第12話 憂いに翳された濃い栗色の双眸のダルジェロの解析學
哲学の授業はなかった。国によっては哲学を第一の学としている国もある。
その次に好きなものは、歴史だった。歴史の授業はある。その流れで、政治学や国際情勢などに興味を持つようになっていた。大物質主義が台頭する理由を彼なりにも考えている。実利が尊ばれるからであった。それは経済ばかりではなく、医療も大きい。
次の時間は体育の授業だった。ダルジェロの嫌いな時間だ。
大人になれば、男は胸を覆うほど顎鬚を蓄え、女も荒々しく波打つ髪を長く伸ばし、いずれも太い骨格、隆々たる上腕、厚い胸板、巨躯を誇る肉体を得る。
そんな民族にとって、武芸やスポーツの授業時間は貴重だ。床体操やレスリング、短距離走や砲丸・円板・槍投げ、馬術、木製剣による模擬試合、これはスポーツであり、武芸のうちでもある。だが、どれもダルジェロにとっては同じだ。
色白で、暗い表情に浸された、少女のように華奢なからだの少年である彼にとっては。いつものように憂いのものおもいに翳された濃い栗色の双眸。
団体球技では、いつもぼんやり彳んでいた。なぜか力が入らないのである。好きな女の子の前に立つように。意識が霞んで、何をしてよいか、左右すらもわからなかった。
「ぼっとしてんじゃねえ」
「ダメな奴」
「迷惑だ」
「いつもあれだよ」
「ふ。気にするなよ、人それぞれさ」
「あはは。そうかもな。でも、頑張っている奴らに悪いと思わないのかな。情けない奴、僕が嫌なのは身勝手さだ」
悔しくない訳がない。
だが、何も言えなかった。彼らの言い分が尤もであると考えたからである。
それは理性的な客觀性を装った自己保存の本能だ。じぶんが悪いということに逃げている。それもわかっていた。でも、そうしなければ、納得ができなかった。落ち着く場所がなかった。
やっとのことで、ぼうっとした白昼の時間が終わり、昼食のため、校舎に戻る途中の水飲み場、四番目にならんだが、いきなり亂暴に突き飛ばされた。
「お前が飲むんじゃねえ、ダルジェロのくせに」
「小便でも飲んでろや」
たちまち、七、八人が前にならぶ。
ただ、諦める。
勇武が尊ばれ、自己主張を争わせることが眞の解決であると信ずる世界で、謙譲の美徳は通用しなかった。
力を誇り、美を誇る。
男の子たちは皆、騎士になるのが夢だった。輝かしく武装して凛々しく、戦争で勇気を示し、武威を身に帯びて尊敬され、誉れで燦然と世界を照射し、身に栄光を雲霞のように漂わせ、美しくなる。皆それが夢だったが、ダルジェロにあってはそれほどでもなかった。
「一人の武は嗜みとしてはよいが、力としては虚しい。運命を決すは叡智だ」
むろん、そう考える者は彼のみではない。
たとえば、「人それぞれさ」と言ったアレクサンドルもそのうちの一人だった。
個人の武技の卓抜よりも、戦術や戦略を学ぶ、将たる鍛錬をすることの方が現実的であり、それをアレクサンドルは特に好んだ。だが、そのためには、将にならねばならず、将となるためには、家柄か、武人として認められるかしなければならなかった。
アレクサンドルは高貴な家柄であったが、血統のみを根拠に将となることをよしとする性格ではない。眞の英雄への憧れ、眞の武人たらんという憧れがそう渇望させるのである。実際、その渇望はダルジェロにすらもあった。級友たちの間でも、最近もっぱらの話題は、たった二人の傭兵隊、殉眞裂士清明隊だ。ゴルガストの丘の戦いで二千の兵を殲滅した。
「話に聞くとおりだな」
「何がだ、ジョルジュ」
「岩だらけだ。この丘は頭骸骨みたいだし。ここに來る時、その洞が眼窩のように見えた」
「あゝ、初めてなのか。君のような歴戦の猛者も、ここに來たことはなかったか」
