第19話 聖なる学園都市アカデミア

 深い憂愁を帯びて暗鬱に逝くダルジェロは幽霊のようで、道すがらのことなど、何も記憶がなかった。いつも憂いに翳されたような濃い栗色の双眸をさらに深くしている。

 喪失感があった。

 だが、もう、あり得ないと想っていた人である。何を喪うと言うのか。しかし、喪った。実体のない幻影でしかないと想おうとしたが、想えない。それが人間だ。

 たぶん、無理強いして想おうとしても、不可能だと瞭めた。じぶんは従であり、主ではない。主は骨肉や血や感情であり、つまり、自然であって、じぶんは操り人形でしかなかった。大海の表層をゆらゆらと漂う一枚の木の葉に過ぎない。

 哀しいものは哀しい。賢者は色即是空と言うが、すべてが空と言うのも偏りではないか。空即是色とも言うではないか。空は空という特性やかたちですらない。かつては、そういう論理が好きであった。今となっては、どうでもいい理窟だ。哀しむことが無知な愚かさであっても、雨が降るように、花が咲いて散るように、哀しいから哀しむ。

 気がつくと城壁の前にいた。サン・アンジェロは四千年前から続く古き都市で、古代の墳墓や洞窟住居の跡もあり、人が棲むようになった時代は、さらに十倍以上は遡ることができる。大きくて賑やかで、繁華な街であった。

 アカデミア学園都市の門前町とも言える。その四十キロメートルほど先には、

「あれがイデア山だ」

 この位置まで近づいて、サン・アンジェロ周辺の、尠し視界が開けた場所に來るまでは、周囲が大山脈のみであるため、イデア山の影を見ることはなかったが、決して小さいという訳ではない。

 しかし、大きさよりも、その形状が驚嘆すべきものであった。

 摩天楼、高層ビルディングのように、四角い柱のような縦に長い立方形なのである。  

 い《彝》を象形する聖文字〝I〟のかたちだと言われた。高さは海抜二万メートルを超えるが、周囲が三万メートル級の嶺の連なる山脈(イヴァント山は四万メートル。なお、世界最高峰は北極点にある眞神山で海抜四万四千メートル)であるため、巨大さよりも独峯の崇高さが際立つ。

 学園都市がその頂上の平坦地にあり、平坦の中央に高さ千メートルのウパニシャッド大聖堂の尖塔があって、その周囲をそれよりも低い尖塔群が囲んでいた。尖塔群は中枢から離れるほど、つまり、縁(ふち)に近くなるほど低くなるため、山全体を見た時、本來は立方体の岩山(実際は一つの巨石)が、切ッ尖のある原初的な両刃の剣のように見えた。

