第15話 『龍肯の聖剣』と聖觀自在菩薩 そして、ユリアス 於(おいて):北嶺の聖イヴァント山
扨、その七、八日ほど前。聖なる白い神象の聖堂。
その周囲は純銀色の峻嶮な岩、急傾斜、絶壁、純白で、さらさらの雪、純粋な空気しかない。乾燥した過酷で非情な山脈の高みの世界。見上げれば眞っ青な濃い蒼穹。
眞理しかあり得ない。生存は根絶やしにされ、生命しか存続できない。維持は死し、超越が生きる。純粋のみが必要で、固執は滅び、解脱が永劫を奏でる。
そういう環境のなかで『龍肯の聖剣』は成長し、もはや石などではありえなかった。燦然たる拵えの鞘まで備えた立派な長剣になっていた。
とは言え、イユとイリューシュとアヴァは相変わらず、平和に暮らしていた。白い神象の骨の柱と梁、毛皮の屋根と壁に囲まれて。雪積もる急傾斜に。
ここに來てから最初の二、三日は乾燥した筋繊維を燃やして暖を取り、雪を溶かして尠しずつ食べて凌いだ。
「ふしぎと空腹が辛くない」
呑気なイリューシュすらもふしぎに思った。
外でザクザクと雪をふみ歩く音がする。かすかに。静寂のなか、小さな音も響く。
「おや、何だろう、こんな場所に、人が來ることができるはずがない」
イリューシュは訝って剣を手に取る。石の鉈は既に石の剣となっていた。龍文の鮮やかな剣に。
「何者かな。イユ、アヴァと一緒になかにいろ」
「うん、気をつけてね。イリューシュ」
毛皮をめくって外に飛び出す。正午だった。今日も晴天だ。数百メートル下方に人影が見える。一人だ。
イリューシュは凝視していたが、
「どうやら、沙門のようだなあ。武器も持っていない」
近づくと、手を振ってきた。銀色の長い髪を風に靡かせ、白い襤褸のマントをまとって、足下まで蔽っている。
「この峻酷な環境に何と軽装な。帽子も被っていない。人のことは言えないが」
相変わらず手を振ってくる。イリューシュも声を掛け、
「おおーい、お前は何者だー」
手を振るのみだ。息が切れて声が出せないと推測した。
「ええい、面倒臭い」
躬らずかずかと下っていく。目の前に立つ。
「誰だ」
ぜいぜいしているが、腰まである柔らかそうな銀色の長髪で、端正な顔つき。鼻翼(小鼻)に金の小さな環とおし、指輪やブレスレット、腕輪や首輪、もみ上げを小さく編み、そこに細い鎖を絡ませたり、金細工で留めたり、宝飾を瓔珞のように吊るしたりする、いかにも異国ふう(南大陸ふうだが、陽に焼けていない。白皙の膚だった)の若い男だった。
「ユリアス。ユリアス・オシリス・コプトエジャ。奇妙な名前と思うでしょうが、南大陸の出身です。古王国コプトエジャのことはご存知でしょう。
私は沙門です。この聖地で苦行中でした。煙が見えたので、ふしぎに思い、來ました。今日は極限の高みに、人跡未踏の、人間の極限にまで至ろうとしたのですが、悠々流れる細い煙を見て、落胆したところです」
イリューシュは腕を組んだ。若いと言っても相手の方が年上なであることはわかっていたが。
「思い違いも甚だしいぜ。
俺たちだけじゃない。白い神象の聖者もここまで來ていた。
はっきり言えば、悪いが、俺たちは、寧ろ、下って來たクチだがな」
「俺たち? 白い神象? いったい、何人、ここまで來たんだ」
「えーと、まずは白い神象だろ、それから、俺、イリューシュ。あとは、イユ・イヒルメ、アヴァ・ロキタ・イーシュヴァラ」
「アヴァローキティーシュヴァラ! 觀自在菩薩! まさか、いや、しかし…」
「おい、おい、イユもそんなこと言ってたな。ただの無口な、喋らない小さな女の子だぜ」
声が聞こえて危険がないと悟ったイユが出て來て叫ぶ、
「ねーっ、イリューシュっ、大丈夫なのーっ⁈」
イリューシュは振り向き、同じく大きな声で、
「おぉーっ、大丈夫だーっ! 今、そっちに逝くぞーっ」
そう言ってから、再びユリアスに向き合い、
「來いよ、尠し休め、話も聞きたい」
「わかった、だが、君たちは、なぜ、こんなところにいるんだ。苦行者には見えない」
「あたりめーだろ、さっきも言ったが、俺たちゃ、どっちかって言うと、下って來た。
別に好きでここにいる訳じゃない。気がついたらここだし、他に逝ってもマシな場所があるかどうかわかんないから、仕方なく居続けてるんだ。
