第8話 イユとイリューシュ

 上下がない。


 左右も。


 前後とて。つまり、空間がない。いや、それ以上だ。


〝場〟がなかった。


 無だ。


 いや、それがない。


 それがないすらもない。



 身を牽き裂く解放、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』にいう非想非非想處であった。


 途方もない自由で、見境のない、過剰なまでの自在奔裂を極め、空をすらも絶する。

 それゆえの〝普段〟であり、〝日常〟であり、〝茶飯事〟〝平常〟であった。


もしも、人が平常ということの過剰なまでの異常さを知ってしまったら、狂裂するであろう。


 過剰な自由だから、今この瞬がある。此處がある。まかふしぎな、現実という妙義がある。なぜ、非存在ではなく、存在なのか。問うまでもない。


 いはれがない。

 経緯や理由や原因などという装飾がない、虛礼がない、〝遠慮(きづかい)〟がない。


 直で、ぶっ切ら棒で、無機質な唐突さ。素朴。物的ドライ。端的な、現実でしかない。


 現に、眼の前に、実際、瞬今まさに、在るように。この寂莫。無味乾燥、死、静謐。これこそが狂爆激裂、無際限な究竟の究極。凄絶な速さ、自由自在、過剰なまでに。


 狂裂自在、自由狂奔裂。


 突然の黎明が生じた。何が起こってもふしぎはない。自在奔裂に於いては理由などがあるはずもない。原因も。素材があろうがなかろうが関係ない。ただ、ただ、起こった。


 それは喩えるならば、措定(空架の企劃)のペンキを透明な者に投じて輪郭を可視化するように定義未定の〝存在〟を生む。こちらから投じた企劃だから摺り合わせも直ぐ終了、納得という心情が得られ、了解という安寧へと收まって逝く。當然だ。これが〝わかる〟ということ。但し、〝わかる〟がどういうことかの定義は未定。


 やがて、いくつかのピースが繋がって輪郭・区劃を做し、事物や事象などとなり、世界が製造されて逝く。自然現象として芽ぐむ。リボ核酸のような、原初の考概が鬱勃する。


 波濤のなかでようやく見つけた浮遊物にしがみつくよう、それにしがみついた。混沌のなかで、足掛り、手掛かりとなる〝ある〟に必死にしがみつこうと足掻き藻掻きのように我武者羅無我夢中必死一所懸命になった。


 つまり、それが原初の〝わたし〟という自然現象であった。

 宙に黄金の天球儀のような曼陀羅である。ダイヤモンドの燦めきに囲繞され、イユ・イヒルメ(彝兪・彝日霎)という名が降りて、覺醒した。

   

「あっ」

 忽然と、氷のような雪の礫が頬を打つ。頬に當たっただけで雪だとわかるものだ。それでイユはじぶんを明瞭に感じ、説明がなくとも、存在を理解した気分になる。


 それはふしぎのようだけれども、ふしぎではない。意識というものが隕石のように衝突して宇宙が開闢し、根拠もなくわかるものだ。


 頬だけではない。腕も打つ。脚も打つ。「何で、こんな普段着なの? こんな極寒地で! おかしいよ、これは夢?」


 そうじゃない、これは明らかに現実、でも、自分が今まで、どうしていたのか、ここがどこか、なぜ、いるか、わからない。


 ただ、泛び上がる想い、彝兪(イユ)、……

 イユ? 名前? わたしは、イユ。イヒルメ家の。


 碧い海潮を漕ぐイヒルメ族の娘、海の女神アルテミ・イヒルメに仕える七千年來の一族、眞神族の一氏族で、二千七百年前に海を渡って日本に來て、東北の眞神郡に住んでいた、 ……はずだった。あ、え? その記憶が今眼の前で消えて逝く、なぜ、あゝ、さっきまで想い出せていたものが、今想い出せない……


 まるで、この凄まじい吹雪がかき消したかのように。でも、どうして、わたし、こんなところに? 確かめたくても、眼もよく開かない。山奥? 怖ろしい嶺を頭上に感じる。見えないのに、その漆黒のシルエットが、とても近くに蔽い被さるよう感じられる。