「凄えなあ、こんなんだとは」

 イリューシュが讃嘆する。アンニュイは憂いある微笑をし、

「さあ、まずは街に入ろう。なすべきことがある」

 サン・アンジェロの街は城壁で囲まれていた。やはり、警戒は厳重である。厳しい門衛は全身を銀色に輝く鉄の鎧で覆っていた。楯と長槍を持つ。

 市門はユリアスが顔を見せると、すんなり通過できた。

 市壁のうちに入ると、イユは歓呼の声を上げる。

「うわ、素敵。美しい街ね。ねえ、ねえ、尠し見て廻りたいわ」

 いらふが表情を変えずに、

「いや、だめだ。安全上の問題がある」

「ええ、なーんだ、つまんないな」

 ユリアスとイシュタルーナは早速、郵便局へ。

「巫女騎士ほど、郵便局が似合わない人はいないな」

 二人の後ろ姿を見てアッシュールが笑った。

 そんなことを言われていようとは知らず、イシュタルーナは羽根ペンの尖をインク壺に浸し、便箋にさらさらと書き認める。ラフポワへの手紙だ。

「速達で頼むよ」

 ユリアスはユリイカへの手紙を書く。

「超速達で、親展で頼む」

 エルピスの里親探しの依頼だ。八時半に投函し、十一時には返信が局留めで來る。郵便夫が局留めの通知の紙片を持って來た。

「難民や孤児の施設があって、里親の斡旋や仲介もしているとのことだ。紹介状も添附してくれた。今、すぐに逝く」

 なお、手紙には、併せて龍と大羚羊とを交配した神獣、龍羚も宿泊場所に届けると書いてあった。

 ダルジェロとアンニュイがエルピスを施設へ送る。別れ際も少女は無表情であった。

 扨、宿も決まり、龍馬と頑健で最新型の馬車を購入し、龍羚も届く。

 夕方には、大鷲の一族がラフポワを連れてやって來た。小柄で最近、尠し食べ過ぎで、育ち盛りとは言え、やや小太りになってきた十一、二歳の少年だ。

 イシュタルーナのように夭くても毅然、かつ、凛として、年相応に見えない、などということは、まったくなかった。

「え、彼が神将?」

 ジョルジュの反応に、もう慣れたと言わんばかりのラフポワ。

「そうなんです。仕方ないよ」

 アッシュールも苦笑していたが、

「おい、おい、巫女騎士に怒られるぞ。人は見掛けによらぬものとも言うし」

 そう言いながらも、笑っている。

「そうなんですよ」

 ラフポワも妙な苦笑をした。

 晩餐会には、長いテーブルに皆がならび坐る。

「すごい歓迎だな、これもユリアスの顔か」

 ジョルジュが疑義を呈す。

 白ナプキンが三角に立てられ、湯気の立つ銀製の器には熱いスープ、スターリング・シルバーのナイフやフォーク、匙、美しい文様の大小さまざまの皿、眞鍮の燭台の蝋燭の揺れも笑うかのようであった。和やかで楽しげな雰囲気である。

「そうとは思えぬが、かと言って、陰謀や敵意がある訳でもない」

 アンニュイも半信半疑であった。

 何ら疑念も抱かぬ者もいる。ラフポワだ。

 イユはラフポワを見るたびに笑った。特に食事の時はいつも楽しげで、素朴で、見ているだけで愉快になれる。

 當のラフポワは気にせずに、ただ、自然体で振る舞うだけであった。

「おいしい、あゝ、幸せだ。あゝ、あったかいよ。うわ、柔らかくて、噛み締めると旨みと肉汁があふれ出て來るねー、この肉。んー、香草の匂いがすごーい。え、これがトリュフじゃない? 初めて見た。この香りは」