だが、お前の様子を見ると、下界があって、そこには人間の世界があるようだな。
考えてみりゃ、神象も元は人間だったんだしな。アヴァだって、なあ。うーん、まあ、あの子は何だか天から降って來たみたいだったから、村や町から來たなんて、思ってもみなかったけどな。考えてみりゃそんな訳ねー。やっぱ、村か町があるって証拠だよな。
しっかし、マジで、この世界に他に人間なんかいないと思ってたんだぜ」
聖堂に戻って、四人が会す。
ユリアスは最初、アヴァを見て、あ然としたが、何か言い掛けて、すぐに黙った。
イリューシュが訊く。
「気になるか、アヴァが」
「いいえ、さほどは。觀自在菩薩の分け御霊か、若しくは、眼、又は耳でしょう」
「眼? 耳?」
「觀自在菩薩は觀ること自在の、又は自在天を觀ずる瞑想をする菩薩(菩提薩埵、仏の前段階)、或いは觀世音菩薩とも言われ、衆生の声を一切聴くとも言われます」
「わからんが、どうしたらよいんだ、何でここにいるんだ」
「何もしなくて良いのです。自然で。
なぜ、ここにいるか。それはわかりません。自由ですし、ここは聖域中の聖域のうちの眞の聖域なので、いてもおかしくはありません」
「うん、まあ、俺はいいよ」
「わたしだっていいわよ」
ユリアスは笑った。
イユも笑う。
ユリアスを信用できると感じ、彼女はさまざまな質問をし、彼の話を興味津々で聞いた。
「とても広い世界があるのね。
大陸を裂いたかのように中心にある大きな海、裂大陸海洋(マル・メディテラーノ)の東西南北に、四つの大陸があって、たくさんの国が栄えているのね」
「逝ってみたいですか」
尠しイユは考えた。
「いいえ。
興味があって、凄く見てみたい。けど、やめておくわ。何だか、怖いの。だって、わたしたちが以前にいた世界と同じだから。何もなくても、わたしはここが幸せだと思う」
イリューシュも考え、
「うーん、イユがいいなら、俺もここでいいかな。
ここにいるなら、眞理の世界にいるような気がするしな」
アヴァは、ただ、無表情に聞いているだけであった。
ユリアスは微笑み、
「あなた方は眞の聖者です。
貪瞋癡を厭離しているから。貪瞋癡とは、貪り・瞋り・癡かさです。貪瞋癡から解き放たれることが畢竟の哲学なのです。偉大な哲学であっても、死に際して狼狽してしまうようであっては口舌の徒です。そんな体たらくでは、眞実も宇宙の原理も現実の眞理も意味がありません。
畢竟、人の最大関心事は幸福です。裏返せば死です。幸福への欣求、死への嫌悪が執著の源泉、それは時間性に育まれる。時間性とは終わりが迫って焦る心が生むものです。幸福への希求。死への畏怖がそれを募らせます。
生存への執著には二つあって、個体の存続と子孫の存続です。性への執著は生存への執著のうち、子孫の存続を起源とします。
人の営みは幸福の希求と死への畏怖が動機です。非常な災厄に打ちひしがれ、その後に希望を見出して生活が甦るなど、希望なくして活力は甦らず、希望は生存への執著を源とし、是れもまた、時間性という死への畏怖に駈られています。諸哲学を生む原動力、動機でもあります。
人は生存を、幸せを希っているに過ぎない。死への畏怖でもあります。不死への願望は死への怖れであり、それが死を顕在させている。不死を欣求することは死への恐怖です。不死は解決ではない。死を生と觀ずべきです。
眞の不死、死の超越とは普通に死ぬことです。希わくば欣び幸せに死ねることです」
イリューシュはボケっとした。
「死と生は同じ? 無茶な。で、それが俺たちだって言うのか。いや、とんでもねえ話さ」
イユも尠し眼を丸くし、
「言っていることはわかる気がするけど、わたしたち、そんなに凄いことしてないわ」
ユリアスはまたも微笑み、
「そうですね。でも、あなた方のように貪瞋癡を厭離していると、最後には生死の超越へ逝き尽きます」
「ふーん、そんなもんか、俺はすぐ怒るけどな、はっはははは」
呵々大笑する。
以來、ユリアスからイユやイリューシュ、特にアヴァのことを聞いた苦行者たちが聖地の中枢として『聖なる白い神象の聖堂』を崇め、訪れて來るようになる。
