第16話 虐殺の日 究竟窮極の非なる殺戮女神 聖剣と魔剣との刃華が宇宙開闢
あらゆる聖都の中枢である聖の聖なる学園都市アカデミアは都市周辺を天領として神から直截に授かっている。神授の天領を侵すことは何人にも許されない。
北嶺山脈はその北にあり(それゆえ、北嶺と呼ばれる)、修行者が集まる由縁であった。イノーグ山は南、南嶺山脈に属する。なお、東嶺山脈も西嶺山脈もある。四方を山脈の城壁にまま折られている。それぞれの最高峰は四万メートルを超え、ジェット噴射型の戦闘飛行機も迂闊に近づけない。
白髪のような白金の髪を持つ哲学者イマヌエル・アルケーは北嶺山脈のヒナタと呼ばれる拠点で、ユリアスと待ち合わせていた。
沙門たちが床のない、岩剥き出しの大部屋で雑魚寝し、次の拠点へ向かう。そういう施設だった。
食事は無償でボランティアにより、オムレツや炊き出しなどが用意されている。沙門はこの寒さのなか、粗末な服をまとうだけ、なかには素足の者もいた。眞咒を唱え、坐禅をする。一日穀物を一粒しか食べない者もいるとか聞いたことがあったが、この光景を見ると、ありそうな話だと思えた。経文の巻物を背負う者もいれば、からだ一つ何も持たぬ者もいる。哲学者には縁のない世界だった。イマヌエルも簡素な服を好むが、生地や仕立ては上質なものである。
物珍しい景觀をぼんやり見ていると、
「あ、何と」
彼が驚いたのも無理はない。イマヌエル以上に場違いな人物が來た。
蜥蜴の紋の武具を持ち、鎧兜の下の皮膚に螺鈿の刺青が彫られた巫女騎士イシュタルーナである。
野生の大羚羊に乗っていた。長旅の汚れはあっても疲れは見せていない。イノーグの山からは峻嶮な山岳や峡谷を越え、四千キロメートルの距離である。平地でも相當な距離だが、垂直な絶壁だらけの山岳地帯であれば、その艱難辛苦は想像を絶す。(アカデミア天領の広さは東西に五千キロメートル、南北に五千キロメートルの正方形である。なお、北大陸の面積は二億千九百七十一万六千平方キロメートルである)
彼女は大きな声で言う、
「どなたか、聖イヴァント山の聖者のところへ逝く道を教示してくれる者はおられぬか」
突然のこと、皆が状況を理解して反応を示す前に、イマヌエルは手を上げた。
「わたくしは友人とともに、これからそちらへ向かう者です。よろしければ、巫女騎士様、ご同道いたしませんか」
「忝(かたじけな)い。ご親切、痛み入る」
まだ少女と言える年代にしては厳かな言葉遣い、イマヌエルは何歳であろうかと考えつつ、微笑ましく思う。
イノーグの巫女は皆十七歳であった。巫女になった刹那に神によって、十七歳を保証され、それ以上、歳を取らぬのである。これは神の恩寵を受けた者すべての特徴で、保証された年齢以上には衰えないのであった。
無口な二人は殆ど黙ってユリアスを待っていたが、イシュタルーナが尠し尋ねた、
「不躾に伺うが、貴殿は沙門には見えぬが、ここには何用で。また貴殿の友とは」
「友はコプトエジャからわざわざ來た奇特な沙門です。
わたくしは、お察しのとおり沙門ではありません。哲学者です。友人ユリアスを頼って、眞理への探究の一環として來ました」
「さようであったか。奇特な志かと存ずる。理は廃れ、超越的な眞義が求められる昨今、古き価値に囚われず、進取の心を持つことは尊敬すべき立派なことであると信ずる」
「恐縮です。巫女騎士様は、どちらから」
満点の星空、ダルジェロは家を出て逝くことにした。
その日の夕方のことが原因だ。学校からの帰路、一人の少年が彼を突き飛ばし、周囲の五、六人が囃し立てた。一昨日の石礫に失敗した件で、少年たちは苛立っていた。凄い報復をしなければならない、するべきであると感じていた。