 翌日、護衛つきで街道をさらに南進した。

「おい、おい、ユリアス、護衛つきなんて、大袈裟な。そもそも、我らより弱い者に護衛させて何の意味がある」

「歓待の意味ですよ。ま、しかし、私も驚いています。何しろ、夜明け前に、物音で目覺めると、街の大通りを整列してこちらへ向かっていたのですから」

「何、それでは、お前の〝顔〟でこうなっている訳ではないのだな」

「残念ながら、そうではありません。アカデミアのご意向のようですね」

 その朝、出発の尠し前、ダルジェロは初めて龍馬を与えられ、興奮で紅潮し、嬉しくもたどたどしく、おっかな吃驚で、どうにか手綱をにぎっている。アンニュイは言った。

「心を通わせるんだ。馬は集団無意識を持っている。そこに繋がれば、心が同調、いや、一つになって、じぶんの身体のように操れるさ。

 自己超越する君なら得意だろう」

 その言葉に従い、心を研ぎ澄まし、やがて、意識の通ずる路を見つける。

「それっ」

 心が通い、自在に走らせる心地よさ、ダルジェロは大いなる歓喜を感じた。

 雪を蹴散らせて、岩山を自由に飛ぶように疾駈する。

「あゝ、自由だ、爽快だ、雄大な気分だ、颯爽と心が勇む、大いなる想いで胸が膨らむ」

 仲間外れにされ、虐められ、家でも虐げられて小さくなっていたじぶんが嘘のようであった。英雄になった気分である。

「本當のじぶんに還ったような気がする。心で眞実を求め、哲学を好んだことは、間違いではなかった。

 眞理を探究することは現実的ではないとバカにされたけど、教え込まれた価値觀を鵜呑みにして、眞の眞実を知らずに生きる方が虚しい人生だ」

 イデア山の北面の麓に着く。登攀道の入り口の左右には自然石を積んだ柱があり、それが北龍の門となっていた。

 素材の石は自然な長方形の立方体で、整形されておらず、高さが二十四メートルあった。その上に左右を繋ぐように、横に平らな石を渡らせている。ストーンヘンジの環の一部、又は鳥居に似ていた。

 自然石に繁縟な眞言の彫が装飾されている。それぞれの柱に爛々と熾える眼を睜(みひら)く龍神が左右合わせて四つの龍眼を動かし、悪い者が通ることのできないようにしていた。

 扁額には〝諸悪莫作 衆善奉行〟とある。


 門をくぐり、アカデミアへ登る道に入った。

 立方体であるイデア山の東西南北の四面は垂直の壁で、各面にZIGZAGな登攀道があり、アンニュイら一行は北面の壁から登った。石畳は物的だが、サスペンションがよく、単調な優しいピッチをもたらし、気怠い。物憂げに髪をいじりながら、

「長いのね」

 イユがぽつりとつぶやく。

 ユリアスが手綱をにぎる馬車(龍車と言うべきか。なお、ユリアスの龍羚は馬車に繋いでいる)に乗って革張りのシートに坐り、窓の桟に肘を掛け、段々と高くなって逝き、周囲に見える山脈の容が変わる様子を眺めていると、欠伸が出た。

 馬車のなかは、アヴァ。今までずっと一緒に暮らしていたけれども、イリューシュがいないと、やはりどうにも、退屈するも仕方のない状況であった。

 その反面、馬車は豪奢で、マホガニーの木目の美しく、亜麻油をよく摺り込んだ艶深い色合い、金の房飾りが四つの角にぶら下がる薔薇色の繻子のクッションやドレープたっぷりの緞帳のような重厚な眞紅のカーテン、柔らかい白い革張りの肘つきシート。

 王侯貴族のような待遇ではあるが、イユは深々と坐って物憂げなのだ。 

 不器用に龍羚の手綱をにぎる(必死にしがみついている?)ラフポワは、

「そんなこと言えるなんて、イユは餘裕だなー。こっちは必死だよ。長いのは當然さ。海抜二万だよ。麓からだって、一万五千近くある。それをジグザグに逝くんだから。しかも、急な坂道なんだからさ、長く感じるに決まっているよ」

「あはは、ごめんね、ラフポワ! でも、以前にも想ったけど、空気が薄くないことが凄くふしぎね」

「何で?」

「高所では空気が薄いのが普通じゃない?」

「聞いたことないね」

「ねえ、あなたは以前にいた世界の記憶とかないの?」

「以前にいた世界? 前世? 異界のこと? まあ、どっちもないけど」

「ふうん、そうなんだ。じゃ、いいわ」

「何だよ、何か冷たいなあ」

 そう言って、屈託なく笑った。


 ようやく、頂上に着くと、金燦を放ち聳える壁と北龍の門とが見えた。眞理を守護する紫磨黄金の鎧兜の衛兵が眩い長槍と楯とを持って、アカデミア学園都市を囲む壁の上に、人間の鉄柵のようにずらりとならんで立っている。龍神の浮彫られた巨大な扉がゆっくりと開いた。

