第3話 夢

 夢を見ていた。

 

 きよらかな白い光燦にあふれ広がる世界。恐らくは、光の速さをもっても、数千兆年はかかるであろう、空想にも描けない拡がり。人の知覚では、追いつけない。


 捉えられない。こんな広大さがあるのかと想うほど、怖ろしい広さ。上下左右前後も、無限のように思え、押しつぶされそうな、吸い込まれそうな、途方もない広さ。


 これが死の世界か。アンニュイは想った。


 さらに一際、強烈に輝く光が突如あらわる。


「あゝ、眩しい、眼底が光のダイヤモンドに刺されるかのようだ」


 しかし、まぶたを閉じることができない。


 その光はやがて人型へと収斂する。白麗なる女神があらわれた。

「我が名は、あゐりゃぬ・ぱるてのす・あさらい」


 その名に聞き覚えがあった。


 真究竟神なる啊素羅神(アスラしん)群。この最古神群を統べる、天の皇帝神たる彝啊呬厨御(いあれずを。又は古名を“いゐあゑえうをお”という)の⾂(おみ)に、亜沙羅偉(あさらい)という姓(かばね)の族がある。

 その族の⻑、阿朱羅亜沙羅偉(あしゅら・あさらい)の分御霊(わけみたま)である啊巸璃啊濡(あゐりゃぬ)女神だ。

 なお、その妹は、彝巸璃啊濡(いゐりゃぬ)⼥神である。


 女神は大聖堂の薔薇窓のステンドグラスのような眼をみひらき、星の海のような双つの眸(ひとみ)を燿かせる。

「ジャン・マータ。汝は至誠である。その本質精神は内部から外部へあふれ出て、その容姿に正しく表現されている。

 それは神の意志だ。神の言葉(ロゴス)だ。天地の理(ことわり)だ。

 わらわは、その心身の美しさを愛でて、汝に恩寵を垂れようぞ」


 そう言って消えた。


 気がつくと、氷雪の上に横たわっていた。痛みは鎮まり、相変わらず半裸であったが、血流が暖かく、気力は蘇っていた。傷口も心なしか癒えて見えた。

 立ち上がる。立ち上がれた。


 過酷な大山脈地帯の末端である。見上げた。聳える銀嶺が連なっている。状況は変わっていない。下山すれば、エルロイペに戻ってしまう。かと言って、高さが十数キロメートル、又は数十キロメートルにも及ぶ嶺を越えられるはずもない。

 標高一万メートル級超の山しかない世界であった。


 聖地アカデミア天領。この大山脈群の奥に聖なる学園都市アカデミアはあるが、選ばれた者しか逝けない。


 上にも下にも逝けないのならば、雪の急傾斜を横に進む。

「それしかない」


 しかし、体力はまだなかった。すぐに膝を突く。息が切れ、ぜいぜいと喘いだ。少し休んで進み、また休む。立ち上がり、進む。その繰り返しであったが、一キロメートルも歩いていないだろう。


 吹雪き始めた。あっという間に視界がかすむ。


「え?」


 驚いたのも無理はない。夢をまだ見ているのか。


 あるはずがない。


 数百メートル先に人影。吹雪に遮られながらもかすかに見えた。近づいて来る。

 虞(おそれ)も歓びもなかった。


 ただ、何かを知っているかのように待っていた。来た。


「ジャン・マータ。神に壽(ことほ)がれた者よ、汝には生きる義務がある。わしとともに来い。我が名は、アシータヴァ」

「アシータヴァ、聖者アシータヴァ、神仙アシータヴァ様……」

「しかり。さあ、逝くぞ」


 たちまち宙に舞い上がり、大山脈の嶺を越え、雄大荘厳な山脈群の中へ中へと飛翔し、断崖絶壁にあるわずかな岩棚に降り立つ。

「ここは?」

「わしの棲家じゃ。あれぞ」

 指差した方を見遣ると、絶壁に、人が入れそうな洞窟があった。奥に深く続いているように見える。


「こんなところで、どうやって生きていられるのか。食べ物どころか、水すらもない。火も焚けず、暖も取れない」

 老神仙は厳かに笑った。

「肉体を養う栄養は、食から摂るばかりではない。氣を錬成し、それを吸収して身を養う。

 例えば、岩じゃ」

 そう言って、絶壁に触れる。触れた手のひらが発光する。光が身体に絡みつき、吸い込まれるように消えた。


「どうかな」


 アンニュイは戸惑った。

「凄い。初めて見聞きしました」


「水も同じじゃ。雪から吸収するのが容易い。空気からも摂れる。岩からもじゃ。試みよ」

「到底、僕には無理です」

「それができなければ、生きられない。生きられなければ、神への崇高な義務が果たせない。不可能を可能とせよ。

 心によって。魂を燃やせ」

「しかし、どうやって」

「思考を停止せよ、しかるべき後に考えよ」

「何を考えれば」

「観ぜよ。心に想い描くのじゃ」


 アンニュイはじっと考えた。心を奥深く鎮めて。


 そして、瞑想する。岩からその氣を感じ、精を観て、本質精神を、イデアを、ロゴスを吸収すると。


 それが観ぜられるような気がした。


「あ」

 何かがわかった。わかり始めると、速やかに広がった。暖かい光が身体を包み、入った。

「あゝ」

 それは深い悦びを生む。脱自(エクスタシス)的な快楽であった。

「あゝあゝ」

 骨肉血臓皮髪が充実する。傷がどんどん癒えて逝く。


 神仙は言った、

「一つだけじゃ、お前に、真究竟の真実義を教えよう。

 それは誰もが知る普遍の真理じゃ。

 むしろ、知らぬことができぬ真理と言えよう。

 しかも、人ばかりではない、動物たちも知る。虫たちも知る。草木も知る。

 生命あるものばかりではない。土も岩も、水も海も、空も雨も雲も、金属も溶岩も、山や大陸や月や星や、あらゆる有機物や無機質な物質も、光も闇も、空間や時間も、色彩や感触や、重さや長さや体積などの抽象的な概念も、又は人の概念にはないものも、何もかも、一切ありとしあらゆるものが知る真理じゃ。

 考えてもみよ、それはどのようなものか。

 想いも描けまい。

 つまり、それは永遠に知ることのできぬものでもある。絶空の非知である。

 それは無などではさらさらない。今ここにある実在じゃ。現実。

 真の死、又は真の生である。

 それが真究竟真実義じゃ」


 甦った。ジャン・〝アンニュイ〟・マータは生まれ変わり、燦然と赫(かがや)く裂士となった。













 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る