ダルジェロは相手を見たが、現象の架空を虚しく感じ、逝き過ぎようとした。それが少年たちの怒りに火をつけた。精神的な優越を見せつけられたように感じ、その行為をわざとらしくてあざとくて、嫌らしい行為と感じ、同時に自己の尊厳を傷つけられたように捉えて、逆上したのである。
もう一人が同じように突き飛ばし、その次が蹴り、その後は次々殴られた。倒され、馬乗りになって殴る者、その周りから蹴りを入れる者、馬乗りの者が退いても、次々殴る蹴る、石を投げ、棒で叩く、額が割れて血が流れた。
ダルジェロには怒りも恐怖もない。自分も彼らも現象に過ぎず、それは儚い。
そう想った時、力が機(はた)らいてしまった。
炎のような梵字の光輪が起こって眞咒をなし、車輪が轍を刻むように、少年たちの行為が自身に撥ね返る。激しい衝撃で昏倒した。
その夜、怪我をした少年の親たちが怒鳴り込んできた。継母は最初、何のことかわからず(惰弱なダルジェロが喧嘩などできるはずがないと思い込んでいた)、話がわかってくると眞っ赤になって怒りを封じ込め、ただ、ダルジェロは責められるままに責められた。
「呪わしい。何と言うことか。悪魔の子だ」
「このアカデミア天領に悪魔が。世も末だ」
そんな言葉も聴こえる始末である。
ダルジェロは呼ばれ、素直に謝ったが、親たちの顔には憎悪と恐怖があった。これほど騒がれて、泣くことも怯えることも怒ることもなく、素直に静かに謝るダルジェロに根源的な畏怖を覺えたのだ。
「神父様に明日、話をする。追放か、悪魔祓いだ」
騒ぎが一応終わった深夜、ダルジェロは家を出ることを決した。神父様に言っても何もわかってくれないだろうし、わかろうともしないであろうことは明らかだった。寧ろ、もっと怪我人が出るかもしれない。それが怖かった。
古くて捨てるしかない防寒具を重ね着し、長靴に藁を詰める。凍える寒さだった。人家を離れると、月明かり皓々と、路は凍った雪。
まず学校の寮に忍び込んだ。施錠のないところを知っていた。物置に丸まって寝て早朝、アルダの村へ向かうことにした。
アレクサンドルの館が村の近くにあるからだ。そこに逝こうと思っていた。
未明の凍える朝、学校の敷地を出た。凍った雪を踏む。
舗装のない細い森の道をとぼとぼと歩いた。心は軽い。
「沙門にでもなろうか。何だか、悠々壮大な気分になってきたな。沙門でなければ、憧れの騎士に、いや、さすがに、それは無理か、生まれ育ちが卑し過ぎる。傭兵ぐらいにしかなれない。いや、いや、それも無理、体力も気力もないよ」
静かだ。黎明の予兆が感じられた。その時、遥か遠くから、激しい人の悲鳴、絶叫が。
「え、何事か」
胸騒ぎ。恐ろしい予感。不安と動揺が交叉する。
「いや、心を鎮めなければ」
からだの自然が機らき、おのずから丹田で呼吸した。あゝ、人は予めすべてを知っている。そう感じた。臍下に青白い炎が觀ぜられ、黄金の燦々が全身に暖かく広がる。
「頭でする悟りは実効性に乏しい。悟りはからだですべきだ。諸考概は柱のない屋根みたいに虚しいから」
考えないと言いつつ考える。
「でも、なぜ、虚しいのに存在するのか、思考は。からだの思考が正しいのに。いや、虚しいことがあっても良いのだ、自由なのだから、絶空は何ものでもなく、何ものにもとらわれない、とらわれないということにすらも」
黎明に北嶺が輝く。崇高な美しさだった。あまりの光景に絶句する。
虐殺体があちこちに転がっていた。女こどもすらも。あまりに惨たらしい。
