第2話

「勝敗を決めるのは渡河をいかに行うかである」

 幕僚を前にしてこの言葉から説明を始めた司令官ヘックナートの作戦計画は、恐ろしく精緻なものだった。

 そもそも異例なことは、作戦を司令官自らが立て、自らが説明したことである。これが彼の参謀たちの面目を潰してしまったことは想像に難くないが、このときのヘックナートにはそうしたことに配慮する余裕が全くなかった。それほどまでに彼は自分に課せられた使命に圧迫されていた。そして、士官学校設立以来の秀才と謳われた頭脳に鞭打って作戦立案に没頭した。

 さらに彼の神経をすり減らすことになったのは国軍参謀総長であるロルボスが視察に来たことだった。自分の主君であったロスガールを王位から引きずり下ろし、そして弑した男である。彼は王殺しという行いからだけでなく、非情な冷血漢として誰からも恐れられていた。彼によって何人もの罪のない役人、将官、騎士団長らが名誉を傷つけられ、役を奪われあるいは領地を失い、獄に入れられた。

 その彼が何をしに前線にやってきたのか、大隊長、騎士団長らはロルボスからのいわれなき咎めを招くようなどんな些細な隙も作らないよう神経を尖らせた。まして軍団の司令官であるヘックナートにあっては生きた心地もしなかった。

 そうして司令官が極度に追い詰められた中でできあがった作戦は将官の中で賛否の分かれるものだった。それはいわば一つの戯曲のようなものだった。この会戦で最も大切なことはアサナス人を森に逃がさずに包囲殲滅することだった。そのため、司令官の作戦には囮部隊を作って敵を食らいつかせ、そのまま決して放さず放させないようにするありとあらゆる仕掛けが盛り込まれていた。そのための「振り付け」が、自軍はもちろん敵方にも用意されていた。

 この作戦を高く評価する者は、戦局がこのとおりに進行すればこの戦いは今後数百年にわたって戦史に残る芸術的な会戦になると賛美し、ここに自分が加わることを誇りに思うと言った。反対に、この細かく複雑な作戦計画が立案者の思った通りに実施される(味方はもちろん敵も)ことに疑問を抱く者も多くいた。しかし賛成も批判もそれを公に口にできる者はいなかった。陣中は誰もが気軽に意見を言えるような空気ではなくなっていたし、司令官が頑張るなら任せようといったある種の無責任さが司令部内をはじめ軍団を構成する大隊と騎士団にも広がっていた。その結果誰からの援助もなくますますヘックナートは孤立し、半ば病的になりながらこの作戦計画を立案したのだった。

「諸卿に厳に申し伝える。本戦いにおいては作戦の無理解や功名心による軽はずみな行動が作戦の破綻を招き全軍を危険に陥れることになる。作戦計画への違背は許されない。まずは命令あるまで決して独断で渡河することのなきよう。」

等々、くどくどと釘を刺した後、作戦開始を明朝とすることを伝え軍議を解散した。


 軍議の後、参陣している有力な二つの騎士団の間でひと悶着があった。一つは西宮庭園騎士団、通称「御庭騎士団」(インディーブ・アッシミザーリ)で、今回の作戦ではまさに囮となり最も困難で危険な役割を担う騎士団、もう一つは緋竜騎士団(アナハッシュ・アッシミザーリ)で、こちらは戦闘終盤に最左翼から敵の背後を襲い決定的な打撃を与えることとされていた。どちらも大貴族が抱える王国内でも屈指の実力を持つ騎士団である。

 きっかけは、緋竜騎士団総長であるポウトレクが作戦に対して疑問を呈したことだった。

 ポウトレクはハシュテッグ辺境伯家の跡継ぎである。赤ひげの偉丈夫。豪胆で行動力に富む理想的な指揮官であることに加えて剣の達人として多くの将兵からの尊敬を集めていた。

 軍議は終わり参加していた指揮官らはばらばらと本営から退去しているところだった。ポウトレクは司令官に近づき抑えた声で言った。

「さて、天候のせいか思ったよりも河の水量は少ない。とはいえ渡河は部隊にとって渡るも戻るも大変危険な行動であることは改めて指摘するに及びますまい。万が一、閣下の計画にない事態が生じ、御庭騎士団を始め囮となる部隊を撤退させなければならなくなった場合、我らはいかに動くべきか。これをあらかじめ定めておくことは無駄ではないと思いますがいかにお考えか。」

「何と?」

 あからさまに不快感を表したのは、当の司令官ではなく傍にいた西宮庭園騎士団総長でありテーニーム伯であるロンバスだった。彼は齢六十をとうに超えているにも関わらずいまだに騎士団長として前線にいた。当然、この時この地に集う将兵の中で最年長である。名門ゆえに生粋の伝統派で権威に従うことに至上の価値を置く頑固な老人だった。加えて困ったことにそもそもハシュテッグ家、テーニーム家の仲は良くなかった。ロスガール・イーンの治世からハシュテッグ家は親ロスガール派でニートペベールに同情的だったが、テーニーム家は強硬なレーンカトゥーレブだったという背景もあった。

「緋竜の若大将。そこもとは余の家の子らが野蛮人に背中を見せることが万に一つでもあると申されるか。」

「左様なつもりで申したのではありません。テーニーム家の方々の勇敢さは承知しております。しかし戦場では最悪の事態も想定せねば…」

「最悪の事態に陥れば我らが逃げ出すと申されるか。」

 テーニーム伯の孫で養子であるロンティーヌが加勢に入った。御庭騎士団副長である。彼も祖父(養父)に負けず単純で短気な男であった。

 ポウトレクとしては御庭騎士団の負担を軽くしようと考えての意見具申であったのに、当の騎士団長、副長からこのように攻撃されて辟易した。

「私は万が一のことであっても備えておくに越したことはないと申しております。」

「万が一とは。」

「敵が計略を用いるとか。」

 ここで司令官ヘックナートがたまりかねて口を開いた。面にははっきりと不快感が浮かんでいた。

「計略と。隊列さえまともに組めない蛮族に何の計略がありましょうか。緋竜殿、総攻撃を明日に控えたいま、ありもしない懸念を持ち出して味方の和を損なうようなことはおやめください。明日の戦いは、わが軍の一糸乱れぬ機動によって決着するのです。野蛮人どもは何が起こったのか分からないままこの地から消滅するのです。そのためには何よりも各部隊が己の役割を守り責任を果たすことが大切なのです。例え不測の事態が出来しても私が判断し私が指示を出します。貴卿らはそれに従うのみでありそれ以外にありません。」

「まことにおっしゃるとおりです。」

と司令官の言葉を引き継いだのは緋竜騎士団副長のユライアスだった。

「私には閣下の作戦に一分の隙も見つけることはできません。ただ、我が総長は、”槍を構えて慎重に、交えて大胆に”という昔からの武人の格言を実践しておるのみです。」

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