第10話 古羚人いらふ(尹良鳬)と世界情勢
数十世紀、数千年を経た旧い市街地。降り頻る暗鬱な冷たい雨。
俯きながら歩く人。おりいぶ色の頭巾附きマントで足下までも覆っている。緻密な織に獣脂をたっぷり滲み込ませていた。磨り減って丸みを帯びた古い石畳に雨が爆ぜる。
小柄で華奢な體に似合わなかった。大きな剣のフォルムが背から浮き上がっている。幅広くて刀身が長く、この人が鞘から一気に抜くことができるか疑わしいほどであった。
動きには無駄も隙もない。頭巾から時折見える薄いペパーミント・グリーンの双眸は光が水面のように揺れ動いていた。隅々をにらみ、射抜くように鋭い。
石造の建物が狭く峙ち、垂直の亀裂のなかにいるような路地であった。昏い夜がさらに深い黒に沈む場所である。ここに着くまでの間、右へ左へと細い路地から細い路地を繋いで渡り、双眸を鋭く燦めかせながら旧市街を歩いた。足を止める。
開け放たれた戸口からは強い光があふれていた。
吊るし看板には『βάρδος(バルドス)亭』とある。竪琴を弾く牧人の浮彫。バルだ。廉くて、立ち飲みの大衆酒場、テーブル席もあるが料金が割り増しになる。
石段を二段上がった。なかの様子を瞬時うかがう。
まず耳を劈く喧騒、農夫や鍛冶職人や狡そうな顔をした貧相な行商人、土木・建築人夫ら、彼らの銅鑼声や下卑た笑い声であふれていた。黒光りする太い梁が天井を渡るっている。店主の手からカウンター越しに薄汚れた髭の老人の手に渡される木製の大ジョッキからは泡がこぼれた。
湯気が頬に當たり、ほうっと暖かい。あちこちから酔った庶民の雄叫び、
「おおよ、実際、世のなか、どうかしちまってるぜ、金にために老婆も騙す糞どもに死を」
「だがよ、あの将軍どもの偉そうな面、戦争する奴には死者の全責任があるんだぜ」
「うらあ、乾杯だあ、我がギルドの財務、人事、頭のよいバカどもに」
「棟梁の女房ったら、ありゃ、ひでえもんだ、異教徒なんざ、死んでもいーってさ」
「どうせ、また戦争だぜ。勝つも負けも国ぢゃねー、どっちの国も庶民が負けさ」
「早く酒を寄越さねーか、それっきゃねーぜ、何を言っても神は聞かぬ」
「そうとも、勝っても負けても哭くは民さ、民が民を恨むなんざ、バカの骨頂、思う壺だ」
「まったくだぜ、ひでえもんだぁ、貧しい者が正直だって? 泥棒だらけさ!」
天井は暗く、太い梁が半ば闇に消えている。カウンターのなかで、太った、顎髭の長い店主が怒気を含んだ低い声で「そら、ビールだ」と言い、太い指で大きなジョッキをドスンと置く。
給仕の女の子は亂れた縮れ毛をスカーフで雑にまとめ、頬が汚れていた。十二、三歳か。店の隅の暗がりに立っている売笑婦の娘だった。
炎の揺れる暖炉に燃える薪の匂いが強い。
カウンターは伐り出したままの粗い無垢で、古びて色あせ、疵だらけで、削られ、傷み、艶もなく、人々の袖が擦らない片隅には埃が積もっていた。
その人物はテーブル席の前で止まる。
マントを脱いで、雫を振るい落とし、あらわれたのは、少女であった。複雑な紋章や意匠の彫られた鞘をマントで包み隠す。その鞘に隠された幅広の剣は重く、ベルトから外してテーブルに立てかけた時にゴトっという音がした。
ペパーミント・グリーンの双眸であたりを睨め廻す。碧い眉を顰め。
水色の髪は濡れたせいで、きつくカールしていた。
刺青で太く濃く縁取られた眼(眼窩の化粧は魔除け、主に眼の病気の原因となる魔から護る力があると、彼女の部族に伝えられていた)は眼尻が上がっている。白皙の皮膚には幼さも残っていた。背は高くなく、肩や胴に馬革と金具の鎧、同じく硬い革のブーツを履いている。