 喇叭が吹奏され、太鼓が叩かれる。

「ジン・メタルハートを斃した英雄!」

 歓呼が上がった。

「なるほど、そういう訳か」

 アンニュイも(やや微妙だが)納得した表情になる。ジョルジュも、

「なぜであろうかと思っていたが、ふうん、そういうことになっているんだな。大いに不本意だ。まったく勝っていない」

 だが、イマヌエルは朗らかに、

「いや、まったく違うという訳でもない。現象としては。もっとも、私は何もしていないけどね」

「しかし、目撃者は我らしかいないぞ」

 アッシュールが疑義を唱えるも、いらふが、

「そうでもない。可能性はいくつかある。イ・シルヴィヱの無人偵察機、鳥獣系の人族、それに、アカデミアの眼も侮れない」

「アカデミアの眼か! おゝ、言われてみれば、合点だ」

 イリューシュが大袈裟に腕を組んでうんうんとうなずく。イユが笑い、

「嘘ばっかり、何の疑問も感じていなかったくせに。と言うよりか、アカデミアの眼が何だか知っているの?」

「知らん」

「わたしも知らないわ」

 大笑した。

 北龍の門から入って、まっすぐ続く広大な石畳の大路(道幅百メートル)を、壮麗な百騎の近衛龍騎兵に先導され、凱旋軍のように進む。

 ダルジェロは胸がいっぱいだった。

「信じられない、蔑まれていた、誰からも愛されない、臆病な僕が龍馬に跨り、アカデミアで歓声を受けている。あり得ないよ」

 思わず声を洩らす。體が震えた。

 見廻せば、大理石の彫刻群が演ずる神劇の装飾にあふれ、聳える建築が連なる街、それらを逝き過ぎる。華々しい彫刻の噴水、小さな広場、区劃の角にある神像の荘厳された龕、クラシカルな喫茶とヴィオロンの音、歴史あるリストランテ、老舗のテーラー、活字の工房、古い書肆、古書の屋台、古楽器製造所、人々が來ては去った。夢のように。

 時と財とを惜しまず、壮麗で劇的なデザインのオペラ座に芸術への愛を見る。

 街に立ち、談義する人も多く、ここでは哲学こそ最大の関心事であり、価値であり、鍛えるべき楽しみであった。カフェのテラスでも、逝き交う相乗りの定期馬車の座席でも条理に満ちた会話が楽しまれている。

 公立予備学校や哲学者の私塾、寄宿舎に学生があふれていた。

 哲学や芸術が生活の中心であり、中枢に近づくほど、哲学や芸術の中核に迫る。

 次第にアカデミアの各部門の分校や学寮、宗派ごとの神学校、各宗の寺院や僧坊、それに附属する修道院に図書館、博物館、美術館、音楽堂などだけになっていく。

「素晴らしい、これが眞理の都なのね、美しいわ」

 イユが感心する。ダルジェロも微笑んでうなずき言う、

「本当に素晴らしいよ、理想の世界だ」

 都を貫く北龍の門から続く大路を進み続けると、尖塔が見え始めた。直線的で縦に長い構造を基本とし、大きな薔薇窓とたくさんの細長いステンドグラスを持つ

 外観はゴシック的な建築様式で、ステンドグラスの嵌められたクリアストーリー(高窓)、その下には聖人や神獣の彫刻の群像が置かれたトリフォリウム(小尖頭アーチのある、狭い装飾的な廊下。通常は内部構造として側廊の上にあって身廊を見下ろす)、さらにその下に円柱に支えられた大きな尖頭アーチ、三層の構造が繰り返し繰り返し積み上げられていた。

 尖頭アーチ、薔薇窓、クリアストーリーはフランボワイアン(炎が燃え熾る)様式や幾何学模様様式のトレーサリーによって荘厳され、全体の総和として崇高に天へと聳えている。 

「あれがウパニシャッド大聖堂です」

 都の石造建築のすべてが五階建てというなかで、エアーズロックのように抜きん出ているさまは、大海に背を出したモービーデックのようでもあった。岩や鯨に喩えると、角の丸いかたちを聯想しがちだが、そうではなく、かたちは飽くまでも立方体であり、中心に大尖塔、各所に小尖塔群があり、上から俯瞰すれば、卍のかたちをしている。

