第9話 白象の仙人とアヴァ・ロキタ・イーシュヴァラ
「わしは」
その存在者は言った。
切れ長の象眼で、白い長い毛を、風もないのに、ゆらゆらと靡かせている。鼻が微かに動いた。巻いたり伸びたりして、物をつかむための、極太の綱のような、それが。
「マンモスではない」
瞼をゆっくり下す。だが、何かを思って、再び持ち上げた。
「わしはかつて人間であった。
修行によって、神の領域に近づき、神仙となり、聖なる神象となった」
以前のイリューシュなら驚き、疑ったであろう。しかし、今は違った。この世界に満ちる神霊の氣を感じるからだ。神象の言葉の響きが深くて、信じさせるせいでもある。
「今、死があんたに迫っているように見えるよ。なぜか。神の領域に近づいたのに」
欣然と神象が笑ったように見えた。
「不死を希う者は死に怯える。わしはそうではない。死を超越した。だから、死を厭わぬ。それこそが眞の不死だ。永生など、死へ畏怖に過ぎぬ。怯えていて、心楽しかろうか」
イリューシュが腕を組んで唸る。
その後ろに、いつの間にかイユが來ていた。話が聞こえ、安全だと覺ったし、興味を惹かれたからである。少女アヴァも、彼女の後ろで、双眸を燦然とさせていた。少し怖い。
イユは問うた。
「敢えて死ぬの?」
象眼の眸がゆっくり動いた。緩慢に死に近づいている。静かであった。蜜蜂の亡骸のように。
「敢えて、ではない。ロゴスの声に聴従し、ダンマ(法)の導くままに。心の機らきのままに。
お前は聞いたことがないか、非常な満足に達した時に、人がこう言うのを、〝もう死んでもいい〟と」
「あるわ」
「眞の願いが本當に叶い、完全なる満足に達した人は、さように感じるものだ。異界の聖者である仏陀は覺った直後、入滅しようとした。入滅、すなわち、無餘依涅槃、死だ」
ちなみに、解脱した聖者も肉体があるならば、生存のための呼吸や飲食の欲が残り、肉体的苦痛もある。それゆえ、この解脱の境地を有餘依涅槃と呼ぶ。それらから解放される、死した後を、完全な涅槃とみなし、無餘依涅槃と呼ぶ。
「そうなの」
イユはそれを閑かに受け入れた。手を當てる。優しく。
神象の瞼が微かに上がる。
「おお、これは。
神にも繋がる癒し手。あゝ、魂の癒し手じゃ」
「あふむまにぱどめふうむ」
イユは聞こえないように、小さくつぶやく。再び閉じようとした神象の瞼がまたも上がった。
開いた瞼の奥の眸が、イユの背後の少女を見つける。
「何と、あなたは。
あゝ、そういう時代なのだ。時が迫っている」
「何? どういうことだ」
だが、神象はイリューシュの問いには応えず、再び瞼を下げた。
答は得られないであろうと察し、イリューシュは嘆息する。
沈黙の時間。風もなく舞う雪の粉の音だけが、偉大なる山脈と大渓谷、無際限なる紺碧の空に、永遠の鐘のように木霊した。
もはや死したかに思えていたが、神象は眼を閉じたままで静かに語り出した。誰にともなく。
「間もなく逝く。肉は既に乾涸び、繊維を残して散るであろう。毛と皮と骨が残る。それを使うがよい。
やがて、恐るべき牙虎が來る。躬らの身は躬らで守るしかない。だが、眞の恐怖はそれではない」
イユは驚き、
「え、何なの!」
しかし、イリューシュは平然と鉈状の石(かつて楕円、少し後にナイフ型の石)を出し、
「おう、敵が來るってことか。闘うぜ」
神象の瞼がまたもや大きく開く、三度目だ。
「おお、それは」
イリューシュが訝しげに、
「これがどうかしたか。拾ったんだ。ちょっとふしぎな、石の刃物さ。刀っぽくなった」
神象の眼は睜かれたままだった。
「聖なる龍文が微かに泛ぶ。まさしく聖なる龍剣の一つ、まさか」
「ん? まさかって、何だよ」
「よく見せよ」
「ほらよ」
雑に差し出す。
「おお」
象の表情に泛び上がった宗教的な陶酔、崇高なる恍惚の表情。
イリューシュは眉を顰め、
「何だよ」
「聖なる龍肯の剣。最も偉大なる龍剣、『龍肯の聖剣』に間違いない。これをどこで」
「洞窟で拾ったのさ、山の向こう側の」
「このイヴァント山の向こう側だと。ふしぎだ。この世とは、あゝ。彼はそんなところまで逝ったのか、あゝ、何ということだ、実にふかしぎだ」