どこからともなく火が起こったのか、すべて燃え尽きて煙が上がっていた。
ダルジェロは愕然とする。茫然自失であった。
日が昇って、少しずつ明るくなって逝くなかに、眼は慣習的に平穏な村の光景を求め、期待していたが、戦慄の光景が次第に、はっきりとして逝く。住処の残滓があるだけであった。アルダの村はなく、凄惨しかない。
「そんなバカな、あり得ない、何てことを、あゝ、神様、あり得ない」
アレクサンドルの家へ向かって無我夢中で走った。そこも破壊されていた。亡骸のなかにはアレクサンドルも。
「お、おお、そんな、非道い、こんなむごいことが」
ダルジェロは嗚咽し、膝を地に突いて激しく慟哭した。だが、直ぐに理性が甦り、誰かに知らせねばと思う。アキタに戻るか、いや、ウラ村の方が近い。走った。無我夢中で。
山岳地帯、狭い道に岩ばかりだが、道の半ばで、人の気配に慄く。岩陰にいた。
よく見れば一人の幼い少女で、幼女とは言えぬが、少女と言うにはあまりに夭(わか)い。頬には泥土と煤灰がつき、髪はそれらで固まっていた。
表情は凍てついて、まったく感情が窺えない。氷雪の坂道の途中だった。傍には斃れた沙門の遺骸がある。
「君は、いったい。もしや、アルダの村の子?」
少女は応えなかった。まったく無表情で、ダルジェロの存在に気がついてすらいない。
「きっと、村の子だ、激しい精神的な衝撃で、一時的に、無感情になってしまっているのかもしれない。沙門はこの子をここまで連れて來て力尽きたに違いない。
あゝ、このままにして置けない。さあ、逝こう。ウラへ」
「イノーグの郷。申し遅れたが、わらわはイシュタルーナ・イノーグという巫女騎士」
「おゝ、それではイカルガーノ王国の。大変なことでございました。ここで、生きておられるイノーグの方とお会いしようとは。
こちらこそ、申し遅れました。イマヌエル・アルケーです」
その時、ユリアスが來た。
表情が緊迫している。
「あゝ、イマヌエル、待たせた。大変なことになったぞ。
おや、こちらは」
そう問われ、十七歳の少女とは思えぬ厳しさで、
「イシュタルーナ・イノーグと申す。こちらのイマヌエル殿がイヴァントの聖者のところまでわらわが同道することをご了承くださった」
ユリアスは戸惑いを浮かべたが、
「なるほど、平時なら、まったく差し支えないのですが」
「と言うと」
イマヌエルが問うた。
「アルダの村で虐殺があった」
ユリアスが苦渋の表情を浮かべてそう応える。イマヌエルは信じ難いと言う表情で、
「アルダで。そんなバカな。信じられない。このアカデミア天領、しかも、あんな平穏な村で。抗争とは、ほど遠い、人里離れた山奥だ。何があったと言うのか」
その言葉にうなずきながら、イシュタルーナも、
「わらわも昨日の夕に逝き過ぎたが、その時は何事も」
ユリアスは巫女騎士の言葉の終わりを待たず、
「未明です、今日の未明。全員虐殺されたらしい」
「虐殺、平民が。信じられない」
二人とも衝撃を受けた。イシュタルーナは唇をきつく結び、眉を寄せ、
「そんなことをする者は」
イマヌエルもうなずいて、
「ふむ。一人しかいないな」
「しかし、なぜ、同道が危ぶまれるのか」
イシュタルーナはそう問うた。
ユリアスが苦しげな厳しい顔で、
「虐殺の直後、まだ息のある者がいて、托鉢のために訪れた一人の沙門が聞き取ったとのことです、イヴァントへの道を確認していたと」
イシュタルーナの表情がさらに嶮しく、決然となった。
「ならば、なおさらのこと、逝かねばならぬ。たとえ、独りであっても」
アルダの虐殺、凄惨な悲劇、無辜の民の犠牲!