 進もうとした。

「あっ」


 足下に何もない。墜ちそうになった。


 断崖! 何も見えないけど、足下にもの凄い空間を感じる。吹き荒れる途方もなく広い空間を。


 大きな谷の絶壁、もの凄い巌山の、非情な絶壁だろうか。怖い。


 何もできない。雪を踏んでいるけど、滑落するかも。怖いよ。待つしかない、きっと、夜が明けるから。そうすれば、わかるはず、きっと。


 夜が明ける? 本當にそうかしら? 証拠がない。でも、希(こいねが)うしかないよ、祈るしかない。それしかできないよ。だって、何もわからない。


 でも、祈って、どうなるかも、まったくわからない。


 あゝ、とにもかくにも、寒い、痛いほど寒い、躬を切るように寒い。


 死んじゃうよ。手が悴んで動かない。身体が凍えて痛い。ガタガタ震えて歯が合わない。震えを止められない。


 あゝ、寒さを凌ぎたい。その思いしかない。それができれば、何も要らない。お願い。あゝ、本當にお願いします。


 暗鬱な哲学少女であった。友だちがいないというよりは、友だちを求めずに、独りでいつも考えていた。古代ギリシャやニーチェやヘーゲル。存在の意味。眞実と本質。心の不安から逃れたくて、眞理を求めていた。


 でも、そんなものは、もうぶっ飛んだ。充たされていなかったけれども、それは充たされている者の、安全な領域内の遊戯だった。イユはじぶんが求めるすべてが、ただ、この寒さから逃れたい。凌ぎたい。救われたい、助かりたいしかないと知る。凄まじいくらい必死だった。


 雪を掻く。穴だ、穴、穴! 掘った。入る。風を凌げた。或る程度だ。それだけで暖かく感じる。でも、雪を掘ったせいで、手は痛い、完全に悴んで温度が戻らない。口のなかに指先を突っ込んでも、ちっとも暖まらない。


 こんなにも絶望的なことってあるの? どうにもならない、どこにも逃げられないよ。どうにもならなさ過ぎる。絶望した。


 最初は、涙が流れたが、涙も流れなくなった。もう夜は明けないんだわ、と諦める。諦めないと堪えられなかった。もう力尽きて、無気力になった方が楽だ。


 それでも、一秒が堪えられないほど長く感じる理由はまだ希望が燃え尽きていないせいだ。もしかしたら、夜が明けて、黎明が兆し始めるのではないかと希望する長くて苦しい時間。かなり経った頃、吹雪が止む。幽かに黎明を感じる。


 次第に明るくなると、イユはじぶんのいる、恐るべき場所がわかった。


 山と峡谷とのせめぎ合う巌の断崖、垂直な絶壁の、中腹だ。殆ど足場がなく、雪が積もっていつでも滑落しそうだった。


 遙か上も、蔽い被さるような、巌の壁。足下は深い峡谷、数千m下までまっしぐらであった。


 雪洞で風を凌ぎ、少し体温が戻り、氣が甦る。進むしかない。どんな哲学も救ってはくれない。


 黎明が希望を取り戻させてくれた。少し幸せを感じる。光は希望だった。ものやことがら見えてくれば、少しの勇気も湧く。しかし、また風が強まり、吹雪が戻って來ていた。


 岩棚とも言えない、わずかな足場を辿って、風雪に吹き飛ばされそうになりながらも、しがみつき、雪によって何度も足を取られ、あ、墜ちる、と何度も思いながら、とにもかくにも、進む。足を上げたら、慎重に下す。それしかない。一歩。次にもう一歩。進むしかない。


 疲れ果てて力が入らず、もうだめと思う頃、少し広い岩棚が見えた。


「あゝ、あそこまで逝けば」

 どうにか希望が力を甦らせ、辿り着く。


 洞窟があった。あそこなら風がしのげる。その時、

「おい、お前」


 突然、声がして心臓が止まりそうになった。声は洞窟のなかから。

「きゃあ、だ、誰よっ⁈」


 穴の眞っ黒な闇からあらわれた者は一人の少年だった。なぜか輪郭がぼんやりと明るかった。颯爽と自信に満ちていて、双眸が輝いている。その素な存在が、イユになぜか壊れたブルース・ハープの音の聯想をさせた。歪んだ、音程がゆらぐサウンドだ。