「転戦して三年以上になるが、初めてだ」
「ふ。どっちにしろ、君には関係あるまい。見たまえ、二千三、四百というところか」
「そうだな。経験から言って、自分独りでも対処できる数だ」
髑髏の丘と呼ばれるゴルガストで、ニッケンハイム卿の兵三百は領土の境を廻ってゼグムント伯の兵二千四百と戦わざるを得なくなった時、殲滅勝利を条件に、一人につき八十八万八千八百八十九万ドラクマで殉眞裂士清明隊と契約した。一ドラクマは〇.七五米弗(ドル)である。
『霓の稲妻』は一度に数十人の戦闘能力を奪い、『銀月の剣』もまた数十人、『太陽の弓』はミサイルのように騎馬隊を粉砕した。城へ逃げた伯爵を追い、城壁を龍馬で登り、城内で伯爵を拿捕し、騎士や兵士を殆ど斃した。非戦闘員は一人も怪我すらさせずに。
ゼグムント伯爵家は滅亡し、後に王からの咎めがあったが、莫大な賄賂を以て懐柔し、すんなりと伯爵領を王家と折半した。
ニッケンハイム卿は一兵も喪わずしてゼグムント伯のジーク城すべてと広大な領土の半分を手中にし、殉眞裂士には依頼が殺到した。報酬は吊り上がる一方であった。
「凄いよな」
「かっこいいよ」
少年少女たちは憧憬する。そういう国柄だ。民族性だ。
だから、多くの者たちは、男女を問わず、輝かしい肉体を、力を、技を、武人たる精神を、勇気を養うことに励む。そして、殆どの人間はじぶんかどれほどそれらを身につけたかを露わに顕わして誇った。誇り、自信、自己主張、戦国時代の荒武者のように傾いた行為も好まれた。練習用の木製の剣にも、凝った意匠を好むのも、その一端である。
アレクサンドルの木製剣とその鞘の彫りは美事なものであった。
武たることが美であり、勇たることを善とするふうが国中にある。
「でも、やはり、僕にはそれが眞だとは想えない。でも、何が眞か、何が僕の感覺にヴィヴィッドか、それはわからない。
たぶん、それはある。あるけれども、何であるかがわからない。わからないけれども、ある。だから、欲しい。欲しがる理由はわからないけれども、心が強く求めている」
じぶんは何者なのか。なぜ、他の人たちと異なるのか。
級友たちからバカにされ、軽んじられ、侮られ、嘲られ、蔑まれ、謗られるたびに、いつも考えざるを得ない。止められなかった。それが人の自己肯定=自己保存の習性だ。
いつも欝悶とし、欝悶とすることが鬱悶を深め、悪循環なことを意識していても、どうにもならなかった。明るくならなければならない。そう考えて焦る。でも、どうやって?
帰りたくない家に帰る途中にも、夕日を長々と浴びながら、考えていた。
ふつと気がつく。
足下にブリキの空き缶が転がっていた。丈の短い、円筒型をしている。鯡の缶詰だった。ラベルは酷く剥がれ、鯡の図柄が辛うじて窺えるが、殆ど残っていない。缶截りで截られ、牽き剥かれた蓋が仰け反り逸れ却り上がっていた。弧のかたちに止まったまま、僅か本体に繋がっている。なぜか鮮やかな露骨さが酷たらしく、逆さ磔の象徴のように想えた。
考えていたが、何をかはわからない。ぼうっと眺めていた。やがてつぶやき、
「君にも心が在るだろうか。……在るよ、きっと。僕たちとはまったく様式の異なる異次元の心があると想う。そして、悔しさとか、憤りとか、哀しさとか。ないと考えることは愚かで横暴な思い上がりだ。きっと、在る」
缶は沈黙していた。
「いや、じぶんと重ねて思い込みをしている。そう、人間的な、あまりにも人間的な思い込みをすることをやめよう。愚かだ。若者はいつでもじぶんの代弁者を求めている。それはとても愚かなことだ。理性に基づいて考えよう。
ロゴス? ヌース(νοῦς:神を源として流出する世界秩序的な叡智)?