その報はイヴァントに向かうアンニュイら一行の耳にも驚きの叫びとともに届いた。ジン・メタルハートがあらわれた、と。目撃者はいたであろうが、目撃情報は伝えられていない。
「逝かねばならない」
寸暇を置かずに向かう。騎乗でジョルジュが問うた、
「なぜ、奴は無辜の民をも殺すのか」
「鎧だ」
アンニュイが暗鬱な顔で応える。
「呪詛への利用、古代の呪術だ。怨霊を身にまとって鎧としているのだ」
さすがのジョルジュも驚嘆に震え、
「何と恐るべきことよ。信じ難い。おのれは呪い殺されないか」
アッシュールも知っていて、うなずきながら、怒りを噛み殺すように言う、
「奴の魂魄の異常なる強さゆえであろう、普通なら取り憑かれ殺される。なぜ、神は赦し給(たも)うか。神を疑う者の心もわからぬではない。心弱き者が無神論にかぶくということも」
ジョルジュも憤りを籠もらせて唸る、
「いや、さりとても憎き哉」
彼らは巫女騎士に逢わんとし、イノーグ山へ向かったが(アッシュールも尾いて來ていた。イシュタルーナには興味があるとのこと。ちなみに、ジョルジュが素直に仲間になりたいと言えよと言うと、怒り出したが)、龍馬を駈るも虚しく、ラフポワの説明ですれ違いとなったことがわかり、急遽イヴァント山を目指していたところであった。やがてアルダに着く。十数軒の集落から煙が上がっていた。人の姿は見えない。
「一応、様子を見よう。既に誰か対応しているかもしれぬが、救える人がまだいるかもしれない。先ほどの沙門は全滅と言っていたが」
「時既に遅しとは、このことか。もはや、なせることは何もないようだな」
アッシュールが死骸に慣れた透徹した非情の面に、かすかな憐れみを浮かべ、言った。
アンニュイは眉を顰め、
「この先にウラという村がある。そちらは無事か、どうか。恐らくは」
ジョルジュが訝しがるよう眉を顰めて、
「恐らくは?」
「さっきの沙門の言葉が眞ならば、奴は聖地に向かっている。とすれば、聖なる域の清浄に負けぬよう、さらに、怨霊を集めるであろう」
アッシュールが凄まじい表情をする。
「なるほど。同じことが起こるな」
ダルジェロが着いた時、今まさに虐殺のあった直後のようであった。
血は湯気を立て、朝餉の支度が火災へと変わろうとしている。
「そんな、そんな……」
少女の表情が一瞬、震えて凍りつく。
ダルジェロはその二つの眼を手で蔽い隠す。
「見てはいけない」
しかし、そう言う彼の体も震えて止まらなかった。絶望。どこにも逃げ場がない。逝く場所がない。根源的な畏怖がからだの奥から全身を襲った。
「いや、だめだ、落ち着け、ダルジェロ、落ち着くんだ、震えるな」
荒々しく呼吸し、心臓の暴れを抑えようと焦る。
考えた。戻るべきか。アキタまで? だめだ、遠過ぎる。それにアキタが同じではないと、なぜ、言えるか。ヒナタが眼と鼻の先だ。平凡な村人より、沙門たちの方が頼れるかも。心を決す。生きることは選択だ。どこにも礎がなくとも、常に選択を強要される。
かくして、イシュタルーナとイマヌエル、ユリアスはヒナタから聖なる白い神象の聖堂へ向かい、ダルジェロと少女はウラからヒナタに向かい、アンニュイとジョルジュ、アッシュールはアルダからウラへ向かうのであった。
イユとイリューシュとアヴァは朝食を終えたところであった。
「何だか、悪い夢を見たぜ。いつもの夢だ」
「どんな夢なの?」
「いや、やめておこう。気持ちのよい光景じゃない」
「そんなふうに言われたら、なおさら、気になるわ」
「やめておこう。妙にリアルで、何だか嫌なんだ」
「わかるわ、本當になりそうな気がするのね」
「かもな。さあ、もう、いいぜ」
そう言いながらも、イリューシュは、