二人の厳つい傭兵が立ち去り、暖炉の傍のテーブルが空いたばかりだった。
いらふ(彼女のなまえは正式には〝尹良鳬〟と錄す。東大陸(エステEste)にルーツを持つ民族は氏名に漢字を使う者が多い。なお、フルネームは、いらふ・爾尹(じいん)・さぶらふ、である)は坐った。
場所は欝憂なるエジンバール川に近い、街道沿いの小さな町、ストラングラー。
数千年前に処刑場があって絞首刑人が多く住んでいたため、この名がある。二百年前からは地の利を生かし、街道を使った陸運や、川を使った水運で通商の要所として栄えていた。
「チーズ。骨附きマトン。飲み物は、ええっと。
ビールやワイン以外で飲み物は何があるのかな」
「え? お酒がダメってこと? じゃあ、水か、ジンジャーね」
給仕の少女はじっと、いらふを見て、そう訊いた。
いらふは敢えて眼を逸らし、
「ジンジャーにしよう。パンは何?」
「ライ麦よ。
あなた、もしかして、あたいと同じくらいじゃない」
「早く持って來てくれ」
運ばれたチーズはヴァルゴVir-Goeax国北部山岳地帯のヤギの乳からできたもの、羊の肉は裂大陸海洋(マル・メディテラーノ)に泛ぶローディセス島の滋味豊かな牧草を食むローディセス羊の肉だ。場末の貧民窟にある酒場のメニューに、外国の名産品が當たり前のようにある。いかに国が豊かで物資にあふれているかがわかった。為政者の心と力次第でこんなにも違うのだ。
「レオン・ドラゴ=クラウドLion Drago Cloud連邦。大国ではない。だが、噂どおりだな」
つぶやく。モス・グリーンの睫毛を翳し。つぶやきには憂いのようなものが含まれていた。
こうした騒然としたなかへ、まったく異なる空気感を持って、ふしぎなオーラを帯びた人影が入ってきた。
全身をフード附の外套で覆い隠している。その外套を脱ぐことなく、顔を蔽ったまま、細身のシルエットの人物は迷いなく彼女の坐っているテーブルに向かって歩む。外套の下に大剣が隠されているのがわずかにわかる。
その人はためらいなく、いらふと同じテーブルの向かいの席に坐った。
「いらふ、だね?
すぐわかったよ。ふ。その姿勢、全身から発する威風、眼差し。一分の隙もない。一眼で必殺の達人とわかる」
いらふはわずかにペパーミント・グリーンの双眸が燦めく眼を丸くしながら、うなずく。
「あなたが…イース。見るまでは半ば疑っていた。本當に、じぶんくらいの齢の人だとは」
「君よりも一つ上だ」
「しかも、クラウド連邦の兵部の卿、軍事大臣だ」
「運命さ。已むを得ざる状況で国を創らざるを得なくなった。たまたまその創成メンバーの一員だったに過ぎない」
「伝説だ。
神聖イ・シルヴィヱI.Syllviwe帝国の侵略を撃退した、この世で唯一の存在」
「それも運命だ。正義は勝たなければならない。神の思し召しによって、たまたま正義の側にいたに過ぎない。
第二百四代教主にして第五十八代絶対神聖皇帝アーガマノンは全世界を物的力で統一することこそ眞実義の実現であると称するが、間違いだ。それが証された」
「そうかもしれない、そうでないかもしれない。この世は一切不可解だ。だが、現実はある。偉業であることに変わりない。
考えるまでもなく、彼の国がどれほど強大であるかを知らない者は、この北大陸(ノルテNorte)にはいない。いや、今や東大陸(エステEste)でも南大陸(スールSur)でも怖れられている。新興の西大陸(オエステOeste)ですらでも。
昨今は神聖帝国の傀儡政権が統治するジロード大公国をつかって聖エルロイペ王国への戦争を始めている。
