した。エルピスはアヴァと一緒に龍神の背の鳳輦に乗った。エルピスは何も喋らないアヴァの方を振り向いて言った、
「アディシュターナ。
わたしの本当の名前。でも、エルピスでいいわ。永遠に」
adhiṣṭhānaは梵語で、加持の意。原意はふしぎな呪力だが、後世、仏の加護の意となった。そこからさらに民衆の信心と仏の大悲が相応して一体となること、又は仏の加護を祈ることなども意味するようになる。
後にエルピスの本名を聞いたダルジェロは物事のふしぎな縁起に感心した。
北嶺へ。
イシュタルーナはいゐりゃぬ神に祈りを捧げ、特別な護身法を修し、イユとアヴァとエルピスとを危害から護る。
「これでよし、いざ、参らん」
颯爽と龍馬に乗る、いらふ、アンニュイ、ジョルジュ、アッシュール。龍羚に乗るイシュタルーナ、ラフポワ、ユリアス、イマヌエル。ダルジェロは翼龍馬、イリューシュは鳳凰迦龍麒麟、イユは一角天馬、アヴァとエルピスは鳳輦を乗せた龍神に乗って五色の雲を靡かせて勇壮に出立した。又は有り難い來迎図のよう荘厳に。
「着いたぞ」
北嶺の頂点に立つや否や、アンニュイが言った。指差す方を見れば、遙か遠い早暁の蒼穹から、流星群のような光の粒が幾千も迫る。
「核弾頭附大陸間弾道ミサイル、ツァーリ・ボンバ(TNT換算にして約百メガトン、原爆『リトルボーイ』の約六千六百倍)の強化膨増型だ。首都附近の発射基地から來たものだろう。
もしも、都市部にでも墜ちれば半径数百キロを消滅せしめ、数千万人を殺傷することもできる。アカデミア天領の防壁でもある龍脈の山脈ごと破壊するつもりだ」
「何てことを。狂気だ」
アッシュールが呻く間も、水素爆弾が迫った。
すると、天領の守護神でもある全山脈の龍脈が具象化し、白い龍神となって嶺の稜線から遊離するかのように浮かび上がる。数千キロメートル彼方のミサイルが次々光に包まれて消失する。だが、
「あゝ」
イユが小さく叫んだ。北嶺の龍脈の龍神とは異なる龍神、赤や黒の龍神の集団が突然あらわれて、白い龍神の行為を阻害するのだ。大空に白赤黒の渦巻きのような巴の戦いが起こった。龍神同士の戦いは、歴史上、初めてである。かつ、ミサイルが迫っていた。
「何という浅ましい、龍神たる者がイ・シルヴィヱに与するとは」
アンニュイが眉を憂いに顰め言った。振り向き、
「エルピス」
「わかっているわ、ちょろいもんよ」
彼女が小声で言う、「わたしは空を得ていない。空を手に入れられない。理解できない。悟れない。それが空ということ」と。
そして、きッと、きついまなざしを龍神へ向かい錐揉むように捻り込み突き貫き徹すと、黒い龍神の存在が次々と消失した。
赤龍たちは蒼白となって戦意を失う。
「こんなもんじゃないよ」
そう息巻くと、エルピスはミサイル十数機を次々消失させた。
ジョルジュが感歎し、賞讃の声を上げた。
「凄い。
色即是空空即是色ゆえにと言われても、驚嘆しかない。
消えても消えていなくて同じと言われても、実際、消えているんだから、何と言うべきか。
実にまかふしぎだが。しかし、何と言っても千発だ。まだまだ残っている。瞬く間にも迫っている。駄言を弄する暇なし。我らも逝くか」
鋭く氣勢を挙げると、その傍にアンニュイ、アッシュール、イシュタルーナ、ラフポワが集まった。五人は潜在意識に下降し、無私なる集団無意識に至って心を合わせる。五人の後方にはイリューシュと彼に寄り添うイユとアヴァとが控えた。
五人は『霓の稲妻』・『銀月の剣』・『三叉屰』の海のイデアの怒濤・『いゐりゃぬ聖剣』の燦光・ラフポワの『雷霆剣』の霆の五つを綱のように撚り合わせ、太い光燦々たる束を生み、その凄まじい一撃で、十数機のミサイルを迎撃し、粉砕する。