「俺たちがかつていた異界、娑婆世界って言うのか(沙門たちが以前、話していた娑婆世界のことさ、俺たちの朧な記憶と、何となく一致していた、あれのことだよ)、何なのか、まあ、何でもいいけど、そこにいた時よりも、もっと以前に、俺の人生がまだ他にもあって、前世の前世みたいなものかな、そこでその、夢に觀たようなことがあったような、奇妙な感じなんだ」
イユは何だかぼうっと感覺に陥った。純白の山嶺の上に広がる、遥かな濃い青い空を眺めて。アヴァの双眸が烈しく燦めく。イユが我に返り、
「な、何なの?」
イリューシュは白い神象の聖堂の毛皮の幕をめくって外へ出た。聖剣を握って。
「あ」
急傾斜の雪上の、彼らよりも高い位置の岩に立っている人物がいる。鎧兜の女武者のように見えた。
めらめらと炎に飾られる大きなツノのある黒い兜から、あふれ出して腰の裾辺りまでいたる漆黒の髪を陽炎のように靡かせている。髪の毛の一筋一筋がおどろおどろしく、細い蛇のように眼があるように見えた。
兜の陰翳から煌めく爛々たる双眸は蛇眼のように瞳孔が縦に細長い亀裂であった。感情がなく、冷血非情の極みである。ふしぎなことに五、六十メートルの距離があるのに、はっきりと見えた。
手に持つは黒い鋼の剣、黒い龍が巻きつき、龍は黒い炎をまとっていた。見る者の血をも凍らせるほど怖しい魔剣『リャマ・ネグラ』だ。
二十四万五千年前に、大雷霆で砕かれた黒く巨大な霊岩ンギンゥグのなかからあらわれた剛剣で、巨岩は啊素羅神群の皇帝アスライが全世界(無数にある平行宇宙世界のすべて)を支配する眞言を煉熟させてできたものと伝承されていた。
剣身の鍔に近い部分に『非』の紋が入り、さらに彫られた蜘蛛と蛇蝎の紋、その周囲には血を吸って黒くなったと言われる呪いの石の象嵌で〝すべてを切り裂き、すべてを破壊し、すべてを無みし、すべてを否定する〟と記されていた。
二メートルを優に数十センチメートルは超える強靭な筋肉のからだから濛々たる瘴気に包まれ、凄まじい憎悪に歪んだ怨霊の顔がいくつも幻影のように浮かんでは消えている。
イユの悲鳴をイリューシュは背中で聞く。彼も生に根深く食い込んでいる根源的な死への畏怖を覺えた。
悪夢のような凶暴さを漂わせ、女戦士が、
「お前が『龍肯の聖剣』を持つ者か」
雲の上の蒼穹を背景に髪靡かせて、傲然と問うた。怯まずにイリューシュが口を開き掛けたため、慌てイユは、
「応えないで」
と小さく鋭く忠告したが、イリューシュは無視し、
「聖剣? 知らねーな。へ、だがな、こいつがそれだって言うんなら、そうだろーよ」
聖剣を前に突き出す。それは精緻細密な透彫も世界最高の神聖な剣となっていた。女傑の眼がギラリと光る。
「おお、それぞ。初見であっても、見紛うことなき『龍肯の聖剣』よ」
「ほう、そうか。だがよ、だから、何だってんだ。お前は、何者だ」
禍々しき女戦士は蒼穹に轟くように大音声した。
「ジン・メタルハート、我が名は、ジン・メタルハート!」
いつ頃から、この歴史上にあらわれるようになったか、古参の老兵のなかにも若き頃に見たと言う者もいる。又、どこで生まれ、育ったか、まったく知られていなかった。いや、普段、どこにいるか、住む地域、属すべき民族・国家・宗教もまったく知られていない。
知られているのは、ただ、その尋常ではない強さであった。百万の正規軍隊すら彼女には及ばないと言われる。
現に、各戦場で数千数万の軍隊を圧倒的な強さで撃退、又は殲滅した。そのなかでも最大のものは神聖イ・シルヴィヱ帝国戦であった。
三年前、ジン・メタルハートはイ・シルヴィヱ帝国軍の歩兵二十万、地対地砲二万、旋回式砲台附キャタピラ戦闘車輛七千台、ジェット噴射式の戦闘飛行機二千機、総勢四十四万人の軍隊と独りで戦い、七日間で二十八万人を屠り、撤退させ、史上初めて絶対神聖皇帝に屈辱を与えた未曾有の戦争である。
又その残虐さは類を見ず、かつて、逝く場のない二十万の難民がハン・グアリスの大平原に集まって、遮るものなき平原で絶望的に寒風に晒され、途方に暮れていた時、突然、あらわれたメタルハートが一人残らず殺戮し尽くしてしまった。
