第20話
アサナス軍全体に動揺が広がった。敵襲か、裏切りか。兵糧を失ったのか。
イムルーは西の空に立ち上る煙を眺めてしばし呆然とした。前線に目を転じると、兵数の差では元々アサナス軍の方が圧倒的であったから、まだまだ戦えるように見えもする。しかし自軍の実態を知るイムルーには所々に限界を迎えている部族があることが良く見えていた。
彼は悟った。間もなく戦線は崩れる。それとともに諸部族連合も崩壊し、産声を上げた汎アサナス主義は非現実のものになるだろう。
イムルーは空を仰いだ。二年間の努力が脳裏をかすめ感傷が湧き上がりかけたが上空を悠然と飛ぶ巨鳥がそれを邪魔した。翼装である。彼は苦々しげに鳥を眺め、為すべき仕事に戻った。
「退き太鼓を打て!」
イムルーは全軍に後退を命じた。アサナス軍が有利な森の中でひとまず態勢を立て直すこととした。彼は退却時の混乱を助長しないように太鼓をゆっくりとした拍子で整然と打たせた。
しかしアサナス軍の後退が太鼓に合わせて整然と行われたわけではない。ある部族は潰走し、ある部族は敵の攻撃を支えながら退がった。一部には混乱に乗じて逆に攻勢をかける部族もあった。この場面においても統制のとれていないアサナス軍の性格が強く出た。
これは王国軍の勝利であろうか。いや、全くそんなことはなかった。司令官ヘックナートにとっては敵を殲滅することが至上命題である。そのためには森に逃がしてはならない。包囲し退路を断つ必要があった。司令官は戦線の両端の部隊に可及的速やかに敵の背後を抑えるように指示した。左翼ではセドレクの率いる緋竜騎士団が機動力を生かして前進した。
王国軍による包囲を困難にしたのはナエホ族だった。最大部族であるナエホ族は彼らだけで王国軍の全兵数に匹敵した。ナエホ族はアサナス軍の中央を占拠していたが、彼らの後退は他の部族より早かった。退がるナエホ族に引き寄せられるような形で王国軍中翼の御庭騎士団や周辺の部隊が突出した。王国軍の戦線も断裂する箇所が生まれた。
戦場の混乱は極みに達しようとしていた。
「逃げるなあ、戦え!」
シカ族の族長ヤバはイムルーの指示には従わず混乱に乗じて討てるだけ敵を討つつもりだった。アサナス森林で最も好戦的な一族である。彼は計略に頼るイムルーの戦略に初めから軟弱さを感じていた。
シカ族にはヤバの子ヤバイが従軍していた。まだ若者とも言えない少年だったが初陣ではない。騎射の腕前は一族の中で一番で他部族からも尊敬され将来を期待される存在だった。ヤバイはイムルーの汎アサナス主義に深く傾倒していた。とかく新しい思想は若者を魅了する。
ヤバイは父親に退却を勧めた。イムルーの指示に従うことを。
しかしヤバは子の言葉を一顧だにしなかった。ヤバには、イムルーの作戦が失敗した以上、ここでシカ族がどの部族よりも戦果を上げ、戦後の発言権を強くしたいという下心があった。
シカ族は王国軍中翼と左翼の隙間を突破し、王国軍の背後に出た。大きく右旋回した先は王国軍第三連隊の後ろで、その先に砂烏騎士団が見えた。
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