いずれ、聖王国も、イ・シルヴィヱの傘下に入ってしまうのであろう。まるで、蝕まれるかのように、この北大陸(ノルテ)の地図は神聖帝国の皇旗の紋様に侵蝕されていく」
そう言ったあと、いらふは口をつぐんだままだった。その様子をフードの奥からじっと見ていたイースは再び口を開く。
「帝国にだいぶ恨みがあるようだな」
「いえ。別に。権力者も民衆も愚かさは同じ」
報復と戦略の混亂のなか、いらふの家族は偶然助けた同じ難民一家に売られ、いらふの家族であると漏らされ、虐殺される。いらふは後にその事実を知った。
そのことも既に聞き及んでいるイースは深く追求はしない。
「そうか。
以前から、神聖イ・シルヴィヱ帝国の軍隊がこの中央南部にあるさまざまな国の国境附近に軍を集めていて、緊張状態が継続している。(※北大陸のうち、中央南部と西端部と東端部の僅かな国々以外は神聖帝国領である。すなわち、大陸の八割以上が神聖イ・シルヴィヱ帝国の領土)
ちなみに、数年前だが、帝国の策略によって王政が斃され、連邦制となってイ・シルヴィエの傀儡政府が政権を牛耳るユヴィンゴUvingorr連邦では市民による革命が起こったが、却ってそれがイ・シルヴィヱ帝国軍の本格的な軍事介入の口実となってしまった。
周辺諸国は帝国軍の侵略を、それが軍事的であれ、諜報活動であれ、常に警戒している。我々は超大国に対抗するため、西端諸国と、こちらの中央南部西側地域とで連合し、ノルテ(北大陸)西諸国連合として大結束しようとしている。
基本的な合意が済んでいるから、軍の大臣は実務レベルの協議を始めなくちゃならない」
「知っている。
神聖帝国は昨今、東への活動を活発にし始めている。エステを攻めようとして、東征軍に力を傾けている。だが、西の国々が安心してよいレベルではない」
「そのとおりだ。見掛けは信用できない。彼らはいくつかのやり方を持っている」
いらふはまた黙ってしまった。しばらくして、
「扨。餘計な話をした。自己紹介する。
じぶんはリョン・リャン・リューゼン(龍梁劉禅、又は大華厳龍國)に属するが、生まれは島嶼国家コレイ(古羚Κόρη)のコライ(古雷:コレイの複数形。コレイ人の意)です。
両親は貧しく、地元でこどもたちに無償で学問を教えていたラオ師に就いて東世界では中枢の思想であるイア(非在)を学び、先生の勧めに従い、七歳の時に国を離れてリョジャド(龍蛇土)や大華厳龍國で武の修業をした。特に大華厳龍國の眞正義神奥寺ではイアの奥義と異端と云われた島嶼の古代武闘ジムイ(神彝)を学んだ。既に地元では廃れ、神奥寺に僅かに残されていた。その後、『非(イ)』の傭兵部門で契約した。契約は先般、期限が切れたが、じぶんは継続しなかった」
彼女の言う『非』とは、大華厳龍國最強の特殊戦闘部隊である。
命知らずの軍隊でその狂破非情、冷厳不敵、峻酷さは世界中から怖れられ、イ・シルヴィヱ帝国の『死屍の軍団(聖教のために命を棄てて生きながら死屍となった軍団)』に匹敵すると言われていた。
いらふ自身もアンギラの戦闘などさまざまな戦いに参加しているが、彼女のような外国出身の『非』は正規軍よりも格下となる傭兵部隊として別途に雇用契約されている。
失敗や裏切りは必ず死で報いられ、任期終了後は一応、自由の身ということになるが、その実状は秘密を厳守するために殺され、魂が身体からの自由を得させられてしまうというものであった。
「なるほど君はカムイ(神剣士)なんだ。神彝裂刀(カムイさきとう)の使い手か。
しかし『非』のなかで、カムイは少なかったのではないか」
「神彝裂刀はリョジャドやコレイなどの大華厳龍國の西にある島嶼が起源で、卑しく思われている」