半日の間、身を隠すものもない平原を追い廻し、一を数える間に二十人、三十人と楽しむように斬殺したのである。
そのような恐るべき敵とは知らず、イリューシュは前に立つ。とは言え、尋常でない殺戮の闘氣に壓倒されてはいた。
メタルハートが怪鳥の叫びを上げてコンドルのように舞い上がる。隼のように速く、鷹のように鋭く襲い掛かって來た。
イユの悲鳴が響く。
一飛びでイリューシュの眼前に迫った。振り上げた剣を、土石流のように振り下ろすメタルハート、空気を切り裂く摩擦で酸素が燃える。
流れ星のように、墜ちる隕石のように、大山をも破壊しそうな勢い、烈火と轟音とともに怒涛のように。死。それ以外、何が考えられよう。
時が止まった。中途のまま、静止。何をすればよいか、からだの方が明瞭にわかっていた。機らきが機らく。
何も考えていなかったのに、イリューシュは剣の柄を両手でにぎって、頭上で斜めに構え、黒い炎の龍剣を受け止めていた。
受け止められている。もの凄く重かった。だが。
受け止められたのである。大魔王神の怒りのように凄絶な霆(いかづち)を。
奇跡でしかなかった。
靁(かみなり)のごとき轟音で、大磊(だいらい)が瓦解するかとも感じられる怒濤の勢いを、人の力で止められるはずがない。あり得なかった。
だが、たとえ、信じられなくても、現に、できていた。できたものはできたのである。できたとしか言えない。
いずれにせよ、史上初めてのことであった。全否定の黒い炎の龍剣と、全肯定の『龍肯の聖剣』がぶつかったこのことは。空前の出來事である。絶後かもしれない。
イリューシュは驚いていたし、次にどうして良いかもわからなかった。「畜生っ、死ぬっきゃねえってか」
死を決す。選択はなかった。死ぬしかなかった。この剛剣を受け止め続けられるはずがない。しかし、まかふしぎなことに、鍔迫り合いの状態のまま、現に、続いていた。何が何だかさっぱりわからない、すべてが。大いなる奇跡である。あるはずがなかった。
「ふぬぬぬぬっ」
メタルハートが力を込める。だが、メタルハートの方がやや押された。《いゐあゑえうをお》の神惟によって、大神威が機らいているからである。
とは言え、『リャマ・ネグラ』も啊素羅(アスラ)神群の大帝皇天神アサライが煉熟した剣、すべてを《非》によって超越すべく創られ、すべてを無みする大神霊威の剣である。
無際限なる否定と無際限なる肯定、陰の極みと陽の極みとは、畢竟の處、同じものである。双方ともかたちがなく、未遂不收、絶空である。
かたちなきゆえ、大普遍であり、大齊同であり、ありとしあらゆる一切すべてを網羅し、一切矛盾がない。全平行宇宙の一次元から十次元までの一切のそれそのものである。
萬象・萬物・萬事、ありふれ、平常(びやうじやう)、全世界である。
すなわち、全宇宙一切はこの時に開闢した、過去に遡って。開闢以前には時間が存在しない。時点はない。今であっても、未來であっても、〝とてもかくても候(どうあってもよろしゅうございます)〟※『一言芳談抄』 。
業を煮やしたメタルハートが剣を離し、間髪入れずに振り被り、炎滾らせ、渾身の力を込め、再び振り下ろす。その時、唐突に、アヴァが双眸を綺羅雲母(きらきら)と燦めかせ、眞咒を誦す。
「瑠禹叭牟(るーぱむ)舜若多(しゅーにやたー)舜若多(しゅーにやたー)瑛婆(えーゔぁ)瑠禹叭牟(るーぱむ)(色(ルーパン)は空(シューニヤター) 空は將(まさ)(正)に色)」
双眸の光が聖剣を荘厳した。
これによって『龍肯の聖剣』は神威を増し、『リャマ・ネグラ』と再びぶつかった刹那、もの凄い音とともに爆風を起こす。粉雪が飛び散り、足下の岩が砕け飛び、周囲の岩までも崩れて、死火山の火口のようなクレーターができた。