この合わせ技を彼らは〝大統一〟と名づけた。
ダルジェロも颯爽と勇み立つ。解脱し、神威を帯び、もはや怖れはなかった。眞咒を誦す。ミサイルが笑いながら白い雲へと変わって逝った。
「無は意識に過ぎない。死に於いては無も絶する。無餘依涅槃とは、無に帰することではない(正確に言えば〝限定ではない〟)。すべては既に絶空だ。死を齊しく生と觀ぜよというゆえんだ。実はすべて自在なんだ。その結果なんだ。或る意味、解決済みとも言える。
それほど自由なんだ、実際に自由なんだ、今も、昔も、これからも。なりたいじぶんになれる。ミサイルは雲になりたかったらしい。夢は叶い、幸せに到達する。そうなりたい、ありたいから、そうなる。ジン・メタルハートも、たぶん。ふしぎそうな顔をしているね、エルピス。無機質なものたちも含めてすべてに生命があり、又生存がある。
生命も生存も、ともに幸せという名の光を求める粒子又は波状の運動に過ぎない」
裂士たちの奮闘も、すべてを防ぐことはできなかった。ツァーリ・ボンバの十数発が数千キロある北嶺の各所を瓦解させた。その振動たるや凄まじく、轟音は数百キロメートルに響き渡り、光は数千キロメートル先からも見えた。
そのタイミングに間に合うように、北極海に展開するイ・シルヴィヱ海軍の航空母艦から戦闘機が次々と発進していて、黒い機体が北の空を塗り潰すように蔽い尽くす。
裂士たちはじぶんたちの前に迫るミサイルを破壊し尽くしていたため、直撃は免れたが、爆風や衝撃を受けた。
「くそったれめっ」
イリューシュが悪態を吐く。
「無事か? さあ、怯む暇はない」
大統一の一撃で戦闘飛行機百数十機を墜とした。ダルジェロは印契を組む。咒をつぶやくとジェット機は鳥に変じ、パイロットはその胸の羽毛に棲むしらみとなった。
エルピスも念ずる。
飛行機が次々と空相を現した。それは飛行機のままで、存在を喪失した。赤龍は既にすっかり畏れていて、アカデミア勢を崇敬して拝跪し、二度とアカデミアに敵対しないと起請文を龍爪で書く。
「どうか、これでお赦しを」
だが、エルピスは、
「それだけじゃダメよ、山と海の奴らを斃して!」
そう言って破壊された山脈と北極海とを指差す。
龍脈が寸断されていない稜線上は白龍神が防壁となって一機も通さないが、山脈が破壊された部分の上空は無防備だった。
戦闘機が侵入していた。
赤龍と赦された黒の龍神とがそれらを追い、破壊する。
十二機が免れ、聖域内に入った。ジョルジュが『太陽の弓』で三機を撃墜するも、九機には届かず。
又、空挺母艦も次々撃沈された。
「聖学園都市が空爆される。だが、あれ以上にならなければ迎撃できるだろう」
アンニュイがそう言う間にも、ジョルジュが叫ぶ。
「あれを見ろ、破壊された北嶺の壁から攻め込むつもりだ」
既に北嶺の外側の麓に布陣していたイ・シルヴィヱ海軍が戦闘用ヘリコプターと無人戦闘機とを飛ばしていた。大統一は数百機単位で破壊し、又赤龍と黒龍もそれら科学兵器を襲うも、数が多過ぎて防ぎきれず、数千が越境して侵入した。
いらふは砲撃を躱しながら、低空のヘリコプターから高い所のヘリコプターへと飛び移って、たちまち数百を破壊する。それでも一部が聖域の奥へと逝く。それを追って、さらに大統一で追撃した。
ヘリコプターは戦闘機のように速くないので、アカデミアへ迫ることを断念し、狙われ易い飛行活動を止めて散開、戦闘車輛と戦闘員を次々と降ろす。
「面白い」