異界の哲学者アナクサゴラスは原初の混沌をヌース(理性、知性、精神)が秩序ある構築へと正したと考えた。又同じく異界の哲学者プロティノスは一者(ト・ヘン)から流れ出たヌースによって萬象萬物が組み立てられていると考えた。
いや、理性って、何だ? 何だろう? わからないことだらけだ、いいや、わからないことしかない。そもそも、理が不明だ。
正解と考えられるような答を見つけたとしても、どう検証するのか。検証という手法は、なぜ、正解を保証できるか。正解とは、保証とは何か? あゝ、今さら何を。わかっているのに。未遂不收(みすゐふしう)※だ」※いかなる定も遂げず、いかなるかたちにも収まらない、等々。第一の眞究竟眞實義。
缶をそっと戻した。だから、存在なのかもしれない、と。ダルジェロは想う、ならば、理は、むしろ、秩序の破壊者だ。動かし難いものを揺り動かそうとしている。
「小鳥の囀りには言葉のような高度な意味はないと思う人の語りを小鳥は囀りと思うであろう。鳥から見れば、哲学など囀りでしかない。数多の世俗衆にとって、鳥の囀りがそうであるように。いずれも、どっちの理も空っぽな措定に過ぎない。自己超越がない」
ダルジェロの顔が翳った。「ということは、」と呟くように言い、
「空っぽな措定だと批判したこの決定も虚しい。それじゃ、まるで、躬らの尾を噛む蛇みたいだ、躬らを喰い尽くそうとする原蛇の円環みたいな、永劫の矛盾、永遠の未解決だ」
ダルジェロは皮肉な笑みを浮かべる。
「むろん、永遠未解決すらも、理の上での設定だ。だが、そもそも、理だからダメだというのも、理の設定だ。だから、決定が下せないというのも、理の設定だ。どうすればいい? 強いて言えば、未遂不收」
夕翳深い家に着いた。木蔦が繁茂する木造四階建を暗鬱な黄昏が濃く照らし、陰翳を底なしの漆黒と做す。継母の実家、リチャルド家であった。
「ただいま戻りました。ダルジェロです」
玄関を開けると、広い土間だった。右の扉は厩舎や牛舎に繋がっている。奥の扉が居住スペースであった。継母は調理場にいるに違いない。階段を上がる前に、調理場を覘く。
黒に近い茶色の髪を左右に三つ編みに編んで、その三つ編みの縄で後ろ髪を束ねた継母のフローラは大きな柄杓を手にしていた。湯気を立てた大鍋ではスープがぐつぐつと煮え、薪の炎がばちばちと燃えている。
作業台には首を切られ、血抜きされ、羽を毟られ、足を切られ、内臓を除去され、蒸し焼きにされた鶏の亡骸が十七ある。生存ための素材の再利用。強制的な素材化が屠殺だ。
農作業が終わっていないせいか、他の人たちはまだ帰って来ていないようだった。若い時から都会に飛び出していた継母は農作業が苦手である。だから、調理役だった。
「ただいま」
返事はしてくれない。父はいなかった。ここにいるのは継母と彼女の家族、親戚だけだ。
ダルジェロの父タレス・ソクラテノス・コギトーは不可思議な人であった。いつもおのれの想いに囚われ、何ものも見向きもせず、突っ走っていた。ダルジェロの母の死も彼を止められず、数年して情熱のままに恋し、尠しの思慮もなく、再び婚姻するも、一年と経ずに灰色の長いマントを巻き、眞理を求める旅に出て、流浪し、消息が絶え、行方の知れぬ人となってしまった。
継母は再婚した。親戚の眼もあって、嫌々ながらも、やむなくダルジェロを引き取った。
前妻の子とは言え、養子縁組をしたので、引き取ることは義務である。だが、ダルジェロはその性格上、継母の温情と捉えて(そう思わなければ辛いからでもある)感謝していた。じぶんが餘計者でしかない。そのことはよくわかっていた。
「僕は誰からも愛されていない」
父は生母の死を説明してくれなかった。継母は「お前の母親はお前を捨てて去ったのさ。お前は罪深い子だ。せめてここで尽くして罪を償え」といつも言った。母から愛されなかったこと、それが自分の罪のせいであることがダルジェロを痛ましく傷つけ、心の奥底に擦り込まれた。
「僕は存在してはならない、罪深い存在だ」
屋根裏にある天井の低い物置が彼の部屋であった。食事の時間まで教本を読む。
かなり古いおさがりのため、ごく稀に字句や内容などの些細なところに違いがあった。それを知っていても諦めている。じぶんは実の母にすらも愛されなかったのだから。
食事の用意ができても呼ばれないため、いつも推定して降りる。
ダルジェロの前にならぶ料理は他の家族より尠ないか、劣っているか、別メニューであった。他の家族とは、母方の曽祖母や祖父母や伯父や伯母や従兄弟たちである。
食後、皿洗いをしてから屋根裏の部屋に戻って、考え込む。
彼は三歳頃には、既に思索好きであった。思考だけが翼だった。どこまでも逝くことができる翼、永遠の彼方まで遥か無限なる自由の飛翔である。すべてから解放される道を既に見つけていた。