「なぜ」
イリューシュは問い、イユも答を待った。
しかし、神象は半ばこの世におらず、早くも異なる世界が見え始め、
「さあ、時が來た、さようなら。
あゝ、これは、これほどとは、何と素晴らしい」
瞼が降りた。ゆっくりと。完全に。睫毛が風もないのに無言の微風に揺れる。
イユは涙を零した。イリューシュは強がって、
「ふ、逝っちまったな」
と言ったが、涙が浮かぶ。二人ともわずかの間に、白き神象の聖者に親しい感情を抱いていた。優しい、智慧深いその声を思い起こす。哀しみが過(よ)ぎった。風とともに。
「あっ」
思わず驚きの声を上げる。
聖者の言葉どおりに、あっと言う間もなく、筋肉は風に消え、繊維だけが残った。毛皮と骨が建物のように構え立っている。
牙は城門の双つの塔のようであった。
額と肩が特に高い。眼球のない眼窩には、瞼の毛皮が蔽いかぶさっていた。骨盤と後脚が後方を囲むように組まれ、その上にも毛皮が被さっている。
雪上に聳える骨が柱や梁のよう、毛皮が屋根や壁で、古代の家のようにも見えた。毛皮の皮の部分が骨に押さえつけられて、雪の下まで届き、岩山の地に固定され、強風でも微動すらしない。床面となる部分が急傾斜でなければ、普通に過ごせた。
「これって、もしかして、ここにしばらく避難できるんじゃないか」
イリューシュの言葉にイユもうなずき、
「使えって、こういうことだったのね」
「何もかも、お見通しだったってことか」
毛皮のわずかな切れ目を、カーテンのようにめくって入ってみると、暖かい。足下は雪だが、その上に筋肉の繊維が幾重にもなっていて、藁を敷いたかのよう、氷冷の厳しさを和らげていた。見上げると、あばらの太い骨はヴォールト(穹窿)のようである。『龍肯の聖剣』が茫っと光って、燈明のようになった。
「すごい、快適よ、何て贅沢なの!」
「ってほどじゃないと思うが、今までが今までだったから、かなり控えめに言っても、天国だな」
「すっごい幸せ」
暖かいだけではない。明るく、乾いて、清々しい。聖なる気が満ちていた。聖者のブレスだ。神の祝福のごとくに。きよらさやか。
森林浴のようでもあった。イユは思う、しあわせ、でも、初めてイリューシュの洞窟に入った時ほどではないけれども、と。
「骸とは思えないな」
「あゝ、何だか、とても気持ちいい。生臭さなんて、欠片もないわ。爽やかよ。ねえ、イリューシュ。『聖なる白い神象の聖堂』と呼ぼうよ」
「あゝ、いいよ。さてと」
イリューシュは外に出て、雪を掘り、いくつか穴を開けて、ようやく戻ってくると、両腕に、いっぱいに玄武石を持っていた。
「足りるかな」
そう言いながら、炉を組み上げる。
細く砕けた骨を擦り合わせて、摩擦熱を起こし、あらかじめ短く切っておいた繊維に火を点けた。空気が乾燥しているため、繊維はとても乾いている上、油分が微かに残っていて、よく燃える。
「うわ、あったかーい! げほっげほっ、煙い!」
「そうだな、煙突が必要かあ。難しいな。あ、そっか」
煙対策として急傾斜を利用することを思いついた。登り窯の原理だ。炉の後部を、斜面を登るようなトンネル型に造って延長し、傾斜地を煙が上るように造った。
炉の開口部の上の方を、半分ばかり組石でふさいで、低い位置のみ小さく残し、煙が斜面を昇り易くする。
「調理には向かないが。まあ、いいだろ。暖が取れりゃなあ。
……どうせ、料理なんかしないだろうからな」
イリューシュが笑った。イユは頬を膨らませ、
「だって、材料も、道具もないよ」
「へえ、それが在りゃあ、するんだ。凄いな」
「ちょっと、どういう意味」
アヴァは表情を変えず、じっと、ただ、虚空を見つめていた。ブリリアン・カットしたダイヤモンドのような燦眼で。
暖かくなれば、眠くなるもの。緊張から解放されたせいもあった。喧嘩しながらも、いつしか安らかで健やかな眠りへ、はらりと落ちる。聖剣は鉈から剣へと変わりつつあった。
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