「大増築されたばかりです」

 ユリアスが暗鬱な面持ちで言う。

「イ・シルヴィヱとの戦争以來、警戒を強め、聖なる睿知の実在・実存・具象に努めているのです。神聖帝国は早くも敗戦から立ち直り、国力を強め、既に暗躍しています。睿知の中枢である大聖堂の増改築は必須でした。

 聖なる意味ばかりでなく、強度を増すための形状として、風などによる推力(推す力、主として横方向の力)に耐え得るために設置された控え壁や飛び梁(フライングバットレス)は建物の高さに応じて四段にも重ねられていて、それを支える控え壁まであります」

 高貴な輪郭を持つ横顔で煌めく双眸は遠くを見ていた。

「大聖堂は十字形から延長され、今では卍型をしています。その全体に無数の針のように小尖塔があり、大尖塔は卍の中央にあります。

 ここからでも見えるかもしれません、中央大尖塔の頂上が。聖なるI《彝》のかたちをした燦々たる巨大な純粋透明金剛石の立方体が設置されています」

 ユリアスがさらに説明し、

「イコンを囲む縁飾りは瑪瑙に水晶、瑠璃(lapis lazuli)と琥珀です。どれも不純物のない原石を多面体にしたものですが、大漢が一抱えにすることもできぬほど大きなものばかりで、しかも、サイズは寸毫の違いもなく同じなのです。清浄と均齊が尊ばれるのです」

「凄過ぎるわ」

「あの中央大尖塔の基底の内部には大祭壇が設置されています。

 祭壇の頂にも同じく巨大な『I《彝》』のかたちの聖なる純粋透明金剛石が置かれていて、東西南北の薔薇窓から差すステンドグラスの光で荘厳されています。実はその地下にも」

 途方もなく大きな広場に出た。

 その中央にウパニシャッド大聖堂はある。

 大聖堂のファサードは白く荘厳で、コリント式の柱頭を持つ太い大理石の円柱がならび、エスニカルな彩色レリーフの破風があった。

 しかし、列柱の奥に三つの入り口があり、眞ん中が大きな身廊の入り口で、その左右が側廊の入り口である。深く翳され、それぞれの扉に威厳ある浮彫の龍が厳粛であった。三廊構造はゴシック様式の教会建築に近い。

 大聖堂の前では人々が待っていた。皆燦めく衣装に身を包んでいる。

「あの人たちは、いったい」

 イユが問うと、古王国コプトエジャの王族の血を継ぐユリアスが緩やかに手を挙げながら応え、

「ご覧ください、アカデミアの阿羅漢、高位の神官、大哲学者、教授、博士たちです。あの眞ん中の小柄な少女がその頂点であるユリイカ学長です」

「ええっ!」

 イユが声を上げた。

 驚いた訳は同じ年頃に見えたからであった。しかも、かなり俗っぽい感じの、雀斑のある赤い縮れ毛の、普通の小生意気な女の子に見えたからである。

 近づくとユリイカが進み出て來た。黒い長衣を曳き擦りながら言う、

「ようこそ、アカデミアへ。そんなに驚かないでよ、イユ。何だかラフポワの気持ちがわかった気がするわ。

 どうぞこちらへ。案内するわ、あたしの執務室に」

「ごめんなさい」

「あはは、冗談よ。まじめね」

「おい、おい、何だか、俺と性格が合いそうだな。かっはははっは」

「イリューシュ!」

 イユの叱る声を合図に、龍馬や龍羚や龍車からそれぞれ降りて、入り口前の階段を上った。象が五頭ならんで入れそうな幅の入り口の扉を、巨漢の門衛が開き、一同なかへ入る。

「すげえ」

 イリューシュが声を上げた。ユリアス以外は皆初めてで、驚嘆のまなざしで見上げる。

「素晴らしい、これほどまでとは。想像以上だ」

 口々に同じ言葉を洩らしながら、壮大で荘厳なる大聖堂の身廊を逝く。

 身廊と側廊との仕切りは、トレーサリーのある尖頭アーチで、その上はトリフォリウムになっていて、その上がとても長くて高いクリアストーリー(高窓)であった。

 側廊には礼拝堂や講堂が附属し、いくつもならんでいる。

「左右合わせて、百八あるわ。それぞれの部屋の奥には、さらに細分化された大部屋がいくつもある。大部屋の奥にはもっと細分化された中部屋がたくさん、その奥には中部屋よりも細分化された小部屋が無数に、小部屋にはさらに細小部屋がいくつも。

 そうやって、すべての宗教と哲学とを体系的に全網羅するの。民俗や風習、そういうものもすべて網羅している」

 ダルジェロは感嘆が止まらない。

「素晴らしい、凄い、あゝ、まさに眞理の殿堂だ。美しい、荘厳だ。夢に觀ていた、求めていた眞の世界だ。眞実の世界。空気が森林の奥のように清々しい」

 中枢に辿り着いた。祭壇を見上げるイユが言う、「あれって、何」

「え、何だって」

 ジョルジュも見上げた。

「あれか、燦々と眩しくて光にしか見えない金剛石に滑らかな鏡面のような黄金の文字が象嵌されている」

 アッシュールが言う。ダルジェロが読み上げた。

「『彜韋彝(い)』『爲偉(ゐ)』『啊(あ)』『ゑ』『え』『烏(う)』『乎(を)』『甕(お)』。東洋風の漢字表記、一部仮名字で十一文。一声を複数字で記す表記が部分に使われている」

 ユリアスが代わって応え、

「古代の或る時期に、荘厳のため、彜韋彝爲偉啊ゑえ烏乎甕という表現をしたのです。

 太古來の正式な表記は飽くまでも、《いゐあゑえうをお》。 

 しかし、それも便宜(一切は便宜だが)。飽くまで眞究竟の眞実義は言語ではなく、思惟思考を超えたものです。見る限りに於いて。我々の識、知、覺が正しくて、もの・ことが觀ぜられたまま、見えたとおりに眞実であった、と仮定した場合に限ってですが」

 ダルジェロは戸惑った。

「識、知、覺などを確認する仕方がない。何をしたら、確認になるか、空想もできない」 

 ユリイカの笑い声。

「相変わらずね、ユリアス。あなたの方があたしより適任だわ」

「学長、恐れ多いことです。あなたの存在が解脱です。私なぞには、到底及びません」

「そんな言い方しないで。昔のようにユリイカでいいよ。

 あたしはただの十四歳の女の子。だから、眞究竟眞実義なのよ」

 ダルジェロが腕を組んで深くうなずく。想う、ユリイカも十四なんだ。イユもいらふもイリューシュも僕も。イユが疑義を唱えた。

「それじゃ、誰でも眞究竟眞実義だわ」

「そうよ、それがあたしだけが眞究竟眞実義であるゆえんなのよ。それが自由ってことなのよ。イユ、あなたなら、きっと、すぐにわかるわ」

 執務室の扉を開ける。祭壇の傍にあった。聖堂内に家があるような感じだ。

 家は広く、シルク織の鮮やかな絨毯が一面に敷かれ、中央に会議用のオークを彫った脚太の円卓があった。その奥に黒檀の横長デスクがある。さらに奥に扉があった。

「さあ、円卓に坐って、飲み物を出させるわ」

 黄金の杯が置かれた。杯は純金の透彫で蔽われ、瑪瑙と水晶と瑠璃と琥珀とが象嵌されている。

「大人には葡萄酒、こどもには炭酸入りの青林檎ジュースよ。すぐにオリーブとチーズと玄米ビスケットが來るから。……早速だけど、殉眞裂士清明隊と契約したいのよ」

「勝手ながら、そうだと思っていました。相手は神聖イ・シルヴィヱ帝国」

 アンニュイが辞儀をしながら言うと、

「そうよ、そして、ジン・メタルハート」

「望むところ」

 イシュタルーナが双眸を燦めかせる。アンニュイがペンを所望した。

「サインしましょう。アッシュールはアカデミアが嫌いなようだが、聖なる力がメタルハートの力を削減できることがわかっている以上、手を組まないことなど考えられない。

 よいかな、アッシュール殿」

「問うまでもない。あれは冗談だ」

「私も今のは本気で言ったのではない。冗談だ。さ、学長、どうか契約書を」

 羽ペンとインク壺が運ばれた。

 ユリイカが両手を組んで語り始める。

「状況を言うわ。あ、來て。紹介するわ、国際情勢研究部の教授キシムシャーよ、地図を持って來てくれる? 説明よ」

 国際情勢研究部の教授キシムシャーが説明する。長い白鬚の老師だ。

「アカデミアは東西南北を稜線に龍の棲む山脈に囲まれ、ジェット噴射式戦闘飛行機が侵入できない場所でした。しかし、彼らは今、暴虐的な、新たな手を打とうとしているという情報があります。核弾頭附大陸間弾道ミサイル千発で山脈ごと吹き飛ばそうと考えているという複数の諜報員の情報、国際政治学者や軍事研究家の見解があります。

 イ・シルヴィヱ海軍は二百機の戦闘機を載せた超弩級巨大航空母艦(兵士二万人配備)五千隻を北極海上に集結させつつあり、それだけで一億超を動員している計算です」

「核弾頭ミサイル! 人類を滅ぼす気か」

 アッシュールが思わず声を上げると、

「二百機を五千隻? 戦闘機が百万機だと。総勢一億以上! 北極海だけで!」

 イマヌエルもうめく。ユリイカが教授の言葉を引き継ぎ、

「それから、山岳戦のために新たに開発した小型無人戦闘飛行機十万機、戦闘車輛、兵器、戦闘員の輸送も兼ねた千人乗り戦闘ヘリコプター二十万機ね。『死屍の軍団』も大量投入するらしい。

 それだけじゃない。今月だけでこの聖学園都市の近辺で百人以上のスパイを捕らえたわ。監獄なんて造っていないからね、尋問して即国外追放、まったくもう。

 神の眼は何でも見透かすから。どんなに科学力を駆使してスパイ活動しても無駄よ。

 あ、そうそう、それ以外にも、イ・シルヴィヱ陸軍は南の大山脈の麓に千万単位の大軍を集結させている。歩兵や旋廻式砲台のついた戦闘車輛、地対地ミサイル、小型火砲、連射式自動装填機関銃などなどね。ヘリコプターで山脈越えをする気らしいわ。

 総額六百兆ドラクマ規模の大戦争よ」

「そして、とどめはジン・メタルハートか。不足はない。究極の戦いが始まる」

 ジョルジュが微笑む。アッシュールが笑い、

「不足どころか、お釣りがありそうだな」

 杯の葡萄酒を啜りながら、ユリアスが大きな革製の地図を指差し、

「聞くところによると、イ・シルヴィヱの諜報部がユヴィンゴ連邦や聖エルロイペ王国、バルバロイ族長連合国などなど、南側の各国で盛んに暗躍しているようです」

 教授がうなずき、「さよう。南のみならず、西も東でも、各国政府を揺さぶっています。そして、空輸等で陸軍を集結させる下地を作っているのです。地均しです」

 ユリイカは唐突に、

「で、最後に一つ、確認したいことがあるわ」

「何でしょう」 

「ポジ・ティフの亡骸、『龍肯の聖剣』が見たいわ」

 その時、イリューシュは急にじぶんのことだと気がついて反応し、

「へ? 亡骸? これのこと? あ、いいよ、ほれ」

 無造作に鞘ごと差し出す。差し出していながら、イリューシュが最もびっくりしていた。

「えーっ!」

 鞘の拵が眩く燦々と煌めく細工である。驚き鞘から抜けば、ぎらりと黄金に熾え輝く鋼の刃に荘厳たる装飾、人の技術ではあり得ない精緻精密に繁縟たる透彫や細緻細密の浮彫、藝術の窮みたる象嵌は眩しいダイヤモンドや銀や瑠璃や真珠やルビー・サファイヤ・エメラルドなどが鏤められ、美の規範それじたいであるように美しく。強靭の底光りをしていた。元を知らぬユリイカはイリューシュのような驚きはなかったが、手に取って傾けたり高く持ち上げたりしながら、龍文の彫られた刀身に感嘆し、

「へー、すごいわ」

 イリューシュは訊く、

「読めるのか」

「いいえ。でも、心に觀ずるわ。それじたいを直截、心に。言葉ではないから、偽りなく、間違いがない。そのものだから、外れようがない。それじたいだから。この聖剣の龍文から神々の皇帝たる大神たちの天帝たる太神いゐあゑえうをおの眞髓の心臓を觀ずる。

 人の言葉は実務上の便宜でしかない。空疎な建築だわ。つくりもの、捏造、傀儡、ただの納得よ。納得っていう名の心理状態でしかない。言葉はただのシグナル。反応を呼び覺ますだけのね。

 言葉じゃダメ。眞は心でしか伝わらない。心でしか眞を伝えられないのよ。大事なことは行為(業、カルマ)ね。何をするか、何をしたかってことよ」

 その説について、イマヌエルは次のように質問した、

「行為は心と必ず一致するという意味ですか」

「そんなことある訳ないじゃん。言葉よりはマシってだけよ。心があってもなくても、言葉は思念上だけ。けど、行為は現実にある。正しい行為なら、いつか心を矯正する可能性がある。ま、言葉にも、その効果はあるかもしれないけど。

 ともかく、あたしはそう感じるの。よく気をつけて、魂に与えられたままに求めるわ。人はヴィヴィッドでリアルなもの・ことを追求する。それはじぶんを超えたもの、じぶんの外にあるもの、鮮烈な意外性を求めることで、生命が超越を志向するからなのよ」

「なるほど。最新の研究成果と合致しますね」

 イマヌエルがそう言うと、

「そりゃあ、そうよ。発信元は、ここだから」

 イシュタルーナはうなずきながら深く感心し、

「ふむ、とても神妙なことだ」

 それを聞いてアンニュイは微笑し、ジョルジュとアッシュールは顔を見合わせた。

「まあ、そうかな」「あゝ、そうかもな」

 アヴァは何も聞こえないかのよう、ラフポワはきょとんとして左右を見ている。いらふは表情を変えない。聞いていないように見えた。私には関係ないという感じであった。

 イユとイリューシュとは経験上、理窟抜き感応するものがある。

 ダルジェロは反芻し、ポケットから羊皮紙の切れ端を出し、木炭片でメモした。

 ユリアスは肩をすくめ、

「さて、午餐にしませんか、ユリイカ学長」

「もー、その呼び方、やめて。あなたが言うと不自然なのよ、ユリアス! もちろん、支度はできているわ、食も大事。健康が大事。さあ、皆さん、どうぞ、こちらへ」

 ユリイカがそう言って案内するのは、壮麗な迎賓館。バロックのように劇的な、ロココふうのように華やかな、フランス第二帝政時代のような荘重な様式であった。

 正午の大いなる聖餐が催された。阿羅漢や七福神や仙人やリシ(詩仙)たちが集い、飲めや歌えや、盛大なるBanquet又は饗宴とも云うべきものとなる。

 会議中は半ば居眠りしていたラフポワは急に元気になって、大いに悦び、

「楽しいね、イシュタルーナ!」

 その時、使者が來て、アンニュイに耳打ちした。

「何、そんな!」

「どうした? アンニュイ」

「ジョルジュ、逝かねばならぬ。エルピスの家が襲われた」

 それを傍で聞いてアッシュールが、

「なぜ、エルピスが」

 と問うと、イユとイリューシュも、

「家って、どこ? 場所は。すぐに逝こう」

 アンニュイとダルジェロしかその場所を知らなかった。

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