第26話 Epilogue #1 −モスコー山の古代廃墟の饗宴(シュンポシオン)−
えっ、なにもみえない。
くらい、まっくら、しっこくのやみだわ、えっ、そ、そんな…うそっ。あゝ、上もない。下もない。左右も、前後も、身も裂けそうな狂亂。存在以前の世界。
「あり得ないよっ。
これは、もう終わったはず……」
メタルハートの哄笑が響く。
いや、やめて。耳を塞ぎ、悲鳴を上げる、身を裂くような絶望の叫びを……
眼が醒めた。
「夢か……」
イユはびっしょり汗をかいていた。あゝ、明るい。窓も開いている。爽やかな乾いた微風。あゝ、幸せだ。隣のベッドでは、イリューシュがまだ昏睡していた。しかし、安らかな顔だ。
『死といふ儼』はメタルハートと同時に失せた。皆、無事に元へ還った。「神のご加護だ」と敬虔につぶやく巫女騎士の儼肅な言葉に、否を唱える者はいなかった。
モスコー山はアカデミア東山脈の聖域外、標高の高い山岳地帯のなかにある一つの山で、正確に言えば、巨岩が積み重なった積み木のような、摩天楼のように直方体の大自然のモニュメントである。
頂上に古代文明の廃墟が残されていた。祭祀場であったと思われる。
古代遺跡のある頂上は草木も生えず、岩だけしかなく、荒涼とした狭い場所に、十数本の石の円柱と、わずかな壁面(恐らくは、ファサードであったと思われる)、中央祭壇があったと思われる段(壇の基盤の跡)、そして、石の水盤が遺されているだけであった。
ここが殉眞裂士清明隊の本部である。
アンニュイは水盤のふちに半ば寄り掛かるように腰掛け、青銅の鼎に湯が沸くのを待つ。
「今日は特別な晩餐だ。私があなた方を饗応する」
岩鹽や胡椒やさまざまスパイスの小瓶、香り高い茸、ガーリック、芳醇なバター、オリーブ・オイル、去勢された若鶏、鴨肉や鹿肉、ホアグラ、蝶鮫の卵やアンチョビ、羊の肉、龍が夜明け前の海から運んだ魚貝類や甲殻類など、美しくならべ、腕を振う。鶏ガラと魚のアラでとった出汁を銅製の大きなお玉で掬って味見した。眩い微笑、
「ふう、デリシャスだ」
「おい、おい、手伝わせてくれよ、アンニュイ」
酒樽はラフポワが荷車で運ぶ。イシュタルーナは石と板で簡素な椅子と長テーブルとを用意している。イマヌエルとユリアスとは香辛料を調合する。いらふとアヴァとはジャガイモの皮を剥いて茹でたり、さやから豆を取り出したりしている。ダルジェロとエルピスとは、生野菜を切ってサラダを作った。ジョルジュが魚を網で焼き、肉をアッシュールが焚火で炙る。炙りながらつまみ、ともに痛飲した。
「眼醒めたのね、イリューシュ」
イユの頭には、包帯が巻かれていた。血が滲んでいる。顔が窶れていた。寝ずに看ていてくれたとイリューシュは思う。
「俺は。
なぜ、生きているんだ」
イユが微笑した。
「どっちの意味?
あなたが存在する理由を問うているの? それとも、どうして死なずに今、生き残っているかを問うているの?」
イリューシュは眉を顰めた。
「なぜ、あの時、死なず、殺されずに今、生きているか、それを問うているに決まっているぜ」
応えず、イユはアヴァを指差した。燦々然と坐し、微笑まずとも瞭らかに欣然としている。眩い菩提薩埵騎獅像のように。
「彼女も生きているわ」
イリューシュの唇が震える。
聖なるアヴァが聖剣の復活に合わせて降臨したのだと如実に感じた。だから、白き巨象は感慨に囚われたのだ。
「そうか、人間じゃないからな。
俺も」
輝くように美しいイユの悲しみと歓喜との綯い交ぜとなった表情が語る、「そうね」と。
イリューシュはその意味を考え、想い、そして、言った。
「つまり、ジン・メタルハートも甦るということだ」
イリューシュのベッドの周りで皆が喜び合う時、ユリアスが感慨深げに独りつぶやく、
「海鳥島での惨劇がイリューシュを修羅に変え、神の言葉であったいゐりやへの想いが『龍肯の聖剣』への結びつきとなって、イリューシュと再会する。何という縁(えにし)か」
「どうしたの、元気ないね、ダルジェロ」
声を掛けたのは、エルピスだった。
じぶんがじっと見つめられていると感じていても、ダルジェロは敢えて応えない。
遂に彼女が言った。
「死んだ人たちのこと、考えていたのね」
ダルジェロは黙ってうなずく。エルピスは尠し悲しそうな顔をし、すぐに莞爾と微笑み、
「でも、仕方のないことよ」
ダルジェロは考えた。どっちだろう。哀しむ気持ちはどうにもならぬから、仕方がないということか。又は、哀しみは哀しみであって哀しみでないからか。
どちらも、だ。差異はなく、無差異すらもない。そう想うと、安堵ならぬ安堵に解かれ、滂沱の涙があふれた。そう、仕方がない、しかし。
赦されるものなら希う、ひともわれも、苦しみ尠なきことを。
想いは遙かに、非業のうちに命を失った数知れぬ人々へ。歴史に埋もれ喪われたまま、葬られることすらなく、死を知られることさえもなく消えた命たちへ。じぶんもなるかもしれない。いずれ、死は定め。無念であっても。
ダルジェロは暗鬱な濃い栗色の眸を睫毛で憂いに翳し、「わかっているさ」
現実を生きるという選択肢しかない。誰もが知る素朴で強い事実だ。いつどんな時代になっても変わらない。聖剣の龍文が幸福であると彼は選択した。〝死を齊しく生と觀じ、生を死とぞ睿らめる哉〟と。
「もし、メタルハートがダルジェロ独りだと言わなければ、我らの勝利はなかったのか」
虎のように古巖の長椅子にもたれるアッシュールの素朴な問いに、ダルジェロが応えた。
「いや。
非は自ら望んで滅ぶ。それしかない。非の勝利は敗北と同義だ。単純明快な事実さ。メタルハートは必ずや同じ過ちを犯す。聖剣を欲するじたいが非(滅び)でしかない」
「じゃ、次に会っても、勝てるな」
「どうかな。生存は常に道を見つけてきた。それこそ神の思し召しの隨(まま)さ」
「さあ、祝宴の準備ができた、聖なる杯を掲げよう、杯を光で燦々と満たそう」
いつも帯びていた哀しみをさらに深くしてしまったジャン・〝アンニュイ〟・マータが声を掛ける。
皆がテーブルに着いた。
知性深く優しいイマヌエル・アルケー。
無限の空漠のある心を抱きつつも、常に凛とした、いらふ・爾尹・さぶらふ。
颯爽として揺るがないジョルジュ・サンディーニ。
力に溢れ、篤く、奔放で、気性の激しいアッシュール・アーシュラ・アシュタルテ。
信仰深く、いつもぶれずに毅然とした巫女騎士イシュタルーナ・イノーグ。
いつもほっとさせてくれるラフポワ。
哲学を愛するも優しき癒し手のイユ・イヒルメ。
屈託なく大らかでも気遣いあり、聖剣の宿命を抱く修羅イリューシュ・ユジーユ。
崇高にして深遠なる叡知を持つユリアス・オシリス・コプトエジャ。
聖なるアヴァ・ロキタ・イーシュヴァラ。
皆、笑顔だ。
華やかな静謐があふれていた。光に満ちている。
そして、エルピス。
彼女はまったく変わってしまった。まだ心配そうにダルジェロ・プラトニー・コギトーを見つめている。
ふと、それに気がついた少年は憂鬱な翳りを做す睫毛を振り放くように上げ、双眸の海をいゐりやのように燦めかせて微笑み返す、
「大丈夫だよ」。
ともに生きる仲間がいるとは、何と幸せなことか。
皆、哀しみがある。だから、優しさと、ともに生きる悦びとがある。
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