第19話

 狼煙を上げたイムルーにとってこれからの半刻、またはそれより短い時間がこの数か月、数年の努力の成果を収穫する大切な時だった。このひと時、敵の大半を河の付近に押し留めるのだ。そして上流で満々と貯めこまれた水が、切られた堰から溢れだし、激流となって敵を押し流す。敵が渡河したと思って布陣しているその河原も間もなく河の底になるだろう。難を逃れた兵ももはや対岸からの支援は得られない。対岸の生き残り達は河のこちら側の兵士が一人残らず殺されるのをただ眺めるしかないのだ。イムルーは見張り台の上で拳を強く握り甘美なその瞬間を待った。

 アサナス陣の戦太鼓は一層激しく打ち鳴らされている。


 ヘックナートにしてもこの局面はこの日、いや追討軍が編成されてからこれまでで最も重要な時間帯だった。あれだけ時間を費やして練り上げた作戦はすでに機能しておらず、大隊毎に細かな動きを指示していられなかった。王国軍はただひたすらに敵を包囲しようと翼を左右に広げ続け、一方のアサナス軍も敵を河の付近に押し留めようとそれに合わせて広がった。

 左翼では前衛として渡河した第一連隊の左には既に後衛の第三連隊が続き、その左に砂烏騎士団が張り出し、さらにその向こうに緋竜騎士団が左翼端を形成するという具合だ。右翼も似たような様子である。

 戦線はどんどんと南北に長くなっていった。


 最も激しい戦いが繰り広げられていたのは中央である。御庭騎士団がアサナス人の猛攻を支えていた。ここでは敵も味方も大きな損失を積み上げていた。騎士達は早朝からの戦いで疲労が頂点に達していた。本戦いにおける王国軍の最年長である御庭騎士団総長テーニーム伯が、気力、体力の限界をとうに越えながらも声を涸らして部下を叱咤していた。

副長のロンティーヌも同じく奮戦していたが、彼は敵の狼煙を眺めて戸惑いを覚えていた。先刻翼装隊からの報告に、敵に計略があったがそれが未然に防がれたとあった。我らが野蛮人だと見くびっていたアサナス人は謀を用意していたのだ。力のまま進むしか能がないはずの未開人が文明人の我々を罠にかけようとし、味方のほとんどはそれに気づいていなかった。もしかすると本日この時、自分達は皆殺しにされていたかもしれなかった。

彼の脳裏に昨夜のユライアスの顔が浮かんだ。


「なぜだ!」

 いつまで待っても河に何らの変化が無いことにイムルーは怒りを発した。

 堰を切る土木作業に手間取っているのか。少し前に上流に様子を見に行かせた者も帰ってこない。戦場の上空を飛ぶ見たことも無い大きな鳥、一時、二羽だったのが今は四羽になっている。イムルーは不吉なものを感じていた。

 そのうちアサナスの戦線では所々にほころびが見え始めた。アサナス軍は諸部族の寄せ集めである。個々の部族の戦闘力はまちまちだし、部族間の連携は無いに等しい。また、イムルーの指揮に対する信頼も族長によって随分とばらつきがあった。こうした不均質な軍が長大な戦線を維持し続けるのは無理があった。元々、瞬発力に優れるものの持続力に劣るアサナス人である。時間の経過とともに戦線の頑丈なところと薄弱なところの濃淡が強くなっていった。ほとんど破れそうになっている個所もいくつか見られる。それでもイムルーは冷や汗を垂らしながら戦いを決する大河の一撃に望みを託し続けた。


 そしてアサナス人は自陣の遥か後方、兵糧の備蓄場所のある辺りの森が、濛々と煙を吐き出すのを見た。ポウトレク達がアサナス軍の兵糧に放った火炎である。

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