第1話
エウロガーフ王国領の西を北流する大河モロボ。ここが王権の及ぶ西の端であって、そこから向こうはどこまで続くか分からないアサナス大森林地帯である。森には狩猟民族であるアサナス人が住んでいた。彼らは多くの部族に分かれて暮らしていたのだが、それぞれ似たような暮らしぶりで、同じ言葉を使い、王国人とは異なる原始的な信仰を持っていた。
彼らは部族間でよく争い、隣の集落を略奪するようなことは日常茶飯事で、襲った方も襲われた方もそれが悪いことだとは認識していなかった。森の中では強いことが良いこととされた。
コメーン王の後を継いだヘムケレル王の四年、この年、例年にない天候不順でアサナスの森はそこに住まう人と獣に十分な食料を与えなかった。冬を前にし腹を減らせたアサナス人達は、過去、同様のことがあった時もそうであったように、この時も幾十万の大群となり食べ物を求めて森からあふれ出した。森の人々はモロボ河を渡り王の国境警備軍を破り、あちこちから王領に侵入した。そして王国の各地で秋の収穫を終えた村々を襲い、ひと時飢えた腹を満たした。
朝廷の反応は迅速だった。すぐさま国軍と各地の騎士団からなる討伐軍を編成し、国軍の中でもとびきり優秀なヘックナートを司令官に充て、侵入者の撃退に当たらせた。
アサナス人は森の中での文明化されていない生活から身体は頑健、気性は勇猛で個人の戦士としての能力は高かった。一方で指揮命令系統は貧弱で集団として統一的な行動をとることは苦手だった。彼らは統率された軍と対峙すると、最初こそは大きな瞬発力を見せるものの、やがては組織の力に屈するのが常だった。
ヘックナート率いる王国軍は各地でアサナス人を破り追い散らした。しかし、侵入者らはまっすぐ森に帰ろうとはしなかった。戦利品である食料をたんまりと抱えて、なぜか部族間で示し合わせたようにモロボ河のほとり、デュラート野に集まった。ここでもう一戦し、あわよくば王国軍を打ち破って略奪のおかわりをいただこうという魂胆だと思われた。
司令官ヘックナートは困った。なぜなら、この戦場は王国軍にとって極めて不利な地形だったからである。デュラート野は河に沿って南北に伸びる細長い野原で、河の東側に王国軍、西側にアサナス人が布陣したが、アサナス人の背後には森が迫っていた。これは、アサナス人は危うくなればいつでも自分たちの住処である森に逃げ込めるということだった。王国軍にとって森の中は部隊間の連携が難しく、数で勝り地の利のあるアサナス人が有利になる。蛮族に対しては無敵のはずの王国軍も、森の中では話が違った。
では、森に踏み込まなければ少なくとも王国軍に負けはないのかというとそうでもない。決戦を避けて蛮族とにらみ合いを続けるとなると、少なくとも森に実りが訪れアサナス人に食の心配がなくなる春までは王国軍は動くことができない。王国軍がこの場に駐留すると、幾万の将兵を食べさせるのに莫大な糧食が必要で、これでは戦闘に負けなかったとしても経済的には完全な失敗と言えた。
というわけで、司令官には短期での敵撃滅という難しい課題が与えられていた。加えてヘックナートの個人的な立場がさらに彼を苦しめた。彼はニートペベール(新参者)つまりロスガール派の希少な生き残りと言えた。
ロスガールの死から六年、退位からはすでに八年が経過し、国の中枢にニートペベール達の姿は無かった。引き籠る領地のある者は幸いだった。多くは貧困にあえぎ、傭兵になる者、反乱を企てて投獄される者、世を捨てる者など、かつての栄華は見る影も無かった。
その中でほぼ唯一と言ってよい上流社会の隅っこに居残り続けたのがヘックナートだった。
ここに彼の苦悩のすべてがあった。彼は、彼に居場所を与えてくれた上流社会は彼に期待しており、自分たちが選んだ司令官が王土を侵した蛮族を再起不能なまでに叩き潰すことは疑いないことだと思ってくれていると、そのように強く信じていた。一方で彼はニートペベールに対しても、今は日陰者扱いとされている彼らの代表者が自分であり、自分が名声を勝ち取ることはニートペベール全体の評価を高め、彼らの暮らしを助けることになるのだと、これもそう信じていた。
大変こっけいで悲しいことだが、そう思っていたのは彼一人だった。
上流社会の人々のほとんどは、表面上はどうであれ、内心から彼に同情などしていなかった。彼らは確かにヘックナートの軍事的才能には期待していたが、例えその期待どおりの戦果を上げたとしても、身分卑しき者に対する扱いを変えようとは思っていなかった。
また、ニートペベール達にとってヘックナートは憎悪や蔑みの対象ではあっても自分たちの代表者であるなどとはどのように理屈をこねても思い得ないことだった。彼らにとってのヘックナートは、ロスガール派の誇りを捨て、伝統派に媚びを売ってまで自らの地位にしがみついている唾棄すべき存在と映った。
司令官の悲劇は、自らをニートペベールとレーンカトゥーレブを繋ぐ存在だと思い込み、ありもしない両勢力の期待を一身に背負っていたことだった。
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