 風に靡く少年の髪は波瀾のごとく亂れて狼のようでもあった。


「お前も、ここまで下って來たのか。俺は、この上から滑落して、偶然、この岩棚に落ちて助かった。

 彝龍衆(イリューシュ)って言うんだ。あゝ、仲間がいて嬉しいよ。急にカラ元気でも出そうかなって気力が湧いてきたよ。

 いや、人間らしい気分が甦るなあ。さっきまでは、怯える小動物のようだったが。ふ、人間様だなんて言ったって、所詮、そんなもんだ」


 人間らしい気持ちが甦ったのは、イユも同じだった。それまでは、死と恐怖という呪縛に心を虜にされ、怯えて逃げることしか考えられなかった。


 寒さを凌ぐことだけで必死だった。人間らしい感情、人格、尊厳なんて、どこにもなかった。イリューシュは言葉を続けた。

「でも、実際は、結構、ヤバかった。眞っ暗ななか、歩き出したんだが」


 彼は落ちてからも、歩もうとしたらしい。後になって、それが危険な行為だったことがわかったが、その時は、まったく気がついていなかった。もし、光を觀じなかったら、死んでいただろう。突然、背後に光を觀じたのだ。気が変わってそちらへ向かうと、どうやら洞窟らしく、そのなかで、何かが微かに光っていた。


「それがこれさ」

 石だった。石だったが、奇妙な石であった。まるで鍔のない短剣のように刀身と柄があり、ぼんやり光っている。蒼白い光で。だから、ぼんやり明るかった。


「偶然だ。こいつのお陰さ。

 長い夜が明けて、薄明かりのなか、外へ出てみると、肝が冷えたよ、何てったってさ、俺の逝こうとしていた方向が、ほら、この奈落へ墜ちる断崖だ」


 イリューシュの指差した方は数千m下までまっしぐら、垂直に墜ちる絶壁の峡谷だった。奥底は暗く狭く判然としない。イユは足がすくんで、それ以上は見ることもできなかった。


「もし、あのまま歩んでいたら、って考えるだけでも、今でも手足の力が抜けるよ」

 

 彼は笑った。吹雪の峡谷に虚しく響く。木霊する。この広大な空間、怖い。よく笑えるなとイユは思うが、イリューシュは急に眞顔になって、


「あゝ、いい気分だ。久しぶりに笑ったような気がする。

 話をすると安心するね。理性に血が通う。気持ちが呼吸する。人間性が帰って來るよ。

 でも、いつから喪われていたか知らないけどね。

 気がついたら、闇だった。その気がついた時点がどのくらい前なのか、何時間か前なのか、何日か前なのか、何年か前なのか、全然、見當もつかない」


 イユも無我夢中の生存の塊のようであった気分が緩む。だが、まだ安心してはいけない、と自戒し、生き残るために、意図的に不安を呼び覺ました。


「でも、イリューシュ、これからどうしよう。食べるものも、防寒具もないよ。また夜が來たら」

「ともかく、どうにも、こうにも、寒過ぎるや。洞窟に戻ろうぜ」


「えっ」

「嫌がるなよ、どうせ日々なんざ、洞窟でしかねえのさ。空がないよ。でも、ここよりはずっとましだぜ」


 言っていることがわからなかったが、彼が來た方向を再び見る。髑髏の眼窩のような洞窟だ。深淵のようだった。少し怖かったけれども、寒さが凌げれば、未來なんて、もう。


 そういう想いでイユも歩む。


 イリューシュは入口から少し入ったところに、雪で壁を作っていた。一部壊してある。そこから出て來たらしい。


「蝶番のあるドアじゃないからね。出入りのたびに、一々崩して、また積み上げなくちゃならない。

 まあ、雪はいくらでもあるけどな」


 入った。雪を積んでイリューシュが再び壁を作る。虚しい作業とも言えるが、意味はある。必要でもある。


 風がないだけで、暖かかった。あゝ、助かった、と思う。少し安堵した。


 傍では、暗いけれども、石の短剣が行燈のような明りをもたらす。その熱も感じられた。光と暖かさは原初的な喜びだ。


「何だか、この石、光と熱が強くなったような気がする、お前と会って。

 俺の心の喜びが反映するのかな」


 イリューシュのこのつぶやきが、もし、聞こえていたなら「口説いてる?」と思っていたかも知れなかった。この状況下であっても、世俗感覺がほんの微かに戻り來つつあったからである。生活が甦りつつあった。


 しかし、イユには聞こえていなかった。彼女も又、誰に言うともなく、つぶやく。

「とっても幸せ。最初の、あの長い絶望の夜を思えば、天国のように幸せだわ。生きていられるって幸せ。幸せのために生きているのね」

「無事で、健やかならな」


「そうね」

 凍った睫毛を伏した。彼女は弟を病で亡くしている。彼の最後は辛いものであった。イリューシュにも、きっと、何かがあったのだと想う。だから、こんな状況でも快活なのかもしれないと思った。