アッシュールは龍馬で一気に駈け降り、『三叉屰』と剣で鋼鉄の車輛を両断、又は叩き潰す。ジョルジュも、
「ふ、愉しんでいるな。だが、遊びじゃないぞ」
そう言いつつも、羊を追う騎乗の蒙古人のように戯れ、鋼鉄の戦闘車輛を剣で叩き潰し、破壊する。
イシュタルーナは剣を額にして祈る。
「いゐりゃぬ神の御心のままに。すなわち、大義のために」
言い終えると跳び、鉄の馬に跨る重機装甲騎兵の数百人をたちまち斬る。
かくして北の海軍空挺部隊の殆どを滅ぼした。
「次は西だ」
アンニュイの言葉とともに、龍馬、龍羚、翼龍馬、鳳凰迦龍麒麟、一角天馬、鳳輦を乗せた龍神が飛翔し、駈ける。西嶺の頂上に凛々と立ち、「見よ」と指差す向こうには、既に西嶺を越えた『死屍の軍団』が聖域に侵入していた。
無人戦闘機は音もなく飛び廻り、獲物を探すも、西の龍神に破壊された。アンニュイたちは大統一で次々潰す。
翼龍馬に騎乗するダルジェロは殺戮に満ちたる百万の『死屍の軍団』に対峙した。
「殺せ、殺せ、異教徒、汚れた者たち、悪魔よ、聖なる神のために」
ダルジェロは独り怖れもなく決然と黒悪の怒濤の前に立ち塞がって言う、
「聖者イヰはそのようなことを教えなかった。眞理を知る僕の心は聖者と繋がっている。お前らこそが背神背教徒、神を裏切った醜い者、非真理、未來永劫赦されるべきではない」
「何だと、愚か者が。聖なる書に記されている。祖先來伝承された教えを我らは固守す」
「伝承すら常に魂の鎚で鍛えられなければならない、思想やイデオロギーや生命のように」
「我が神は究竟神なり。遺漏なし。ありとしあらゆる萬事萬物萬象を網羅し、矛盾せず」
「されば、異教も背教徒もなし。僕も神は絶空、全網羅及び全肯定とぞ信ず」
「ならば、お前が我らを非難するも、可笑しきことよ。肯定せよ」
「全肯定は狂裂なり。概念や言葉ならじ。論理ならじ。悪を滅すことのみを肯定す。それゆえ、全肯定なる神はお前たちを滅す。さあ、どうやら、僕が始末するまでもないらしい」
「え」
山岳の氷雪の細い道に小さな光の炎がちらちらとしいるのが遠く微かに見えた。それは歩いているかのように揺れながら次第に近づいていた。よく見れば人の姿が燃えるような光の中にあった。やがてはっきりとわかった。
聖者である。聖者イヰがあらわれた。
「おゝ、聖者様」
そう言って『死屍の軍団』は平伏する。
聖者が右手を挙げると、『死屍の軍団』は塩の柱と化した。
「次は南だ」
逆時計回りで到る。レオン・ドラゴ=クラウド連邦の軍が数で壓倒的に勝る南嶺侵略軍と戦い、苦戦していた。裂士たちは戦車隊を次々と破壊する。戦闘機も『太陽の弓』で撃ち落とした。ここでも大統一を使い、徹底破壊する。
ダルジェロの眞咒でイ・シルヴィヱの重機装甲騎兵たちは非武装化され、農夫や羊飼いとなり、地元の産業に貢献する存在へ変じた。地対地ミサイルなど火砲はエルピスが消去する。
「僕も合流しよう」
銀の甲冑で装甲されたイースが龍馬に騎乗し、精鋭軍団を率いて合流、東へ向かった。
東山脈の嶺では、無人戦闘機、戦車隊及び戦闘用ヘリコプターを破壊し尽くす。ヴォゼヘルゴとイ・シルヴィヱ連合軍を滅ぼした。ここでも黄龍と青龍の軍団を撃退し、起請文を書かせる。帝国軍の潰滅。
山嶺に黒髪を靡かせ、こちらを睥睨している非情の豪傑偉丈夫がいた。黒い炎を帯びた黒龍が絡む『リャマ・ネグラ』を抜剣し、ぶらりと下げたまま、冷血な殺戮の蛇眼を爛々と滾らせている。ジン・メタルハートであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます