2―12 少年と大人

 部屋では辺境伯とハッシュが睨み合っていた。

 辺境伯が言った黒い鞭、例の一番強い鞭のことである。二カ月前に牛を失って鞭打たれたキーコヌのことを思い出してハッシュは内心戦慄した。彼の男の泣き叫ぶ声は鞭の音と共にまだはっきりと耳に残っている。恐怖がハッシュを襲った。動悸が激しくなり体は震えたがハッシュは恐れを悟られまいと体中に力を込めた。


 ハッシュは自分を冷たい眼で見下ろす辺境伯を睨み続けた。今彼にとって辺境伯はユキオオカミであった。エムロウが山の中で一人対峙したユキオオカミであった。少年はもう逃げるわけにはいかなかった。


 そこにニッセが飛び込んで来た。ニッセはハッシュを守るように辺境伯の前に立ちふさがった。


「何をなさいます。」

「チーメルに罰を与えるのだ。」

「なりません。」

「こやつには罪がある。自分の扈従を見捨てたと自白しよった。」

「だとしてもハッシュ様に罰を与えることは私が認めません。」

「何を。儂はこいつの親であるぞ。使用人ごときに我が子の躾を指図される謂れは無い。下がれ。」

「いいえ下がりません。お屋形様はハッシュ様を養子になさいました。それはハッシュ様の亡きお父上のご遺志でございますね。しかし同時にお父上はハッシュ様の教育をニッセに一任なさったはず。違いございませんね。ならばハッシュ様に罰が必要か否かはニッセが決めることでございましょう。お屋形様こそ口出しは無用にございます。」

 およそ使用人が主人に向ける言葉ではない。辺境伯は眉を吊り上げた。


 リバリンは様子を見守っていた。ここまでハッシュの決死ともいえる訴えを大人三人がうまくあしらってきた。いわば芝居をしていたわけだが、ニッセの登場は予定を狂わせた。こちらでうまくやるから下がれ、と言える段階は一瞬で過ぎ去り、もはや抜き差しならくなった。


「ニッセ、止めて。罰は僕がお願いしたんだ。」

「ハッシュ様、これはお屋形様とニッセの問題です。ハッシュ様は口を挟まれますな。」

 ニッセは一喝した。何人もハッシュに指一本触れさせないという鬼迫を全身から発していた。

「ニッセよ、しかしこやつの振る舞いはハシュテッグ家の子として我が家名を貶めるものである。家長として不問に付すことはできんぞ。」

「ならばニッセをお打ちなさいませ。ハッシュ様に不行き届きがございましたのなら乳母であるニッセの至らなさが故にございます。」

 そう言うなりニッセは上衣を脱いだ。上衣は床に落ち、ニッセは辺境伯を睨み上げながら迷いなく次は内衣の紐をほどいた。


 実のところ辺境伯はハッシュに少しお灸をすえてやるだけのつもりだったが、この二人の間にある結びつき、他人の生半可な介入を許さない強い絆を見て心中たじろいだ。

 ニッセが憐れみを乞うてくれればまだ良かった。そうであれば罪を免じて主人の寛大さを表すことができただろう。しかし、打てるものなら打てといわんばかりに挑まれると扱いに困った。大領主である自分が使用人に押し負けるわけにはいかなかったし、ましてハッシュにそのような姿を見せることはできなかった。


「さあ、お打ちなさいませ。」

 ニッセは下着姿になった。

「よかろう。」

 辺境伯も引き下がれない。


 ハッシュは恐怖した。例のキーコヌはミシバリンに打たれた後高熱を発し、ひと月も床に伏したと聞いた。ニッセならそれでは済まないだろう。もしかすると死んでしまうかもしれない。そうなると自分のせいだ。


「お屋形様止めてください!」

 ハッシュは泣きださんばかりに訴えた。しかしニッセは振り返り、ハッシュの肩に手を置いた。

「ハッシュ様、ニッセは大丈夫です。」


 伯はちらりと横目でリバリンに視線を送った。リバリンはそれに応え、

「僭越ではありますが私の考えでは、ハッシュ様に十日程の外出禁止を仰せつけられるのが良かろうと思います。」

と提案した。

 鞭打ちよりも余程寛大な措置である。むしろ寛大に過ぎるだろう。

 ハッシュは哀願するような目で辺境伯を見上げた。ニッセも振り返って辺境伯を見つめたがこちらは依然として挑戦するような目つきである。決して一歩も引くまいという断固とした決意が顔に表れていた。

 老女のこの気位の高さである。辺境伯は辟易した。主人に対する態度では到底ない。尤もニッセとしては自分の主人はハッシュでありハッシュの亡父であり続けたのだが。


 辺境伯は答えを出さずしばらくの間二人を見下ろした。

 ハッシュにとっては自分が鞭で打たれることよりニッセが打たれることの方が恐ろしかった。少年はニッセの裳裾を握りしめて沙汰を待った。

 緊迫した時間が過ぎた。


 リバリンの咳払いが張り詰めた空気を破った。続いてミシバリンが入室してきた。

「遅くなりました。」

 手には鞭を持っていた。ハッシュの恐怖は頂点に達した。


「鞭は─、」

「これに。」

「いや、いらぬ。」

 辺境伯はハッシュとニッセを見下ろしながら続けた。

「ニッセはハッシュの過ちは自分の至らなさのせいだと言い、自分を打てと言う。じゃが老女の皺肌に鞭を加えたとあっては儂の沽券に関わるのではないか。」

「ご懸念はごもっともかと。」

 リバリンが応じた。

「であろう。ならば今回の罰は蟄居ひと月が適当に思うが。」

「畏れ入りましてございます。」

 リバリンの提案から二十日間も伸びた。言うまでもないことだが、これは主人の厳しさを演出するためにわざとリバリンが短く提案していたのである。

「では左様いたせ。」

「寛大なご沙汰に感謝申し上げます。」

 ニッセはようやく強張らせた顔を緩め、辺境伯に深々と頭を垂れた。そしてハッシュの方に屈んで大切な物を慈しむように両腕に抱いた。


 ハッシュはニッセに抱かれるまま呆然と立ち尽くした。彼の心は山中でユキオオカミに遭遇して以降今の今まで途切れることなく酷い緊張に曝されてきた。いまその緊張の極みから突然解放され心の重荷をすっかり取り除かれたハッシュは、その緩急の激しさから現実感を失いかけた。

 ハッシュを現実に戻したのは、彼を抱くニッセの震える腕だった。辺境伯に対してあれだけ気丈に振る舞ったニッセが震えていることにハッシュは気づいた。


 そして、部屋を出て行く大人達を見て彼は今しがたこの部屋で起こったことの意味を理解した。


 ミシバリンの手にある鞭の柄は白かったのである。


(黒い鞭じゃない。)


 キーコヌを打ちのめしたあの恐ろしい鞭ではなかった。辺境伯は確かに黒い鞭を持ってくるように命じたのに。

 つまり、初めからこの場にいる誰一人としてハッシュを傷つけようとする者はいなかったのである。ぞろぞろと部屋から出て行く大人達の背中を見ながら、そのことをハッシュははっきりと把握した。


(僕はずっと守られていたんだ。)


 そう思うとこれまで堪えていた涙が溢れ出した。止めることはできなかった。ハッシュはニッセの腕の中で声を上げて泣いた。


 辺境伯はそんなハッシュに対して無関心を装いながらも事が無事に決着したことに安堵して部屋を出ていった。


 こうしてハッシュの長く恐ろしい一日が終わった。この日のことはこれ以降もずっとハッシュの心に残り続ける。


 そして翌日、一ヶ月間の軟禁生活が始まったその日、ハッシュは虚視を会得した。

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