 とは言え、雲の裂けめから垣間見える紺青の瞳のように、強い希望が息を吹き返す。同時に、未來への気遣いが理性的なかたちで甦り始める。

 そもそも、不安というもののすべては将來への不安なのだ。生存の畏怖も、存在の不安も、過去の事実が紐解けぬことへの焦燥も、すべて。


「で、どうするの。考える餘地はないわ。きっと、逝くしかないのね」

 イユは話題を戻す。イリューシュは虚空を凝視した。二人はいつの間にか当たり前のように命を託し合っている。

「ここに居ても死ぬなら、逝くしかない。わずかな儚い希望を繋ぐ絶望的な闘いさ。それでいいよな」

 深刻なことを笑いながら言う。

 イユも、そう思っていた。進むのは怖いけど、結局、同じことだ。


 ただ、居ても、死ぬ。

 救助は考えられなかった。自分たち以外に人がいるかどうか定かではないのだ。いや、いないように感じられた。この世界の広大さは、彼女たちが知っている世界の広大さとは、どこか違っている。


「ならば、明るい今のうちに」

「うん」


 石の短剣で手足を温める。二人は雪を少し噛んで、沁み渡るような新鮮な水を飲む。

「たくさん噛むなよ。体温が下がる。俺たち、こんなに薄着なんだから」

 そう言って、イリューシュが笑った。言われなくとも、わかっていた。言った方もそれをわかっていた。声を掛けることに意味がある。


 再び吹雪のなかへ出た。道はない。吹雪のなかに飛び込んだものの、どうやって逝けばよいか、イユにはわからなかった。


「道を造る!」

 イリューシュは決然と言う。

「どうやって」

「どうやってもさ。えいっ!」


 彼は石の短剣を絶壁に刺した。肉塊を刺したかのように、グサッと刺さる。角度をつけて上から斜めに刺したので、巌壁は上向きの角度を持って穿たれていた。そこに足を差し、その上を刺す。手を差し込む。壁にへばりつくように一歩ずつ。少しずつ進む。


「俺が來いと言うまで來るな。先の様子がわかってから帰って來る」

 待った。戻って來た。

「だめだ。反対に逝ってみる」

 待った。さっきよりも長い。戻って來た。

「だめだ。眞下に逝く」

 待った。さらに長い。戻って來たが、

「無理だね。ただ、永遠に絶壁だ。どうするか」


 イユは言う、

「じゃ、眞上に逝こう」

「バカを言うなよ、俺はそこから來たんだぜ。お前だって」

「わたしは眞上じゃない。あなただって、上にいた時は、何も見えていなかったでしょ」

 イリューシュは思慮し、

「そうだな。やってみるか」


 今度はイユもイリューシュのすぐ後から逝くことにした。待つのが嫌になったという理由だけではない。

 垂直の壁を穿って手掛かり足掛かりを作って攀じ登るのは恐怖が少なかった。下が岩棚だからだ。


 しかし、楽ではなかった。雪と凍った岩に手が悴み、冷たい風が貫き徹り、感覺がすぐになくなるも、歯噛みして失われた感覺を必死で呼び戻そうとし、つかみ、踏ん張る。


 最初、すぐに墜ちたが、雪を重ねていたので、怪我もなかった。落下した高さも、それほどでもない。墜ちても大丈夫という体験を得たことと、墜ちた衝撃でアドレナリンが上がったこととで、その後は一種の興奮状態で登り切った。

「ふう」

「ここかな」

「たぶん、俺が最初にいたのがこの辺りだと思う」


 そこは岩棚と言うより天然の桟道のような場所だった。肩幅ほどの幅もない。坐っているだけで落ちそうだった。しかも強風と雪礫。剥き出しの岩に坐ったが、ひえっ、と声が上がるほど尻が凍えた。


 イユのリアクションには気がつかず、イリューシュは或る方角を見て言う、

「これって道のように見えるな。上に向かっているようにも……、おぉっと危ない。あゝ、ヤバかったなあ、まじで。……ちぇっ、手摺が欲しいぜ」

 足を踏み出そうとして少し滑らせたのだ。

「はあ……手摺って。夢のまた夢ね……」

「別にいいぜ、ともかくも、この道、上に向かっている、……かもしれない。だろ?」

「ふふ。うん、登ってるよね」

「逝くか」

「逝こうよ」


 足下は眼も眩むような数千mもの垂直の峡谷、細い道を絶壁に寄り掛かるように進む。吹雪は下から吹いていた。峡谷に入った気流が上昇し、雲を吹き上げるのだが、雲はここまで來られず、風と雪が吹き上がっている。

「うわ、風がきつい。からだが浮きそうだ。おい、足を滑らせるなよ」

「そんなこと、わかってるよ、必死なんだから、話しかけるな」


 ふっと霧のように薄い雲が吹き上げられ、それに包まれて、何も見えない瞬間もあったが、それはほんの短い時間だけで、やはり雲がここまで吹き上げられることは、殆どなかったが、視界が閉ざされると、意識が朦朧としてくる。そんな瞬間に、

「ダメ、絶対、ダメ。ああ、神様……、あ」


 強風にあおられるのであった。堪えた。それももう何十回目であったか、今度こそ奈落へと眞っ逆さま!と眼を固くつぶったのは。何度も、何度も、どきっ!とさせられ、心臓はすっかり疲弊し切っている。息が苦しかった。指に力が入らない。


 理性が「見るな!」と叫ぶのを聞かず、遂に下を見た。

 頭を動かすとバランスを崩しそうだ。命懸けだが、もう我慢できず、見ずにいられなかった。

「あゝ、何て高さなの」


 こんな高さなのに、これッぽっちの足掛かりしかない。何て脆弱で、不安で、頼りない。

 怖くて、一歩も進めなくなった。岩壁は垂直。足場は狭く、仰け反って落ちそうだった。

「おい、もう少しだ、がんばれ、気力を振り絞れ、死ぬ気でやれ、死ぬんだ、捨てろ、肉体を超えて死力を出せ! 超えろ、自分の頭を踏んで登るつもりで凌駕しろ、上がれ。

 そら、もうすぐだぜ、がんばれ、振り絞れ、もうすぐだ」


「うるさい、無茶苦茶言わないでよ、もうすぐって、本當なの! 嘘でしょ! 嘘言わないで、くだらない励まし要らない!」

「そうでもないぜ、そらよ、見なよ。どうやら頂上に着くらしい」

「え、ウソ! まじ? 吹き上がってくる雪で、何も見えないよ」

「まあ、よくわからない、上ってみなきゃな。でも、そんな感じだ」

「嘘だったら殺すわ」

「殺されずとも死ぬさ、……あゝ!」


 凄まじい風。手が離れた。間一髪、剣を刺してぶら下がる。

「きゃあ」

 叫んで、イユは眼を固くつぶった。いや、つぶろうとした。もう、瞼の筋肉が草臥れ切って、言うことを聞かない。

「大丈夫だ。いや、まじで、やばかった。

 俺だけならともかく、お前を巻き込んで落ちるところだった」

「あなたが落ちたら、わたし、落ちなくても、死んだも同然。怖くて、何もできないわ」

「そうか? お前が? あゝ、ともかく、ラッキーだった。もう少しだ。どうやら頂上らしい。上るぜ。そらっ、うんっしょっと、ふっ。ううっ。そりゃ、どうだ。あー、ほら」

「ええっ、信じられない。頂上に着いたの? 絶対に、そんな日は來ないと思ってた!」

「大袈裟だろ。ま、俺もそんな気分だったが。ほら、手を貸せ。よし、上がって。そうら、見ろよ」


 信じられない。だが、登頂していた。斃れるように、二人ともしゃがみ込む。眼の前に広がる大光景があった。


 ふしぎなことに、尾根を一歩跨ぐと、風はない。静寂であった。

 晴れていて、眞っ白な雪の斜面がある。物凄い斜面ではあったが、垂直ではなかった。


 普通は、四十五度以上の角度の傾斜があって、それを上から見下ろすと、垂直のように感じるが、さっきまで垂直を見ていたため、四十五度以上の斜面が緩やかに思える。


「ここ、降りられるかしら……。何だか、簡単にできそうな気がする」

「確かに。怖い気はまったくしないな」

「あゝ、でも、救われた感じ。爽やかだわ」

「力が入らない。動きたくないね」