参詣に來るようになった沙門たちが入れ替わり立ち替わりで、日に何度も供物を捧げるため、食べるものや衣服や防寒具などに不自由しなくなった。薪なども貯まる。
イユとイリューシュは苦行する沙門たちとのよもやま話のなかで、ユリアスが世界最古の王国であるコプトエジャから來た者で、王族の血を引くが、庶子で、継承権がなく、生來の性格から、眞理を求めて魂の赴くまま、自由に生きているということを知った。
イリューシュは思った。
「そんな人なら、古代の知識も相當あるに違いない。どれ、『龍肯の聖剣』というものが何なのか、觀てもらおうか。ふしぎなことにいつの間に鞘までできちゃってなー、ほれ」
見せられたユリアスは絶句した。すっかり刀剣となったそれはもはや人の細工ではない。
「これは。
いや、初めてお会いした時にも、イリューシュが手にしていたので、尠し気になっていたのですが。尋常ではない神聖を感じて。それにこの精緻精妙な造作。
確かに、これは『龍肯の聖剣』です。この龍文が眞究竟眞実義を叙しています。
かくあります、〝死が儼齋(いついつき)と雖(いへども)も、聖(ひじり)死を齊(ひと)しく生(せゐ)と觀(くわん)じ、生を死とぞ睿(あき)らめる哉。偉(おほい)なる龍の肯(がゑんじ)は際限(きはかぎ)りなく、空を絶し、理を牽き裂く。唐突(たうたつ)、未遂不收(みすゐふしう)〟と。
これは『遺されなかった古文書』に書かれている文章です。その一節です」
「遺されなかった古文書って何だよ、それって、存在してないってことなんじゃないのか」
「そのとおりです。ないことがその存在です。だから、『遺されなかった古文書』はどこにでもあります。遺されていなかった場所がその在処です。遺されていなかった場所なら、いつでも、何處にでもあります。よって、どの時代の言語でも記されるのです」
イリューシュは片方の眉を弓なりに上げた。
「何だ、その屁理窟は。全然わからん。だいたい、龍の肯んじって、何だよ。際限がなくて、空を絶するってどういうことだ? 理を裂くって、どうやったら裂けるんだ?」
ユリアスは笑った。
「畢竟、現実しかないという意味だと思いますが。ただし、現実というものはまったく定義がありません。真の真実は、ただ、生きて死ぬだけです。不定ですらもありません。
そういう意味では、特性の定めがない、というとことも一つの特性ですから、それも理窟の上では、矛盾してしまう。定めがないという定めもないということになり、どうしようもなくて決着がつかず、未遂不收な訳ですが……
つまり、龍のような肯定は際限ない偉大な肯定で、一切を肯定するから、必定、理不尽となる、理を牽き裂く、ということです、定説によれば。
しかし、これじたいが理ですから、理にダメ出しをしておきながら、理を援用して理窟を構築するということは矛盾、さような矛盾に陥る。だが、矛盾という事態もまた理が構築するわけですから、矛盾は成立しない、ですが、その不成立も理が構築するものでしかない。逝き着く處も未遂のまま、いかようなかたちの決・結びにも至らぬ、未遂不收」
「何で、〝唐突〟なの?」
黙っていたイユも訊いた。
「未遂不収ならば意味も理由も原因も根拠も由縁も由來も経緯も〝それ以前〟です。ただ、現実なだけです。亂暴狼藉、ドライで非情、朴訥なイレギュラー、〝唐突〟ですよね」
「いや、わからん。まあ、ともかく、凄えな、今更言うけど、こんなもんが読めるんだ」
「世界最古の神聖文字です。読める者も今や尠ない。我が古王国に於いても、僅尠です」
「あなたと会えたことが、運命のように思えてきたわ」
「聖剣の聖なる意向です。この剣じたいが眞究竟眞実義で、神(カム)《いゐあゑえうをお》の心臓(フリダヤ)の眞髄と謂れ、生命を持っていて、機を得て甦り育つと伝承されています」
「機?」
「そうです、今、あなたたちの手にある、これも一つの機です。だから、成長しています」
「まあ、確かに、とてつもなく変わっちまったよな」
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