再び炎のような烈々たる鍔迫り合いだ。
イリューシュは徐々に押されていった。ジリジリと刃が鼻先に、炎で髪が焦げて頬が焼ける。龍が赤口を開けてイリューシュの喉笛を咬もうとする。
だが、その時、
「なまは ああるや いゐりゃぬ(聖なるいゐりゃぬ神に帰命し奉る、の意)」
その眞言が聞こえると同時に、刃と刃がぶつかる激しい音がし、銀色の光粒子が飛び散って青白い光爆が起こった。「うぬぬっ」 メタルハートが唸った。
背後から斬り掛かって來る者があらわれたのである。
しかし、この女傑偉丈夫は『龍肯の聖剣』と鍔迫り合いをしたままで、左の籠手で背後からの剣を見向きもせずに受け、防御の流れのまま、裏拳打ちで攻撃した。超人的な超絶の体技である。
冷血の蛇眼をかっと睜(みひら)いて振り返り、
「貴様、何者」
ひらりと後退して間合いを取り直す人は巫女騎士、蜥蜴の紋の楯と剣とを構え、刺青が憤りに滾って螺鈿の揺らぎ燦めきを強める。イシュタルーナは裂けるような烈眼で睨み、
「わらわはイシュタルーナ・イノーグ、貴様の悪行を天誅すべく、いゐりゃぬ神の大神威を授かり、この剣に霊威を宿して聖剣となし、成敗する者。
おんあもがゔぃろぉちゃなまはむっどっらまにぱっどぅまじゅゔぁらぷらゔぁるたやふうむ。清き剣を以て悪辣汚穢を断つ!」
振り被って、袈裟懸けに斬らんとするも、
「ふ、小賢しいわ」
罵倒とともに、いゐりゃぬ神の霊威を帯びた青白い光燦の絡む剣を刎ね返す。その勢いで反対側のイリューシュも弾き飛ばされた。
イシュタルーナはすぐに体勢を立て直し、再び青眼に構えた。尠し遅れてイリューシュも立つ。立ったが、どう攻撃したら良いかは相変わらず思いつかなかった。
「ふうむ」
左右を挟まれたメタルハートは動揺もしていない。寧ろ、虫ケラを見下すかのように見おろし、傲然と仁王立ちしていた。剣に任せるしかないとイリューシュは心に決す。
イシュタルーナが雪を蹴って神速で斬り掛かった。
「ふん」
神の威を宿す巫女騎士の蜥蜴の紋の剣、人の眼に捉えられぬ速さ。軽々と『リャマ・ネグラ』で払い落とされた。悪鬼のようなメタルハートには通じない。イシュタルーナを睥睨し、「ふ、喰らえっ、愚か者が」
またも防御と一体の攻撃、巫女騎士の剣撃を払い落とした流れのまま、今度は下から上へ斬るよう、魔剣で凄まじき速さと勢いとで払い上げる。
体勢の崩れていたイシュタルーナは転がって危うく逃れた。
その時、何かがイリューシュの視界の片隅を過ぎる。
地上スレスレに飛行し、メタルハートの背後で(雪を蹴ることなく)直角に折れて垂直に上がった。上がりながら剣を以って下から上へ、逆縦裂きに裂こうとする。まるでツバメのようだが、人間であった。
「神彜裂刀奥義、屰裂(げきれつ)」
いらふだ。刺青の化粧で囲まれた環のなかの宝石のようなペパーミント・グリーンの双眸をぎらぎら熾え立たせていた。
あり得ない速さ、あり得ない動き、あり得ないほど絶対必殺のタイミングであったが、尋常ではない身体能力と、異常な危機察知能力を持つメタルハートはあらかじめ知っていたかのごとく、又は八つ乃至十六の眼が四方八方にあるかのように、正確に後ろ手で防いで弾き返し飛ばす。弾かれ、まろびながらも、回転して体勢を直すいらふ。
「義に遵って、巫女騎士イシュタルーナに助太刀する」
三方から囲む。と言っても、イリューシュはどうして良いかわからず、剣に身を任せるだけであった。イシュタルーナといらふは眼配せし、意思疎通を図る。
イリューシュはそれを感じながらも、どうにもならず、居ながらも圏外の存在であった。
ジン・メタルハートは人類など眼中にないかのように仁王立ちし、一切を睥睨していた。
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