「ねえ、おかしくない? こんなに高いところにいるのに、……空気が薄くないよ。変じゃない? ふしぎだわ」

「傾斜がある。かなり急勾配だが、傾斜には違いない。俺たちのいた側は垂直なのに。変な山だぜ」

「すごい、ずうっと下の方に雲海があるわ。ねえ、チョモランマよりも高いんじゃない」

「何でわかるんだよ」

 なぜ、人間は、……いや、人間だけじゃない、生き物たちは、わかるんだろう……なぜ。

「何となく」

「確かにもの凄い高さだ」

 イユはふしぎで仕方なかった。

「何でわたしたち無事なの。こんな高山で高山病にもならず、普段着で凍死もしない。體から力を抜くこともできないくらい、痛いくらい凍え震えて指も感覺なく動かないけど」

「本當だ。確かにふしぎだ。……やっぱり、ここは普通の世界じゃないんだ」

 最後の言葉は彼に似合わず悲しそうな、囁きであった。

「わたしたちしかいないかも」

 イリューシュも同じく考えている。だから、黙った。イユもそれ以上は言わない。彼がその可能性は考えたくないようだったから。言っても、意味がない。

 空腹を覺えた。雪をゆっくり少しずつ噛んだ。休憩し、しばらく晴れ渡った空を見ていた。疲労困憊で動けなくて、力が入らない。

 二人肩をならべてしゃがみ、ただ、ぼうっと眺めていた。しばらくしてイユが言う、

「何だか、既視感? 見たことがあるような気がするよ」

「この光景か? かもな。人間の潜在意識のさらに下の無意識層にアカシック・レコードがあって全宇宙の情報があるって言う奴もいるからな」

「わたしもそれ、考えたことがある。情報が、ってよりも、宇宙そのものが。複写かもしれないけど、宇宙そのものが無意識の最下層に繋がっていて、実は人間(動植物もかな?)の意識って、宇宙のすべてが依り集まってできているんじゃないかって。ふしぎな感じが」

 イリューシュは何かを考えていて応えなかった。イユは気がつく。何となく、彼が少し変わったことに。そう感じた。

 もう一度、見つめる。眞剣な眼で。この人と命懸けで、ここまで來たんだなと気づきながら。そう、安堵した今、それをしみじみ感じる。初めて会った時の悦び。広大な世界に独りぼっちだったから、たとえ、どんな人と会っても幸福であっただろうけれども。でも、忘れられない、洞窟に入った時の暖かさ、幸せな気持ち。

 彼が何か変わって見えたのは、じぶんにとって特別な存在だからというだけではない。

 まるで、この感覺は、いったい……。まるで、逝にしへからあるような、ふしぎな感覺であった。運命のような。それもアカシック・レコード(虛空藏(あきゃしゃがるば))?

「何だよ」

 イリューシュが怪訝そうな顔で言う。

「何でもないよ」

〝オーラを帯びているよ〟、その言葉をイユは出せなかった。いかにも、バカらしくて。

 その時、突然、イリューシュが、

「熱っ!」

 懐が熱くなっていることに気づいた。イリューシュは石の短剣(短刀型の石)を出す。

「あ!」

 短剣は鉈くらいの大きさになっていた。光燦も強くなっている、朝日を浴びた湖面のように。とともに、幽かに黄金の霧を帯びていた。

 奇跡のように美しい。二人とも、言葉が出なかった。だが、心の奥に湧き上がる。この奇蹟もふしぎではないという根拠のない確信が。眼に見えない神を感じていた。この石のお蔭で生きているという事実。

