殉真裂士 龍のごとく肯んぜよ

しゔや りふかふ

第1話 アンニュイ

 その騎士は、女性(にょしょう)のように美しかった。


 たおやかで、しなやかで、繊細で細く、背が高いので尚更に細く見えた。背は高いけれども、華奢で、流麗であった。


 物憂げで、翳りを帯び、〝アンニュイ〟という綽名(あだな)で呼ばれるのも、うなずける。


 本名は、ジャン・マータと言った。高貴なる血筋である。


 腰までも届く長い髪は、かすかな風にもさらさらとそよぐほど細やかな、シルクのつやの薄いプラチナ・ブロンドで、真っ直ぐ。


 少年聖騎士であった頃は、王女の近衛騎士団に属していた。少女のような繊細な美しさから、警護のために宮廷の庭や廊下などを颯爽と歩くと、侍女や若い女官がときめいたものである。


 それゆえに、他の少年騎士や、いや、成人の若者たちも、顔を顰めて苦々しく思い、言葉では取るに足らぬと平静を装いつつ、苦笑して侮り嘲り、又は冷ややかで不快そうな横目で見ながら、ひそひそと話をするも、心穏やかならぬ者たちが少なからずいた。


 とは言え、ある意味、彼の人生の絶頂期でもあった。それゆえに、多くの嫉妬や僻みをも被っていた、彼の見えないところで。

 その栄光と至福の日々が壊れたのはささいな事件からであった。


 その日もまた、警護のために、庭を巡邏していたときだ。ただし、その時はいつになく、独りであった。独りというのは珍しいことである。だが、当時もは何も気がつかなかった。二人か、それ以上ですることが常である。

 かと言って、不審なことというほどでもなかった。城内に不審な物が忍び込むことなど、実際問題として、あり得ないからであった。

 二人以上というのは、実戦的な意味よりも、主として見栄えのためであった。勇壮に見え、それが王家の栄光を讃えることにもなるからである。

 美麗な少年騎士の存在自体がこの国ではそういう意味合いのものであった。


 ジャンは、美しい薔薇の花びらの浮かぶ、ペパーミント・グリーンの噴水のそばで、ハンカチーフを拾った。


 高貴な御方のものであることはあきらかだった。


 不幸なことに、イニシャルや紋章が見えないような折り方で、落ちていた。


 彼は無意識に拾ってしまった。拾った瞬間、芳しい香りがする。素晴らしい薫りであった。匂いに陶酔する。


 あまりにも貴く、深く、甘やかな、崇高な香りに、思わずも鼻を近づけてしまう。それはと遠目には、くちづけのようにも見えた。


「あゝ、ジャン・マータ様、何てことを」


 それは、若い侍女の叫びであった。王女つきの侍女で、それが誰のハンカーチーフであるか、すぐにわかったのだ。

 侍女は慌てて侍従に報告し、侍従は侍従長に報告し、侍従長は騎士団長に抗議して、ジャン・マータは十二歳にして、窓のない、暗くて糞尿臭い地下牢に鎖で繋がれた。

 鞭打たれ、水も食事も与えられず、両手首を鎖で壁に繋がれて、横たわるどころか坐ることもかなわず、糞尿も垂れ流しであった。


 少年騎士や若い侍従や若い王族たち、貴族たち、一部の女性たちの、抑えられていた普段の嫉妬や僻みが噴出暴発し、非難囂々(ひなんごうごう)となる。


 だが、その話を侍女たちから聞いた王女エスカテリーニャは心を痛めた。自分の不注意のために、あの美しいジャン・マータを酷い目に遭(あ)わせてしまったのだ。


 彼女は制止も聞かず、地下牢へ向かう。


「王女様を、このような穢らわしい場所へお通しすることはできません」

 衛兵が懇願した。


「私の命令です。ここを通しなさい」


 追い縋って来た侍女たちも懇願する。

「王女様、お願いです、私たちが叱られてしまいます、罰を受けてしまいます」


 エスカテリーニャは毅然と言った。

「私の意思で来ました。あなたたちに罪科はありません。さあ、通しなさい。命じます」


 地下牢への扉は開けられ、地下へ入る。その中の衛兵たちも、次々と屈服させられた。王女は凛々と地下の通路を歩く。

 篝火があっても暗く、何よりも臭い。


 来た。


 鉄格子の向こうに繋がれた無惨な少年騎士の半裸の姿。

 だが、それは惨めでありながらも、聖者のように崇高であると、王女は感じてしまった。


「鉄格子の扉を開けなさい」


 汚物まみれのその中に入る。カビの匂いも混ざっていた。

 ジャンは意識を失ってあだらりと垂れ下がっていた。いかにも痛々しい。噴いた血が半ば固まりかけた鞭の傷痕、不自然に捻じられた肩や手首。青くなったり、赤く腫れたりしている。


 汗のためにべったりと、額や頬に、貼りついた、いくすじもの髪。


「ジャン・マータ、おお、何ということを」


 その声に、少年は朦朧としながらも、かすかに意識を取り戻した。

「あゝ、そんな、王女様……」

 信じられなかった。王女が目の前にいる。


「ジャン・マータ、ごめんなさい、私のためにこんな目に遭わされて。さあ、今すぐにでも、ここを出ましょう」


「あゝ、王女様に、お声をかけていただけて、光栄です。あゝ、もう永遠にこのまま繋がれていてもいい。死んでもいい、悔いはない。あゝ、幸福です」


 そして、気を喪った。


 王女の英断は、解放されたジャン・マータを更なる不幸にした。


 王女の〝不貞〟に、激怒した王は、ジャンの一族に謹慎を命じ、両親兄弟の地位と名誉とを剥奪し、〝アンニュイ〟の頬に、罪人の印である蠍(さそり)の象形である刺青(いれずみ)を入れさせ、永久に国外追放とした。


 ジャン・〝アンニュイ〟・マータは、散々に鞭打たれた上、エルロイペ王国の国境を越えた土地まで連行され、数万メートル級の超高山が数千キロメートルにわたって銀嶺を連ねる大山脈群の凍てつく過酷な地帯に放置された。





                 ※                  

           

 いくつもの近似した世界と、微細な差異を成しながら、無数に無際限に存在する並行異世界のうちの一つ。他世界と似ながらも少しずつ異なる。似た物語が他世界にもあるが全く同じものはない。摩訶不思議な縁(えにし)の世界。

 各世界に一人しかいない英雄が、この世界では一堂に会する。


 壮大なこの物語がここから始まる。










 


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