「狭量な考えだ。だが、因習は人が思う以上に人を支配している。それは悪だが、根絶やしにはならない。自覺され難いせいもある。習慣を超えて客觀的視点で物事を見ることは、とても難しいことなのだ。しかし、コレイ生まれで、リョジャドで暮らした経験もあるなら、辛い思いもしたんじゃないかな。
数年前、『非』はリョジャドのアンギラ(リョジャドの一地方都市)で大きな戦闘を行い、市民も含めた多数の犠牲が出たと聞く。
アンギラのリョジャド人は市民もゲリラ戦をしたが、コレイ出身の外国人傭兵部隊や超特殊部隊『非』の容赦ない襲撃によって殲滅され、非戦闘員にも多くの犠牲者が出た、と」
いらふの碧の眉毛は顰められ、ペパーミント・グリーンの双眸がモス・グリーンの睫毛に深く翳された。こども時代をリョジャドで過ごした身である。幾人かの知人、友とも言える人たちがいた。その人たちの死を知らされ、かつ、リョジャド人の恨みを買わざる得ないことをし、又、彼らからの恐るべき無差別の報復もあった。
「さまざまなことがあった」
いらふのその言葉以上にイースは言及しなかった。
コレイ人(コライ)の国にも、あの恐るべき殺戮神があらわれたのだ。リョジャド側に雇われたその悪鬼羅刹は戦闘員のみならず、非戦闘員すらも無差別に殺し尽くした。女もこども容赦しなかった。悉く斬ったのである。多くの家族が難民となった。いらふの家族も村を焼かれ彷徨う。どうにか逃げ果(おお)せていたが、いらふの家族であるという情報を漏らされ、殺戮の女神に虐殺された。
いらふは故郷のエディ村を巻き添いにすることを惧れ、追跡されぬよう、身を隠しながら迂回路を使ったが、それが時を逸することの因となり、家族の救出に間に合わず、血涙を流したのである。
なお、殺戮者は表向きリョジャドに雇われていたが、実際は、大華厳龍國に敵対するイ・シルヴィヱ帝国が資金を提供し、裏で動かしていた。いらふがイ・シルヴィヱを眞の敵の一つとする所以である。又、大華厳龍國もいらふから家族という弱点を剥がし、超絶特殊部隊『非』の完璧な一員とするために、情報をつかみながら放置していた。
いらふは想いを制御し、話を逸らす、
「結局、アンギラを始め、リョジャドはイ・シルヴィヱ帝国の占領下となった。実際、あまりにも犠牲が大きかったにもかかわらず、虚しい戦いだった。
二ヶ月前の戦では、一時的に、大華厳龍國は一地域(二つの県)を支配したが、それもまた、いつまた奪い返されるかわからず、情勢は不安定なままだ。
何と虚しいことか。奪ったと思っても、束の間。また奪われては儚く消えて逝く。そのたびに喪われる命。まるで、當たり前のように喪われて逝く。生とは、何と儚く虚しいものであることか」
イースは決然とした表情で、
「闘い続けるしかない。不可能な望みであっても。まずはアカデミアの守護と天敵の始末だ。いらふ、君とは契約が成立したと思ってもよいか」
「むろん。天の仁義にも適い、怨みに苦しむ数多の霊の鎮魂にもなる。名も知らぬ人々の魂を慰撫しよう。じぶん個人の復讐ともなるならば、なおさら。
じぶんは外国人傭兵部隊『非』の雇用契約が切れて自由の躬。この仕事を引き受けるにあたって、大華厳龍國の何かに抵触する懸念はないだろう。むしろ、彼らにとっては好都合、少なくとも、差し障りがないと考えることは明らかだ。この仕事は死を意味する。
彼らは私の死を願っているはずだ。殺す手間が省けたと思うだろう。それだけだ」
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