「見ろよ、この石」

「間違いないわ、変わった。何で?」

 薄っすらと彫のようなものすら、見えた気がする。

「何で変わったかって? お前、俺にわかると思うか」

「お前って言わないでよ、イユって、名前があるのよ」

 イリューシュは笑いながら、わざと顔を顰め、戯(ふざ)けて不愉快そうなかたちを作る。

「初めて聞いたぜ」

「初めて言ったかもね。憶えてないわ、そんなことは」

 だが、笑顔はすぐに止み、考え込んで深く清んだ、神秘的な表情を為す。イリューシュはその移り変わりに吃驚したように、

「おい、何なんだよ、どうしたんだ、いきなり」

 山のこちら側は風もなく、無音。眞っ白な雪が時折、スローモーションのように粉となって巻き上げられているのは、なぜだろう。清み切った、瞑想的な明晰の世界。

「ねえ、ここって特別な聖域だと思わない」

「え?」

「神様がいる感じがする」

「何だよ、急に」

「ねえ、わたし、思い出したの」

「何を」



「ぼんやりした、ただ、感覺的なイメージだけなんだけど、わたしが(わたしたちが、かもしれないけど)かつていた世界のことを、少し思い出したの。

 何となくだよ、ぼんやりした、没骨法(もっこつほう)みたいな感じで。微かな輪郭が朧(おぼろげ)に。

 思い出したくない思い出……のような気がする。そこは……

 不正で、眞実のない世界。力があれば、悪であっても勝利の美杯を楽しみ、豪奢と逸楽を堪能できる醜い世界。要領のよい者たちが勝つ下劣な世界、滅ぶべき世界。

 物理的法則が謳歌する、力だけの世界、悪の世界」


「そう言われれば、そうだった気もする」

「わたし、眞実の世界に生まれたいって願っていた。それだけは思い出せるの。あなたも、そうじゃないの、イリューシュ」


 遂に、イリューシュも深い表情を泛べた。叡知の面持ちを。

「卑劣で醜くて、不実不正義の世界だったな。そうだ、少し思い出したよ、俺も希っていたことを。でも、それ以外はよく憶えてないぜ。いや、思い出せない」

「そう、実は、わたしも、そうなのよ。はっきりしたと感覺と感情とはあるのに、具体的なことが、まったく記憶から消えちゃったの。でも、きっと、これよ、これが答の一片だわ。ともかくも、わたしたちは、眞実の世界に生まれ変わったのよ。

 そう思わない?

 わたし、感じるの、ここでの過酷な経験で言葉ではない叡知を体験で獲得したわ。だから、変化したの。

 何の証拠もない、確認もしていない。けれども、叡知が身体に生じて、明確にそれを直觀するわ、疑いようもなく。これが本當の知識、智慧なのよ、きっと。

 眞実の光燦に満ちて、揺らぎようがない、神的で崇高な確信。眞の存在。懐疑を差し挟まれることもない眞の叡知。睿智。

 わたしたちがあの世界で知っていた眞理はすべて脆かった。疑うことがいくらでもできた。すべてが何の根拠もなく、無条件に信じられていた。

 そんな脆弱な設計で構築された、脆弱な体系の建築だった。

 そもそも、概念じたいが信じていいのか悪いのか、どっちとも言えない、判断のできない捏造品だったわ。

 だって、〝考概〟(概念・思考・認識・意識)の礎である知覺は神経伝達物質の分泌やシナプス小胞や樹状突起、イオンの流入によるニューロンの脱分極化、電気的な発火現象インパルス、ただの化学的現象よ。それが思考。それが何を表現し、何の理解になるというの? この解析・解釈、すべての論理的な見解も、証明も、わたしのこういう考えも、語り尽くせないこの言葉も、雨や風や月や流水と同じ、自然の現象に過ぎないわ。

 考えてもみてよ。

 一つの概念が何であるかを、追究すると、最後は説明ができなくなって、言い訳みたいに〝それだからそれだよ〟としか言えなくなるじゃない。

 わたしたちの理解なんて、感覺的な擦り込みで慣らして馴染ませ、納得っていう心的な現象を惹き起こしているだけよ。感覺の馴染みっていうのを、もっとわかり易く言うと、たとえば、量子quantumってあるじゃない? 量子は〝量〟が極小さな固まりになったもので、例を挙げれば、ミクロの世界の物質のエネルギーの量がエネルギー量子で、極小の固まりの集合って言われても何だかわからないでしょ? 言葉は理を尽くしているのにわからない。わたしたちって、理で解してないのよ。ただ、経験にあることが感覺に馴染んでいるから納得という心理になるだけなのよ。イデアや本質なんて在りようがないわ。

 だから、すべての論理は論理的な立場で見れば破綻している。矛盾した言い方だけど、少なくとも論理の法則に遵うなら、破綻してる。自滅構造よ」


 イリューシュは驚嘆で眼を瞠(みは)ったが、それは彼女の論への驚愕でも賛嘆でもなく、強く神々しく語る彼女への愛おしさ、潮のように高まり熾る、守りたいという切ない感情であった。

「お前、いや、イユ、哲学少女だったのか、愕いたな」


「何でよ、失礼過ぎるわ。ついでに言うと、ミクロの物質は粒子であり、かつ、波って言われても、その〝波〟の意味がわからないでしょう。物質(粒子とか)が波打っているんじゃないのよ。経験にないことはわからないものよ」

 呵々大笑し、

「俺もストリートのギャングだったが、二枚重ねで穿いていたジーンズのポケットに、いつもニーチェが入っていた。ストリートの哲学者さ。読む哲学本は、時には、変わったが、まあ、そりゃ、どうでもいいや。ともかくも、ふうん、何となくわかったよ」