いつも當たり前を當たり前に納得することができず、言語や概念では言い難い、感覺的とも言うべき、根源的な疑問を抱く性癖がある。その疑問が解けるまでは、どこまでも反芻して考え抜き、やがて、それが理論を超えた、或る種の境地のようなものに至って氷解する時、エクスタシス(脱自)に達した。
その解放感たるや喩えようもなく胸がすく感覺と言うか、澄み渡ってかろやかで、無際限な青空のようにすがすがしく、まったく縛りや重みがない、感覺性もない、途方もない自由であった。
あまりの壮大爽快さで時間が止まることさえもある。その静止の寂たるや宇宙の炸裂ほども凄まじいものであった。あらゆる罪障から赦され、天空の霊にも近しくなったかの崇高を覺える。不遜の錯覺とは思いつつも。
ただ、それは数分か十数分しか続かなかった。
しかし、エクスタシスを欣求することを止められない。魂からの希求であった。今も、まさにその境地に達するための思考に耽っている。空き缶のことを想い出していた。考えないで、ありありと想い浮かべた。そういうやり方を心が欣求していたからだ。声に聴従した。エクスタシスが來た。何という快さか、体から重さがなくなった。身体が解放され、一切の重壓・負荷・緊張・気遣いがなくなった。束縛がなくなり、微小な刺激も霧散し、身体への感覺が失せ、拡がり、きよらかな、無風の蒼穹のように爽快になった。あゝ、かろらかなること限りなし。絶空、無すらも超える。今まで何と重くて狭い苦しさのなかにいたことか。母にも父にも愛されなかったという疑問に苦しめられ続けていたことからも、解放され、価値を信じて生きることの苦しみからも。手足を眺め、周囲へ視線を廻らせ、
「平常だ、凄いことだ、平常であることは、正気の沙汰じゃない、宇宙開闢が理由も原因もなく起こったとしても驚くに値しない。あゝ、過剰な自由、自在だ、超絶だ」
全身を包む燦然たる光が次第に収束し、長いエクスタシーから尠しずつ醒めた。顧みれば、言葉では語れない経験であった。神の言葉というものが在ることを知る。人間の言葉や論理は飾りでしかない。筋が通らないことなんて、何の問題も意味も存在ですらもないのだ。超越的な神の言葉は事実であった。
周囲を眺める。何も変わっていない。
木材がぼろぼろと崩れている木製の机を見遣った。捨てられていた木の机である。持ち帰って使っていた。
一個の朽ち缺けた木製のコップがある。今この一瞬は存在の言葉がわかる気分であった。ダルジェロは「倒れよ」と言った。辞儀をするようにころっと倒れた。尠しだけ残っていた水が零れる。
存在の言葉がわかっていたから、実際に倒れた。実在する眞理である。だが、すぐ喪われた。ただのダルジェロであった。だが、そのことが神の言葉である。それがわかっていた。偉大なる進歩、進化だ。進化した人。超人。
「あゝ、すごい」
これを躬につければ大いなるちからとなるという想いが一刹那、脳裏を過った。理や言葉ではわからない、理不尽である。無際限なありとしあらゆる宇宙すべてを垣間見たのだ。
朝が訪れ、登校する。路に数人の男の子たちがいた。
「あの鞄に一発で當ててやるぜ」
ダルジェロは鞄を持っていなかったが、教本数冊を一本の紐で縦と横に括って交差させ、十文字に縛ったものを手からぶら下げていた。礫が當たった。少年たちは大笑い。
「あはは、當たってないよ、あれは鞄じゃないもの」
ダルジェロは思う、あゝ、そうか、それが言いたかったのか。鞄を持っていない僕を笑うためのジョーク。気がつかなかった、僕は鈍いな。そう思っただけだった。歩く。
男の子たちは憤った。口々に、
「すかしてやがる」「バカにしてやがる」
さっき投げた少年とは、別の男の子が、
「ちっ、何だよ、ダルジェロのくせに」
そう言いながら、石を拾おうとする。石が手から逃げた。
「あれ」
もう一度つかもうと屈むと、バランスを失って、そのまま転けた。
「何やってんだよ」
もう一人が礫を握る。
「ちょっ、ダルジェロの野郎、わかんねーよぉーだから、しかたねーや、頭にぶち當ててやるわ」
投げようと振り被る。その手から礫が零れ、頭に當たった。
「あ、痛っ、何だよ、これ」
ダルジェロは気づかぬふりで歩いた。世界と繋がっていると感じつつ。世界を知っていると感じ、事象のすべてが予め決まっていることを感じつつ。
実は人は誰もが既に宇宙のすべてを知っているという感覺。潜在無意識に無数の三千大千世界を含む全大宇宙世界を藏しているという感覺。
全大宇宙世界と繋がっているとも。この意識が全大宇宙世界から湧き出でているとも。絶空の世界は何であってもおかしくはない。
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