 二人は生れて初めて、眞実を語り合える友に出会ったのである。

 眉を顰めて、イユはからかうように、

「ほんとかなあ、何がわかったのよ」

 だが、イリューシュはイユの揶揄など聞いていない。言ったら、言いっ放しだ。歩き出す。イユも歩くしかなかった。どこまでも続く広大な雪の斜面、何もない。


 いや、あった。

「おい、あれ何だ」

 百mほど先、五十㎝ほどの、不自然な、雪の盛り上がり。小さくて、ここに來るまでは、気がつかなかった。眞っ白だったし。イリューシュが走った。イユは声を上げる。

「待ってよ」


 近づくと、雪をかぶった、小さな女の子だった。赤いチェックの頭巾をかぶっている。毛織の厚手の服。防寒とは言えないが、イユたちよりはいくらかましな格好だった。

「おい、お前、どうしてここに。まさかと思うけど、独りで? 独りで、ここまで來たのか」

 少女はイリューシュをふしぎそうに見上げるだけで応えなかった。イユが訊く。

「あなた、お名前は」


 最初は六、七歳に見えたが、よく見れば、十歳か、十一歳くらいか。イユは自分が十四歳であることを思い出した。何となくイリューシュも同じ歳だと思っている。

「アヴァ・ロキタ・イーシュヴァラ」

「え」


 アヴァは「普く」、ロキタは「觀る」、イーシュヴァラは「自在なる主」。すなわち、アヴァローキティーシュヴァラと言えば、觀自在菩薩の名に他ならない。


 何も気がつかないイリューシュは、

「おい、このまま坐っていたら、凍え死んじまうぜ。いったい、いつからここにいるんだ。って言う以前に、どうやって、ここまで來られたんだか、不可思議だが」


 少女は双眸を睜(みひら)いたまま、見つめるだけで表情すら変えない。その瞳の輝き方が異常で、ブリリアント・カットしたダイヤモンドに、最高に亂反射をする角度で、太陽光を當てたかのように、強烈に燦燦と煌めいていた。


 イユは不安を覺える。

「イリューシュ、やめようよ、何かおかしい、放って置こうよ」

 眉を上げて驚く。

「何言ってんだ、放って置けないぜ。数少ない人間だ、仲間だぜ」

「だって、おかしいよ」

 イユは必死で声を上げた。

「いや、連れて逝く」

 イリューシュは断固として言う。


 抱き上げた。少女は抵抗もしない。寧ろ、當然のような顔に、イユには見えた。胸に痛みが走る。何、これ? そう思うも束の間、イリューシュがすたすた逝く。慌てて追い駈けた。

「待ってよ! わたしは放っておくの?」


「何言ってんだ、お前は小さな小さなお子様じゃないだろ」

 そういうことじゃないのよ、と言い掛けて止まる。なぜ、言うのを止めたんだろ、じぶんでもふしぎに思ったが、実は、わかっていることにも気がついていた。


「なあ、お前、どこから來たんだ」

 面白がらせてやろうと、イリューシュなりに考えて、抱き上げただけではなく、肩に担ぎ換えて話しかけても、応じない。絶壁を攀じ登っている間に鍛えられた太く強い腕っぷしは、幼い女の子の体重など、ものともしない。

「言葉が出せないのかな。あまり訊いちゃ悪いか。イユ、お前、どう思う?」

「知らないわよ」

「まだ怒っているのか」

「怒ってなんかないわ」

「なら、いいや」

 ……ったく、もう!


 青い空は静かだった。碧い瞳のように美しい。


 しばらく、歩いて下るうちに、また何かが眼に留まる。   

「何もないように見えて、いろいろなものがあるんだな。ほら、イユ、あれを見ろ」

 眼が痛いくらい、まばゆい純白の急降下の斜面。

 何の凹凸もなく、広くまっ平な急傾斜の十数キロメートルを一気に下がっていたが、途中に一つ、小山のような、いびつな盛り上がりがあった。


 白いが、雪ではない。


 長い毛のようなものが、さらさらと靡いているのがわかる。風がないのに。


「何だろう、異様だけど、崇高な感じだ。強く惹かれる。まるで、聖なる遺物のように。あゝ、逝ってみようぜ」

 イリューシュの双眸が強い燦々たる光で耀き、誰に言うともなく言って、足を速め、ずかずかと雪を踏む。

「待って、待ってよ、わたしも」

 その盛り上がったものには、雪も積もっていたが、雪と見紛うほど、白くてとても長い毛がゆらゆらと揺れている。


「牙がある」

 イリューシュが足を止めた。アヴァを肩から、そっと下ろし、歩み寄ろうとするイユを手で制し、

「いや。俺だけで逝く。

 ここで待っていろ」

 牙はとても長く、大きく下がってから上へ湾曲し、最後に先端でやや下向き内側へ向かって、小さく湾曲していた。

「マンモスだ、白いマンモス」

 その時、ぎょろっと大きな眼が開いた。

 瞼や睫毛に積もっていた雪が粉のようにさらさらと落ち、風に吹かれ散る。

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